ちょっとGLAという大規模な組織の存在を知って、私は「そこまでするのか・・・」
「なぜ、組織立ってそこまでしないといけないのか・・・」という気持ちがあり、
掲載を休んでいました。
正直言って引いてしまったという感じです。
「組織」ということに対しては今でも疑念がありますが、しかし、
それをいうと、スピリチュアルな話をされる方々は、少なからず皆何かしらの
講演やグループ、会員サイトなどをお持ちで、どこで線引きしていいのか、考えば
考えるほど、分からなくなってきました。。。
あれこれ思うところもありますが、
今でも「高橋佳子氏の語る言葉」は正しいことだと思っています。
・・・
話は少し逸れますが。。。
「GLAが貫く姿勢」の「私が変わります」という言葉。
私が初めてその言葉を聞いたのは、昭和54~55年くらいのときでした。
そのときの言葉は、「私『は』変わります」ですけど。
大合唱するのですが、
どこでその言葉を聞いたのか・・・
それは、羽衣の「ほんみち」から別れていった教団です。
ほんみちは、天理教から分派分立した教団です。
(分かる方もいらっしゃるでしょうけど、教団名は伏せておきます)
--------------------------------------
大正大学 弓山達也教授の論文
「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」より抜粋
(1)宗教史研究における本研究の位置と意義
天理教はその規模と社会的な影響力から、宗教史研究の中でこの教団に関する研究
は相当の厚みをもっている。また、天保九年の立教になる天理教は、同時期に創唱
された黒住教や金光教とならんで、その史料的蓄積から幕末維新期の代表的な宗教
運動として研究の対象とされてきた。特に宗教史研究の中でも民衆宗教史と呼ばれ
る分野では天理教への言及は多い。
これらの研究の多くは教祖の思想性と天理教の発生過程という教団草創期に、も
っぱら関心が向けられていた。本論文で扱ったような明治から昭和前期までの天理
教は、国家神道体制化に組み込まれ、権力に妥協していく過程としてしか論及され
ないことが多く、こうした研究の中で、分派分立の問題に触れられることは稀であ
った。村上重良、梅原正紀、宮地正人のように、国家権力によって弾圧された民衆
宗教という視点からほんみちを個別に取り上げる研究はあっても、分派分立の全体
像を天理教との関係の中から論じる研究はほとんどなかったいうことができる。そ
の意味で、本論文によって明らかにされた分派分立の歴史的事実と、天理教、ほん
みち―天理三輪講、天理神之口明場所といった主要な母教団とその子教団との影響
関係を分析の俎上に乗せたことは、近代日本宗教史の間隙を埋めるものであるとい
える。戦前の民衆の信仰生活に対する天理教の影響力や浸透度を考えると、分派分
立の全体像を提示し、その広がりを論じたことは決して無駄な作業ではなかったと
いえる。
-----------------------------------------
と、まぁ「ほんみち」というところは天理教系の教団で、そこからさらに分かれて
いった某教団で「私は変わります」という合言葉のような合唱を聞きました。
「南無甘露台様、南無甘露台様、・・・・」
という祈りの言葉を用いていますので、その某教団は細かな教義は多少違えども、
「ほんみち」の教えを受け継いでいるということでしょうね。
活動の趣旨ないし目的
「ほんみち」の活動とは、
天理教祖を通じてくだされた天啓録につき、教祖の後継者「甘露台」が、これを解
明して体得せられたほんみちの教義を広めることと、人間はじめ宇宙万物創造主の
親神様(月日様)を心の目標、天啓者、甘露台様をつとめの目標とするそうです。
「お勤め」「お運び」「道しるべ」
という言葉も同じく使われていましたので。
・・・
なぜ、私がそのような言葉を知っているのか。
それは、亡くなった祖母が信仰していたからです。幼い時に年に一回はそこへ祖母
に連れられて行っていました。かなり大きな組織です。
当時の印象として、バスが各地から何十台も来ていて、ものすごく広い敷地を有し
ていたのを幼心に覚えています。
もともとは、祖母も「ほんみち」に行っていたのが、西日本の多くの人は、分派し
た某教団に移り、その際に祖母も大阪ではなく、そちらへ行くようになったと聞い
ています。
私は、その後は、大人になってから、帰省のときなどに祖母を想い出したとき、2
~3度立ち寄ってお参りして帰った程度です。
・・・
ですから、
「私が変わります」というGLAの言葉を聞いて、
行き着くところは、やはりここなんだろうな・・・
でも、どこかで聞いた言葉だな、そうだ祖母が信仰していた天理教系の教団でだ!
