安倍睛明の術くらべ
安倍睛明が、藤原道長の御前で、術くらべをした話
訳者注:この話は、江戸時代に流行した「百物語」の一つである、「諸国百物語」にある。睛明は、平安時代の人であるが、睛明についての逸話は、江戸時代にも広まった。
元の話とは、少し違っている。
以下
道長の御前にて三人の術くらべの事
長徳年中(995年から999年)の相国 藤原道長の前に、比叡山の僧の欽朱(きんしゅ)と安倍睛明と医師の重正(しげまさ)と、三人が同座していたことがあった。
お茶受けに瓜が出された。
睛明が見て、「この瓜のうちに、毒がある瓜がございます。」と占った。
それを道長が聞いて、「それでは、この沢山ある瓜のうちのどれに毒があるのか?」と質問した。
欽朱が、瓜に向かって、印を結んで、呪文を唱え、すぐに一つの瓜を取り出した。
すると重正は、ふところから針を取り出して、その瓜を刺すと、この瓜は動くのをやめた。
道長がこの瓜を割って見ると、そのなかに蛇が一匹いた。
見ると、蛇の目に針が刺さって死んでいた。
三人が同じように優れた術に通じていた事に、道長は、大いに感心したとの事である。
安倍晴明、呪詛を破る事
古事談より
人道殿は、法成寺を建立した時、毎日、出仕した。その頃、赤い犬を愛でて、お飼いになった。
御堂へも毎日御供をしていった。
或る日、寺の門に入ろうとした時に、件の犬も御供していた。
しかし、御前に進んで、走り回って吠えた。
それで、しばらく立ち止まって、見渡したが、何も変わったことが無かったので、門に入ろうとした。
すると、犬は、御直衣(おのうし)をくわえて、引き留めようとした。
何かわけがあるのであろうと、睛明の朝臣(せいめいのあそん)を召しよせた。
そして、その理由(わけ)をたずねた。
睛明は、目を瞑(つぶ)ってしばらく考えてから答えた。
「あなた様を呪詛しようとしている者が、道に呪詛の物を埋めて、上を通るのを、待ちかまえています。
今、あなた様は運が強く、御犬が吠えて、事が露見しました。
犬は、もとより少し神通のある生き物です。」
と言いながら、その場所を指し示し、地面を掘らせた。
すると、土器ニつを打ち合せて、黄色い紙をねじって十文字にしたものが堀り出された。
睛明は、
「この術は、極めて秘密の呪詛の秘儀です。
睛明の他に、当世では、知っているはいないでしょう。
但し、道摩法師のしわざである可能性があります。
確かめてみましょう。」と申し上げた。
そして、懐紙を取り出し、鳥の形に彫った。
呪文を唱えてから、それを投げ上げると、白鷺になり、南を指して飛んで行った。
この鳥の落ちた所が、呪詛した者の住みかです、と申し上げた。
下の者達が、白い鳥を追いかけて行くと、六條坊門の萬里小路(までのこうじ)川原院の古師の織戸の内に落ちて止まった。
そこで、踏み込んで捜した所、一人の僧(道摩)がいた。
すぐに捕らえて、訳を問いただした。
道摩は、堀川左府の言葉によって、術を行ったことを白状した。
しかし、実際には害を与えなかったので、本国(播磨)に追放された。
但し、今後は、呪咀のようなことをしない、との誓約書を書かせた・・・。云々。
晴明の火除柱の話
岩根岳山麓の大鹿村から、小一里はなれた所に入沢井と言う地がある。
(話は余談にそれたが)
この入沢井の附近の宮下氏の家に、安倍晴明の火除柱(ひよけばしら)と云うものがあるそうである。
これは昔、安倍晴明がここを通行した時、猛烈なオコリを病んで苦んだのを、この宮下氏一家の人によって、非常に親切な看護を受けたため、ようやく回復することが出来た。それを感謝して、ちょうどその時、新しい家屋を普請中であったこの家の柱に、火難除けの護符を封じ込んだ。以来この家は永久に火事の災厄から免れた。
それのみならず、この家の人々は、決してオコリは病まぬことになっているそうである。
この柱を削ってお守りとすれば、火難除けに効験がある、と遠近から乞はれるそうである。
以上 「信州百物語」より
役の行者 「傍廂(かたびさし)」での記載
◎役の行者(えんのぎょうじゃ)
役小角(えんのおづぬ)は、大和の葛城山に岩橋をかけようとした。
それで、多くの鬼神を使役したが、そのうちに一言主の神(ひとことぬしのかみ)がいた。
この神様は、姿形が醜かったのを恥じて、昼はかくれて、夜に仕事をしたので、役小角(えんのおづぬ)は怒って、一言主を縛り上げた、との説は、全くの嘘である。
これは、役の行者を卑しめおとしめた、妖言である。
そうであるのに、「岩はしの夜の契も絶えぬべし」などとか、歌にもよみ、「葛城の神こそ賢(さか)しうおきたれ」と、物語りにも書かれたのは、俗説に基づいたものである。
