馬鹿琴の独り言

独り言を綴ります。時にはお相手して下さい。

超意訳:南総里見八犬伝【第十八回 簸川で猫の紀二郎は命を落とす/村長宅で犬の与四郎が傷を被る】

2024-11-13 01:01:00 | 南総里見八犬伝

 応仁は二年で文明と改元した。1470年文明二年、信乃十一歳、母を亡くして三年以来、父に仕えてますます親孝行を尽くしていた。
 その間に犬塚番作は歩行不自由なことに加えて、早くに男やもめとなってしまったので、年を取るごとに気力が衰え、齢五十にもなっていないのに、歯が抜けて、頭髪は真っ白になってしまった。病み患う日も多くなり、なお手習いの教え子を集めては教え続け、しかし教え子たちが騒ぐからと言って手習いの書を取り上げたりすることなかった。

 しかし日頃から里人たちの助けによって、親子三人、いや親子二人と一匹は飢えることもなく凍えることもなく過ごせていた。犬塚番作は里人のこれからのために何もせずに、ただ余命を貪って生きていくことをよしとはせずに考えていた。
 里に利益を遺して、里人たちの恩義に報いるには、とかねてから思い、病の合間を見ては、洪水と日照りの手当て、凶作の年の食料備蓄などすべて農家の日用のことのみを述べ記して、一巻の巻物を里の老人たちに贈った。巻物を見た者たちは、皆感心した。
「犬塚殿は筆跡は見事な上に、武芸も良くするだけではなく、農業養蚕のことまで詳しく、人の知らないところまで良くご存じである。この書は不変の賜物だ。筆写して秘蔵せよ。本当にこんなお武家を埋もれさすのはもったいないのだが」
 と言わない者はいなかった。

 蟇六は巻物のことを伝え聞いて、妬んだことは言うまでもない。
 早く書物を見せよと何度も乞い求めたが、里の長老たちは一向に従わなかった。今日は誰それが筆写しており、写し終わるまでお待ち下され、と言われるとなすすべもない。しばらく経ってから人を遣わしても、誰それがどこかに又貸しをしており、行き先が分からないとの返答である。
 蟇六はますます腹を立てて、
「よし分かった。その書物は見るまでもない。村長を承っているほどの儂が、そんなことを知らない訳がない。番作は若いころから田畑の中でふらふらしていたが、不具の者にも劣る腰抜けだ。鍬や鋤も持ったことがなく、田畑耕作のことをなぜ知っているというのか。みっともないことだ」
 と言葉きつく悪口を叩いたが、里人たちはその口を憎んで、とうとう例の書物を見せようとはしなかった。
 蟇六と亀篠は、親族と他人の区別なく、能力を妬む傾向があった。ものに対して愛惜が深く、心が僻みやすく、とにかく人を貶めよう、また悪口を言うけれども、元から見識や知識ががないので、人のまねばかりをしていた。

 犬塚番作の犬、与四郎はこの年十二になった。里で一番の老犬だが、歯も丈夫で毛並みのつやも衰えず、ますます元気で健康だった。
 他の犬たちは与四郎に威圧されてしまい、勝つことができない。蟇六は犬のことも妬ましく思い、何匹となくいろいろとりかえひっかえ犬を飼ってはみたが、すべて与四郎に噛み負けてしまった。中には即死してしまった犬もいる。喧嘩に負けて怪我する犬もいたので、蟇六の恨みはますます憤った。
 従者に以前から言い含めておいて、与四郎を見かけた際には主従で棒をかざして左右から打とうとするが、肝心の与四郎は飛ぶ鳥の様にかわして、走り去り、とうとう一度も打たれることはなかった。迫って打とうとすれば噛みつこうする勢いなので、蟇六の従者たちは後になると密かに恐れ出し、与四郎が出てきても主人には告げなくなってしまった。蟇六も根負けして、遂には犬を飼うことを止めてしまった。
 それ以来家にやってくる客に対して、
「犬は家の門を守ると言って、家ごとに飼うものだが、今どきの犬は物をもらえば、主人を吠えて、盗人に尾を振ってなつく奴もいる。家の門を守るには役立たずで、その辺りに糞を巻き散らして他人様に踏ませることしかしない」
 と負け惜しみを言うのである。
「であるからして、これから飼うべきは猫だ。特に農家は、収穫した作物を守るためにねずみを防ぐことを第一とする。猫がいなければ不便であろう。儂は犬が嫌いで、猫を飼おうと思う。良い猫があれば譲ってくれないか」
 来る者たちにその様に頼み続けていると、ある人が雉毛の肥えた猫を贈ってくれた。自分の物となると愛情深い性であるため、蟇六はもちろんのこと、亀篠も浜路も可愛がり、深紅の首輪と珠を掛けさせた。三人で交互に膝に乗せ、或いは抱き、或いは懐に入れて、一瞬も離そうとはしなかった。
 蟇六は猫の名を何と呼ぼうか決めかねて、近在の物知りに問うと、その人は答えた。
「昔、一条院の飼われた猫は命婦(みょうぶ)のおとどと名づけられました。翁丸(おきなまる)という犬がその猫を追い出してしまったので、勅命で勘当を蒙ったこともあるのです。この他に猫の呼び名が記された記録を見たことがありません。ご主人のお好きに名づけて下さい。故事も相性もいりませんでしょう」
 と言われて、蟇六は密かに喜んだ。亀篠のところへ走って帰り、
「猫は犬より貴いものだそうだ。昔、一条院の御代には、猫にも爵位が与えられて、命婦のおとどと名づけられたそうだ。しかし儂の様な者は官位などないから、飼い猫を命婦とは呼べない」
 命婦とは、従五位下以上の位階を有する婦人のことなのである。
「番作の犬は四足が白いから四白、そこから与四郎と呼ぶらしい。うちの猫は雉毛だから紀二郎と名づけよう。今日から召使いにも言い聞かせて、紀二郎と呼ばせてくれ」
 と言えば、亀篠もそれを聞いて笑った。
「めでたくも良い名です。浜路も承知するように。紀二郎はどこにいる。紀二郎、紀二郎」
 と呼び立てて、ますます寵愛する様になった。

 如月(二月)の末の頃、恋の季節に盛る他の猫たちの呼び声に浮かれて、紀二郎も落ち着かず、屋根から屋根を伝い歩くようになった。時には他の猫と唸り合って、うるさいとばかりに家の主が長い竿で屋根を突つかれたりすることもあった。腹を空かせたまま、知らない人の家の屋根を宿にして夜を明かして、三日四日ほど家に帰らないこともあったのだ。

【牝を追って紀二郎、糠助の屋棟に挑む】

うーむ、私も猫が好きなので可愛いと思ってしまいます(笑)

 

 ある日、紀二郎は犬塚番作の裏口に近い百姓糠助の便所の屋根で、他の猫と吠え合っていた。その声が遠くから聞こえてきたので、亀篠は耳を澄まして、召使いを呼んだ。
「南向いに声がするのは紀二郎ではないか。見てきなさい」
 召使いたちは命令に従って、一人は犬塚番作の庭に行き、もう一人は糠助の家の方へ、猫の声を頼りに探しに行った。すると紀二郎は、けんか相手の猫に酷く嚙まれて堪えきれなかったのか、ころころと転んで、糠助の便所の近くへ落ちてきた。
 その時犬塚番作の犬の与四郎は、裏口辺りで腹ばいになって伏せていた。紀二郎が今落ちてきたのを見て、身を起こして走って行った。
 与四郎は噛もうとして近づいたのだが、紀二郎は驚きながらも爪で犬の鼻っ柱を引っ搔こうと前足を一閃させた。与四郎はものともせずに飛び掛かって、左の耳を嚙み咥えてしまい、一振りすれば紀二郎は耳元から引きちぎられてしまった。命限りと逃げ出した紀二郎だったが、与四郎はなおも逃がすまいとまっしぐらに追い掛けていく。

 蟇六の召使いたちは三丈(約9メートル)ばかり離れたところからこの光景を見て、驚き騒いて叫んで、与四郎の後を喘ぎながら追った。どこまでも続くかと思われたが、氏神の社の近くにひとすじの小川があった。
 小川の辺りで紀二郎は逃げ道に困って慌てふためき、引き返してまた逃げようとした瞬間、与四郎が素早く飛び掛かって、猫のうなじをがぶりと咥えて、一噛みに殺してしまった。
 その時召使いたちは近づいて、
「あれは、あれは」
 と叫ぶだけで、一本の棒すら持たずに、小石を拾い上げて投げながら近づいてくる。それを見た与四郎は早くも道を横切ってどこかへ去ってしまった。

