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千載一遇・ノックノック

2021-02-20 15:31:39 | ノックノック(雑記の宿)

 人生20年。その過程の中で千載一遇のチャンスというものは何度かありまして。1度は中2の時で、陸上大会で3位入賞からの県大会出場権を得たことがありました。この年は彼氏としての申し込みもあったりしました。個人で上のレベルの大会に出るというのは10代としては初のことでした。

 ただその時、陸上部ではなくて他の部に所属してまして、陸上部の部員不足もありますが他の部活動で予選敗退した生徒とか、文化部に所属している生徒も、少しでも個人の機会を設けのるが学校側の方針と、学校対抗による総合優勝もかけての陸上大会の予選でした。

 僕は本職の部活動が団体部門で予選を勝ち抜き県大会の出場が決まり、そちらを優先ということで、陸上部で4位だった同級生に県大会を譲りました。人生経験の中で千載一遇のチャンスは巡ってきましたが逃しました。

 本職の団体での県大会は負けたのですが、2年生ながら団体戦に出場する予定でした。監督は大会当日まで悩んだあげく、最終学年の3年生を優先にと決めたみたいで当日僕の名前が登録されていたのですが、急遽3年生の部員に変更されました。大会に勝つことよりも責任ある上級生にすべてを委ねたのが最終的な判断だと感じました。監督は教師でしたので学校の研修があり、その時の3年生はあまり監督の指導につき合えることもできなかったという悲運もありました。

 その悲運が高校まで引きずって、暴力事件を起こした生徒の先輩が僕の先輩を県大会で破ったという経緯が因縁として暴力事件にまで発展しました。

 陸上大会の出場権は逃したものの、3年生になり全国大会出場という二度目の千載一遇のチャンスが巡ってきましたが、決勝戦であえなく逃してしまいました。けれど、卒業後、三度目のチャンスでその部活動を通して全国大会まで行けたので僕は幸せ者のひとりでもあります。

 解せないのは暴力事件の汚点を残してしまったことです。

 高校生活はそれがあり就職も進学も思うようにいきませんでした。

 就職先はいろいろと考えました。子供の頃からの影響だと駅務員の仕事に就きたかったというのがありました。鉄道、電車好きではないですが、駅の近くに住んでいたということもあって、駅務員さんの仕事ぶりをちょくちょく見ていました。切符を切ったり乗客を見てるのはあたり前ですが、タバコの吸い殻を掃除してたり、そういう姿をちょくちょく見ていまして。「大人の仕事というのはこういったことをするんだ」と、「駅務員さんは偉いなー」と思って育ってきました。

 仕事は国鉄で働いてみたいとか、鉄道関係、駅関係の仕事に就ければと思ってもいました。

 高校在学中はまだ国鉄が運行されてましたけど、JRに変更された年とも重なりました。国鉄職員の人員整理のニュースも盛んに報道されてて、僕が在学中には国鉄(今のJR)入社はちょっと無理だと思いました。

 1986年に高校を卒業して鉄道以外の仕事に就いたのですが、仙台市地下鉄の開業とその職員の募集が僕に飛び込んできました。開業前の募集で30名の求人でした。新卒世代はすでに就職が決まり。そのあとのことで僕にとっては千載一遇でした。

 僕の幼い時からの友達に高卒で郵便局に就職した友達がいまして、19歳の年でしたけど、一人暮らしを始めて、僕はその友達のアパートに1か月に1回か2回は土曜日から親の車を借りながら泊りに行ってました。

 そのときに公務員試験の求人が舞い込んで来て、一足先に公務員になったその友達から公務員試験のノウハウを教わりました。一般常識が試験問題にあるということで、テキスト本を買って友達のアパートで教わりました。試験日は日曜日にあり会社も休みだったので試験前日からその友達のアパートに泊まりました。まずは試験会場はどこにあるか、を同行してもらい視察しました。

 試験当日、季節は夏でした。筆記試験と運動能力試験がある中でも、身なりは大事なんじゃないかと語り合い白の半袖シャツにスラックスズボンにネクタイを締めて、試験会場に行きました。ほとんどがTシャツ半ズボン姿の受験生がゴロゴロと集まってました。僕みたいにネクタイを締めて試験会場に来ていた人もちらほらいましたが、筆記試験メインの一次試験でしたので、こ慣れてる方はラフな姿で試験会場に来ているようでした。一般常識からしてみれば僕はそのときちょっと浮いてた感じでした。そして30人の定員に400人が一次試験を受けました。

 筆記試験の問題は至って簡単でした。友達に教わった成果も少しはありましたが、予想以上に簡単な問題でした。それでもわからなかった個所もありましたので良くて80点か90点ぐらいだとは思いました。 

 続いて体力試験。体育館で行われ、ストップウォッチで測る運動試験や肺活量の測定。この辺は他よりも上手くいったように思いました。とくに肺活量が人並以上だったようで、まわりからどよめきが聴こえました。試験官の人にもひとこと声をかけられたので「ここはいけた」と思いました。

 試験が終わって「一次試験の通過者は何時何時の日に市役所に張り出しておきますので、そこで確認してから次の手続きを行ってください」といったアナウンスがありました。そのことを先に公務員になった友達にも話したら「通過してれば封書が届くんじゃないか」とも言われました。

 どっちを信じていいのかわかりませんでしたが、1次通過発表は平日の日でした。僕はそれまで会社を平日に休んだことはありませんでした。会社に内緒で公務員試験を受けたこともあり、ちょっと負い目も感じていて、合格発表に行く口実が作れませんでした。自らで合否の確認もしないまま、時は過ぎてしまいました。

 友達には「どうだった?」と訊かれましたが「合否を見には行けなかった」としか言えませんでした。「通過してれば封書は届くはずだよ?届いてないのか?」「けど、張り紙を確認してからって言われたし‣・・・・」友達は「落ちたんじゃないか」といった空気が漂いました。

 冷静に考えれば筆記試験は百点満点じゃないと合格しない試験だと思いました。列車の仕事は乗客の命を預かる仕事で単純なミスでも事故に及ぶこともあります。筆記試験はわからない箇所もあったし、その時点で落ちていたでしょうし、合否の確認も怠ったミスも起こしました。

 一般常識にも乏しく、自己採点でも不合格だと思います。千載一遇の機会ではありましたが、自らのミスで逃してしまいました。

 その友達とはその年の正月「初日の出を見にいこう」ということも行いました。安く買った中古車で大晦日に海岸沿いまで出かけました。僕がそのとき用意したカセットテープは岡田有希子が亡くなった年の最後に発売されたアルバムをカセットにダビングして聴かせたら「元旦早々、岡田有希子はやめてくれよ」と言われました。追悼の意味は僕にはあったのですが友達からしてみれば非常識なことでもありました。「そういうのは家でひとりで聴いてろよ」と、そのときには感じました。

 その年の初日の出は、車の中で寝てしまい起きたら日が昇ってて拝むことすら逃しました。

 今さらですが、中2の彼氏の申し込みも最初だけで最後は未確認でした。

 常識が足りなかった千載一遇。

 曲は1986年1月21日リリース。この曲がなんか好きでいました。運転免許試験センターが新しくできた年でもあり、そこで自動車免許を取得しました。何かとリニューアルしたことに携わった1年でした。なのに原付バイクで法定速度30キロを35キロオーバーで走って初免停になった非常識。思い出のetc

 うしろゆびさされ組 

 バナナの涙 ノックノック

 

 

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