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旧える天まるのブログ
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俺の高校受験進学の話・ノックノック

2021-04-14 12:16:34 | ノックノック(雑記の宿)

 高校進学というのは、いつごろから考え始めていたでしょうか。

 僕は中学の時、3年の部活動は8月の秋田県大曲市(現在大仙市)のお祭り(花火大会かな)があった日まで続けてました。なぜ大曲市なのかは、その時東北大会の会場が大曲でした。日にちはよく覚えてないのですが(思い出語り中)池田高校が優勝したか決勝戦の日だったかもしれません。テレビでちらっとみたような覚えがありまして、その後、池田高校がムーブメントになってました。

 8月のお盆頃までは部活動していたことになります。県大会では準優勝で、優勝してれば全国大会が8月の20日過ぎぐらいにありましたが、僕はその手前の東北大会が中学部活動のラスト試合でした。

 あの当時、部活系とクラブ系の大会がありまして、部活系は県大会準優勝。そして東北大会までいったのですが、クラブ系は東北大会優勝。そして全国大会出場。日本代表でハワイでの大会までありました。

 全国大会とハワイ大会は夏休み中にありまして、夏休みは大会と練習がほとんどでした。クラブ系の東北大会は夏休み前の7月初旬にありまして、優勝してからの部活動の県大会が夏休みの初旬にありました。高校野球でいえば明治神宮大会のあとで甲子園大会があるみたいな。そのようなスケジュールでした。

 クラブ系の東北大会で優勝して、県の中体連ではもちろん優勝といった感じでちょっと油断があって決勝で敗れてしまいました。県大会となるとどこが優勝してもおかしくないのですが、運よく決勝戦まで行けましてそこで接戦で敗れてしまいました。

 その時点で気がちょっと抜けた感じになりまして、ハワイ大会は代表2名。費用は30万円かかるということもありまして、選手はその後の大会に出ない生徒が日本代表でハワイに行きました。そして優勝して帰ってきまして、お土産等をいただきました。JAPANとプリントされたTシャツとマカデミアナッツチョコレートをはじめてそのときいただいて食べました。

 夏休み期間の部活動。他は世界大会までいったし、僕もクラブ系の全国大会はお遊び気分で出場して2回戦で敗れて帰ってきました。経費上、監督コーチは行かずに親子中心での出場でした。

 帰って来たあとに、大曲市での部活系の東北大会がありまして、前日、大曲の旅館に泊まりました。外はお祭りをやっていた様子ではありましたが、僕たちは旅館の部屋で過ごしてました。同じ、東北大会に出る、他の女子中学生も泊まってまして、先にお風呂に入った後に僕らが入り(小さい旅館でしたから)そのとき「陰毛みつけた」とかワイワイとして部屋にもどってからのことです。監督とコーチがちょっとお酒も入ってまして、コーチはとくに不機嫌な顔をしてました。

「納得いかない・・・・・」

 なんとなくわかるような気がしましたが、何が納得いかないかは、わかりませんでした。

「全国大会に行って賞状のひとつは貰ってくるかと思った‥‥‥」

「え!」と思いましたが、ありがたいことにそう言われました。その後はそれまでの不満を吐き出すかのように3年間お世話になったコーチにえらく怒られました。けっこう持ち上げるタイプのコーチでしたが、あの日は「納得いかない」の連発で、顧問及び監督も、ダメだしをくどくと言われ怒られまして、花火大会の花火の音も聞こえないくらいに、今までの不満を僕らにぶちまけました。

 ありがたいことなんですけど、「優勝、そして何かもらって帰れ」と言われました。二位の代表で優勝は酷な話でしたが、山形の1位を破り、秋田の1位を破り、青森の2位代表に準決勝で敗れて3位で終えました。公式戦なので新聞にも記録されました。優勝は秋田の2位代表でした。秋田県はその当時レベルが一番高く、高校進学は秋田の高校へでも行こうかと、中2ぐらいから思ってました。

