肉体を離れて、いわゆる死の後で
「どれだけ愛したか」
を問われると聞いたことがある
これ、だれかにではなく、
きっと自分自身で問うんだ
どれだけ愛したかというのは
どれだけ愛情を注いだか
ともとれるけど
「どれだけ味わったか」
ではないかなーと思っていた
そして今思うのは
どれだけ愛したかの問い自体
まだ肉体のある人間的な感覚が強く残る
この問いも答えも
きっとどんな風に愛したか、どんな風に生きたかの
自己満足度に他ならないのではないかな?
そして、フィジカルなエネルギーから完全に離れた時(この表現が適切かわかんないけど)
全ては愛だから
全ての土台は愛だから
そもそもぜんぶまるで
全部オッケーなのだとわかるのだと思う
志半ばでも、中途半端でも
自分が好きになれなくても
たとえ人生に満足できなくったって
その体験もまた宝
これは、死後の魂たちとの交流で
愛そのものの、涙が出るほどの愛の溢れたエネルギーから
体験的、直感的に感じたことで。
きっと肉体を離れて超絶軽くなった時
わーーーぜんぶまるーーー♪♪
あーーーーたのしかったーーー♪♪
なんて、歓びだけになるんだろうな
だからあの愛に満ち溢れたエネルギーなんだろな
と、なんかね、朝から思ったのでした
だから、堂々と悩んで、時に苦しみもあって
納得いったりいかなかったり
大いに悲しんで、怒って、次の瞬間大笑いしてもいい
どんな瞬間においても創造する力はすべての人に平等にあるから
今この瞬間何を選ぼうと自由だし
それができるということも併せて知っておく(思い出してる)と楽だけど
知らぬ(忘れとく)もまた、趣あるのかもしれない
死んだことないからほんとのとこは知らんけどww
ということでわけわかめなまま話を終えますw
ではまたね~💛
「どれだけ愛したか」
を問われると聞いたことがある
これ、だれかにではなく、
きっと自分自身で問うんだ
どれだけ愛したかというのは
どれだけ愛情を注いだか
ともとれるけど
「どれだけ味わったか」
ではないかなーと思っていた
そして今思うのは
どれだけ愛したかの問い自体
まだ肉体のある人間的な感覚が強く残る
この問いも答えも
きっとどんな風に愛したか、どんな風に生きたかの
自己満足度に他ならないのではないかな?
そして、フィジカルなエネルギーから完全に離れた時(この表現が適切かわかんないけど)
全ては愛だから
全ての土台は愛だから
そもそもぜんぶまるで
全部オッケーなのだとわかるのだと思う
志半ばでも、中途半端でも
自分が好きになれなくても
たとえ人生に満足できなくったって
その体験もまた宝
これは、死後の魂たちとの交流で
愛そのものの、涙が出るほどの愛の溢れたエネルギーから
体験的、直感的に感じたことで。
きっと肉体を離れて超絶軽くなった時
わーーーぜんぶまるーーー♪♪
あーーーーたのしかったーーー♪♪
なんて、歓びだけになるんだろうな
だからあの愛に満ち溢れたエネルギーなんだろな
と、なんかね、朝から思ったのでした
だから、堂々と悩んで、時に苦しみもあって
納得いったりいかなかったり
大いに悲しんで、怒って、次の瞬間大笑いしてもいい
どんな瞬間においても創造する力はすべての人に平等にあるから
今この瞬間何を選ぼうと自由だし
それができるということも併せて知っておく(思い出してる)と楽だけど
知らぬ(忘れとく)もまた、趣あるのかもしれない
死んだことないからほんとのとこは知らんけどww
ということでわけわかめなまま話を終えますw
ではまたね~💛
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