 ことの騒動が大きくなってしまったので、百姓の糠助も遅れてやってきた。蟇六も騒ぎを聞いて、そのまま棒を持って、額蔵という十一二歳の子供の召使いを引き連れて到着した。しかし紀二郎はもはや嚙み殺されており、猫の仇である犬はいない。
 事件の経緯を尋ねると、
「番作の犬、与四郎のせいだ」
 召使いたちが細かく告げたので、蟇六は丸い眼に涙を流した。召使いたちが猫を救えなかったことを恨み、かつ怒り、罵って、棒で地上を叩いてこう言った。
「あの廃人風情はどうしてここまで儂を侮るのか。奴の姉は儂の妻だ。儂は大塚の後継ぎであるだけでなく、ここの村長でもあるのだ。奴の無礼はもちろんのことだが、飼い犬まで主人に倣って、我が家の愛猫を殺害し、あくまで儂を辱めるのか。眼の前で犬を殺してやり、紀二の恨みを雪がずにこの熱い怒りを冷ますことはできん。お前たち二人は糠助と一緒に番作の家に行って、犬畜生を引きずり出して連れてこい。口上はこの様に言うのだぞ」
 蟇六は詳細に至るまで命じた。先に来ていた二人の召使いは急いで糠助を連れて、犬塚番作の家に行き、蟇六は額蔵に猫の亡骸を抱かせて、帰る道すがらもくどくどと罵り続けるのだ。
 今、この辺りに掛かる橋を簸川(ひかわ)の猫貍橋(ねこまたばし)という。紀二郎のことがその由来である。

【関連図】
猫貍橋(江戸名所図)斎藤月岑 作

猫貍橋とはまたおどろおどろしい名前ですねえ。

 

 蟇六の二人の召使いは糠助とともに犬塚番作の家に行き、番作に会って、紀二猫の最期と与四郎が噛み殺したことを説明した。
「主人蟇六はここ最近、たくさんの犬を飼いましたが、あなた様の犬に傷つけられて、すぐに死んでしまったものもいます。それでも蟇六はなおも穏便に図ろうとして、一度も恨みを言いませんでした。互いに犬を飼っているからこそ争いの原因となるとされ、仕方のないことと思い返して、犬を飼うことを止めました。奥様とお嬢様の愛するままに、最近では猫を飼われましたが、こちらもまたこちらの犬によって、すぐに失われてしまいました。犬同士のけんかであれば、どちらが悪いなど決められませんが、猫は犬と争ったりいたしません。見れば恐れて逃げ出してしまいます」
 犬塚番作は無表情で話を聞いている。
「それなのに猫を追い掛けて、殺してしまうのは犬に罪があるのです。犬をお渡しいただき、猫の仇に報いるつもりです。事件については糠助さんの家の近くで起きたことですので、証人として連れて来ました。こちらに犬をお渡し下さい。主人の口上は以上でございます」
 二人の召使いは声をそろえて同じことを言ったが、糠助は独りだけ困った様な面持ちで言った。
「とにかく村にはことなかれ、といつも皆が言っていますが、今回はとんでもないことに関わってしまい、心が苦しいです。穏便な返答がなければ、私もほとほと困ってしまいますので、よろしくご返答下さい」
 しかし犬塚番作は笑いながら、
「こんなことであなたに難儀は及びませんよ。使者殿の口上は要領を得ないと言うしかない。言ったことは一見理屈がある様に似ているが、それは人倫の間の話であって、畜生は五常、すなわち仁・義・礼・智・信を知らないのだ。弱い獣は強い獣に征服させられ、小は大に従うのだ。だから猫はねずみを狩ったりするが、犬には絶対勝てはしない。犬は猫に傷つけられることはあるが、山犬や狼には勝てはしない。すべて力が足らないから、また大きさの問題によるものだ」
 糠助と二人の召使いは犬塚番作の発言を待つしかない。
「もし犬を猫の仇とするのであれば、猫はねずみの仇とせねばならん。また仇として死を以って償うということは、人間であるからである。畜生のために法を調べて、復讐や死刑制度の沙汰のあるなしは、いまだ聞いたことがない。また」
「また」
 と召使いは聞かずにはいられない。
「また猫は飼われて屋敷内にいたはずだ。屋敷内におれば良いものを、そぞろに地上を歩き犬のために落命するとは、みずから死地に入ったと言えないか。また犬は屋外で飼われているのにも関わらず、家の中に入って暮らす様になれば、皆不審に思うでしょう。私のところの犬がお宅の屋敷内に入ったのであれば、打ち殺されても恨みはない。猫の死を償うために、犬を引き渡すということは絶対にしない。お帰りになってこれらの旨をよろしくお伝え下さい。ご使者、大義であった」
 と鷹揚に、また弁舌は水が流れる様に、理屈を極めた犬塚番作の返答に、二人の召使いはかしこまる他はなかった。猫に袋を被せた様に、尻を高くして頭を下げ、後退りして出て行った。
 それを見た糠助も不安に思いながらも、犬塚番作に別れを告げて、召使いの後を追い掛けて行った。

 蟇六の屋敷では、亀篠や浜路たちが紀二郎の死骸を抱いて泣き叫び、犬を罵り、そして犬の主人を恨みつつ、召使いの帰りを待っていた。
 今にも仇である犬を連れて帰って来るかと、長い間待っていたのだ。しかし二人の召使いたちは、糠助と一緒に手を空にして帰ってきて、犬塚番作の返答をそのまま告げた。
 それを聞いた亀篠は怒りを我慢できず、
「姉を姉とも思わぬ番作の片意地は今に始まったことではないが、詫びを入れられる口を持っていながら、人を嘲り誇る非法の返答、今回はもう我慢ができない」
 激怒した亀篠は続けて召使いたちに申し渡した。
「お前たち、再び番作のところに行き、有無を言わせず犬に荒縄掛けて連れて来なさい。今までが手ぬるかったのだ」
 と大きな声で命じたが、蟇六は急に妻を止めて、
「番作は足が悪いが、奴の武芸は侮れん。儂は一郷の村長として、一匹の猫のために争いをした結果、双方ともに傷つくことがあれば、道理があっても落ち度とされてしまうだろう。公の訴訟というものは心もとないものだ。裁判をしないとしても、恥をそそぐすべがある」
 どうやら蟇六には考えがある様だ。
「奴は自分で言ったな。例の犬がもし儂の屋敷に入ったら、打ち殺されても恨まないと、口走ったのが幸いなのだ。犬を屋敷内の敷地にわざと誘い込んで、竹やりで仕留めてしまおう。皆、竹やりの用意をせよ」
 と得意気に説明すると、亀篠はようやく考え直した。そして召使いたちを見て、
「糠助はお前たちと一緒に来たと思ったが、いなくなっている。竹やりのことを聞いていたか」
 尋ねると、召使いは後ろを見返り、
「今までここにいましたが、帰るのを見ていません」
 亀篠は眉をひそめて、
「あの糠助は番作の家の裏口に住んでいて、前から親しいと聞いている。夫のはかりごと、糠助の口から洩れはしないか。しくじった」
 不満気に舌打ちをして後悔すれば、蟇六も同意して、
「ああ、失敗した失敗した。計略は秘密であれば良いというのに、都合が悪い奴に聞かれてしまった。まだ遠くには行っていないだろう、追い掛けよ。子供は足が早い、額蔵行ってきなさい」
 急がされた額蔵は、返事をすると同時に外へ裳裾を掲げて走り去った。

 ところでこの額蔵は年に似合わず、実はいろいろ知恵に長けていているのだが、普段隠しており表に出ない様にしていた。
 大望があるので、日ごろから主人の嫉妬や虚栄心を心痛く思ってはいたが、表面上は逆らわずにいた。この日も主人の目論見を何と馬鹿なことを考えているのだ、思わずにはいられなかった。しかし言われるままに急いで出て行ったが、遠くまで行かずにしばらくしてから帰って来た。
「道では追いつくことができませんでしたので、お宅まで行って参りましたが、糠助さんはまだお帰りではありませんでした。あのお方は去年の秋の年貢の借りがあると聞いています。どうして村長を敵にして、自滅を招くことをするのでしょうか。捨てておいても、犬塚様に口を利くことはないと思いましたので、これ以上探しませんでした。それとも探した方が良かったでしょうか」
 もっともらしく作り話をすれば、蟇六は聞いてうなずき、
「お前の言う様に、奴は年貢の借りがある。その身を大事に思うのなら、儂のために悪いことはできまい。もし計略を洩らしたとしても、あの犬には四本の足があり、主人の番作と違ってその辺をうろついている。しばらくは家に繋いでいたとしても、日が経てば出て来るはずだ。その時に屋敷内に呼び入れて、突き殺すことは簡単だ、竹やりの準備を怠るな」
 と手配をする様に召使いたちに伝えて、犬の与四郎が外に出て来るのを待つことにした。

