熱中時代 主題歌
前回、筆記用具で思い出ぽろぽろいたしましたが、5年生までは楽しかったと、述べさせていただきました「させていただきました」そのさせていただきました論は、ライターの武田砂鉄さん、グループ魂の楽曲にも入っているようで、なぜ、僕も自然と「述べさせていただきました」と述べているのかはなぞでございます。おそらく「勝手にここで述べています」の事後報告的な表現方法のひとつではないか?と、ライターさんのお仕事まで奪ってしまいました。
1978年、当時4年生の時代に『熱中時代』というテレビドラマが流行りました。日本テレビ系列のUHFアンテナを付けないと見れない地域にいたので、小学校に上がる前まではUHFアンテナがなくて、VHFアンテナのみの番組しか見れませんでした。VHFのテレビ局はTBS系列とフジテレビ系列しか僕は見てませんでしたから、小学生になってようやくUHFのテレビ局(日本テレビ、朝日放送)が見れたことが軽くよかったことです。
屋根を見上げると、VHFアンテナしかない家は貧乏の家のようにも思えて、UHFアンテナまでついているということは、裕福な家庭の象徴だと子供心に勝手に僕は思いました。VHSアンテナだけの家の住人をみると、ご老人世帯で、ようするに精密機器がそんなに必要でもなかった。ただ単にメカについてこれなかっただけだと、そしてそこに費やすお金がなかった。と、今になって思ったことです。
ただ、僕の家庭でもUHFアンテナがついて嬉しかった。【おはようこどもショー】僕が幼稚園の時代から放送されてたのですが、学校幼稚園時代。子供たちの話題になってもその話題についていけず、日曜日も放送されていたので、それを観たくて近所にいる友達の家に行って観せてもらったりもしました。子供同士ですから、ウザがられて毎週、毎回というわけにもいかず、1回か2回観た程度の想い出しかありません。だって、子供だって好きな番組は熱中して観たいですから。
学校幼稚園の想い出は、バスで通ってて、僕を好きになってくれた女子がいました。帰り道を一緒に隣り通しバスに乗ってお互い結婚の話しをしてました。
1972年『結婚しようよ』。その頃僕は5歳ぐらいのときでした。人生初めての「結婚しようよ」とお互い言葉に交わしたのがこの時代でした。その女子からは誕生日だったと思うのですが、家にまで訪れてキャラクターノートをプレゼントしてもらいました。
逆に今度は僕がその子の家に訪ねて行ったら、裸を見せられまして。それ以上のことはなかったのですが、小学校に上がりクラスも一緒になったけど、それっきりあまりお互い口は利かなくなりました。世間話しはしてましたけど、その時の想い出話しは内緒話しとなりました。プレゼントでノートをもらったときは嬉しかった。けど、照れました。
そういうこともあって「親も引っ越しをせざるおえなかったのかなーー」と、今想えば思います。
小学生時代。引っ越した新居で少年時代を過ごし、4年生からはスポーツ少年団、通称、スポ小クラブに入りました。学校の授業以外のことでしたから、それで通信簿の成績が良くなるということはありませんでした。
通信簿で何か評価を上げるかといったら、体育の成績ぐらい。だからといってクラス内でトップクラスの万能生徒ではありませんでした。
ひとり慶応大学に入学卒業した同級生がいまして。勉強は出来るわ、体育は出来るわ、絵も書けば表彰されるわ。ユーモアもあるわ。で、その人にお兄さんがいたような。お兄さんを模範になんでもできたような。とにかく優秀なクラスメイトが側にいました。リーダーの素質もあって仲間を集め一緒に遊んだりもしましたけど、僕みたいにちょっとできない生徒は排(は)ぶる傾向もあって、親友だったほどではなかったです。が、学齢では名門進学校に入り、そこで野球部で活躍して慶応義塾大学入り、東京6大学の情報は新聞でずっと見てました。4年間見ていて、名前が出たのが4年生で代打で1打席登場したのを新聞で見つけて(それ以外にもありましたらすみません)全国の壁は厚いんだなーと、地方の田舎からそう思いました。でもすごい事です。できれば親友でありたかった。ふたりでいれば少しは話しもしましたけど、その彼の家に3,4人仲間が集まると、僕は何も言えずで「ちょっと邪魔だ」みたいな気分になり帰宅しました。