 高校進学の志望校を実際真剣に考えるのは、8月の大会が終わってからのことでした。

 9月は遊びたかった。3年間部活漬けでしたから、釣りとかをして遊びたかった。10月ぐらいから志望校を決めて、受験勉強にとりかかるんでしょうけど、僕は志望校で迷ってました。ひとつは憧れでもあった秋田県への留学。ただ、肝心の入れる高校が見つけられませんでした。私立高校はみつけれましたが、公立高校のほうがみつけて決めることができませんでした。秋田県のほうはすぐにでも諦めがつきました。

 諦めずにいたのは、父親の実家である福島県のことでした。父は福島県、双葉高校の出身でした。双葉高校は、高校野球で甲子園で何度か出場したことのある有名な高校でした。父の実家は広野町出身で、そこから電車(あの当時は汽車かな)蒸気機関車等で通学してたと聞きました。父の時代は高校進学も難しい時代でしたから、定時制みたいな、学費を工面しながらでも高校に行かせてもらったようでした。父の兄弟もいましたが、父以外はみんな中卒。町自体が貧しい小さな町で、経済的な格差もある中で、他の町の高校進学するのも容易じゃないところに住んでました。

 父は高校まで行かせてもらえて、家族内では期待を持たれていたようです。頼られてもいたようなのですが、東京に行って働いて、母と結婚して母の実家宮城に住み着いてしまいまして、福島の実家に対する経済的な支援ができなかったことが、父のネガティブな感情があり、福島の実家に戻れなかったひとつでもありました。

 中学生ぐらいからそのように思っていた僕は、高校は福島の高校に入ろうとも思っていました。双葉高校は、クドカンが入ったような高校ぐらいの偏差値で、僕にはちょっと無理でした。少し落として、富岡町の富岡高校はどうかな?と思っていました。あの頃、本籍は父の本籍福島県でしたから、父の実家に住所を移せば、公立高校の入試も可能かと思ってました。秋田県のほうは職業型の高校じゃないとすんなりと入試、入学はできませんでしたから。だから諦めやすかった。

 けれど、福島県にはそれなりに条件は整ってました。で、僕の住む地元の高校進学は、中3の時点で10月の時点で、考えてもいませんでした。「福島のほうに行けないかな」と思ってました。秋田のほうは僕のわがままな罪で、それを許さなかったのは、一発受験の罪でした。

 10月から受験勉強。実際はしなかったのですが、していても僕にはリスクはありました。親をまず説得しなければならないのもありまして、8月まで部活漬けでしたから、両親とのコミュニケーションは部活のことが中心で、進学についてはそのあとのことでした。福島の高校に進学するというのは、説得するには時間が足りませんでした。

 消去法で考えますと、広野町は浜通りで、通学手段は主に電車汽車でした。いわき市の高校にも通えましたが、遠くて偏差値が更に高い高校ばかりでした。中通りの高校にしても通学が大変なところでした。父の実家に戻ろうとしていて、他に下宿生活したら意味がありませんでしたから。広野町から通学できるところだと近くの富岡高校ぐらいしか見当たりませんでした。相馬市となるとけっこう遠くなるんです。広野町の駅は快速電車が止まらない駅でしたから、電車通学が難しいところでもありました。実際現場に行って見て、落ち着いて考えてもよかったのですが、中3の秋からでしたから、リモートで模索してたような形でした。

 消去法で残ったのが富岡高校受験でしたが、あの当時、福島県は高校受験浪人日本一の県でありまして、公立高校の受験は宮城より、リスクのある一発受験でした。僕が中学生の頃、高校受験浪人は考えたくもなかったのです。相馬藩も浪人になった時期もあって、その後相馬藩にもどったりとか、福島県の歴史文化の中には浪人も厭わないといった文化があったのかもしれません。お家取り潰しにびくびくしていた伊達藩とは、胆の座りかたが違うと思いました。

 僕は高校受験もリスクを考えて、降ってわいたような高校に結局進学しました。高校が決まって、福島の実家に報告しに行きましたら、親戚の方々が気にかけていたのは、学費面、経済的なことでした。

 その後は、福島の原発事故がありまして、父の弟さんは釣り好きで、事故前は「どこどこがよく釣れるんだと」と海釣りのメッカであることを自慢してました。父の姉である旦那さんは、仕事がないところで原発建設の仕事もしてたようで、父も含め家族は心配してました。結果的に無事に工事を終えて暮らしてましたから、その後事故が起こるとは誰も思ってもいませんでした。