 百姓の糠助は蟇六の目論見を犬塚番作に知らせようと、黙って外に抜け出した。急いで走って番作の家に行き、蟇六夫婦が喋ったことを小声で話し、
「こう言えば、はしたなく、どちら側をも中傷する様に似ているが、私は村長には年貢の件で借りがあり、村長が悪く思われる様に言っているのではない。例え義絶した親類とは言え、村長の奥様はあなた様の姉ではありませんか。犬のことでますます恨みを買い、仲が悪くなることが良いとはとても言えません。ですからあの与四郎を近所に行かせなされ。せめて犬だけでもここにいなくなれば、村長たちの恨みも自然となくなるでしょう。いかがでしょうか」
 と囁くと、犬塚番作はじっと考え込んでいたが、やがて口を開いて、
「今に始まったことではないが、あなたの親切、ありがたいことこの上ない。しかしながら、蟇六側が智謀の限りをつくしてはかりごとを巡らせたとしても、私は露ばかりも恐れはしない。戦うすべはまたいくらでもあるのだ」
 犬塚番作は糠助に軽く頭を下げた。
「ただ恨めしいのは、この足のことと最近ますます多病になっていることなのだ。私に道理があるが、争いを好きこのんでいるのではない。また犬畜生には知能はあるが、知恵がない。安全か危険かを見分けられないから、蟇六に欺かれて、外に出て打ち殺されてしまえば我が恥となる。糠助殿、どうかよろしく計らっていただき、犬の与四郎を遠ざけていただけないか」
 と糠助の話を承諾したので、当の糠助は大いに喜んだ。そして信乃にもことの次第を告げて、与四郎に多めの食べ物を与えた。
 その夜、犬を滝野川付近に連れて行き、信乃が世話になった寺に預けたが、与四郎は糠助より早く帰ってきてしまい、犬塚番作の家に戻っていた。
「お寺では近かった。川を渡ってしまえば、帰るまい」
 と考えて、東南の方角へ今度は連れ出し、宮戸川(隅田川)を渡って、牛嶋(東京都墨田区向島・吾妻橋・東駒形辺り)まで行って捨ててきたが、そこからも帰って来た。同じ様に二三回、五六日を費やしてみたが、苦労してみてもその甲斐なく、与四郎は帰って来るので、糠助は呆れ果てて、遂に犬を捨てることを諦めた。

【関連図】

大塚から牛嶋まで、大体8キロくらいありますよ。

 

 その時、信乃は思った。
 与四郎は主人を慕っており、災いがその身に及ぼうとしていることが分かっていない。
 もし与四郎が果たして殺されてしまうと、きっと父の怒りは激しく、何が起きるか分からないことになる。恐ろしいことだ、願うは与四郎が殺されず、伯母夫婦の恨みも晴れて、すべてが無事におさまることだが、そんな策がないかと密かに知恵を絞っていると、たった一つだけ思いついたことがあった。
 これは父には言えない、糠助に相談してみようと思って、、行方を探しに行くと野良仕事の最中だった。他に近くで耕す者もいないので、これが機会とばかりに、近づいていく。
 思いついた意中の秘密の策について説明し、
「あの与四郎を伯母夫婦の屋敷近くに入れて行き、犬に向かって罵ってみようと思う。この畜生が訳もなく村長が愛する猫を殺してしまい、親族が互いに恨みを重ねる災いを作ってしまった。仕方なく何度も捨てても、懲りずに帰って来て、自分から死地に入ってしまっていることに気づいていない。もはやどうしようもない。せめてお前を殺して我が伯母夫婦の恨みを晴らそうと思うだけだ。覚悟しろ、と罵って杖で犬を打てば、必ず逃げ出すでしょう」
 信乃も必死になって語った。
「逃げるのを追い掛けてまた打って、跡をつけて我が家に帰り、しばらくの間犬を繋いでおけば、伯母夫婦は声を聞き、光景を見て必ず思うはずだ。父の番作が子供に犬を打たせて、猫を殺した罪を詫びているのだ、と分かってもらえれば、恨みも消えて犬を殺すのを諦めてくれると思う。決死の与四郎を救えば、我が父に恥をかかすことなく、親族の間の恨みを重ねるという悲しみもなくなる。この策はどうでしょう」
 と聞けば糠助は考える間もなく、
「ああ、賢い賢い、坊っちゃんはまだ十一歳、でも昔の楠公の様だ。またそのお考えは、親のためでもあり、伯母のことを思う孝であり義でもある。私も一緒に行きましょう、さあ行こう行こう」
 信乃を急がせるのだった。
 糠助の助けを得て、信乃はますます勇気づけられた。
 忙しく家に走って戻っては、家の門のところにいた与四郎を誘って、糠助と一緒に蟇六の家へ向かう。
 策略通り大きな声を出して、犬を罵っては責め出した。棒を振りかざして、あるいは杖を取って、与四郎をはたと打つ。打たれた犬は訳も分からず、糠助さえいつもと違って叩いてくるので、驚き慌てた。そして我を失って信乃の家への道には逃げずに、蟇六の屋敷内を巡り出し、裏口の方へ走り出した。
 これを見て信乃と糠助は失敗だと思って、裏口ではなく犬塚の家に向かえ、と言わんばかりに、左右に分かれて道を開けたまま、杖を持って追い掛けるのだった。犬はいよいよ狼狽えて、また騒ぎ、走って逃げようとするが、この場所はひょうたんの様に口が一つ、つまり通路が一つしかなく、向かい側は行き止まりで道がない。
 与四郎はやむを得ず蟇六の家の裏門から中に入ってしまい、勢いに任せつつ座敷の中に身を躍らせて飛び込んで行った。
 獲物がやって来たとばかりに蟇六は召使いたちに命じて、出入り口を閉めさせた。
 ここか、あそこだ、とどよめく声がうるさく聞こえてきて、糠助は慌てて、しかも戸惑いながら、信乃のそでのたもとを引いて、
「他人の欠点を暴こうとして、かえって我々の自分の弱点をさらけ出してしまった様だ。もしうかうかとこのままここにいたら、たちまち不慮の災いに遭ってしまう。さあ、逃げよう」
 と言いながら、持っていた棒を懐に隠し走り出したが、足に絡まってしまい、股間を打ちながらうつぶせに倒れた。転びながら、ああと叫んで、棒を放り出してしまった。ようやく身を起こすと、膝が破れ、鼻血が流れている。それを見返る間もなく、顔をしかめて膝を撫で、糠助は足を引きずって逃げて行った。

 それでも信乃は引き返さず、まずいことをしたと百回も千回も悔やんだが、なすすべもなかった。何とか与四郎を救い出せないかと思い、あちこち歩いて犬が飛び出してくるのを待ったが、すべての扉が閉ざされており、与四郎が出られる道はなかった。