そういう生徒が数人いるなかで、体育の成績で評価を得るのも容易ではなく。春の大運動会でリレー選手に選ばれる生徒は体育の成績がABCでいえば、A評価が得られやすく、男子生徒の中で4番目以内に入らないと、春の大運動会でリレー選手には選ばれませんでした。
ちなみにリレー大会は春(A)夏(B)秋(C)
僕は1年生からずっとリレー大会はBクラスで、男子では8位内4位以下だったので春の通信簿は大概B評価でした。走るのは敵わないから泳ぎで頑張ろうと思いました。1年生から沼みたいなプールで葉緑素飲み飲み自力で泳ぎました。姉は運動音痴だったので模範がほんとない状態からの体育授業でした。
水に抵抗がなかったのは、母親が機嫌が悪くて家の池に自転車ごと放り投げられまして、自転車ごと沈められたことがあってからです。婆さんが助けてくれて、池の水の葉緑素の味は今でも忘れません。爺さんが買った自転車に何が気に入らなかったのか、池以外に土手に放り投げれたときは、そこに蜂の巣があり病院に婆さんと行きました。なんでそうなったのか、今だにわかりませんが、母親が流産してしばらく家にいなかった後だったと思います。母親のお腹をさすった記憶はあるのですが、それが原因だったのか。よその子供には慕われてましたけど、僕には何か恨みを持っていました。
自転車では、飛ぼうとして自転車に新聞紙の羽をつけて田んぼむかって自転車ごと落ちたことがあり近所の人が見ていて驚いたそうです。僕は怪我はしませんでしたが、なんか飛べる気がしたんです。引っ越して1年生になったばかりの時代です。
慶応に行った彼はすでに泳げてて目立っていました。そいつを超すには、最初は距離を泳ぐことをいの一番に考えました。水泳の級というものが学年ごとにありまして、2級以上だと表彰状がもらえたんです。1~3年生ぐらいまでは距離を泳ぐことがクリアできました。そして1級以上の表彰状が貰えました。3学期制でしたから、夏の通信簿はそれでなんとかA評価でした。
4年生の時点で、その慶応に行った彼に勝てるのは競泳のみで。全体評価で彼の方がダントツに良かったので、僕は霞んでいました。球技も得意でしたが4人いれば5番目くらいで、ハッキリ言えばどの教科でも仲間はずれになりやすく割ると余る境遇でした。
水泳しか取り柄のない僕だった4年生時代の3学期の春。ぽかぽか陽気の最後の体育の授業で、徒競走のタイムをクラス担任が記録してくれまして、僕が走った時のタイムを見て「これだと5年生はAチームに入れるね」と、褒められいい気分で5年生に進級しました。
クラス替えで、新しいクラスメイトと合流したら、4年生時代から足の速い生徒が多く入って、また、春の大運動会はAチームには入れませんでした。
けれど、5年生からは校内水泳競技会も行われまして、僕はリレーのアンカーに選ばれ優勝したりと、慶応に行った彼を抑えて「夏は僕がとりました」と、自慢させていただきます。
1979年、僕は6年生になりました。
この年の4月にテレビアニメ『ドラえモン』が放送されました。
6年生の徒競走ではBクラスでした。あと一歩だったかなーー。男子でも成長期を早くに迎える生徒がいまして、急に背が大きくなったり足も速くなって周りでは度肝をぬかす生徒も出てくるようになりました。その前までCクラスにいた生徒が成長期で変貌しまして、そういった生徒はすぐに抜擢され、春は5番目ぐらいで通信簿はまたもBでした。
