スーパーピアノレッスンだったか、そんなタイトルの番組がある。なんという題名だ。このことひとつとっても、NHKのセンス及び目指しているものが浅はかだと想像がつく。ひとつ口に出してみたらよい。ケンプのスーパーレッスン。僕、重松はコンラート・ハンゼンのスーパーレッスンを受講etc.
本屋に行けばテキストが平積みされていることは立ち読み専門家としては承知していた。開くまでもない本というのはあるもので、これはそちらに属するものだったから横目でちらっと見ただけだ。ただ、買う人が多いからあんなにたくさんあるのだな、とは思っていた。
現在はピレシュ(僕が若い頃来日した折にはピリスと表記していたから同一人物であることに気づくには時間がかかった)のシリーズが再放送されているらしい。
ある人がそのうちの何回分かを録画して貸してくれた。ピレシュは巨匠だそうである。時間を見つけて少しだけ見た。結論といおうか、胸が悪くなった。とてもぜんぶ通して見る気にはなれず、場面場面を切れ切れに見ただけである。
オカルトの世界、いやいやオカルトはユングが研究をしているくらいだからな、怪しげな新興宗教の世界だ。見るからに怪しげな助手だか何だかの男性ピアニストまでが色々口を挟む。というより、むしろ曲の具体的な注意、盛り上げてだとかフレーズの構成については彼が猫なで声で歌って助言する。
女性がよく、嫌いな男からなれなれしくされて気持ち悪かったと言いますね。男である僕はその気持ちが本当のところでは理解できていないのだろうが、音楽家として、この助手?の歌い方は(よくあるのだけれど)気持ち悪い、女性の心理もかくばかりか、と思わせる。
肝腎のレッスン、いやスーパーレッスンであるが、ほとんどがピレシュの人生訓めいた話に終始する。「あなたは何とかしようとする欲があるの。だから緊張するのよね。いい?すべてをただ受け容れるの」およそこのような感じで話が進む。なにぶん気持ち悪さのあまり全部見る気力もなく、もう一度確認をするのも嫌なので細かい言い回しは違うだろうが、そこは勘弁してもらおう。
言われたほうは、確かにそのとおりだという自覚がある。当たり前だ、欲求というか、こうしたいという気持ちはあるし、緊張もする。ものごとをあるがままに受け容れなければならぬ、というのは古のありがたい坊さんたちも言っているような気がする。
ピレシュはその点で悟りを啓いたのかもしれない。だが音楽は?演奏はどうなったのだ?さとりを啓けば演奏がまともになるのか。
その伝でいけば、フィレンツェの多くの壁画はフラ・アンジェリコが描く必要はなかったではないか。フラ・メンコでも良かった。坊さんたちはみんなみんな悟りを啓いていたのさ。
さてそこで儀式が始まる。ピレシュは生徒の頭を彼女の肩に乗せ、身を任せるように指示する。物事をあるがままに受け容れるための準備らしい。生徒の手は助手が弾かれるべき位置に置いてくれる。生徒は目をつむり、口を半開きにしてよいよいのような表情でほにゃほや弾く。
こうやって2人1組でやるから、新興宗教の洗脳じみている。「そう、良くなったわ、今彼の音は解放されている」といったって僕の煩悩いっぱいの耳には何の変化も聴き取れない。
こんなレッスンがどうして特別評判になるのだろうと思うが、裏を返せば日本ではレッスン自体がおそろしく窮屈なのだろう。質問をする雰囲気ではなく、生徒は先生の言うことを傾聴するだけ。へたに質問しようものなら私に質問とは10年早い、と叱責される場合もあるというからな。
そういうものが音楽のレッスンだと頭から思い込んでいた人たちにとっては、ピレシュの「やり方」は自然で素敵、と感じるのかもしれない。飾らぬ、いばらぬ人という意味ではまさにそういう人だろう、ピレシュは。
極めつけは「音色を変えることがコツなのよ」と言うところだ。レッスンというからには音色を変えるコツを教えてもらいたいのに。これは楽だよなあ。この曲は美しく弾くことがコツなんです。感動的に弾くことがコツなんです。万事に通用しそうだ。