と思った次第です。
だから高橋佳子氏=GLAという組織を知った時、
GLAという組織が気になったのかも知れませんし、反面、
私のなかで何かしらの抵抗感があったのかも知れません。
・・・
何かが襲ってくるとか、おかしなことを言っている危ない集団以外は、
大抵は、「そうだよね」「いいこと言ってるね」と、うなずける教義を
掲げています。
私は、その教えが「悪い」とか「間違っている」とか言いたいわけでは
ないのです。
教えを聞いて賛同し→人が集まり→やがて組織の規模になっていったのでしょう
けど、
組織立つと何かしらの「イベント」を設けようとする。
どこの組織も。
しかし、
それは、本来やろうとしていたことなのか、目指していた容なのか、それとも、
それも人が集まり導かれるように行うべくして行うような流れとなっていった
ものでありそれはそれで良いのか、はたまた「もっと聞かせて、もっと聞かせて」
という尽きることのない欲望にも似た人が求める心に、飴玉をあげるようになって
しまってはいないか、それでその集まり(組織や教団)は、「救っているのだ」と
満足(自己満足や余韻に浸る)しているだけではないのか、上へ上へ(前へ前へ)
とかさらに崇高な教えを求めているうちに、その組織・教団自体が、何か大切な
当時(当初)の目的を見失いかけているのではないのか、どこまで進み、どこへ
行き着くのか・・・
そこが、大きな集まりとなればなるほど、
やることはデカイけど、一体どこに向かっているのか、あれもこれも組織・教団
の懐へ入れてしまったばかりに、何がどうなの?どうしたいの?
という焦点がぶれたような容になっているように感じてなりません。
(どの大規模となった組織・教団もです)
実は、霊的真理と同じで行き着くとこの「真実は結局一つ」ではないのか
と思うんです。
大阪吹田から東京品川へ行く場合、どのルートで東京品川へ行くのか
というのと同じで、行き着くところは目指したところの1つ。
そして、人は見えない世界や何かしらの見えざる存在と今を生きることの
意味を考えたり思い悩んだとき、組織・教団を通して導かれたり、書籍を
読んで気づいたり、さまざまなルートで、思うところ、求めている何かの
その答えを見出そうとしますが、
組織や教団、そして書籍等にずっと依存し続けることが、「到達点」では
ないと私は思うのです。
自分自身が自分の言葉・考え・思いから、「自分自身で答えを出す」。
そこが自分が心の中に求めていた何かを解決する唯一の方法だと思います。
ですから・・・
私もまだまだ発展途中、だからスピリチュアルな書籍に頼っている状態です。
組織的な集まりに頼るというのと、変わらないなと感じた次第です。
そこで、また高橋佳子氏の言葉でいい話だと思うところは取り上げたいと
思いました。
それが再開の理由です。
・・・
しかし、「組織・教団」と「書籍」とでは決定的に違うところが一つあります。
それは、組織・教団の場合は、自分の意思に反することがあるというところです。
どういうことか。
それは、
その組織・教団で出会った仲間は、スピリチュアル的に言いますと、同じ波長を
持つ者同士が、同じ考え方や同じ方向性の中で出会ったわけですが、
「人は学びによって成長(変化)する生き物」ですので、人それぞれ刻々と変化
していきますよね。
しかし、
「集まりで出会ったあの人が、せっかく熱心に誘ってくれるから」とか、
「今まで心を救ってくれた場所を、簡単には立ち去れない」とか、
世間でいうところのしがらみが出て来て、次へと旅立てる飛び立つ準備が
整った方が、そのまま留まってしまう場合があるというところです。
波長が(良い方向へ)変わると、また出会う人も変わってきます。
自分の行動に変化が出てくるので、それはごく自然のことでしょう。
しかし、進めなくなってしまう。
「書籍」は、パタンと自らの手で閉じてしまえば終わりです。
組織・教団から導かれる方は、その点を意識しつつ進まないと、私は一体
なにをここでやっているの?と躓くことがあると思います。
全ては、それも学びなのでしょうけどね。
・・・
「なぜ、組織立ってそこまでしないといけないのか・・・」という気持ちがあり、
掲載を休んでいました。
正直言って引いてしまったという感じです。
「組織」ということに対しては今でも疑念がありますが、しかし、
それをいうと、スピリチュアルな話をされる方々は、少なからず皆何かしらの
