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『雑記の宿』BOØWYと私とIQ

2021-04-11 15:47:08 | 雑記の宿

 

『BOØWY・わがままジュリエット』

 BOØWYとの関りはこの曲からでした。第一印象は非常に食いつきやすい曲で、『わび・さび』と言いますか、1986年・85,6年頃は『わび・さび』ワールドといいますか、お笑い芸人の『ちびっこギャング』がなぜかメディアに登場してまして、ちびっこギャングのギャグは今振り返ると記憶になくて、キャラクターとしては『わび・さび芸人』が当時はもてはやされた時代だったように思います。

 ツービートの北野武もインパクトはあったけど、ちょっと低迷期でもありました。で、『わび・さび』にシフトしたのが

 

 

 映画で北野武は『わび・さびキャラ』をスクリーンでは演じるようになりました。

『ちびっこギャング』も映画まで登り詰めましたが、共通してるのは「面白くない」。面白くなければ面白くないほど、時代はウケていたようにも、おもしろい武さんにはちょっと酷だったかも‥‥‥。「面白くないけど、わび・さびがある」そういうのを、なんかもとめていたように思いました。

 『とんねるず』は『面白くない!!』が爆発しまして。『松永弾正』なのか、面白くない人たちの仲で戯れてました。『とんねるず』も『わび・さび』を売りにした芸風でした。

 BOØWYとの関りは『わがままジュリエット』。ここまででした。

 1986年に両親が建てたマイホームが、競売で競り負けまして。家を手放すことになりました。競売で落とせれば家だけは残せたのですが、相手側のほうが高い値をつけてました。

 家以外はほとんど差し押さえ状態で、残りは競売にセリ勝つしか他に手段はありませんでした。1986年の1月~3月は、僕はほったらかしで、競売に命運をかけて両親は全集中してました。親父も大手会社に再就職して準備万端ではあったのですが、3月ぐらいに「だめだった」という知らせがあり、ドラマの世界にしかありえないような事態が起きました。

 新年度の4月を目前に立ち退くことが決まって。親父も会社から「怪しい」ということでクビされました。真面目な父親でしたが無情な裁きでした。一流メーカーに就職して、そのメーカーの商品契約は継続して、クビになった会社なのに「親父もお人好し過ぎる」と思いました。

「自分の熱意が伝わった」と自画自賛していた会社でしたが、急遽クビになって、何がなんだかわからないでいました。世間は詳細は知ってると思いますが、僕には届きませんでした。

 僕が就職して1週間は、両親のマイホームから会社に通いました。4月の二週目に引っ越しました。僕が小学校1年生の時に起きた状況とまったく同じような廻りあわせでした。あの頃も土地は確保してあって、そこに家を建てる話しまでは聞いた覚えはあるのですが、なぜかそれが頓挫しました。

「なんでこうなったのか‥‥‥」わけがわからずにいました。

 事情や説明は聞かされてませんでしたが、今思えば、実家の親に相談もなく先に物事を決めて進めていたことが要因だったのかもしれません。

 僕から見ても、両親共々『わび・さび』のある人ではありました。

 それとBOØWYに何が関係あるのかと申しますと、僕はBOØWYは『わがままジュリエット』までしかついていけなかったからです。BOØWY好きの人・僕の印象だとIQといいますか、偏差値が高い人ほどついていってたように思いました。

 BOØWYが流行していた時には『ファミコン』も定着しつつありました。そしてシューティングゲームが主流でした。BOØWY好きの友達は大学に受験してもすんなり合格するようなIQが高いやつで、ゲームもまあ得意でした。僕の身近な友達はシューティングゲームをやらせれば僕よりはるかに偏差値が高く、ワンプレイで次々とクリアしていくんです。高卒でしたが、難関の公務員試験を合格したほどでしたから。そのときに言っていたのは「死ぬほど勉強した」と言ってました。