 2011年に原発事故が起きまして、双葉高校はなくなりました。富岡高校もスポーツに力をそそいだ高校になったようですが、事故後は使えなくなったことだけが印象に残ってます。富岡で思い出すのは、僕が高校進学を考えていた志望校のひとつだったことが思い出します。

 その後、父の遺産を僕らが引き継ぎまして、僕らは復旧作業優先のために、相続は福島方に譲渡しました。その土地の一部は、福島のおばさんに聞いたら介護施設が建てられたそうです。いまだにリモートな状態で、ちゃんとした確認はしてませんが電話ではそう話してました。

 僕の父は震災前に亡くなりましたが、福島の実家には申し訳ないと思っていることでしょう。僕は、今さら、どうのこうの言える立場ではないのですが、胸の内では「あの時に・・・・・」とは思っていまして、福島の実家方の借りは返してないのです。それとは別に子供の頃に見た広野町の海が懐かしいです。ノックノック

 


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処理水放出「当時政権を担った方は責任持って発言を」公明・山口代表

2021-04-13 23:53:29 | 日記


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/sankei-plt2104130022

 

 

第22回参議院議員通常選挙 - Wikipedia

 

 

 

  震災前、2010年第22回参議院選挙により、ねじれ国会となり、参議院では中枢与党が入れ替わりました。責任は当時、衆議院民主党側にあったのですが、震災発生前に現在の与党政権のほうに移行してしまったのです。

 現在も野党である日本共産党は、あの当時から原発の危険性は指摘していたのですが、チェック機関・判断機能の中枢は多数である公明自民にありました。それが責任的経緯です。僕はあの当時は子供手当が(継続等含め)必要でしたから、それに協力的だった日本共産党に投じた記憶があります。なので僕ひとりじゃどうにもできませんでした。


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『雑記の宿』BOØWYと私とIQ

2021-04-11 15:47:08 | 雑記の宿

 

『BOØWY・わがままジュリエット』

 BOØWYとの関りはこの曲からでした。第一印象は非常に食いつきやすい曲で、『わび・さび』と言いますか、1986年・85,6年頃は『わび・さび』ワールドといいますか、お笑い芸人の『ちびっこギャング』がなぜかメディアに登場してまして、ちびっこギャングのギャグは今振り返ると記憶になくて、キャラクターとしては『わび・さび芸人』が当時はもてはやされた時代だったように思います。

 ツービートの北野武もインパクトはあったけど、ちょっと低迷期でもありました。で、『わび・さび』にシフトしたのが

 

 

 映画で北野武は『わび・さびキャラ』をスクリーンでは演じるようになりました。

『ちびっこギャング』も映画まで登り詰めましたが、共通してるのは「面白くない」。面白くなければ面白くないほど、時代はウケていたようにも、おもしろい武さんにはちょっと酷だったかも‥‥‥。「面白くないけど、わび・さびがある」そういうのを、なんかもとめていたように思いました。

 『とんねるず』は『面白くない!!』が爆発しまして。『松永弾正』なのか、面白くない人たちの仲で戯れてました。『とんねるず』も『わび・さび』を売りにした芸風でした。

 BOØWYとの関りは『わがままジュリエット』。ここまででした。

 1986年に両親が建てたマイホームが、競売で競り負けまして。家を手放すことになりました。競売で落とせれば家だけは残せたのですが、相手側のほうが高い値をつけてました。

 家以外はほとんど差し押さえ状態で、残りは競売にセリ勝つしか他に手段はありませんでした。1986年の1月~3月は、僕はほったらかしで、競売に命運をかけて両親は全集中してました。親父も大手会社に再就職して準備万端ではあったのですが、3月ぐらいに「だめだった」という知らせがあり、ドラマの世界にしかありえないような事態が起きました。

 新年度の4月を目前に立ち退くことが決まって。親父も会社から「怪しい」ということでクビされました。真面目な父親でしたが無情な裁きでした。一流メーカーに就職して、そのメーカーの商品契約は継続して、クビになった会社なのに「親父もお人好し過ぎる」と思いました。