 犬が苦しそうな呻き、また吠えるのが聞こえてきた。
「ああ、与四郎が殺されてしまう。まずいことをしてしまった」
 と信乃は独り言を言い、杖にすがって、今も蟇六の家の裏門にいた。
 しかし犬を救う算段も思いつかず、とうとう家に帰る他なかった。そして家にいた父に何も隠さず、事情を話した。
 犬塚番作は怒ることなく、すべてを聞いてからため息を吐いて、
「お前はまだ子供だが、人より優れた才覚がある。そうは言ってもその知恵において不覚を取ったということは、まだ人というものを知らないという過ちだ。我が姉はもはや心が歪んでしまっているし、蟇六は他人の能力を妬む小人だ。お前が策を弄して犬を打ったとしても、彼らはそれに満足して怒りを解いたりする者ではない」
 言い聞かせる様に言う。
「しかしだな、こちらから犬を追い込んで打たせたのは、不覚の様で不覚ではない。奴らから犬を呼び入れられて殺されない限り、私は悔しく思わない。与四郎の死は不憫だが、悔しがっても今更詮なきこと。とにかく今は事実を確かめなさい」
 という言葉が終わらぬうちに、例の犬が庭から現れた。その姿は血にまみれ、動きは起きては転び、転んでは起き上がりながらである。よろよろと入って来て、そのままはたと伏してしまった。
 信乃は与四郎を見て、
「何と痛ましいこと、与四郎が帰って来ました」
 と言いながら、走り降りて犬の様子を見る。犬塚番作は、急いで柱を使って身を起こし、縁側に出て眺めて、
「こんなに槍傷を受けても倒れずにここまで帰って来たのは、老いてもさすが立派なものよ、与四郎は。しかしこの先、生き延びるのは厳しいだろう、日陰へ入れてあげなさい」
 信乃は父の言いつけに従って、縁側の下に藁のむしろを敷いてやった。そして手負いの犬を助け起こして、
「与四郎よ、苦しいか。お前を危険な目に合わせまいと思って、私はいろいろ策を弄してみたけれど、お前は逃げ道を見失ってしまった。私たちを恨む伯母夫婦の裏口に入ってしまい、この様に命を落としかねないことになってしまった。私の過ちだ、やってみるのではなかった」
 と自分を責めて、与四郎の口に水を注いでやり、薬を傷口に塗ってやり、心の底から看病したが、これ以上生きていけるとはとても思われなかった。

 そうこうしている間に蟇六は憎かった与四郎が思い掛けなくも裏口からが入って来て、座敷に入り込んだので、召使いたちに扉を閉めさせた。
 そして主従併せて五六人が竹やりを脇に挟んで追い掛けて、駆り立てて、仕留めようとするが、例の犬は足も速くて、槍の下を潜り抜け、脱出できるべき道を探していた。しかし前後の門は閉ざされており、進退は窮まっている。
 数か所傷を受けて猛り狂った与四郎は、決して倒れることもなく、板塀の下をどうにか突破し、外へ出て行った。
「あれを逃がすな」
 蟇六主従は扉を開いて追い掛けたが、捕まえられずにとうとう諦めて引き返した。
 しかし蟇六は意気揚々と、召使いたちをねぎらって、
「今日の働き、抜群であった。惜しむらくは犬を仕留められなかったことだが、あれだけの深手を負わせたからには、必ず道の途中で死ぬだろう、そうではないか」
 と誇らしげに威張って、槍を庇に立て掛けて、縁側に腰掛けた。

【恨みを返して、蟇六は召使いたちの労をねぎらう】

蟇六と亀篠、竹やりを持った召使い軍団。左は賢そうな額蔵くん。

 

 すると亀篠は背後から扇で風を送ってやり、
「今日という今日は紀二郎の仇をようやく討つことができた。思えばあの犬畜生は。残念ながらここでは死ななかった。お前たちは怪我はなかったか」
 と聞けば、召使いたちはむき出しにしていた肩をしまって、
「いえ、何ともございません。おっしゃる通り、強い犬でございました。我々の企てには乗りませんでしたが、ご主人のご威光でどうにかこうにか痛手を負わすことができました」
 と言うので、蟇六もそうであろうと鼻を高くして自慢気のまま、座敷の中に入っていった。

 その中で額蔵だけは召使いたちと騒ぐものの、犬を追った振りをするだけだった。犬を痛めつけたと妻子に誇る主人の顔をつくづくと見て、心の中で軽蔑しながら外に出て行った。

 しばらくして蟇六は亀篠を小さい部屋に招き、襖を引き立てさせた。そして額を突き合わせて、声を潜めて、
「今、召使いたちから聞いたのだが、番作の犬が思わぬことに裏口から入って来たのは、信乃が追い込んだからだそうだ。その際、番作の子せがれが犬を責めて、何々と罵るのを聞いた者もいる。それは信乃独りだけではなく、糠助も一緒にあの犬を打ったらしく、きっと何か理由があるのだろう。今、考えてみたが、番作は表向きは強きを示しているが、自分から争うのが難しいと思って、自分の子に言いつけて犬をこちらに送ったのではないか」
 蟇六はにやりと笑った。
「この勢いに乗ってうまく謀れば、招かずして番作をこちらに降参させ、例の村雨の刀も遂に我が手にすることができるかもしれん。儂は大塚の名跡を継いだが、系図もなく、昔のことを記した文書もない。大塚匠作殿の長女であるそなたの婿というだけなのだ」
 それなりに蟇六も負い目を感じているのだった。
「ところで鎌倉の足利成氏殿は、山内顕定、扇谷定正の両管領と仲が悪くなられて、前にも鎌倉を追い落とされ、古河のお城にお籠りなさっている。今も絶えることなく合戦されているということだ。従って当初の陣代、大石様もいつの間にか鎌倉へ出仕されて、両管領に仕えていらっしゃる。儂は足利成氏殿の兄君、春王と安王の世話係であった大塚氏の後継ぎであるから、両管領に大きな忠誠を示さねばこの村の安泰が心もとない。あの村雨の刀を鎌倉へ献上すれば、儂に野心がないことを知らせるだけではなく、恩賞は抜群に違いあるまいと思うのだ」
 蟇六は更に声を低くした。
「そう思って、ここ最近はいろいろ手を替え、品を変え、刀を取り上げようとして策を弄じてみたが、番作もそれに気づいたのか、まったく家に来なくなってしまった。宝刀を深く隠してしまい、他人にも見せないのでどうすることもできず、いまだ儂の望みを遂げられないでいる。どにかく番作を儂に帰順させて、あの刀を手中にすれば、我が家の繫盛隆盛は疑いない。しかし番作はなかなか智勇に長けている。そこでだ」
 何やらまた考えついたようだった。
「もし糠助を使わなければ上手くいかんだろう。糠助は番作の小せがれと一緒に犬をこちらの敷地に追い込んで来たのは、都合の良いことなのだ。お前、密かに糠助を呼び寄せて、この様に説得しろ。番作に智勇があるといっても、進退を窮まることになれば、可愛い子供のことで迷わない訳がない。必ずことは十分に成就する。計画はこの様にな」
 と亀篠の耳に近づき何ごとかを囁いた。当の亀篠は驚き、そして笑いながら、夫を見上げた。
「この企ては良く考えられているし、優れている。番作は弟ではあるが、母が違う。考え方が合わないとしても、百歩の間に住んでいながら、今まで一度も訪れて来たことがない。姉の悪口を言う愚かな弟に罰を当ててやり、悩ましてやるのはこの時。それでは」
 召使いを呼んで糠助を呼ぶ様に命じた。

 つまるところ、亀篠が糠助にどのようなことを言うのであろうか。
 それはまた次の巻にて分かるだろう。

(続く……かも)

 

 

 

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超意訳:南総里見八犬伝【第十七回 嫉妬を逞しくして大塚蟇六は養子を育てる/孝心を固くして犬塚信乃、滝で身を祓う】

2024-10-21 23:44:47 | 南総里見八犬伝

 こうして犬塚番作夫婦は年来の悲願を成し遂げて、男児を出生した。産後は、母も子供も健やかで、産屋をしまうころになった。
「さて赤子の名前を何としようか」
 と女房手束に語り掛けると、しばらく考え込んで、
「世間では子育ての経験のなきものは、男子であれば女児とし、女の子には男の子の名前を名づけて養い育てれば問題ないとする人も稀にいます。私たち夫婦は不幸せなことに、男児を三人産みましたが、皆赤子で亡くなってしまいました。この度もまた男児ですので、ひとしお心が弱くなって想像してしまうのです。この子が十五になるまで、女の子として育めば問題なく育つと思うのです。そんな風にお考えになって名づけて下さい」
 と言うと、犬塚番作は微笑んで、
「人の生死は天命だから、人の力ではどうすることもできない、と言うが、名前が咎とならないだろうか。世の中の道理に合わない迷信みたいなことは信じられないことだが、お前の気晴らしになるのであれば、それに従うのも悪くはない」
 しばらく考え込んでから、犬塚番作は続けた。
「古語に長いものをしの、と言う。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)という辞書では、長竿をしのめと呼ばせている。今も穂の長いすすきをしのすすきと呼ぶ。長く繁ったのをすすきと呼んだのではないだろう。我が子の命を長くあれ、と祈り、言祝ぎの心で、名前を信乃(しの)と呼ぼうか」
 更に犬塚番作は過去を思い出す。
「私は美濃路において不思議な縁でお前と名乗り合い、信濃路で夫婦となった。信乃と信濃は音も似ている。越鳥南枝に巣くい、胡馬(こば)北風にいななく、という言葉があるがその名の通り、皆、故郷は忘れがたいものだ。誰もがその始まりを忘れられない。もしこの子が出世することがあれば、信濃の守護にでもなれ、とまた言祝ぐことになるだろう。信乃という名前はどうだ」
 そう真剣に問うと、手束はすぐさま、
「それはめでたい名前でございます。裕福な方々は、五十日も百日も産屋養いのお祝いの喜びにお酒を飲み騒ぐでしょう。せめてこの子の名づけに際して、竈の神様にお神酒を献上し、手習いの子と縫物の教え子に物を食べさせたく思います」
 そう言うと犬塚番作もうなずき、
「それは良い考えだ、そうしよう、そうしよう」
 手束は近所の老女らを雇って、赤飯や芝の魚市場で取れた雑魚の汁物やなますを忙しく料理した。
 里の子供たちを呼び集めて、盛り並べた飯は二荒膳だった。箸を取る子供たちは顔を隠すほどの大きな碗に食らいついた。子供の行く末を願うもてなしに皆満足して、膝にこぼした飯を拾いもせず、立ち上がって喜んで帰って行く者もいる。人より先に草履を履こうと競い合って、腹いっぱいになって慌てて帰る者も多くいた。

