<リトルロマンス>
ダイアン・レインで頭がいっぱいな今日この頃で、1979年作品『リトルロマンス』を鑑賞。
2019年6月29日『久米宏ラジオなんですけど』を聴いていて、久米さんは1979年に新聞でウォークマンを聴く猿を見たと言ってましたが、実際には1979年には「ウォークマン猿はその頃まだ出てなかった」と、記憶違いの話しをしてました。僕はウォークマン猿は知ってましたし、久米さんをザ・ベストテンで見てましたから。調べによると久米宏さんは猿年生まれで、その日はご自身のお顔を鏡で見たのではないでしょうか。記憶に残ってはいたのはフリーアナウンサーになった初日の日の事で、会社員久米宏から商品久米宏に変わった日をウォークマン発売とリンクしたのではないかと、個人的にですが思いました。ウォークマン久米宏、久米宏ウォークマンと言っていいほど画期的で売れっ子でしたよ、久米さん。
1979年、その年は『いとしのエリー』が流行っていました。僕は「おっぱいの歌」かと思いレコードを買いました。初めて自分ひとりで買ったレコードが「おっぱいの歌」だと思った『いとしのエリー』でした。
当時、近所に2軒レコード店があったのですが、お客が少ないほうのレコード店で『いとしのエリー』を探して買いました。なにせ、「おっぱいの歌」だと思ってましたから。『いとしのエリー』は1983年の『ふぞろいの林檎たち』で大脚光をあびるんですが、1979年にレコードが出ていて、ザ・ベストテンでも1位になっているかと思います。
その1979年にダイアン・レインが登場しました。
<実存主義>
この映画のひとつのテーマに実存主義(哲学)が表現されているのではないか?と、個人的に思うところがありました。ローレン役(ダイアン・レイン)の右足に注目してください。ローレンは性別の意識が無い状態だと僕は見ています。
そこにダニエル(テロニアス・ベルナール)が現れ、異性の存在を知ります。1979年、僕もその当時、好きになった女の子がいました。出会った時、近寄った時は性別の意識はありませんでした。もし、性別の意識があったのなら近寄ってもいなかった。女子という区別だけで好きにならなかった女子もたくさんいましたし、恋をしなければ記憶の中に存在すらしなかったかもしれません。
映画にもどりますが、こういったシーンが何度かあります。
ローレンの部屋でクラスメイトの友達と電話をしてるシーンですが、左足の開き方、性別をまったく意識してないようにも思えます。これを行儀が悪いとみるか、別な意味の性的表現と捉えるかは個人にもよりますが、僕はこの場面は彼女には性別意識のない状態だと思います。
そこにローレンの父親が現れます。これが実存主義の哲学かと思いました。父親に対しては性別意識はまだなく、すぐには左足を閉じるようなことはしませんでした。多少、お行儀の意識は持っていたかもしれませんが。
父親との会話の中で今興味を持っていることを訊かれ、ローレンは目を輝かせます。そして左足をくみ直します。ローレンはハイデッガーの著書に夢中であると父親に話します。ちなみにローレンはIQが非常に高く、神童と言われるほど頭の良い女子生徒の設定です。ダニエルもローレンが読んでるハイデッガーのことを知ってるほど、IQが高い生徒でした。ちなみに1979年の僕は『いとしのエリー』を「おっぱいの歌」だと思っていたほどのIQです。とてもついていけるような頭脳ではありません。
けれど、これは『リトルロマンス』。誰でも楽しめる映画です。
ダイアン・レインのこの表情は、年齢を重ねた今でも変わらない僕好みの表情をしてました。今では、スーパーマンのお母さん役とかもしているんですよね。
ダイアン・レインのキスシーンの上手さはこの頃から非凡なものがありました。
ダイアン・レインの抱きしめられ方のIQはいつになっても高いです。
仏教家などのみうらじゅんさんは、この映画をどのように批評されるか知りたいですが、ハイデッガーを用いたプロテスタントにある幸福表現。それにベネチアまでの道のりを描いた罪と罰。困難の末に永遠の愛を誓い合ったローレンとダニエルはその後、別々な場所で暮らすことになります。煉獄を感じるのは『リトルロマンス』ではまだ早いと僕は思いました。
アップデートされた現在、2019年ただいま僕は、煉獄真っ只中。至福の時は日曜日。