「自分の熱意が伝わった」と自画自賛していた会社でしたが、急遽クビになって、何がなんだかわからないでいました。世間は詳細は知ってると思いますが、僕には届きませんでした。

 僕が就職して1週間は、両親のマイホームから会社に通いました。4月の二週目に引っ越しました。僕が小学校1年生の時に起きた状況とまったく同じような廻りあわせでした。あの頃も土地は確保してあって、そこに家を建てる話しまでは聞いた覚えはあるのですが、なぜかそれが頓挫しました。

「なんでこうなったのか‥‥‥」わけがわからずにいました。

 事情や説明は聞かされてませんでしたが、今思えば、実家の親に相談もなく先に物事を決めて進めていたことが要因だったのかもしれません。

 僕から見ても、両親共々『わび・さび』のある人ではありました。

 それとBOØWYに何が関係あるのかと申しますと、僕はBOØWYは『わがままジュリエット』までしかついていけなかったからです。BOØWY好きの人・僕の印象だとIQといいますか、偏差値が高い人ほどついていってたように思いました。

 BOØWYが流行していた時には『ファミコン』も定着しつつありました。そしてシューティングゲームが主流でした。BOØWY好きの友達は大学に受験してもすんなり合格するようなIQが高いやつで、ゲームもまあ得意でした。僕の身近な友達はシューティングゲームをやらせれば僕よりはるかに偏差値が高く、ワンプレイで次々とクリアしていくんです。高卒でしたが、難関の公務員試験を合格したほどでしたから。そのときに言っていたのは「死ぬほど勉強した」と言ってました。

 『IQなのか?』『偏差値なのか?』はわかりませんが、IQはもとより偏差値を上げていたことは確かです。

 友達は独り暮らしを始めてすぐにファミコンがありまして、ベースボールやゼビウスは既にありましたが、『がんばれゴエモン』にハマってました。

がんばれゴエモン! からくり道中 プレイ映像

 これは面白いと思いました。友達はこのシリーズをどんどん買っていったようで。僕もこれは第一印象ばっちりでした。お互い話しのネタになることで、その後の交流が継続しました。

 友達は給料やボーナスで、まず、買っていたのがビデオデッキとCD付ステレオコンポでした。友達の音楽を聴いて見るとBOØWY・吉川晃司がびんびんにかかりました。吉川晃司はついていけた口でしたが、BOØWYはついていけなかった。

 友達が勉強にハマってる間から1986年ののち、僕はGS・グループバンドからは卒業していたんです。軽音楽=バンドを組む機会を幾度か逃していました。コピーバンドすら目の前にチャンスはありつつ、経済的な差でついていけなかった。インディーズもちょっと入り口はあったのですが、ドラムの他に電子系楽器を持ってないと根本的に組めなかったのです。吹奏楽部の経験もありませんでしたから、入り口はあっても入れませんでした。

 あの時代、小椋佳さんが楽器が弾けなくても曲を出していたという伝説がありました。

 

 高校生の時は、その世界に入るには「作詞で行くしかないかな」と思っていました。保存はしてませんでしたが、音楽向きな歌詞は、ちょこちょこ自分では書いてました。小説は不得意なんですが、詩を考えて書くのは好きなんです。音楽業界にはすくなからず志しと憧れはありました。

 1986年以降『いかすバンド天国』といった、創作バンドブームがくるんですが、僕は高校時代に機を失ってまして、わび・さってました。

 1986年・友人。の世界では、マイビデオデッキを先に買った友達の部屋で『北の国から・初恋』や『ロッキー・シリーズ』を観て、感動と興奮を同時に味わってました。

 僕個人としては、バンドは女性グループを探しつつ、ソロ活動を始めた『KUWATA BAND』とか、甲斐バンドから、ソロ活動を始めた『甲斐よしひろ』といった、ソロシンガーに心の置き場を求めてました。

 

甲斐よしひろ 電光石火BABY PV

 『甲斐よしひろ 電光石火BABY』は1987年リリースですが、その間、友達から『ドラゴンクエスト』を紹介されたりして、RPGは僕の偏差値にはちょうどいいぐらいでした。