100メートルを8秒台で走るのが金メダルのコツだ。誰か僕を陸上連盟のコーチに雇ってくれないか。疲れてしまった。今ピアノを弾いたら口を半開きにしてよいよいの演奏ができそうだ。
本屋に行けばテキストが平積みされていることは立ち読み専門家としては承知していた。開くまでもない本というのはあるもので、これはそちらに属するものだったから横目でちらっと見ただけだ。ただ、買う人が多いからあんなにたくさんあるのだな、とは思っていた。
現在はピレシュ(僕が若い頃来日した折にはピリスと表記していたから同一人物であることに気づくには時間がかかった)のシリーズが再放送されているらしい。
ある人がそのうちの何回分かを録画して貸してくれた。ピレシュは巨匠だそうである。時間を見つけて少しだけ見た。結論といおうか、胸が悪くなった。とてもぜんぶ通して見る気にはなれず、場面場面を切れ切れに見ただけである。
オカルトの世界、いやいやオカルトはユングが研究をしているくらいだからな、怪しげな新興宗教の世界だ。見るからに怪しげな助手だか何だかの男性ピアニストまでが色々口を挟む。というより、むしろ曲の具体的な注意、盛り上げてだとかフレーズの構成については彼が猫なで声で歌って助言する。
女性がよく、嫌いな男からなれなれしくされて気持ち悪かったと言いますね。男である僕はその気持ちが本当のところでは理解できていないのだろうが、音楽家として、この助手?の歌い方は(よくあるのだけれど)気持ち悪い、女性の心理もかくばかりか、と思わせる。
肝腎のレッスン、いやスーパーレッスンであるが、ほとんどがピレシュの人生訓めいた話に終始する。「あなたは何とかしようとする欲があるの。だから緊張するのよね。いい?すべてをただ受け容れるの」およそこのような感じで話が進む。なにぶん気持ち悪さのあまり全部見る気力もなく、もう一度確認をするのも嫌なので細かい言い回しは違うだろうが、そこは勘弁してもらおう。
言われたほうは、確かにそのとおりだという自覚がある。当たり前だ、欲求というか、こうしたいという気持ちはあるし、緊張もする。ものごとをあるがままに受け容れなければならぬ、というのは古のありがたい坊さんたちも言っているような気がする。
ピレシュはその点で悟りを啓いたのかもしれない。だが音楽は?演奏はどうなったのだ?さとりを啓けば演奏がまともになるのか。
その伝でいけば、フィレンツェの多くの壁画はフラ・アンジェリコが描く必要はなかったではないか。フラ・メンコでも良かった。坊さんたちはみんなみんな悟りを啓いていたのさ。
さてそこで儀式が始まる。ピレシュは生徒の頭を彼女の肩に乗せ、身を任せるように指示する。物事をあるがままに受け容れるための準備らしい。生徒の手は助手が弾かれるべき位置に置いてくれる。生徒は目をつむり、口を半開きにしてよいよいのような表情でほにゃほや弾く。
こうやって2人1組でやるから、新興宗教の洗脳じみている。「そう、良くなったわ、今彼の音は解放されている」といったって僕の煩悩いっぱいの耳には何の変化も聴き取れない。
こんなレッスンがどうして特別評判になるのだろうと思うが、裏を返せば日本ではレッスン自体がおそろしく窮屈なのだろう。質問をする雰囲気ではなく、生徒は先生の言うことを傾聴するだけ。へたに質問しようものなら私に質問とは10年早い、と叱責される場合もあるというからな。
そういうものが音楽のレッスンだと頭から思い込んでいた人たちにとっては、ピレシュの「やり方」は自然で素敵、と感じるのかもしれない。飾らぬ、いばらぬ人という意味ではまさにそういう人だろう、ピレシュは。
極めつけは「音色を変えることがコツなのよ」と言うところだ。レッスンというからには音色を変えるコツを教えてもらいたいのに。これは楽だよなあ。この曲は美しく弾くことがコツなんです。感動的に弾くことがコツなんです。万事に通用しそうだ。
100メートルを8秒台で走るのが金メダルのコツだ。誰か僕を陸上連盟のコーチに雇ってくれないか。疲れてしまった。今ピアノを弾いたら口を半開きにしてよいよいの演奏ができそうだ。