講演やグループ、会員サイトなどをお持ちで、どこで線引きしていいのか、考えば
考えるほど、分からなくなってきました。。。
あれこれ思うところもありますが、
今でも「高橋佳子氏の語る言葉」は正しいことだと思っています。
・・・
話は少し逸れますが。。。
「GLAが貫く姿勢」の「私が変わります」という言葉。
私が初めてその言葉を聞いたのは、昭和54~55年くらいのときでした。
そのときの言葉は、「私『は』変わります」ですけど。
大合唱するのですが、
どこでその言葉を聞いたのか・・・
それは、羽衣の「ほんみち」から別れていった教団です。
ほんみちは、天理教から分派分立した教団です。
(分かる方もいらっしゃるでしょうけど、教団名は伏せておきます)
--------------------------------------
大正大学 弓山達也教授の論文
「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」より抜粋
(1)宗教史研究における本研究の位置と意義
天理教はその規模と社会的な影響力から、宗教史研究の中でこの教団に関する研究
は相当の厚みをもっている。また、天保九年の立教になる天理教は、同時期に創唱
された黒住教や金光教とならんで、その史料的蓄積から幕末維新期の代表的な宗教
運動として研究の対象とされてきた。特に宗教史研究の中でも民衆宗教史と呼ばれ
る分野では天理教への言及は多い。
これらの研究の多くは教祖の思想性と天理教の発生過程という教団草創期に、も
っぱら関心が向けられていた。本論文で扱ったような明治から昭和前期までの天理
教は、国家神道体制化に組み込まれ、権力に妥協していく過程としてしか論及され
ないことが多く、こうした研究の中で、分派分立の問題に触れられることは稀であ
った。村上重良、梅原正紀、宮地正人のように、国家権力によって弾圧された民衆
宗教という視点からほんみちを個別に取り上げる研究はあっても、分派分立の全体
像を天理教との関係の中から論じる研究はほとんどなかったいうことができる。そ
の意味で、本論文によって明らかにされた分派分立の歴史的事実と、天理教、ほん
みち―天理三輪講、天理神之口明場所といった主要な母教団とその子教団との影響
関係を分析の俎上に乗せたことは、近代日本宗教史の間隙を埋めるものであるとい
える。戦前の民衆の信仰生活に対する天理教の影響力や浸透度を考えると、分派分
立の全体像を提示し、その広がりを論じたことは決して無駄な作業ではなかったと
いえる。
-----------------------------------------
と、まぁ「ほんみち」というところは天理教系の教団で、そこからさらに分かれて
いった某教団で「私は変わります」という合言葉のような合唱を聞きました。
「南無甘露台様、南無甘露台様、・・・・」
という祈りの言葉を用いていますので、その某教団は細かな教義は多少違えども、
「ほんみち」の教えを受け継いでいるということでしょうね。
活動の趣旨ないし目的
「ほんみち」の活動とは、
天理教祖を通じてくだされた天啓録につき、教祖の後継者「甘露台」が、これを解
明して体得せられたほんみちの教義を広めることと、人間はじめ宇宙万物創造主の
親神様(月日様)を心の目標、天啓者、甘露台様をつとめの目標とするそうです。
「お勤め」「お運び」「道しるべ」
という言葉も同じく使われていましたので。
・・・
なぜ、私がそのような言葉を知っているのか。
それは、亡くなった祖母が信仰していたからです。幼い時に年に一回はそこへ祖母
に連れられて行っていました。かなり大きな組織です。
当時の印象として、バスが各地から何十台も来ていて、ものすごく広い敷地を有し
ていたのを幼心に覚えています。
もともとは、祖母も「ほんみち」に行っていたのが、西日本の多くの人は、分派し
た某教団に移り、その際に祖母も大阪ではなく、そちらへ行くようになったと聞い
ています。
私は、その後は、大人になってから、帰省のときなどに祖母を想い出したとき、2
~3度立ち寄ってお参りして帰った程度です。
・・・
ですから、
「私が変わります」というGLAの言葉を聞いて、
行き着くところは、やはりここなんだろうな・・・
でも、どこかで聞いた言葉だな、そうだ祖母が信仰していた天理教系の教団でだ!
