1988年の7月の事。
私はパキスタン西部の街、クエッタを出発してイラン国境へ向けての最後の行程に入っていました。4月末にパキスタンへ入ってから中国国境付近や北部山岳地帯をバイクで旅していたのですが、途中で体を壊してしばらく停滞していたり、それより何よりパキスタンという国がとても気に入ってなかなか出国する気になれなかったのですが、滞在期限3ヶ月が目前に迫っており、なおかつモンスーンの時期が迫ってもいて、後半は大急ぎでの移動。どうやら滞在期限を数日残してイランへ抜ける目処がたったところでした。
クエッタから国境の町タフタンへ向かう道は当時、途中から未舗装となっており、たしかその距離は200km弱。舗装路部分も道は細く、道路は荒れていてなおかつ涸れ沢を避けるように走るルートは思いの外走りづらくて距離がなかなか稼げません。未舗装区間に出ると地平線まで続く平坦路なのですが、重機で踏み固めたような路面はトラックやバスの走行で全面洗濯板状。オフロードバイクとはいえ荷物を満載して大型タンクをつけた自分のバイクでは楽しめるような状況ではありません。
距離からイメージして、当然、タフタンまで一気に移動できると踏んでいたのですが、しばらく走ると空が一気にかき曇って激しい雨になりました。時間に追われている私は雨をついて走り続けます。そう、これが恐れていたモンスーン。砂漠とはいえ雨季になると涸れ沢に一気に水が流れ込んで、鉄道も普通になるとの情報を得て急いでいたのですが結局捕まってしまったようです。
涸れ沢に流れ込んだ雨水は濁流となってすさまじい破壊力で周囲の岩石をも巻き込みながら道路を横断して流れていきます。幾つかの涸れ沢(今は涸れていない)を超えて進んだのですが巨大な岩が地響きを立てながら流されていく水の威力を見て、そこで同じく停車していた地元のトラックの運転手に誘われるがまま、手前のチャイハナへ引き返して水が引くのを待った一場面もありました。
結局、珍しく夜間走行となり、それでもタフタンまではたどり着くことができず、途中で1泊することにしました。もちろんホテルなどはありません。
野宿するという手もあるのですが、この天候。寝ている間に鉄砲水に流される事は避けたいですし、すでに暗くなっていて安全な場所をチョイスする事もままならない状況。もちろん、ヘッドライトの明かりを頼りにヨロヨロとバイクを進めます。
道路が少し小高くなった頂点で、道路の左側に日干し煉瓦の家があって、その住人たちが御座のようなものを地面にひいて寝る準備をしているところに出くわしました。家の前へバイクを乗り入れて身振り手振りで自分もここで寝ていいかと尋ねたところ、快諾してくれたのです。
荷物をおろして砂の上にマットを広げ、寝袋を出して寝る準備を始めた私にその家の人達はチャイをすすめてくれました。この辺りでは多く飲まれるパキスタンの他の地域と違ってミルクを入れないチャイ。ありがたくいただいて、少し話をしたけれど、お互いに共通の言語をあまり持たない私たちはすぐに会話も尽きて眠ることにしました。
どの位眠ったでしょうか。私は何かが顔に激しく当たる痛みで目を覚ましました。目を開けると一気に目の中に砂が入り込んで瞬きするとジャリジャリします。私の寝袋の上にも砂が積もり始めています。周囲で寝ている地元の人達は動じる様子もなく寝ているのですが、吹き付ける砂と凄まじい風はその時の私には身の危険を感じるに十分なものでした。
周囲を見回してみると、建物の一角に風が回りこまない場所を見つけました。寝袋やマットを飛ばされないように注意しながらそこへ寝床を移動していると、その物音に気づいた地元の人が起きてきて、”どうしたんだ?”と心配顔。私は”あそこへ移動する”と身振り手振り。”そんなことしなくても大丈夫。安全だから。”と言われたものの、恐怖に怯んでいる私は建物の陰へ移動したのでした。
時折建物を回りこんで吹き付ける砂と凄まじい音を立てて吹き荒れる風にあまり良く眠れないまま一夜を過ごし、明け方の陽の光で目を覚ましました。巻き上げられた砂を通して射してくる陽の光がちょうど朝焼けのようで幻想的な風景です。風はすでに止んでいて嵐そのものは収まっています。地元の人達はまだ眠っているのですが昨日眠りについた場所に横になったその姿は地面の中へ半分ほど埋もれていたのでした。
朝食とチャイをごちそうになり、身振り手振りで一夜のお礼を伝えた私はいよいよこの愛すべき国パキスタンを離れる最後の行程へと出発したのでありました。