 それ以来、手束は信乃の衣装を女服にして、三四才のころになると、髪にかんざしを挿せた。
「信乃よ、信乃よ」
 と呼べば、知らない者は、この稚児を女の子であると思うのである。

 蟇六と亀篠はこの様を見たり、聞いたりする度に、手を叩いて嘲笑い、
「およそ人の親たる者、男児を儲けることを面目とする。それなのに武士の浪人が、女の子を願うとはどうなっている。結城合戦に逃げ遅れて、背中に傷を受けたことにひどく懲りて、戦というものを夢にも見せまいと思って、こうまでたわけたことをするつもりか。思っていたよりも痴れ者である」
 と利口ぶって犬塚番作夫婦の悪口を言うが、相槌を打って同意する者はいなかった。
 むしろ里の者たちは信乃を可愛がって、物を与えたり、代わる代わる抱いてやったりして、手束を手助けをしたりするので、蟇六夫婦は妬むしかなかった。また羨ましく思った。
 淫婦に石女が多いという諺があるが、亀篠は四十になるまで子供が一人もいなかったので、夫婦で相談して、養女をひたすらに求めることにした。養女の仲立ちをする者がいて、こう言った。

 武蔵国の練馬氏は豊島左衛門の一族である。練馬平左衛門という者がそれである。
 その練馬の家臣の何某の娘が今年二歳になる。その娘は、父親が忌むべき四十二歳の時の二歳児だった。
 男子の四十二歳は大厄とされ、父親がその年齢のときに二歳になる男児は、親を殺すといい、外に捨てて他人に拾ってもらう風習がある。
 今回は女児であるけれども、生涯交流なしとの約束をして、永楽銭にして七貫文と一緒に筋目の良いところであれば、養女にしても良いというのだ。
 二歳の女児は生まれつき目鼻立ちが可愛らしく、天然痘もこの春に軽く掛かっただけで疵のない玉の様な子だった。
 昨年の春、正月の始めに生まれたので二歳の女児だが、乳母がいないと言っても、育てるのに難しくはない、養ってみてはどうか。 

 この様に勧められて、蟇六と亀篠は笑みを浮かべて、ともに小膝を思わず進め乗り気になった。最後まで聞くと、眼を見合わして、
「この厳しい世の中、養子代として永楽銭七貫文は安くはない。ただいまあなたが語ったお話、嘘偽りがないのであれば、元から望むもの。早くお話を進めて下さい」
 蟇六と亀篠が揃って返答したので、仲立ちの男は了承して、忙しそうに出て行った。

 こうして五六日が経ってから、養子の件をとりまとめた媒酌の男は、練馬の家臣の実親と蟇六の間に証文を取り交わし、例の七貫文と一緒に女児を大塚へ連れて来た。
 亀篠は女児を抱きとめて、まずその顔を眺め、また指から足の裏まで女児が泣いても構わず伸ばして調べて、やがてからからと笑い出した。
「仏様の三十二相がどこかは分からないけれど、本当にこの娘は掘り出し物。この子を見てご覧なさい」
 と蟇六を招くと、当の蟇六自身も自信が出てきて、
「良い子じゃの、泣くな。これをあげよう」
 右手を袂に入れて取り出したのは、菓子の花紅葉である。二人を実の親ではないとまだ知らない幼児ではあるが、さすがに口に入れられては泣き止むしかなかった。
 本当に頑迷な者はその偏屈さで自分の物と名づけをすれば、貪欲に愛に溺れて、他人の誹りを受けるものだ。まして蟇六と亀篠は、日頃から妬んでいる犬塚番作夫婦の鼻を折ろうと考えている。
 養女を浜路(はまじ)と名づけて、過分なまでの綺羅を着飾らせ、あちこちへ遊山、寺社へ詣でさせ、下女に抱かせて下男に先払いをさせて出掛けていく。
 四十を越した亀篠さえ、鎌倉様式の派手な衣服を着て、ひと月に何回も出て行くのだ。金銭を費やし、人から非難されるとも思わずに。
 それだけではない、娘の髪を伸ばす儀式の時、帯をつける儀式の時、身分の十倍はあろうかというような美しく派手な服を着させて、若衆の肩に乗せて、あちこちの神社詣でにかこつけて、多くの人に見せびらかす様な真似をした。阿諛追従をして言葉巧みに浜路を誉める者には、家中の飴などを惜し気もなく、すべてあげてしまう。文字通り、甘い親というしかなかった。

 こうして浜路が育ち思慮分別がつく様になってから、詩歌管弦の師匠をつけてやり朝から夕まで囃したてた。蟇六と亀篠は舞い上って、周りを憚ろうともしなかった。すべてその様にして育てられたので、生まれ持った顔の愛らしさも人並み以上であったので、鳶が鷹を産んだではなく、鳶のところに鷹の子がいると、それを聞く二親は微笑んですらいた。
 それは女児を誉めてはいるが、実は蟇六亀篠への陰口なのである。二人はそれには気づかず、
「位が高く、富豪で、世の中に勢いのある婿ならばいいが、それ以外は無理だなあ」
 などと誇るのであった。

 それはさておき、犬塚番作の一子である信乃は、早くも九歳になったが、身体も大きくなり力強くもあった。よその普通の十一二歳になる子供よりも身の丈が高いのに、今でも女の服を着させられてはいるが、子供用の小さな弓や凧揚げ、石を投げる印字打ち、竹馬など荒っぽく武芸めいたすべての遊びを好むのだった。
 従って犬塚番作もますます可愛がり、朝は里の子供たちとともに手習いをさせ、夕方には儒学の本や軍記の読みを行い、ある時には試しに剣術や柔術を教えた。元から信乃は好む様で、教える父親すら時々舌を巻くほどに上達していき、将来が頼もしく思われた。
 父親から武道と読書きを仕込まれ、母手束からは我が子の賢さと自然と尽くす親孝行の振舞いについて学び、親はともかく他人まで褒める様になっていた。
 正に文の道、武のたしなみ、年齢には早熟しており、その器量に計ると、もしかしてこの子もまた短命なのではないかと手束は信乃を思うと、心配になった。
 夫を諫め、子供に言い聞かせ、
「習って学ぶことは悪くはないけれど、ほどほどにしなさい」
 と言う。
 しかし信乃の性格は世の中の子供とは違って、母の視界から隠れては竹刀を手に取らない日はなく、馬にさえ乗りたいと願うものの、田舎には小荷駄用を運ぶ馬はあるが、騎馬用の借馬などというものはなかった。

 信乃が生まれる前の話だが、手束が滝野川の岩屋詣での帰りに連れて帰ってきた犬の子は、信乃の成長とともに大きくなって、今年すでに十歳である。
 この犬は背中が墨より黒く、腹と四足は雪より白い。馬で言う四つ白なので、その名を四白(よしろ)とも与四郎(よしろう)とも呼んだ。信乃に良く懐いて、叩かれても怒ることなく、信乃の命令にもよく従うのである。
 信乃は与四郎に縄と手綱を掛けて乗ることもあった。犬は主人の心に従って、足を速めてその辺りを走り回った。誰も教えていないのに乗り方が手綱さばきの基本に適っているので、見る者は思わず立ち止まって、犬への騎乗と信乃の姿の差に腹を抱えて笑う者もいた。反対にこの童子、この娘姿の者の技に、ただものではないと称賛する者もかなりいた。身分の高い者ではないので、本物かどうか見分けることはなかなかできないだろう。