 給料でファミコンを買って、そのときに石油ストーブも買いました。マイホームを失ってからの最初の冬でした。

 そういえばまだありました。はじめて自分で買ったストーブです。その後はファンヒーターといったふうに時代についていこうとしてて、石油ストーブはおざなりにしてました。でも、これは当時匂いが気になるのを抑えるための脱臭機能もある石油ストーブでした。

 東日本大震災があって、電気がつながるまで避難所にいたんですが、「石油ストーブとかないべかー」と、尋ねられました。理由を聞くと「寝たきりの婆さんがいて、ちょっと心配で‥‥‥」。在宅避難してる中には寝たきりの家族もいました。避難所から自宅に戻った時にそう尋ねられたことがあり、石油は入ってなかったので、オイル電気ヒーターとかで過ごしてましたが、火力の暖とは違いました。「寝たきりのお婆さんが心配で‥‥‥」と、石油ストーブを求めていたとのことで、ここにこれが一個ありましたから貸してあげました。あのときの美談になる話があるとしたら、この石油ストーブを貸してあげれたことぐらいです。

 ファミコンを買ったときのソフトというのは、『がんばれゴエモン』にハマっていた友達がいたので、僕は『スケバン刑事Ⅲ』を新発売で出たので購入しました。

[FC] スケバン刑事Ⅲ

 『スケバン刑事Ⅲ』が初めて手にしたマイファミコンソフトで『じゃりン子チエ』もそのあと買ったりと。コラボレーションしたゲームソフトを好んでました。

 BOØWYの世界にはIQ不足というか、偏差値でついていけなくなりまして、BOØWY(ボウイ)からボーイに付着して、『バービーボーイズ』にハマりました。

 

1986から『BOØWYと私とIQ』でした。

Wellerman Sea Shanty - Bagpipe Remix (The Snake Charmer)

 


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スーパーカー・ノックノック

2021-04-08 16:06:08 | ノックノック(雑記の宿)

[昭和52年3月] 中日ニュース No.1207_2「外車ブーム」

 

中日映画社

チャンネル内の映像は、株式会社 中日映画社がお送りしています。 弊社は、昭和29年1月から平成7年3月まで、週刊時事ニュースの制作・配給をし...

YouTube

 

  最初は参考資料映像がありましたのでお借りしました。

 スーパーカーブームというのがありまして、そのブームの渦中に僕もいました。

 それとは別にコカ・コーラ・ペプシコーラが子供たちのお菓子、おやつだったときもありました。ジュースはあの頃は瓶製品から蓋をあけて飲むのが普通でした。缶ジュースもありましたが、酒屋さんとかに行って瓶製品のを買って飲んで空き瓶を返却するシステムでした。

 

コカコーラの夏

みんカラ(みんなのカーライフ)とは、あなたと同じ車・自動車に乗っている仲間が集まる、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)です。

みんカラ

 

 こちらの記事に載ってありましたのでご紹介しますが、瓶ジュースの蓋にくじがありまして、当たると10円・50円・100円・500円がもらえたり、ペプシコーラも同じようなことやっていて、ペプシコーラは当たるともう一本みたいなこともありました。

 どちらを飲むかとというのはその日の気分でした。量を沢山飲みたいときはペプシコーラかな。その時々に飲み物は違ってました。

 コカ・コーラのお話しだけでいいますと、『10円・50円・100円・500円』となってますが、子供の感覚としては『10円(4等)・50円(3等)・100円(2等)・500円(1等)』一等、二等、三等的な感覚で3等、2等ぐらいが当たると「やったー!」と喜んでました。

 そんな時に僕が1等を当てちゃいまして、周りがどよめきました。500円ですからね。当時は500円札で紙幣でしたから、5百円札を持った日には、酒屋さんからおもちゃ屋さんにいけましたから。1等が出た時は店内の空気が止まりました。店主もビックリっていう感じで、店の奥の方に行って戻って来て渡されたのが

『スーパーカー立体ポスター』でした。「500円じゃないんだ・・・・・」と、僕は心の中で思ってまして「1等ね」と言われて『スーパーカー立体ポスター』手渡せれて、どよめいたまま、僕はこれを持って家に帰りました。