私はパキスタン西部の街、クエッタを出発してイラン国境へ向けての最後の行程に入っていました。4月末にパキスタンへ入ってから中国国境付近や北部山岳地帯をバイクで旅していたのですが、途中で体を壊してしばらく停滞していたり、それより何よりパキスタンという国がとても気に入ってなかなか出国する気になれなかったのですが、滞在期限3ヶ月が目前に迫っており、なおかつモンスーンの時期が迫ってもいて、後半は大急ぎでの移動。どうやら滞在期限を数日残してイランへ抜ける目処がたったところでした。
クエッタから国境の町タフタンへ向かう道は当時、途中から未舗装となっており、たしかその距離は200km弱。舗装路部分も道は細く、道路は荒れていてなおかつ涸れ沢を避けるように走るルートは思いの外走りづらくて距離がなかなか稼げません。未舗装区間に出ると地平線まで続く平坦路なのですが、重機で踏み固めたような路面はトラックやバスの走行で全面洗濯板状。オフロードバイクとはいえ荷物を満載して大型タンクをつけた自分のバイクでは楽しめるような状況ではありません。
距離からイメージして、当然、タフタンまで一気に移動できると踏んでいたのですが、しばらく走ると空が一気にかき曇って激しい雨になりました。時間に追われている私は雨をついて走り続けます。そう、これが恐れていたモンスーン。砂漠とはいえ雨季になると涸れ沢に一気に水が流れ込んで、鉄道も普通になるとの情報を得て急いでいたのですが結局捕まってしまったようです。
涸れ沢に流れ込んだ雨水は濁流となってすさまじい破壊力で周囲の岩石をも巻き込みながら道路を横断して流れていきます。幾つかの涸れ沢(今は涸れていない)を超えて進んだのですが巨大な岩が地響きを立てながら流されていく水の威力を見て、そこで同じく停車していた地元のトラックの運転手に誘われるがまま、手前のチャイハナへ引き返して水が引くのを待った一場面もありました。
結局、珍しく夜間走行となり、それでもタフタンまではたどり着くことができず、途中で1泊することにしました。もちろんホテルなどはありません。
野宿するという手もあるのですが、この天候。寝ている間に鉄砲水に流される事は避けたいですし、すでに暗くなっていて安全な場所をチョイスする事もままならない状況。もちろん、ヘッドライトの明かりを頼りにヨロヨロとバイクを進めます。
道路が少し小高くなった頂点で、道路の左側に日干し煉瓦の家があって、その住人たちが御座のようなものを地面にひいて寝る準備をしているところに出くわしました。家の前へバイクを乗り入れて身振り手振りで自分もここで寝ていいかと尋ねたところ、快諾してくれたのです。
荷物をおろして砂の上にマットを広げ、寝袋を出して寝る準備を始めた私にその家の人達はチャイをすすめてくれました。この辺りでは多く飲まれるパキスタンの他の地域と違ってミルクを入れないチャイ。ありがたくいただいて、少し話をしたけれど、お互いに共通の言語をあまり持たない私たちはすぐに会話も尽きて眠ることにしました。
どの位眠ったでしょうか。私は何かが顔に激しく当たる痛みで目を覚ましました。目を開けると一気に目の中に砂が入り込んで瞬きするとジャリジャリします。私の寝袋の上にも砂が積もり始めています。周囲で寝ている地元の人達は動じる様子もなく寝ているのですが、吹き付ける砂と凄まじい風はその時の私には身の危険を感じるに十分なものでした。
周囲を見回してみると、建物の一角に風が回りこまない場所を見つけました。寝袋やマットを飛ばされないように注意しながらそこへ寝床を移動していると、その物音に気づいた地元の人が起きてきて、”どうしたんだ?”と心配顔。私は”あそこへ移動する”と身振り手振り。”そんなことしなくても大丈夫。安全だから。”と言われたものの、恐怖に怯んでいる私は建物の陰へ移動したのでした。
時折建物を回りこんで吹き付ける砂と凄まじい音を立てて吹き荒れる風にあまり良く眠れないまま一夜を過ごし、明け方の陽の光で目を覚ましました。巻き上げられた砂を通して射してくる陽の光がちょうど朝焼けのようで幻想的な風景です。風はすでに止んでいて嵐そのものは収まっています。地元の人達はまだ眠っているのですが昨日眠りについた場所に横になったその姿は地面の中へ半分ほど埋もれていたのでした。
朝食とチャイをごちそうになり、身振り手振りで一夜のお礼を伝えた私はいよいよこの愛すべき国パキスタンを離れる最後の行程へと出発したのでありました。
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