平泳ぎの北島選手は大したものだ。ちょいと古い話題になってしまったが。ありゃプレッシャーに強い面構えだ。同時にえらくデリケートだと僕は思った。彼が人気者になるのはよく分かる。そもそも一流になるアスリートは大変デリケートな面を兼ね備えている。
さて、彼と同じ種目に、もうひとり日本人選手が出ていたことは、いったい何人が知っていただろう。
実は僕は知らなかった。僕のところにピアノを習いに来る人の友人の息子さんだったかな、例によって少々曖昧なまま書いているが、聞いたばかりだから間違いあるまい。
普通に会社に勤めながらオリンピックに出場できる成績を上げたけれども、まったく人に知られずに試合を去った選手だ。普通に会社に勤めて云々も今になると怪しげだな。世の中には、何でそんなことを知っているの、あんた、という人が結構多いから、断りは入れておこう。でもたしかそう聞いた。ような気もする。
僕たちは他人事(老婆心ながら、ひとごと、と読んでね)だから、なんだ予選落ちかい、と一瞥もくれないが、考えてごらんなさい、日本で2番目ですよ。何億円も当たる宝くじですら数人が当たって大喜びするというのに、この選手は2番目だ。途轍もなく速いのだ。
それにもかかわらず、僕たちの扱いのこの格差はなんだろう。アメリカという国名だって、最初に到達したコロンブスではなくて、2番目に到達したアメリゴの名前を記念しているじゃあないか。コロンビアはコロンブスを記念しているのだったな、たしか。
現代のしきたりに従っていれば、アメリカはコロンビアーノとかいう名前で、コロンビアはアメリゴンなんていう名前になっていたであろう。ああ、ややこしい。
スポーツ界では記録の見直しということが行われ、世界記録が抹消されたり書き換えられたりしているのだが、ここはひとつスポーツマンシップに則って国名を替えたらどうだろう。とはいかないだろうなあ。
そうそう、二人のスイマーの話題であった。(スイマーなんて書くと、こそばゆいぞ。今僕は赤面している。しかし水泳選手の話題、と書くとえらく厳めしい。この二人に物申す時にはそう書くだろうが。おや、また脱線だ)
どの時点で二人のスイマーに差がついたのか。北島選手が最初から抜きん出ていたのかもしれないけれど、とにかくある時点で強化選手に選抜されたのでしょう。いや、二人とも選抜されたのかもしれないが、色々なバックアップ体制には大きな差が生じていったのではないか。
これは選手の側の問題ではない。実力主義とはそうしたものだ。僕はただ、現代は複雑だなあ、と複雑な思いで見ているだけである。
冬季オリンピックにボブスレーというのがあるでしょう。あれは旧東ドイツが強かった。リュージュもそう。ドイツにいた時分、日本選手が滑るとき、解説者が(今は知らないけれど、ヨーロッパのスポーツ中継は原則アナウンサーひとりで行う。アナウンサーは担当するスポーツをじつに良く知っていて、状況を正確に伝えることができる。日本の中継だと仮に知っていてもそうはいかないね。解説者という専門家が隣にいるものだから、いちいちお伺いを立てる)「本当はこの競技には日本人には危険だから参加しない方が良いのですが」とコメントした。未熟で危ないということだ。
東ドイツは国家の威信をかけてこの種目に白羽の矢を立てて研究した。それなくして金メダルの量産はなかった。そういう状況を世界中がステートアマと呼んで批判的に論じていたのではなかったか。
ステートアマを批判するのはたやすいけれど、現代は何でもシステムに組み込まれて自分で創意工夫するには適さない時代なのか。今ならばアメリカ大陸を発見したコロンブスがあらゆる賞を総なめしているだろうね。
さて、彼と同じ種目に、もうひとり日本人選手が出ていたことは、いったい何人が知っていただろう。
実は僕は知らなかった。僕のところにピアノを習いに来る人の友人の息子さんだったかな、例によって少々曖昧なまま書いているが、聞いたばかりだから間違いあるまい。
普通に会社に勤めながらオリンピックに出場できる成績を上げたけれども、まったく人に知られずに試合を去った選手だ。普通に会社に勤めて云々も今になると怪しげだな。世の中には、何でそんなことを知っているの、あんた、という人が結構多いから、断りは入れておこう。でもたしかそう聞いた。ような気もする。
僕たちは他人事(老婆心ながら、ひとごと、と読んでね)だから、なんだ予選落ちかい、と一瞥もくれないが、考えてごらんなさい、日本で2番目ですよ。何億円も当たる宝くじですら数人が当たって大喜びするというのに、この選手は2番目だ。途轍もなく速いのだ。
それにもかかわらず、僕たちの扱いのこの格差はなんだろう。アメリカという国名だって、最初に到達したコロンブスではなくて、2番目に到達したアメリゴの名前を記念しているじゃあないか。コロンビアはコロンブスを記念しているのだったな、たしか。
現代のしきたりに従っていれば、アメリカはコロンビアーノとかいう名前で、コロンビアはアメリゴンなんていう名前になっていたであろう。ああ、ややこしい。
スポーツ界では記録の見直しということが行われ、世界記録が抹消されたり書き換えられたりしているのだが、ここはひとつスポーツマンシップに則って国名を替えたらどうだろう。とはいかないだろうなあ。
そうそう、二人のスイマーの話題であった。(スイマーなんて書くと、こそばゆいぞ。今僕は赤面している。しかし水泳選手の話題、と書くとえらく厳めしい。この二人に物申す時にはそう書くだろうが。おや、また脱線だ)
どの時点で二人のスイマーに差がついたのか。北島選手が最初から抜きん出ていたのかもしれないけれど、とにかくある時点で強化選手に選抜されたのでしょう。いや、二人とも選抜されたのかもしれないが、色々なバックアップ体制には大きな差が生じていったのではないか。
これは選手の側の問題ではない。実力主義とはそうしたものだ。僕はただ、現代は複雑だなあ、と複雑な思いで見ているだけである。
冬季オリンピックにボブスレーというのがあるでしょう。あれは旧東ドイツが強かった。リュージュもそう。ドイツにいた時分、日本選手が滑るとき、解説者が(今は知らないけれど、ヨーロッパのスポーツ中継は原則アナウンサーひとりで行う。アナウンサーは担当するスポーツをじつに良く知っていて、状況を正確に伝えることができる。日本の中継だと仮に知っていてもそうはいかないね。解説者という専門家が隣にいるものだから、いちいちお伺いを立てる)「本当はこの競技には日本人には危険だから参加しない方が良いのですが」とコメントした。未熟で危ないということだ。
東ドイツは国家の威信をかけてこの種目に白羽の矢を立てて研究した。それなくして金メダルの量産はなかった。そういう状況を世界中がステートアマと呼んで批判的に論じていたのではなかったか。
ステートアマを批判するのはたやすいけれど、現代は何でもシステムに組み込まれて自分で創意工夫するには適さない時代なのか。今ならばアメリカ大陸を発見したコロンブスがあらゆる賞を総なめしているだろうね。