レンキン

外国の写真と
それとは関係ないぼそぼそ

長いトンネル(29)

2007年03月15日 | 昔の話
 Oにはその後も様々な体調不良が
後遺症としてついて回った。

頭痛や吐き気に苛まれ何度も入院する事になる。
その度に色々な治療を施すものの、
そう簡単にすっきりと気分の良い状態にとはいかない。
最初に命を取り留めたからもう大丈夫、な訳じゃない、
Oのお母さんにもそれは十分分かっていた。
だけどあまりに長引く苦痛と
いつ病院に飛んで行かねばならないか分からない生活、
手術跡だらけの娘の顔がお母さんの限界を超えてしまった。
最初にK君に会った時の、
あの急激な回復もしばらくすると停滞し
そして間の悪いことにK君が来る時に限って、
Oの体調が悪くなる日が重なってしまう。



ある日、私が友人のS君と二人でOの家を訪ねた時だ。
●ちゃんちょっとおいで、見せたい物があるねん、
そうお母さんに呼ばれて私は一人別室に誘われた。

そこは六畳程の和室で、
壁ぎわに大きな桐の箪笥が二棹並んでいた。
どうやら箪笥だけのための衣装部屋らしく
お母さんは「そこにお座りや」、
と言って部屋の真ん中辺りを指差した。
私がそこへ座ると、Oのお母さんはニコニコしながら
箪笥の引出しを開ける。

中には和紙で繊細に包まれた美しい着物が入っていた。
Oが18歳になった時から一着ずつ作って
今ではこの衣裳部屋の箪笥にぎっしりと
Oのために仕立てた着物が溢れていた。
地域柄、嫁入り道具を絢爛豪華にする家がまだ多く残っている。
Oから聞いた事はなかったけど、
Oの家はそういう昔ながらの家だったらしい。
プリントの柄なんて一枚もない、細かい刺繍が
ぎっしりと入った、見るからに上等な着物が
私の周りに何枚も並べられていった。
最初はすごいですね!と見入っていた私だったが
着物を広げるお母さんの手つきが段々
荒々しくなっていくのを感じて顔を見上げた。


お母さんはニコニコしながら泣いていた。


着物一枚に帯は二本て言うの、
全部の着物に帯を二本ずつ作ったんやで。
これなんか綺麗やろ、これは成人式で着た着物や。
こんな地味なのも作ったんや。あの子がこれが良いって言うから。
でもちょっと出掛けるときいいやろ。
これは訪問着、これは余所行きに
これも、これも、これも、これも、
これも、これも、これも、これも、
これも、これも!



みんなあの子のために作ったのに!



最後は叫びだった。
感情的で一方的で、だけどギリギリまで追い詰められた
悲痛な叫びだった。
私の周りにはお母さんが投げた着物が
花の川みたいに広がっていて
私はその真ん中で 言葉を忘れたように何も言えず
ただただ俯くしかなかった。

長いトンネル(28)

2007年03月15日 | 昔の話
 そんな訳で私は数人の不器用な友人と共に
Oの回復を見守り続けた。
K君という爆弾の投下で
停滞していた現状は劇的に変化した。
…だけどそれはある一定まで、
あれだけの事故だったのだ、
全く元通りと言うわけにはいかない。
尤も当時はそうじゃない、今は回復の途中なのだと
思い込もうとしていたけど。


Oの様子は時々、普通になる。
話しかければごく一般的な返事が返ってくる事もあり
私達はそれが元に戻っていくしるしだと思っていた。
でもその返答には根本的な何かが欠落している。
私達は皆気付いていたけど
聞かないふりをしたり、話を変えたりして誤魔化していた。
思いがけず続いたこの道の
終着点が何処なのか、知るのが恐かったのだ。


Oの家から帰り道、車を運転しながらぼんやりと
ああ、Oに会いたいなと思ってはっとした。
そうだ。私はずっとOに会いたいと思っていたのだ。
本人を前にして話していながら変な話だけど
私はずっとOの中に、Oらしさが残っていやしないかと思って
探りつづけていたのだ。
目の前にいるのは、見た目はちょっと変わったとは言え
紛れもなく友人なのに、話してみると違う。
私はOの様子を気にするけど
Oは私の様子を気にする事はない。
私が何かしていても、
「いいもの作ってるなあ」と話しかけてくることは
もうないのだ。



私はOが退院してから初めて泣いた。
どこ行っちゃったんだよう、帰ってきてようと
呟きながら泣いた。