 女の子の服装を着ているのに、犬に乗ったりまた武芸をしたりするので、里の子供たちは、信乃を指さし、嘲って、「玉なし」と囃したてたりした。
 それでも信乃は悪口をものともせず、
「奴らは土民の子。遊び相手になる者でもなく、議論は無用」
 とみずから避けて、一度も争わなかった。それでも時には考えた。自分はなぜ独り、
「世の中の子供と違って、女児の服だけを着させられるのはどうしてだろう」
 不思議には思うものの、わざわざ親には聞かなかった。赤子のころから着慣れた女の服であったので、恥ずかしいと思うことはなかった。

【思いやりのある人はなかなかいないが、犬の主人を知る】

犬に跨る信乃。近所の人は可愛がっているのかしら。

扉越しに亀篠と浜路ちゃんがいます。

 

 今年の秋のころから手束の具合が悪くなった。病の床に伏せたが、鍼灸や薬の効き目もなく、冬の始めになってからは、日に日に弱るばかりである。犬塚番作はますます心配になり、夜も安眠できなくなっていた。
 信乃はまた毎朝医者の元へ行き、薬湯を勧め、腰をさすり、いろいろな話をして、母の日常を慰め続けた。母は思わず涙を眼に溜めて、逆に信乃の憂いのやるかたなしを見て、胸がふさがる思いがするのだった。泣き顔を隠すこともなく、みぞおちを撫でてつかえを紛らわした。
 親子が双方に思い合うこと、口にはしない孝行と慈愛の心を思いやられるのである。

 ある日の早朝、信乃が薬を取りに行くため忙しく出て行った後、犬塚番作は、妻の枕もとで小鍋で粥の塩加減を見ていた。半分開いた扇で風を送り、鍋の火を起こしていると、手束はわずかに頭を起こして、
「いつもと違って、我が夫に煮炊き、水汲みしていただき、竈働きしていただくこと、心苦しいことでございます。それだけではなく、十にもならない信乃がこのごろおとなしく親に仕えて、夜もあまり眠りません。ここまで頼もしい夫と我が子の介抱を受けても、私は死出の旅へ参る様です。そもそも私のこの病気は理由があるのでございます」
 手束は少し身を起こした。
「元から信乃は神仏に祈って授かった子ですので、様々な奇瑞がございました。こうして生まれた一人っ子ですが、年齢よりも賢く、返って親の私の方が恥ずかしく思うことがあります。幼児で亡くした兄たちの様にもし短命だったら、と心配したのは昨日や今日のことではありません。信乃が因果応報を逃れられずに大人になれないのであれば、この母が命を換えさせて下さいと滝野川の岩屋殿の神に仏に日頃から願っていました。願いはかない、信乃は赤子のころから泣くこともほとんどなく、風邪も引きませんでした。天然痘除けのおまじないの疱瘡の神送りや追儺の式の童の役をしても、男児には怪我が付き物と言われる七歳の峠を何とか越えさせました。今年は私があの世に行けば、我が子の行く末は念願成就いたします。換われる命は惜しくはございません。ただ悲しいのは死に別れることでございます」
 頬を涙が伝った。
「可愛い子には母がなくても、父親さえ世にいれば光がございます。決して暗く育つことはないでしょう。もう長くもないこの世と思えば、お金を費やしてまで薬を口にするのはもう無駄なことです、私のことなどどうか打ち捨てて下さい」
 そう言いながら更に涙があふれた。呼吸も細くなる覚悟の言の葉が脆いのは、袖に着いた涙のためでもあり、弱り切った秋の蝶の片方の羽がもがれた様なものである。
 犬塚番作は何度もため息を吐き、
「変なことを言うものではない。我が子の命に換わろうとして換れるものであれば、世の中に子を失う親はいない。その様な迷いから病むのだ。いろいろ変なことを考えるより、薬を服用し、粥を啜って、気長く保養しなさい」
 と理を尽くして妻を諭すのだった。

 冬の日は短くて、早くも巳のころ(午前10時ごろ)になったが、いつもと違って信乃はなかなか帰ってこなかった。
「信乃は道草を食うことはしないはずだが、今日はどうしたのだろう」
 子を思う親の心はなかなか落ち着かない。
 犬塚番作は外に出てみようとして障子を開くと、縁側には思い掛けなくも薬の箱が置いてあった。不思議そうに紐を外して、蓋を開けば中には薬があった。
 安心して頬に笑みを浮かべて、箱を持って中に入ると、
「手束よ、薬はここにあった。どうしたのか、信乃は帰って来て、気晴らしに外に出たのだろう。まだ子供っぽいところがあるなあ。お前の病気の始めから、仮にも自分のためには外に出掛けることはなかった。きっと何か面白いものを見掛けて、帰って来たことも言わずにまた出て行ったに違いない」
 と言うと手束は少し落ち着いて、
「たまのことですから、必ずお叱りにならないで下さい。きっともうすぐ戻るでしょうから」
 そう言いつつもその顔を見れば、信乃のことが気掛かりなのは明らかだ。

 しかし未の刻(午後3時ごろ)を過ぎて、太陽の差す影が斜めになるころになっても、待てども待てども信乃は帰ってこなかった。
「遊びに夢中になってはいても、腹が減れば飽きてしまうだろうに、何も食べずにどこにいる。しょうがない奴だ」
 父がそう言えば、母も重い頭を何度か挙げて、外を心配そうに眺めようした。すると外から底に細い板を横に並べて打ちつけた草履の音がしたので、信乃の足音かと思えたが、家に入っては来ない。
 まぎらわしい、信乃ではないのかしらと妻が繰り言を言うと、犬塚番作は立ち上がって外を窺い、座っては外を窺い、落ち着かない様子で待ちわびた。そしてため息を吐いて、
「この足が昔のままであれば、その辺りをひとっ走りに走って、必ず探して連れ帰るのに。日の短い小六月(陰暦の十月)、夕日を見ながら杖に頼ってどこまで行けるだろうか。しかし日が暮れてしまえばますます不便、せめて巣鴨辺りまで行ってみようか」
 刀を腰に差して、竹杖をついて外出しようとした。

 そこへ家の裏手の真向かいに住む百姓の糠助(ぬかすけ)という者が右手に一竿の釣り竿と一個の魚籠、左手には信乃を抱えてやって来た。今外へ出ようとする犬塚番作と顔を合わせて、かかと笑い、
「犬塚殿か。そこにおいでだったか。秋の稼ぎ働きも終わったので、骨休みに一日の暇をいただきましたので、今日は未明から浮かれ出て、神谷川に雑魚釣り三昧、滝野川まで帰ってくれば、こちらの息子殿が滝野川不動の滝に水垢離をされておりました」
 糠助は意外なことを口にした。
「身体は冷え切っていて、息も絶え絶えの有様を見つけた時には、肝を潰してしまい、慌てふためいて外に出しました。そのまま寺に連れて行き、藁を燃やして火で暖め、薬を飲ませて、法師たちと看病すること半刻(1時間)ばかり、初めて気を取り戻しました。湯漬けをもらって食べさせてやり、話を聞けば、母上の病気回復を祈願して水垢離をしていたと言うのです。十にもならない童には類い稀なる見事な孝行っぷり、法師たちもすっかり感心して、童が求めてもいないのに病気平癒の護符や洗米を下さったのですよ」
 糠助もどこか自慢気であった。
「滝野川の滝は寺からも遠くて、私以外の人は知らないと思います。本当に危ないところだったのです。ここまで賢い子を神も仏も見放さないでしょう。きっと母上のご快復、疑いございませんでしょうね。さあ、大切なお子様をお受け取り下さいませ。日も暮れましたので私も帰ります。病気の奥方には良くお休みいただいて下さい。もしご用があれば、裏口から竹法螺を鳴らしてお呼び下さい。坊ちゃん、明日は遊びにおいで。釣った魚を炙ってご馳走いたしますので」
 と言いたいことだけを言って、糠助は犬塚番作の挨拶も聞かず、家の中にも入らずに帰ってしまった。

出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)

名所江戸百景 47 王子不動之瀧 歌川広重

いやこんな大きな滝?