 『IQなのか?』『偏差値なのか?』はわかりませんが、IQはもとより偏差値を上げていたことは確かです。

 友達は独り暮らしを始めてすぐにファミコンがありまして、ベースボールやゼビウスは既にありましたが、『がんばれゴエモン』にハマってました。

がんばれゴエモン! からくり道中 プレイ映像

 これは面白いと思いました。友達はこのシリーズをどんどん買っていったようで。僕もこれは第一印象ばっちりでした。お互い話しのネタになることで、その後の交流が継続しました。

 友達は給料やボーナスで、まず、買っていたのがビデオデッキとCD付ステレオコンポでした。友達の音楽を聴いて見るとBOØWY・吉川晃司がびんびんにかかりました。吉川晃司はついていけた口でしたが、BOØWYはついていけなかった。

 友達が勉強にハマってる間から1986年ののち、僕はGS・グループバンドからは卒業していたんです。軽音楽=バンドを組む機会を幾度か逃していました。コピーバンドすら目の前にチャンスはありつつ、経済的な差でついていけなかった。インディーズもちょっと入り口はあったのですが、ドラムの他に電子系楽器を持ってないと根本的に組めなかったのです。吹奏楽部の経験もありませんでしたから、入り口はあっても入れませんでした。

 あの時代、小椋佳さんが楽器が弾けなくても曲を出していたという伝説がありました。

 

 高校生の時は、その世界に入るには「作詞で行くしかないかな」と思っていました。保存はしてませんでしたが、音楽向きな歌詞は、ちょこちょこ自分では書いてました。小説は不得意なんですが、詩を考えて書くのは好きなんです。音楽業界にはすくなからず志しと憧れはありました。

 1986年以降『いかすバンド天国』といった、創作バンドブームがくるんですが、僕は高校時代に機を失ってまして、わび・さってました。

 1986年・友人。の世界では、マイビデオデッキを先に買った友達の部屋で『北の国から・初恋』や『ロッキー・シリーズ』を観て、感動と興奮を同時に味わってました。

 僕個人としては、バンドは女性グループを探しつつ、ソロ活動を始めた『KUWATA BAND』とか、甲斐バンドから、ソロ活動を始めた『甲斐よしひろ』といった、ソロシンガーに心の置き場を求めてました。

 

甲斐よしひろ 電光石火BABY PV

 『甲斐よしひろ 電光石火BABY』は1987年リリースですが、その間、友達から『ドラゴンクエスト』を紹介されたりして、RPGは僕の偏差値にはちょうどいいぐらいでした。

 給料でファミコンを買って、そのときに石油ストーブも買いました。マイホームを失ってからの最初の冬でした。

 そういえばまだありました。はじめて自分で買ったストーブです。その後はファンヒーターといったふうに時代についていこうとしてて、石油ストーブはおざなりにしてました。でも、これは当時匂いが気になるのを抑えるための脱臭機能もある石油ストーブでした。

 東日本大震災があって、電気がつながるまで避難所にいたんですが、「石油ストーブとかないべかー」と、尋ねられました。理由を聞くと「寝たきりの婆さんがいて、ちょっと心配で‥‥‥」。在宅避難してる中には寝たきりの家族もいました。避難所から自宅に戻った時にそう尋ねられたことがあり、石油は入ってなかったので、オイル電気ヒーターとかで過ごしてましたが、火力の暖とは違いました。「寝たきりのお婆さんが心配で‥‥‥」と、石油ストーブを求めていたとのことで、ここにこれが一個ありましたから貸してあげました。あのときの美談になる話があるとしたら、この石油ストーブを貸してあげれたことぐらいです。

 ファミコンを買ったときのソフトというのは、『がんばれゴエモン』にハマっていた友達がいたので、僕は『スケバン刑事Ⅲ』を新発売で出たので購入しました。

[FC] スケバン刑事Ⅲ

 『スケバン刑事Ⅲ』が初めて手にしたマイファミコンソフトで『じゃりン子チエ』もそのあと買ったりと。コラボレーションしたゲームソフトを好んでました。

 BOØWYの世界にはIQ不足というか、偏差値でついていけなくなりまして、BOØWY(ボウイ)からボーイに付着して、『バービーボーイズ』にハマりました。

 

1986から『BOØWYと私とIQ』でした。

Wellerman Sea Shanty - Bagpipe Remix (The Snake Charmer)

 


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