畏れ多くも、一言主神は、雄略天皇が葛城山に狩をした時に、一言主神が姿を現して、天皇と対面したのは、歴史書にはっきりと記されている。
怒り狂う猪を踏み殺した強勇大力の天皇も、一言主の神を、畏れ敬まって、捧げものをしたこともあった。
小角のような者が、一言主の神には、力が及ばない。
役小角(えんのおづぬ)は、葛城上郡茆原村(かつらぎかみこおりうなはらむら:奈良県御所市茅原 ごせしちはら)の土着民の子であった。
狐を使い、妖術を以て、人をたぶらかしたので、
韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、訴えた。
それで、天武天皇の三年五月、伊豆国大島へ、流罪させられた。
◎役の行者(えんのぎょうじゃ)が畜生道に落ちる
役の行者(えんのぎょうじゃ)が、伊豆大島に流刑された後に、そこで死んだ。、
それから40年後に、道昭(どうしょう)と言う僧が、唐に留学した。
すると、500匹の虎が出てきて、僧道昭を礼拝した。
その内の一頭が、「私は、日本国の役小角(えんのおづぬ)である。・・・」と、「日本霊異記(にほんりょういき)」にある。
後世の書では、「元享釈書」にも、記載されている。
小角は、もと葛城上郡茆原村(かつらぎかみこおりうなはらむら:奈良県御所市茅原 ごせしちはら)の土民の子であって、狐使いである。
畏れ多くも、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)を縛り上げたなどと言うのは、尊卑・強弱をよく解っていない愚かな者達の、ばかげた話である。
以上の二項は、
「傍廂(かたびさし)」(江戸末期。斎藤 彦麿 1768-1854)より。
編者注:役小角(えんのおづぬ:634-701)又は、役の行者は、
日本における、最も古い時代の仙人である。
古書には、あまり、評判が良くない(「傍廂」も含めて)。
しかし、これは、彼の評判を妬んだ韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の讒言によってである。
讒言によって、他人をおとしめるのは、国史には、少ないが、現今の東アジア情勢と照らしあわせると、妙に符合するのは、哀しい事である。
修験道では、役の行者は、開祖のように尊敬されている。
2020.1
3、睛明が生死を司った話、並びに不動明王信仰の御利益。(仮題)
証空は、三井寺の智典に仕えていた。
智典は、病気になったが、治療しても治らなかった。
当時の膳部郎中の安倍睛明は、陰陽の術を極めて、生死を司る術も得ていた。
智典の弟子達は、睛明に助けを求めた。
睛明は、
「法師の病は、治すことができない。しかし秘密の術がある。ほかの者と、生死を取り替えることは出来る。その方術を試す事が出来る。」
始めは、智興の弟子達は、師の病を憂いて、師の命に代わりましょう、と言ってはいた。
しかし、睛明が、
「師を命を救うためには、他の者の命が必要である。」と言うと、皆後込みした。
しかし、証空は、一人だけ、
「仏法の為には、身を捨てるのは、仏道の常である。ましてや、師の死に替わるのは、私は恐れません。」
と言った。そこで、睛明に、師の命に代わるたいと、告げた。
証空の同僚は、皆、嘆き、彼の前に平伏した。
証空は、「私には、年老いた母がいます。
私が死んだら嘆き悲しむでしょうから、死ぬ前に、一度会いに行きたいものです。」と言った。
そして、母に会いに行き、ことの次第をのべた。
母は、「私は、年老いて、今日明日とも知れない身です。それなのに、あなたの方が私より先に死んでしまうのですね。
しかし、あなたが自分の命を師の命に代えようと思うのですから、死んでも地獄にはいかないでしょう。
あなたの思うようにしなさい。」と言った。
安倍睛明が、方術を行うと、智興の病は、たちどころに癒えた。
しかし、証空は、すぐに師の病を受けて、心身ともに悩み苦しんだ。
証空は、平生から不動尊の画像を身につけていた。
この日、夢うつつに、不動明王を見た。
不動明王は、
「汝は、師に代わって死のうとしている。私は、明王の像を持っている信心深い汝に換わって、病を引き受けよう。」と言った。
証空は、喜んで、像を拝んだ。
その像をよく見ると、なにか病があるようであった。
また、眼には涙があるようであった。
それから、すぐに証空の病は癒えた。
京の都では、不思議なこととして喧伝された。
さて、証空の持っていた不動明王の画像には、真新しい涙の痕があった。
後々にも、その涙の痕は消えなかった。
この画像は、世には、「泣き不動尊」と称されている。
そのお寺では、秘宝とされて、今にも伝えられている。
以上
「本朝神社考(林羅山)」広文庫より