10歳で水垢離で、凍えてしまいませんかーーー!!

 

 仕方ないとばかりに犬塚番作は我が子の肩を杖にして、上がりかまちが山道の様に思えたが、どうにか越えて奥にいる手束に声を掛けた。
 手束も大体のあらましを洩れなく聞いており、病苦を忘れて、我が子をそばに座らせた。
「信乃、良く考えなさい。親孝行を尽くすにもほどがあります。身を危険にさらしてまで怪我をしてしまったら、親の嘆き悲しみはどうなると思いますか。そうなっては孝が不孝になるのですよ。親を愛しく思う子のためには、祈らなくても神は守って下さいます。もう危ないことはしないで下さい」
 と諭せば、信乃は涙ぐんだ。
「おっしゃること心に留めます。今朝医師の元に赴いてお薬をいただいて帰ってきたところ、父上と母上のお話を聞いてしまいました。信乃の命の長くあれ、ともったいなくも我が母は命を犠牲に神明へお祈りなさった結果、長い間病床に伏しなさっているというお話を立ち聞きしまして、思い切り悲しくなりました。泣き声を立てまいと涙で濡れた片袖を噛み締めて縁側におりましたが、母上の願望がかなうのであれば、私の願いもかなうに違いありません。それならば、この身を生贄にして母上のお命に換わろうと決心したのです」
 信乃の眼に涙があふれた。
「持って帰ってきた薬はそこにそっと置いて、以前から母上が信心なさっている滝野川に走って行き、岩屋の神に願いを繰り返しました。同じく繰り返す滝の糸は、とても強くて私の身を打ちました。一旦は死んだのかもしれません。その後のことは知りません。しかし思い掛けず、糠助に妨げられて生きて帰ってきてしまいました。私の願いを神仏は受けて下さらなかったでしょう。悔しくて、悲しいのです」
 信乃が眼を拭うと、手束も泣き出して、
「この世に子がいない親はいないけれども、今日死んだとしても私ほど幸せな者はいない。八九歳の幼い心で、賢くも親の身代わりになろうという祈った誠の心を、神仏が聞き届けなさったのでしょう。だからこそ滝つぼの藻屑とならずに、生きて帰ったのですよ」
 手束は相変わらず涙を眼に湛えてはいたが、ほんの少しだけ元気になった様である。
「ここまで強い運命の我が子の将来が頼もしく、そして喜ばしくて、涙だけがあふれ落ちて、止めることができません。母があなたに換わろうと祈るのは、心が乱れてしまったからです。お祈りの効き目などあってはならないことですから、くれぐれも意味のない願いなどしてはなりません」
 流す涙の合間に信乃を諭した。

 ここまで犬塚番作は黙って何も言わずに母と子の話を聞いていたが、姿勢を正して口を開いた。
「信乃よ。見事な心掛けだ。この上ない母上への孝行がなければ、慈母の乱れて惑う心を導くことができただろうか。古代中国の周公旦は書経、尚書の金縢(きんとう)という書物の中では、周の国の成立後、病気の兄である武王こと姫発の身代わりになろうと神に祈ったそうだ。これは当時の人々の噂話かもしれないがな。やはり誠実な人であったのであろう」
 とくとくと言い聞かせるのである。
「人の寿命というものは、我々人間がどうこうするものではない。もし忠臣や孝行な子供が毎度毎度身代わりになっていたら、君父の天命が尽きる時、誰が最後の弔いをするのか。誰もいなくなってしまうだろう。しかし身代わりになろうという気持ちは、至誠なのだ。遂に神仏のご加護があろうとも、人の命数はそうそう変わらないだろう」
 信乃は顔を上げた。
「お前はまだ幼弱だが、その才智は大人にも勝るところがある。すでに道理を知る者だろう。これから父の言うことを良く聞きなさい」
 と言い聞かせた後、祖父である大塚匠作の忠死の有様や結城落城の後、春王、安王の両若君の最期、また母の手束が子供を授かることを祈って、滝野川の社から帰る途中に神女を目の当たりにしたこと、神女から授けられた珠を受け取れなかったこと、犬の与四郎を連れて帰ってから幾ほどもなく身籠って信乃が生まれたことなどすべてをその夜は話すのだった。
 犬塚番作は言葉に細かく注意を払って言った。
「吉事には良い前兆があり、凶事には妖しい災いがある。手束が子供を宿した時が来たので、必ず良い前兆を見たのだ。それは弁財天か、また山姫と呼ばれる妖怪などというものか。あるいは狐、貉の類いか。それが分からないから、お前を神が授けなさったと私は考えてはいたが、他人に言えば、愚人の夢物語と馬鹿にされて世の中の物笑いになるだけだ。ただ智と勇がある子になる、と心にだけ秘して、母にも今日まで口止めして、お前にも言わなかったのだ。今からはこのことすべてをわきまえていきなさい」
 とすべてを丁寧に説明して語った。
 信乃は耳をそばだてて、いろいろな話を聞くごとに感激し、手束もしばらくの間病苦を忘れて、興味深く夫の話を聞き、思い出にも浸るのだった。

 信乃は考えた。
 我が母は、神女の授けた珠を受け取れずに、犬のみ連れて帰ったためか、自分は無事であると言うのに母自身は病気が多く、とうとう重体になってしまった。
 例の珠さえ再び見つければ、母も回復するかもしれない。とにもかくにも珠をどうにかして見つけようとして思って、神仏に祈って望みを掛けるが、見たこともない珠が再び出て来る訳もなく、母の病は日に日に悪化していく。

 そして十日あまり経ってから、今日を限りと思ったのか、手束は細かく遺言してから、1468年応仁二年十月下旬、享年四十三歳、朝霜が降りるとともに、眠る様に息を引き取った。
 犬塚番作の嘆きはもちろん、信乃は地に伏して泣き、まるでうわの空である。紅涙は袖にあふれて、涙でむせ返り、ひどく取り乱した。
 声を出さずにただ泣き続けているので、近在の里人が集まって、信乃を諫めて、あるいは励まして、更に犬塚番作に力を貸して後のことを相談した。
 次の日の黄昏時、棺を持ち上げて、犬塚番作の母の墓の隣に手束を葬った。

 この日も信乃は衣装を替えず、綿で面を隠し、他はすべて女児の格好で母の棺を見送った。
 それを見る者は笑うことを我慢できない者もいて、葬送の列が行ってから帰ってくるまで、指を差して囁いて悪口を言ったりしていた。
 逆に信乃はこの有様を見て、日頃の接し方はどうであろうと、悪口を言う人々に対し、自分を笑う愚か者である、と思ったが、顔色にも出さなかった。

 母の中陰(四十九日)が終わってから、始めて父に葬送の日のことを言い、
「そもそも私は男子であるのに、どうして女児の格好をさせられていたのでしょう。私は嫌ではないのですが、親が悪口を言われるのが悔しくて仕方ありません。女児の格好の訳があるのであれば、どうか教えて下さい」
 常とは違って怒気を含んだ声で問うと、犬塚番作は笑った。
「憤ることではない。では理由を教えてやろう。お前には兄が三人いたが、おしめをしている間に皆死んでしまった。だからお前を授かった時には、母はこの子も育たずにまた失ってしまうのではないかと心配したのだ。世の中の習わしに従って、女児にして育てれば無事に育つと言う。母の愚痴も惑いも解消できる証を得れれば良いのだが、ともかく私もそれに従って、また長く生きる様にと信乃と名づけた。これはちゃんと母上の許しを得ているぞ。道理には合わないかもしれんがな」
 父は苦笑を交えた。
「昔も今も男児は十五歳まで女児に倣って額の上の髪を切り落とさず、袂の長い衣服を着て、紅裏さえ許されたと言うぞ。これも女児を倣うことの証なのだ。また櫛やかんざしも婦女だけではなく、冠を留めるためとか烏帽子の尻を高く見せるために昔は男子も差していた」
 一転、真面目な顔になり、
「これを醜いとか言って笑う者は知らず知らずのうちに、そうだな、お前は古代中国の儵(しゅく)と忽(こつ)と渾沌の逸話を知っているか」

 南海の帝が儵であり、北海の帝が忽であり、中央の帝が渾沌である。
 儵と忽は一緒に渾沌の地で会った。
 渾沌は二人を非常に良く接待した。
 儵と忽は渾沌の誠意に対して報いようと相談した。

