覇王の馬券密議

中央競馬の壮大な演出劇の真実・・・ターフ裏の怪人が饒舌に説き聴かせる回顧と予想

魔女ウオッカ

2013年03月11日 07時46分07秒 | Weblog
 間違い無い。
 
   東京五輪 背番号 3   田絹子  
 
   東京優駿 ゼッケン3   水雄三馬主  ウオッカ 
 
 2007年のダービーだが、2000年、2004年に田村亮子として出場、共に金メダル、五輪連覇。
 この選手が、2005年 谷亮子となって、出産も果たした後のレースだった。
 
    村でも谷でも だったのである!
 
 稀に見る名牝ウオッカ の登場。無論、この前年2006年9月6日谷亮子の誕生日当日に、悠仁様が誕生し、これを記念して
 
     秋篠宮様    11月30日 生まれ
     四位洋文    11月30日 生まれ
 
 このジョッキーで、将来の天皇となる親王誕生を寿ぐ意味合いはあったが、この
 
    田絹子 亮子 
 
 二人の、五輪金メダリスト を記念した、水さんの大傑作、登場、東京五輪を受けた東京優駿制覇だったものである。
 
 64年ぶりの牝馬制覇は、1964年の東洋の魔女の東京での快挙達成 の反映 
 
 64年の魔女、大松博文導き、64年ぶりの牝馬、ひろふみ が栄光のゴールへ導く!
 
 ドラマは、また今年もめぐり来る。
 すばらしいレース、その演出を期待している。頼むぞ、JRA!
 
 一体、今年 第80回 東京優駿、日本ダービー は何か?!
 
 再度申すが、魔女の大黒柱、河西さんの愛称は ウマ だったのである。
 

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1964年10月23日

2013年03月11日 02時13分15秒 | Weblog
 大震災から2周年の、3月11日深夜。わたくしも湿った感傷の心持のまま、NHKBSの 
 
    東洋の魔女   伝説の名勝負 
 
 この特集番組を観ていて、思いついたことがあった。
 
 1964年10月23日 東京五輪バレーボール決勝での、全勝同士 ソ連との決勝戦 
 
 わたくしは、あるダービーをはっきり思い出した。これだったのか!
 
 何故、64年ぶりと云う、ほぼ近代競馬では有り得ない、牝馬の日本ダービー優勝
 1964年の魔女だったからなのか!?
 
 何故、ひろふみ という名のジョッキーに導かれた女子」選手が、1943年のクリフジ以来、この戦中のダービー以降、絶えて無かった、競走体系の整った時代の、型破りの牝馬ダービー制覇を果たしたのか。
 
 
   東洋の魔女    監督 大松博文    だいまつ ひろふみ
 
   ウオッカ       騎手 四位洋文    しい    ひろふみ    
 
 もっと、克明にこのダービー出馬表を再現する。
 
 
   2007年 第74回 日本ダービー  
 
   1枠 2番 ゴールドアグリ      戸田博文厩舎 
   2枠 3番 ウオッカ          四位洋文        3歳牝馬  優勝 
   2枠 4番 ゴールデダリア    
 
 金メダル = ゴールド に両脇を囲まれた、ロシアの酒
 自身のジョッキーも ひろふみ だが、隣のトレーナーも、博文その人である。
 
 日本の大黒柱、河西さんの誕生日が 7月14日 → 74回 だったからか!
 
 日本のアタッカー に 田絹子 が居たから、馬主・水さんだったのか!
 
 もっと大きいのは、この1964年10月23日の駒沢体育館。このロイヤルボックスには、
 
    美智子 皇太子妃殿下(現・皇后陛下)
 
 が、まさにコートサイドで間近に観戦されており、この74回ダービーには、皇太子徳仁殿下が府中スタンドに行啓あそばされていたという事実の一致である。
 
 ウオッカ担当厩務員は、中田さんだが、これも、魔女の誇るエース、半田さん を映したものに見える。
 
 
 戦後日本の太陽 東洋の魔女 東京五輪で、ソ連を撃破!
 
    ゴールドに囲まれた、ひろふみ 率いる、ロシアの酒の名を持つ、牝馬 
 
 観戦した三島由紀夫も、「魔女も泣いた! 私も泣いた!」の文章を残している。
 
 戦後日本が、復興した姿を世界に示そうとし、最も輝いた瞬間だったのではなかろうか!
 
 何故、これが2007年、第74回 日本ダービー で再現されたのか。その理由は、今年、
 2013年 第80回 日本ダービー これで何が語られるのか、その疑問に集約される。
 
 わたくしも日々、考え続けているのである。      
 
 大黒柱でキャプテンのセッター、河西昌枝さん(現・中村さん) 愛称は、ウマ 
 今年の、お誕生日で、日本ダービーと同じ、80歳をお迎えになる。
 
 わたくしも、リアルではとても解からない瞬間だが、敗戦、焼け跡、古式ゆかしい日本自体の否定、戦後の新時代の創出、混乱、絶望、自己否定、精神的敗北、食うのがやっと ・・・・
 
 しかし、戦後日本には、太陽があった ・・・ 昇った瞬間だった。
 
 
   1964年10月23日 駒沢体育館 
 
              日本    対    ソ連  
 
   第1セット     15          11
   第2セット     15           8
   第3セット     15          13
     
 
 平均視聴率  66.8%  だったそうである。
 
 3セット目も、一旦、11対3 日本のリード となり、楽勝か、とも思われた大一番だったが ・・・ 
 

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