最悪だったのは、6年生になると学業が出来ないことでした。冒頭に述べましたが、スポ小に入っても通信簿には影響しないこと。けれど、スポ小で6年生になると、上級生だと模範にもならなければならないことと、5年生だと勝てば凄いと褒められても、6年生だと勝ってあたり前、出来なければ怒られる、叱られるのがあたり前の時代でした。
スポ小では家でトレーニングすることまで義務づけられました「何回家でトレーニングしたか?」といったカードを手渡して判子を監督にしてもらうことが日課でした。5年生の時点で学校の宿題をやらないチャンピオンでしたから。やってたのは毎晩、外灯の下でシャドートレーニングをしてました。
前方は田んぼ一面でよく石を田んぼに向かって投げていたり、石を田んぼに向かってノックしていました。夜中ひとりで野球選手になったつもりでいましたよ。広島に入った野球選手で高校時代、仙台育英にいた大久保投手が活躍した時代で、あの選手の投球フォームをマネて田んぼに石を投げてたりと、外灯の下で妄想にふけってました。野球のスポ小に入っていたわけでもなかったのですが、頭がバカだったので外灯の下で変身ごっこみたいことをしてました。
宿題をしてたのはスポ小の宿題で一日が終わって、学校の宿題は出来ずで学校に行くと漢字テストが毎回あり、そのたびに0点。毎日放課後、補習授業で残されていました。
6年生だと3時頃までに学校の授業が終わって、そのあと、宿題とか漢字テストが出来なかった生徒は補修授業で残されました。出来た順に帰宅して行くんですが、僕は漢字テスト0点でしたから、なかなか終わらないんですよ。全生徒帰宅時間の夕方4時のチャイムが鳴るまで残っていて、鐘が鳴って強制退室してからようやく、スポ小の練習場に行くので、練習時間も半分しか練習ができなくて、仕方ないから家で夜中に外灯の下で残り半分を練習してました。
毎回、学校では放課後残されてばかりいたので、後輩には示しがつきませんでした。とくに4年生の女子はいい生徒が揃っていたのですが、良い印象、模範になるようなことはできませんでした。そのつけは、中学に上がってから僕が中3で新入部員を迎えるときは、スポ小時代の後輩の生徒がほとんどと言っていいほど入部してきませんでした。
「あんな馬鹿な先輩のもとで、またやりやくもない」と、当然思いますよ。
悲劇はそれだけじゃなくて、6年生でスポ小で全国大会に出場することになりました。夏に大会があるので夏休みはスポ小の練習だけになってしまいました。学校ではプールに何度か入らなければならないという夏休みの宿題があったのですが、スポ小の練習だけで疲れ、プールに一回も入らないまま、夏休みが終わりました。全国大会に行っても1回戦で負けて帰ってきましたし、その時、インベーダーゲームが社会的に流行っていて、学校ではゲームセンターで遊ぶのは校則で禁止になりました。夏休みは特にダメだと。代わりにインベーダーTシャツを着て東京に行き、半ズボンを履いてそこから玉袋半分はみ出して記念撮影してみんなに笑われたり、親同伴だからといって旅館にあったインベーダーゲームをして帰ってきたら、全校生徒の前で校長先生に怒られました。後輩には何もいいところを見せれませんでした。
水谷豊 Mizutani Yutaka カリフォルニア・コネクション 熱中時代刑事編主題歌
僕の姉の同級生のお父さんがPTAの会長を前任でやっていました。その娘さんと同級生で、親兄弟同士仲が良く、そのお父さんの推薦もあってなのか、うちの親父もPTAの役員になりました。親父にはずいぶんと恥をかかせました。
三浦駄菓子屋さんという、当時子供たちが集まる駄菓子屋さんで、『サーカスサーカス』とか『インベーダーゲーム』とかテレビゲームも置いてありまして、親の間ではあまりいい評判ではない駄菓子屋さんでした。テレビゲームが流行る以前から僕はちょくちょく行ってたんですけど、慶応大学行った彼とかもいましたし、東北大学に入った友人もいました。6年生になってからインベーダーゲームとかはしなかったんですが、喉が渇いててアイスかジュースを買って帰ったら、親父が酷く怒ってまして!
