季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

トスカニーニ 2

2009年08月28日 | 音楽
トスカニーニによるベートーヴェンが、付点のリズムひとつとっても正確ではない、というところまで前回書いた。


なぜそういうことが起こったのか。誰の耳にも明らかな「間違い」を犯すということが。トスカニーニは正確さの権化ではなかったか。思うに、トスカニーニという人は、作曲家を尊敬するあまり、自分の感覚を否定したのだ。

彼の頭にはメトロノームはイン・テンポを刻めないかもしれない、という疑念はただの一度たりとも生じなかったはずだ。

自分が感じたものに「刻む」時をあてはめて、その感覚を修正していったのだと思う。気の毒としか言いようがない。

個人的に見れば今となっては気の毒な男だ、と言っても差し支えないが、音楽家がこの人への態度を曖昧にしたおかげで、現在に至るまで、いろいろな弊害が起こる。いい加減に清算したら、と僕が思うのも無理もない。

清算するなんて、学生運動華やかなりしころを思い起こさせるね。僕はこういう言葉が嫌いである。ただ、どうしていつまでも正直に見ないのかと、多少イライラしたので使ってしまった。

音大の練習棟に行って御覧なさい、ほとんどの学生がカチコチメトロノームで練習していますよ。

なにせ専科の教師からそうやって練習しろと言われているのだからもう救いようがない。これでも機会あるごとに、メトロノームはイン・テンポを刻めない、ということを噛んで含めるように言い聞かせているのだが、如何せん衆寡敵せず、焼け石に水、臭いものに蓋、いやそうなってはいけないな。

それに、メトロノームを使わなくなったからといって上達が保障されるわけではないからね。もしそんなことでよかったら、これはあまりに簡便で、なりたい人は誰でも上手になる道理だ。

メトロノームでイン・テンポを保障してその上で、それは音楽ではないからと勝手に「自由に」演奏する。その結果、自由な演奏は、たがが外れた、安定感を欠いたものになってしまった。

たとえばルバートひとつでも、ルバートを可能にする質量感がないまま、あさっての方角へすっ飛んでしまうようになった。

ギドン・クレーマーの唐突な表情は、吉田秀和さんによれば「アッと驚く、予期しない稲妻のような」ものらしいが、僕にはそう聴こえない。予期できないよ、確かに。でも、大抵の人が(日本人以外は)人のしないことをしようとただただ狙っている。投機師のようだ。

他の例を挙げれば一世を風靡した感のあるアノンクーアのオーケストラだって、素直に聴けば、ただの下手くその集団ではないか。こちらは「自由主義」ではなくて「研究」による結果、当時は奏者の腕前は低かったという見識から導かれた結果かもしれないけれどね。

そういう「自由主義者」の大量発生は、トスカニーニ流の厳格主義の裏面にすぎない。ただの一人も、今日トスカニーニ流インテンポの演奏はしない。でも、基本のイン・テンポはメトロノームに代表される刻まれた時間にある、という漠然とした盲信は持ち続けている。

だから「ロマンティックな余分なものを排除した演奏」というレッテルだけは大切に保管しているのだ。

本当は時間、テンポはただ経験されていく。その点ではまるでベルグソンの時間論そのものだと言っても良い。曲の流れは、たとえ厳格なテンポが要求される場合でさえも、それは微妙な揺らぎの中で(人間的に)捉えられるものである。話題がテンポになってしまったが、これはひとつの例にすぎない。

僕の記憶違いかもしれないけれど、たしかベルグソンは「自分の論は、いずれの日にか音楽の演奏家が正しく理解するであろう」と言った。それは時間論の中の一節だったような気がする。当時、その通りだ、と激しく気持ちが高ぶったことだけを記憶していて、出典を失念してしまった。

僕が興奮したわけは、音楽家がいずれ理解する、ということではなく、ベルグソンが演奏という行為をじつに正確に理解しているということにあった。

とんでもない、難しい横道に入り込みそうになったが、演奏における「正確さ」は何か、を問わない限りとんでもない「自由主義」は形を変えて次々にやってくる。

トスカニーニは正確さの権化と見做されていたし、今もその精神の後ろ盾のように見えるが、僕は彼は正確さを欠いた人物だと言いたいのである。

揺らいだ中でと書いたけれど、その揺らぎの中で得た安定だけが、さながらシャボン玉がさまざまな形状になりながらも安定した状態を保つように、自由な演奏を保障する。