3月に入り卒業シーズンということで、時代をふり返りながらコント55号・萩本欽一さんについて語ってみたいと思います。
コント55号というのは伝説的な坂上二郎さんと萩本欽一さんとのお笑いコントコンビで、記憶にあるのは白黒テレビ時代から長い間テレビ番組によく出ていました。
坂上二郎さんは2011年3月10日に亡くなりまして、その次の日に東日本大震災があり、慌ただしいうちに時が過ぎてしまいました。
コント55号は、台本なしで坂上二郎さんが舞台であたふたしてるのを欽ちゃんこと萩本欽一さんがつっこみを入れつつアドリブでコントをまわしていたと聞きました。
萩本欽一さんはご存知でしょうけど『スター誕生』の司会。『欽ちゃんのドンとやってみよう』とか、素人さんの投稿ハガキをネタに笑いをとったり、素人さんを舞台にあげて笑いで沸かせていたりしてました。『スター誕生』でも、歌手志望の素人さんをうまく紹介して番組を盛り上げ楽しく見てました。
初期の24時間テレビの司会をやったり、今年で終わったらしいですが『仮装大賞』の司会でも素人を集め盛り上げた看板でもありました。
1972年ラジオ番組の『欽ちゃんのドンといってみよう』がいわゆる『欽ドン』の始まりとありました。1972年だと、僕は5歳ぐらいでしたから卒業ソングとはまだ無関係でした。
1972年・2月10日発売。フォークソング全盛期でしょうから『さよならをするために』などが当時の卒業生たちには歌われてたのではないでしょうか。その他にも『森昌子・せんせい』とか『小柳ルミ子・瀬戸の花嫁』も、卒業ソングになっていたのかもしれません。
1973年・11月5日発売『なみだの操』が大ヒットして、この歌を歌いながら幼稚園を卒園したような覚えがあります。
1974年 長嶋引退セレモニー ラジオ実況
小学生になって学校を終えて家に帰ってテレビをつけたら長嶋引退セレモニーをやっていて、現役時代はあまり覚えてないのですがこの日だけはよく覚えてます。
実質1975年からフジテレビ系『欽ちゃんのドンとやってみよう』がテレビで放送されまして、僕はこの頃から欽ちゃんを見るようになりました。
この年は『「いちご白書」をもう一度』が、卒業ソングで歌われていたのではないでしょうか。
第一シリーズは1975年から1980年まで放送されました。林寛子さんをとなりに置いてハガキを読んだネタで、ややうけ~ばかうけ~とかどっちらたけ~とか、欽ちゃんが判断してお客さんの反応を見ながら番組進行をしてたのが印象的でした。同時期に『ぴったしカンカン』が始まり、久米宏さんの司会で、萩本欽一チームと坂上二郎チームに分かれて、欽ちゃんチームは素人グループが毎回参加して、二郎さんチームはタレントさんが集まり、クイズ形式の番組もTBS系列で放送されてました。
『ぴったしカンカン』も見てましたが、『欽ドン』では、1977年ぐらいに素人たちを舞台にあげ『気仙沼ちゃん』という女性の方が大人気になりました。
1977年・『勝手にしやがれ』・気仙沼ちゃんの天然ボケぶりには欽ちゃんも「勝手にしやがれ」といった感じでお茶の間を沸かしていました。
気仙沼ちゃんとマー坊のお見合い
1978年までの1年ぐらいでタレント活動は行わず、地元に帰りました。1977年はキャンディーズの解散宣言もありました。
『微笑みがえし』『いい日旅立ち』『旅立ち』もヒットしました。この頃の卒業ソングによく歌われてたのではないでしょうか。
僕も小学校を卒業した時でしたから、この辺あたりは卒業ソングとしてはリンクしています。
その間にテレビ朝日系列で1976年『欽ちゃんのどこまでやるの!』が放送されました。欽ちゃんはどのチャンネルでも見るようになりました。
1979年から『3年B組金八先生』が放送されました。『贈る言葉』が中高生の卒業ソングに定着するようにもなりました。1981年の卒業シーズンはこの曲一色でした。
1981年に『欽ドン』第二シリーズ『良い子悪い子普通の子』が放送されました。
1982年は『人として』が歌われてもいいのでしょうけど、校内暴力が日本列島を横断し始めまして、卒業式どころじゃないところも各地に発生しました。
欽ちゃんファミリーでは1983年『欽ちゃんのどこまでやるの!』から『わらべ めだかの兄弟』が大ヒットしました。この頃、小堺一機さんや関根勤さんなども加わりタレントさんを主にした放送になってゆきました。
1983年の卒業ソングは『春なのに』が代表的でしょうか。
坂上二郎 学校の先生
萩本欽一さんがソロで活躍されていた頃は、坂上二郎さんは役者さんや歌などを披露していました。1983年には『坂上二郎 森さん』という曲をだしていたようです。
1984年・1985年は『欽どこ』では、第二次わらべ『欽ドン』では、おっくん・そのほか様々なタレントさんが活躍しました。
この年の卒業ソングは『斉藤由貴 卒業』でしょう。
1986年に『欽ドン』のおっくんが大学進学を機に卒業いたします。
萩本欽一のこだわりというのは素人とプロとの違いだと思いました。芸能人プロは素人っぽさも出せますが、素人からプロになるのは大変だと、欽ちゃんは思っていたんではないでしょうか。『スター誕生』の司会もやってましたし。何より坂上二郎さんとのコンビがあったからだと思います。
坂上二郎さんを見ていると、ソロ活動では欽ちゃんと絡んでいたときのようにおんぶに抱っこはしていなかった感じがしました。コントで見せているようなダラダラ感はまったくなく、人柄がよさそうな柔らかい口調と丁寧な言葉使い。そのキャラクターで坂上二郎を演じていように思いました。芸が身についていたからこそ、できることだと思いました。
気仙沼ちゃんやおっくんは、天然素人っぽさがウケて大人気でしたが、タレントとしての厳しさというのは欽ちゃんと接してるうちにわかったんじゃないかと、僕は思いました。欽ちゃんは人前ではダラダラギャラギャラと絡み合いながら笑いをとってますが、コント55号の坂上二郎さんがいて、はじめて自分の芸が成り立ってるように思いました。
最後に1986年の代表的な卒業ソング
『おニャン子クラブ・じゃあね』で、ノックノック