「あそこの駄菓子屋に行っただろ!」って、誰かが親父に通告したようで、その夜はパンチをくらいました。顔にアザができるほど殴られて、次の日、野球大会の練習に行かなきゃならない日で、親も顔のアザを見て「キャッチボールしててぶつけたと、みんなには言え」と口止めされました。練習に行ってもキャッチボールで顔にぶつけるような柄じゃなかったので、まわりはうすうす気づいてました。役員というのは人を狂わせてしまいます。
夏休みはプールに行けない間、他の子供たちは学校のプールで水泳クラブに入って、どんどん上達してました。ちょっと前まではぜんぜん泳げなかった生徒が6年生になった途端にもの凄く上達しててみんな担任から褒められる要素を沢山持つようになりました。
県大会に出場しただけでも拍手喝采で、担任はそういった生徒はひいきしてました。校内の水泳大会になって、自力でリレー選手には選ばれましたけど、自己流と習った生徒とは泳ぎ方の見る目は変わり、速く泳いでも「フォームが良くない」とかブーブー言われました。
小学生最後の水泳大会でも負けたくなかったのは慶応に行った彼で、最後の直接対決でわずかに僕のほうが早かったと、見ていた友達は言っていました。が、他生徒ならび先生方は勉強も出来る生徒のほうしか見てませんでした。その年の水泳の級は2級に落ちました。そして夏の通信簿もA評価を失いました。踏んだり蹴ったりの6年生の夏でした。
下を見ればクドカンが暴れるし、キン肉マン消しゴムでガリ版紙は半分に破れるし、間違いは直せない消せない劣等時代。
3,4年生は別なクラスで僕を見ていた生徒がいて、5,6年生で同じクラスになって、そのとき言われたことは「おまえ、もの凄く頭がいいやつだと思っていたけど、実際会ったらバカなんだもん」と、笑顔で言われました。こっちは苦笑いしてましたけど「確かになーー」と否定はしませんでした。
名前は漢字でも書けたんですが、母親が名前をカタカナに書き直すようにと言われまして、素直に改名して小学生生活を終了し、中学にあがったときにまた漢字で名前を書いていたら、中学の担任から報告がありまして「あなたは自分の名前を漢字で書けないほど出来ない子だったのにーー」と‥‥‥。そこから3,4年さかのぼって説明するのもめんどくさかったので「はい」一言ムッとした表情で答えました。
6年生時代にもどりますが、夏が過ぎて秋になって学芸会がありまして、最後の学芸会はインテリっぽいのに出たくて合奏を選びました。ちょっといいとこを見せたくて、ソロで目立ちそうなのが打楽器だったので小太鼓をジャンケンで勝ち取りました。けど、6年生の合奏曲は思いのほか難しく、二曲目の演奏はトライアングルを担当しました。
1曲目はちょっと題名忘れましたけど、小太鼓のリズムが合わなくてグダグダになりました。思い出しても恥ずかしいぐらい、リズムが合わなかった。
二曲目がハンガリー舞曲で
トライアングルでソロで鳴らす場面があって、それもまた恥ずかしい恥ずかしい。逆な意味で目立ちました。
冬には縄跳び選手権というのがありまして、持久飛び部門と創作飛び部門というのがありまして、持久飛びは誰よりも長く跳び続けた生徒が表彰されまして、創作飛びは生徒の審査員の評価で表彰されました。慶応野郎には負けたくなかったのもあり、同じクラスで仲のいい友達といろいろと考えて編みだした飛び方が『夢想花』
これで学年で優勝しまし、全校生徒の前で縄跳び演舞を披露しました。
おかげさまでバレタインデーの日は、最後の最後で一個貰いました。毎年机の中には入ってなくて、いつものように放課後残されたあとでした。その日は女子もなぜか残っていて、僕のほうが早く帰れたんです。夢想花を一緒に考えた友達と一緒に校舎から外に出たら、教室の窓から僕の名前を叫んでチョコレートの箱が飛んで来て!地面にバチャ!っと落ちましたけど、一緒にいた友達は大笑いしてました。他はランドセルに何個かは入っていたんだろうから、ひやかし半分で笑ってました。おもいがけない人からだったので返事もなにもしないまま帰りましたけど、今思えばありがたいことです。
6年生のお別れ会。その時のクラスの余興は歌合戦でした。審査員長は担任が決めるという設定で、5年生の時はサザンの曲で挑んだんですが、かすりもしませんでした。ダメなものはダメと示す先生だったので、普通に歌たんじゃダメだと思いました。ライバル慶応野郎をひとつでも負かしてやろうと思った小学生時代の蓄積を最後の最後に担任を負かしてやろうと、選曲は寝ずに吟味いたしました。
演歌でいこうと思いました。『おもいで酒』が流行ってたりもしたんで、そういった曲を歌った女子生徒もいたような気がしましたけど、旬でインパクトがある曲でと思い『おやじの海』で勝負しました。
おやじの海(村木賢吉)
『おやじの海』で担任もしぶしぶ僕に賞をくれました。通信簿はオールC以下。名前も書けないほどのバカだと通達されつつも、小学校を卒業させていただきました。