と思った次第です。
だから高橋佳子氏=GLAという組織を知った時、
GLAという組織が気になったのかも知れませんし、反面、
私のなかで何かしらの抵抗感があったのかも知れません。
・・・
何かが襲ってくるとか、おかしなことを言っている危ない集団以外は、
大抵は、「そうだよね」「いいこと言ってるね」と、うなずける教義を
掲げています。
私は、その教えが「悪い」とか「間違っている」とか言いたいわけでは
ないのです。
教えを聞いて賛同し→人が集まり→やがて組織の規模になっていったのでしょう
けど、
組織立つと何かしらの「イベント」を設けようとする。
どこの組織も。
しかし、
それは、本来やろうとしていたことなのか、目指していた容なのか、それとも、
それも人が集まり導かれるように行うべくして行うような流れとなっていった
ものでありそれはそれで良いのか、はたまた「もっと聞かせて、もっと聞かせて」
という尽きることのない欲望にも似た人が求める心に、飴玉をあげるようになって
しまってはいないか、それでその集まり(組織や教団)は、「救っているのだ」と
満足(自己満足や余韻に浸る)しているだけではないのか、上へ上へ(前へ前へ)
とかさらに崇高な教えを求めているうちに、その組織・教団自体が、何か大切な
当時(当初)の目的を見失いかけているのではないのか、どこまで進み、どこへ
行き着くのか・・・
そこが、大きな集まりとなればなるほど、
やることはデカイけど、一体どこに向かっているのか、あれもこれも組織・教団
の懐へ入れてしまったばかりに、何がどうなの?どうしたいの?
という焦点がぶれたような容になっているように感じてなりません。
(どの大規模となった組織・教団もです)
実は、霊的真理と同じで行き着くとこの「真実は結局一つ」ではないのか
と思うんです。
大阪吹田から東京品川へ行く場合、どのルートで東京品川へ行くのか
というのと同じで、行き着くところは目指したところの1つ。
そして、人は見えない世界や何かしらの見えざる存在と今を生きることの
意味を考えたり思い悩んだとき、組織・教団を通して導かれたり、書籍を
読んで気づいたり、さまざまなルートで、思うところ、求めている何かの
その答えを見出そうとしますが、
組織や教団、そして書籍等にずっと依存し続けることが、「到達点」では
ないと私は思うのです。
自分自身が自分の言葉・考え・思いから、「自分自身で答えを出す」。
そこが自分が心の中に求めていた何かを解決する唯一の方法だと思います。
ですから・・・
私もまだまだ発展途中、だからスピリチュアルな書籍に頼っている状態です。
組織的な集まりに頼るというのと、変わらないなと感じた次第です。
そこで、また高橋佳子氏の言葉でいい話だと思うところは取り上げたいと
思いました。
それが再開の理由です。
・・・
しかし、「組織・教団」と「書籍」とでは決定的に違うところが一つあります。
それは、組織・教団の場合は、自分の意思に反することがあるというところです。
どういうことか。
それは、
その組織・教団で出会った仲間は、スピリチュアル的に言いますと、同じ波長を
持つ者同士が、同じ考え方や同じ方向性の中で出会ったわけですが、
「人は学びによって成長(変化)する生き物」ですので、人それぞれ刻々と変化
していきますよね。
しかし、
「集まりで出会ったあの人が、せっかく熱心に誘ってくれるから」とか、
「今まで心を救ってくれた場所を、簡単には立ち去れない」とか、
世間でいうところのしがらみが出て来て、次へと旅立てる飛び立つ準備が
整った方が、そのまま留まってしまう場合があるというところです。
波長が(良い方向へ)変わると、また出会う人も変わってきます。
自分の行動に変化が出てくるので、それはごく自然のことでしょう。
しかし、進めなくなってしまう。
「書籍」は、パタンと自らの手で閉じてしまえば終わりです。
組織・教団から導かれる方は、その点を意識しつつ進まないと、私は一体
なにをここでやっているの?と躓くことがあると思います。
全ては、それも学びなのでしょうけどね。
・・・
高橋佳子氏=ミカエル?
ですか。
キリスト教やイスラム、ユダヤの宗教にも出てくる天使ですよね。神という存在が実存するのかどうかは、あの世と呼ばれる世界へ逝ってみないとわかりませんが、ミカエルという名前を直訳すれば「神に似たるものは誰か」となるそうです。
今この世で実際に実存し、生きている「人間」が神ということはないと、私は思います。または、私たち皆が神の子であるなら、皆が天使であり、神でもあるとも思います。
高橋佳子氏だけが、あるいは特定の人物だけが「神」なる存在だとは私は思いません。
真創世記が誰が書いた本かということですが、
読後の感覚というものを大切にしてみられてはいかがでしょうか。
高橋佳子先生の…たとえば、
祈りのみち
運命の方程式を解く本
とかの一説、を読まれて、
真創世記の地獄篇でも結構ですので
読まれてみての感覚というのがあります。
何か安らぎと同時に力がみなぎるような感覚が
高橋先生のご本にはあると思います。
もし、共通な感覚と感じられたらそうだと思い、違うと感じられたら違うのでしょう?