 ポスターと言っても紙でできた安っぽいとか、すぐに破れてしまうような素材の物でもなく、プラスチックみたいなネガフイルムみたいな材質で、触ると凹凸があって、特殊加工されていて、確かに立体でしたけど、すごく平べったかったです。

 飾るときに画鋲で穴をあけるのがもったいなくてできませんで、父親から「粘着パネルに貼ってから飾るとポスターが無駄にならない」と言われまして、発泡スチロール製のパネルに貼ってカーテンのレールの上に置いて飾りました。

 しばらくそうして持ってましたけど、家を引っ越したときには、なんていうか家が差し押さえになって、廃品回収屋さんに持っていかれてしまいました。

 スーパーカーブームもありましたが、F1カーブームもちょっとありまして、F1のミニカーを買ってもらったこともありました。

 

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・中古品のためキズ・ヨゴレ・経年劣化等がございます。・外箱に痛みがあります。・写真に写っている物が全てとなります。A-3

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  『タイレルフォード』というのが好きでですね。親父の実家に行くとなんでも買ってもらうことがありまして、その時に買ってもらったミニカーもありましたが、差し押さえになってしまいました。

 

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先日行われた 静岡ホビーショーでも、タミヤ所蔵の実車展示があり多くの方がシャッターを切っていた、タイレル  P34。  カートイワークスでは...

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 ラジコンカーも買ってもらいましたが、これは電池がやたら多く使ったり消耗も激しく、あんまり言うことを聞いてくれないというか、ラジコンが全然機能しなくて、すぐに壊れて自分で処理しました。

 使わないで飾っておけばよかったんでしょうけど、子供でしたから、友達も「左回りだけのラジコンカーがあるから」と言ってて、ちょっと自慢しに友達の家でラジコン遊びに行ったらですね、ぜんぜんまともに走ってくれませんでした。友達のほうは左回りだけのでしたが、すいすいと走ってちゃんと自分のところにもどってくるんですよ。僕のは全然だめで「ラジコンカーは左回りのでもいいな・・・・・」と、思いました。

 ミニカーのほうは泣く泣く処分いたしました。ずっと大事にもっていたんですけど、残せませんでした。トラックで持って行かれた時には悲しかったです。

 スーパーカーブームの時に、買ってもらって残ってあるものはといいますと、

 父親が買ってきてもらったのが『写真でみる100年シリーズ・自動車100年・日本の自動車』でした。

 スーパーカーの図鑑といいますか、写真集みたいなのが欲しいと言ったんですよ。訳は聞きませんでしたが、本屋さんで売り切れてたのかな‥‥‥。すぐに買ってもらったのがこの本でした。そのうちスーパーカーグラビアといいますか、スーパーカーの写真集が届きましたけど、そっちばっかり見てましたから、知らないうちに手元からは消えました。

 こちらは保存状態はよいものでした。

 ここの部分で思ったことは、文章には淡々と綴ってますが、ここの部分を読んで「絶対許せない!」とか感じたりする人もいると思います。他国で起きてたことなのですが、その次につながれてるのは『今日の隆盛を築いた基礎』ですから。僕はその前に「そのかげに亡くなった人や傷ついた人たちがいたんだろうな・・・・・」いたことは確かでしょうから。その辺は感じ取ったほうがいいと思いました。

 自動車講習でよく言われてることは、交通事故で亡くなった人たちは戦争で亡くなった人たちと匹敵するするぐらいいると講習の場ではいつも聞いていました。が

 この部分を読んでの感想は、日本は恥ずべきことが戦後にもあったとことを忘れないでいたほうがいいと思いました。動乱に生じて、戦争に生じて金儲けしてたんですから。それで豊かになったとかは、恥ずべきことだと思いました。

 あとはこの本で大河ドラマを一本作れるんじゃないか、とも思いました。ノックノック

 


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『まちの腰かけ』嘗て(かつて)

2021-04-05 12:32:38 | まちの腰かけ

 とあるかつてあった敷地内の腰かけです。まちの仲でも「あそこはどこどこ」「ここはなになに」と大まかに地名を言葉にすることもあり、ここの周辺を『武鎗』「たけやり」と書いて「むやり」と昔から言ってました。