それと、もう一つ言います。
先生がミカエルであるかどうかというより、
神理がいかにすごいかということをGLAの会員は知っています。
大帆 GLAの会員です。
コメントありがとうございます。
高橋佳子先生の書籍を数点取り上げてブログを
書いていますが、先生の話は「話の筋が通っている」
「何か感じるものがあった」のでここで取り上げま
した。
真創世記は、まだ読んでおりません。
しかし、
大帆様がおっしゃるように力がみなぎるような
感覚と、あと高橋佳子氏の知性を感じています。
知性と言いますのは、霊的な能力やその能力を
活かしての語りというよりも、
私は、「複雑である、この自然界の摂理や原理原則
を理論的に説き、まとめ上げ一つの方向へ導いてい
る方」だとお見受けいたしております。
その「一つの方向」というのは、
このブログの記事にもありますように、
「『私が変わります』という、真理(高橋先生でいう
ところの「神理」)への到達』というところに向けて
へです。
高橋佳子先生の説く話は、とても多角的で、
読み流しながら読んでいては、どこがどう繋がって
いて、おっしゃる原理が導き出されるのかというの
は分からない,そういう読み方だとおっしゃる内容を
理解するのは難しいと思います。
ですから、
学者さん的な理詰め、理論派の人物だなぁと
思っています。(私はです)
ですから、お話の結論といいますか、
「だから○○なんですよ」
と述べられているところは、付け入るところが無く
「なるほどなぁ。。。」
と感じるわけですね。
私自身、そういう語り方をされている高橋佳子氏に
大変興味が沸いて、書籍を手に取ったのかも知れません。
そうそう。
私は、ブログにも書いていますように、
「高橋佳子氏の語る言葉は正しい」と感じています。
ですから、取り上げたわけなんですけどね。
ただ・・・
偏見と言われるかも知れませんが、
どうしても・・・「組織だって行う」
というところに、引っかかる点を感じたものですから。。。
比較しましたら、お怒りになるかも知れませんが、
幸福の科学の大川隆法氏の語る言葉にも、
なるほどなぁと感じるところはあります。
あれだけの組織が出来上がるくらいですから、多くの
方がそう感じていらっしゃるのでしょうけど。
組織だつという意味合い(そういう集まりの有用性)
が、私にはまだまだ理解できていません。
「幸せになる真理を多くの人に知ってもらおう」
という主旨は理解しております。
そこで、
賛同者の皆さんが一つになり、広めていく、
自然と広がっていくということに繋がるのでしょう
けど、
根本的なところですが、私は、
その一つになるという行為行動自体が果たして必要
なのか?(そうすべきなことなのか?)
というところが引っかかるのですね。
個々人の考え方の違いでしょうけど。
・・・
これからも、素晴らしいと思った話を、このブログに
載せて行きたいと思っておりますので、
またお気軽にお立ち寄りください☆
コメント有難うございました。
Unknownさんの言葉に甘えて、またも、書かせていただきます。
●組織ということですが自分もそれに抵抗がありました。何か個性が消されて一つになるようでいやです。まして信仰するとなると戦前の日本のように、一つの考えに凝り固まるような感覚で考えてしまいます。
GLAは違いました。入ってみたら、いわゆる学校のような感じです。神理を学び、日々の生活や仕事で生かすということです。
入会してすぐに実践してゆく人もいますが、どんなに神理を聴いても生きていない人も…(自分を含み)います。先生に叱られることは一切ありません。
今、時代が暗転しているように感じます。環境汚染や民族間の紛争、テロ。そんな時代を変えるのは人間。ごくありふれた市井の人々が、魂として目覚めていきるために、組織が必要だと思います。
※それよりも、高橋佳子講演会に参加して見られてはいかがでしょうか。GLA会員の実践のお話はとても感動します。毎年毎年参加されているのに会員にならない人って結構います。
そういう人は、いつも高橋先生はすごい。
でも組織がね、と言ってられます。
●自分はGLA月刊誌をかなり古いものから、
持ってます。また、高橋信次先生のご講演映像もかなり見ています。感動する言葉をみつけてつむぐことはできますが、それを生きることはむずかしく、苦しんでられる方がいると思います。