 ここ周辺は小学校の跡地でもあり、村だった歴史もありました。1954年(昭和29年)まで、かつては村としての地方自治(市町村制制定)を行ってました。昭和29年ですから、東京オリンピックの10年前までここは、かつて村長がいて村役場もあったところです。

 2021年から1954年だと、今から67年前。66歳、67歳の人までがここの村民であったことになります。その時の小学校出身者は、+6.7歳だと現在は72歳~3.4歳以上の方がその時代の体験者になります。

 ここに校舎があった記憶は、僕が小学4,5年生ぐらいのときに遠足に近い行事といいますか、『歩け歩け運動』というのがありました。学校行事でここの小学校跡地まで生徒たちが歩いて訪れた覚えがあります。秋の行事でもありまして、ここで『芋煮会』『芋の子汁』が振る舞われました。まちの住人は自家製味噌を作る風習もありましたので、山形県のような醤油味ではなく、味噌味が定番でした。野外活動での食事は、大抵味噌汁鍋が定番でした。

 枝豆、大豆に接することが多く、夏場は枝豆を茹でてそのまま塩をふって食べたり、枝豆をすり鉢で擦ってずんだ餅にして食べてたことは、物心ついた頃からありました。夏場はすり鉢で豆をすりながら過ごしてましたが、ずんだが出来上がる前に茹でた枝豆をつまみ食いしたりと、あれこれ困らせたこともありました。小作農で植えるものがそのようなものが多かったので、稲作で生計を立ててた家とはちがう家庭環境でもありました。

 うちのお婆さんの家庭は小作農であって、貧困家庭でもあって、時代遅れな生活様式でしたから。塩屋さんがまずあって、塩は各家庭に配達してくれまして、味噌は自家製で作ってました。醤油はどうしてたか、というと。庄屋さんと呼ばれてた家がありました。そこから醤油を分けてもらっていた様子を子供の頃に見ていた記憶があります。庄屋さんが時々訪ねて来ては「足りないものないか?」といったやり取りもたびたび見ていました。年齢もお婆さんと同い年ぐらいな感じでしたから、ママ友、婦人会ぐらいの間柄でもありました。里芋も植えてありましたから『芋の子汁』を食べるのも珍しいものではありませんでした。むしろ、貧乏で時代遅れな生活様式が、他からみれば珍しかったのかもしれません。

 村時代の小学校跡地はテニスコートにもなっていました。僕の個人的な印象ですが、ここの周辺の住人はコミュニティの形成が上手で、設置された施設の活用もうまく使っているようにも思いました。僕の住むまちの住人は「頼るが下手」と言いますか、せっかく容易した公園や施設があっても、遠慮して使わない住人がわりと多くいました。お店のお飾りや置物のような感じで、それがひとつの日常でした。

 この日もテニスコートには利用者がいまして、利用者がいるということはちゃんと管理されているということでもありますから、もの静かなところですけど人間関係を大切にしてるところが、僕から見た印象でした。

 この腰かけを見てとくに思ったことですが、思慕を大事にするところ。かつては村であって、「そこには我らの学校があった」と、声が聞こえてきそうな腰かけもありました。

 ここに住む人たちはまず、持久力がありました。少数精鋭で、短距離走は不得意でも持久力はありました。1対1の競技が得意な生徒もいました。卓球の国体会場になったこともありますが、卓球が得意な生徒が多くいて、国体での卓球会場になった源流でもあります。

 面積は広い地域でもありまして、藩政時代の館は3つはあったと思います。自動車が普及してない時代もあり、広い地域で住人もそれなりに多く住んでましたので、小学校の他に分校もありました。昭和30年代、40年代生まれの生徒の中には分校出身者もいました。

 館になる前は『武鎗城』として機能してました。中心部は有賀館(有賀村)になるのですが、かつては、武勲に優れた武将だったと伝えられています。

 その側には戒名みたいな参道もありました。

武勇伝

嘗ての思慕と

枠組は

集い逢いつつ

憩い逢いつつ

 嘗てが印象的な場所の腰かけです。


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