●今日も先生のご講演を受けてきました。
感動をどうつたえたらいいのか。
今、本当に胸が熱いです。
人生の意味、人生のしくみ、この世界のしくみに、人間の使命ということ、伝えたいです。
いえいえ、大帆様のように真剣に語って頂ける=大歓迎です☆
私の見方、捉え方の中には、やはり「偏った見方をしてしまう自分」があると思います。
自分自身でも「船井総研の船井幸雄さんが大本教の教祖を指示しているのか・・・」とか、そういう見方をどうしても心の奥底であるように思います。
GLAの講演や集まりには行ったことがありませんので、想像でしか言えませんが、大帆様がおっしゃられるように、「学校」的なところ,そういう集まりだと思います。
ただ、これが「精神世界を説く」「魂や見えない世界のことを語る」「そこから未来を見る・語る」という集まりとなると、
「宗教」ないしは「宗教的」な集まりに見えてしまうと言った感じが、私の素直な気持ちです。
もちろん、真言宗や浄土宗、浄土真宗等の古来からの集まりは良くて、新しい思想や霊的要素を含んだ集まりは・・・という線引きの基準はどこ?と言われると、自分でもよく分かりません。
大帆様が語りきれないほどの熱い思いや感動を得ているのは、コメントを読ませて頂きまして、ずごく感じます。
私がブログで取り上げているスピリチュアルな書籍と出会ったとき、もの凄く感銘した時と同じだと思っています。
お父さんを中学の時に亡くした同僚の事務員の女性に、江原さんや飯田先生の本を読んでみぃ~と薦めたとき、「あっ、私はそういう話は信じないから。お父さんはもう死んでいないもん」と言われたときは、ガッカリしましたもの。
・・・
<毎年毎年参加されているのに会員にならない人って結構います。
そういう人は、いつも高橋先生はすごい。
でも組織がね、と言ってられます。
ですか。
「とても素晴らしいことを言っている」
「感動・感銘した!」
でも、組織がかるところには・・・
というのは、人間の防衛本能的なものが働くからではないでしょうか。
「理由もなく嫌ってはいけない」ということも分かっています。でも・・・っていう感じでしょうか。
高橋佳子氏は、「筋が通った話をされる(書籍を読んでそう思いました)」「そこに矛盾がない」というのは確かです。だから、私も気になるわけですけどね。
大帆様、人生の意味、人生のしくみ、この世界のしくみ、人間の使命について、高橋佳子氏の書籍を読みまして、その大帆様の思いは少なからず分かります。
その新たに知った、そして感動した思いを「伝えたい」という気持ちが、賛同する人々を自然と集め、また必然的に組織という形が出来上がって来るのかも知れませんね。
確たる理由もなく、良いことを受け入れられないところがある自分は、何がそうさせているのだろうか?と考えるときもあります。
でも、いつも明確な答えが出ません。自分自身のことなのに。
人間って不思議ですよね。
矛盾してる。。。
高橋佳子氏は古来、そして、近代~現代までに起きてきた戦争や環境汚染、経済の発展、そしてその時代時代で活躍した人物のことなど、とにかく知識も豊富で話の通った語りをされる方だと見ています。
また、感動したり、なるほどなぁ~、これは皆さんに伝えたいなぁと感じるところがありましたら、ブログに載せて行きますね。
コメント有難うございました。
いえいえ、色々なお考えをお聞きできてこちらもためになりました。
偏った見方で、知らないことを判断していてはいけないなぁとそう思うときがあります。
「何か心に響く(感じる)」「感銘を受ける」
そういうものを感じる気持ちって大切ですよね。
またメールも送らせて頂きますね。
高橋は違いますよ。
返事が遅くなりましてすみませんでした。
高橋氏は、自分はミカエルの転生と言っているのですか?ミカエルって空想人物だと思っていました。宗教上に出てくる天使のことだと。私は、神の生まれ変わり乃至は「自分は(が)神の化身だ」という人の言葉は信じません。
もしあの世という世界が本当にあるのなら、この世の皆、なにかしら神なる存在と関わっていて、皆さん誰もが神とも言えますし、自分一人だけが神ということはないと思っています。
まぁ、高橋氏が自分自身のことをどう捉えているのかは分かりませんが、間違った方向にだけは行ってほしくないなぁと思います。
良いお話や語りもされていますので。
コメントありがとうございました。