 人は皆七つの穴(眼が二つ、鼻が二つ、耳が二つ、口が一つ)があって、視聴し、物を食べ、息をする。
 しかし渾沌には穴が一つもない。
 試みに穴を開けてみようとなった。

 一日一つづつ穴を開けてみたら、七日目に渾沌は死んでしまった。

「この話と一緒だ。人はいつまで幼いのだろうか。お前も二八の十六歳になれば、正に一人の男子になるべきだ。お前を笑う者は何も知らない者なのだ。それを怒るのは知恵が足らない。放っておきなさい」
 そう諭されて、信乃はたちまち理解した。そして何かにつけて亡き母親の慈愛がここまで深かったのかと改めて考えれば哀しくも懐かしく、泣き顔を隠しながら父のそばを離れるのだった。

 

(続く……かも)

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超意訳:南総里見八犬伝【第十六回 白刃の下に良縁を結ぶ/天女の社に夫妻一子を祈る】

2024-10-02 01:45:48 | 南総里見八犬伝

 こうして大塚番作は軽傷ではあったが、一昼夜かなりの道を走ったので、疲れとともに傷が痛み、一晩中ぐっすりとは寝られなかった。
 枕に聞こえる松風、谷川の音が騒がしく、寝るというよりはまどろみ、襖越しに話し合う声に目が覚めた。枕から頭を上げて良く聞くと、男の声である。
 庵主が帰ったのだろうか、何を話しているのだろうと耳と澄ますと、たちまち婦人の泣き声が聞こえてきた。
「それは承服できません、人でなしでございます。迷いの苦しみから皆様を救って、悟りの世界に渡し導くことが仏の教え、導くことはできなくとも、心を穢す破戒の罪、法衣に恥じずに刃で人様を殺そうとするとは、余りにも無情でございます」
 これはまさしく宿を貸してくれて、自分をここに留めたあの婦人だ。さては庵主は破戒の悪僧で、かよわき少女を妻にして、それを餌に旅人を留めて密かに殺して物品を盗る山賊まがいに違いない。
 何とか君父の恨みを晴らし、恥を雪ぎ、危難を逃れて、ここまで来たというのに、おめおめと山賊の手に掛かって死ぬ訳にはいかない。
 先んずれば人を制す。こちらから打って出て、山賊を皆殺しにしてやろうと決心して、騒がず、静かに起きて帯を引き締めた。刀を腰に手探り手探り、襖の近くへ忍び寄って、建付けの歪みから様子を垣間見た。年齢四十あまりの僧侶が手に一丁の菜切り包丁を振り上げて、婦人に向かって脅し、そしてすかしている。言うことははっきり聞こえないが、自分を殺そうとする面魂、婦人はそれを止められずに、髪を振り乱してよよと泣くばかりだ。

【山院に宿して、大塚番作、手束を疑う】

 

手束ちゃん、大ピンチ!!

刃物を振るうお坊さんて何か怖いです

 

 自分への害意はもはや明らかだ。大塚番作は少しも疑わずに襖を蹴り開き、厨房の中へ躍り出でた。
「山賊め、私を殺す気か。私がまず貴様を成敗してやる」
 と罵り、すかさず飛び掛かれば、悪僧はひどく驚いた。悪僧は手に持っていた刃を閃かして、振りかぶる。
 大塚番作は切ろうとする拳の下を潜り抜けて、悪僧の腰の辺りを蹴る。悪僧は蹴飛ばされて、前によろよろと五六歩進み、ようやく踏みとどまった。振り返って再度突き掛って来るのを、右へ流し、左に滑らし、数回交わして、疲れたところをつけ入り、遂に刃を打ち落としてやった。
 慌てた悪僧は逃げようとしたので、大塚番作は菜切り包丁を拾い上げて、
「賊僧め、天罰を思いしれ」
 と罵る声と同時に、浴びせかけた刃の電光が悪僧の背筋を深くつんざいた。急所の痛手に我慢できず、悪僧は苦しそうに叫び、その胸先をとどめの切っ先が刺し貫いた。
 悪僧を貫いた菜切り包丁を引き抜き、血を垂らした刃を拭って、大塚番作は、戸惑って、逃げられずに沈んだままの婦人に向かった。
 そして眼を怒らし大きな声で、
「お前は甲夜(戌の刻、19時から22時)に私に飯を恵んでくれた。一碗の恩があるのは間違いない。また賊僧が帰って来て、私を殺そうとしたのを止めてくれた。これには憐れむが、賊僧の妻となってこれまでに多くの人を殺し、その数は分からない。であるから、逃れられることのできない天誅を加える、速やかに白状して刃を受けよ。覚悟せよ」
 と問うが、婦人はわずかに頭を上げ、
「そのお疑いは身に覚えがございません、あなた様の心の迷いです。私は元からそんな者ではございません」
 と言ったそばから大塚番作は嘲笑う。
「いい加減なことをいろいろ言って、時を稼ぎ、仲間の小賊たちが帰って来るのを待ち、悪僧の夫のために恨みを晴らすと思うお前の胸中、私はそんな小細工に乗ったりはしない。真実を言わないのであれば、これで吐かせてくれよう」
 と打ち閃かす菜切り包丁の光を婦人は飛び退いた。
「お待ちを、お待ち下さい、言わねばばらないことがございます」
 婦人は言うが、大塚番作の賊を許そうとしない怒りの切っ先は、どこまでも付き回した。刃先に対して楯のないなよ竹が雪に折れようとする様子で、右手を伸ばし、左手を衝き、片膝立てて身を反らして、後ろ様に逃げ回る。
 大塚番作は逃すまいと打てば開き、払えば沈み、立とうとすると頭上に閃く氷の刃を振り回す。婦人は片手を懐へ手を差し入れ、切ろうと迫る眼の先に取り出した一通の文を突きつけた。
「これを見てお疑いをお晴らし下さい。お聞き届け下さい」
 両手に持った文には、その身の素性が筆に示されている。大塚番作は文を良く見て、思わず刃を持ち直し振るうのを止めた。
「理解できない書状の名前と印。僧侶の妻か、賊婦の恋文かと思ったが、どうやらご立派な勇士の遺書に見える。何か訳があるのだろう、その訳を語るがいい」
 と刃を畳に突き立てて、ようやく片膝を立てて座った。

 婦人は書状を巻いてしまいつつ、眼を拭って言った。
「思いも掛けず、お寺の留守を頼まれてから今宵の厄災。それに加えて、あなた様が今、私の話を聞くことは、無理ではございますまい。もう隠す理由もございません」
 覚悟を決めた様に婦人は語り出した。

「そもそも私は神坂の住人、井丹三直秀(いのたんぞうなおひで)の娘で、手束(たつか)と呼ばれる者でございます。父の直秀は鎌倉殿【足利持氏を言う】の恩顧の武士でしたので、足利持氏公の滅亡と両若君が結城のお城へ立て籠もりなさったことを聞くと、そのまま神坂を発ち、手勢わずか十余人を供として結城に馳せ加わりました。合戦は年を明かしましたが、若君はご武運が開かず、前月の十六日に結城の城が落とされてしまい、名のある方々とともに父の直秀も討たれてしまいました。この書状は今際の遺書です、落城のその足で家の老僕が持ち帰って、神坂へ返しに参りました」
 結城の籠城組の子女であったとは、大塚番作は驚いた。
「母は昨年からあちらの空をずっと眺めていて、物思いに耽り、果ては気弱に病んでしまいました。命が危うくなった折りも折り、無常の風の便りが届いて、結城の没落、父の最期を知らせに来た老僕さえ、傷だらけ。また帰国の疲労で、これ以上生きていることはできないと追い腹を切って、すぐに落命してしまいました。家に仕えていた者どもも、賊軍の縁座の咎を恐れて、頼り甲斐もなく早晩逐電してしまい、一人も残りませんでした」
 手束と名乗った婦人は嘆いた。
「何をしようとしても我が身は一つだけ、看病するにも親と子だけですが、音にのみぞ鳴く空蝉の秋をもまたで弱りゆく、母は今月十一日に遂に亡くなりました。葬儀のことなどは、わずかに親しき里の人々のご厚意によって、その日の黄昏にこのお寺に送って下さいました。昨日は父の初月忌、今日は母の初七日なのです。心ばかりの布施を持って、昨日も今日も亡き親の墓参りをする度に、庵主はそれはもう親切に私を慰めて下さって、しばらくの間と言って庵の留守を私に任せて出て行ったのです。このお話は戌の刻にすでにあなた様にお話ししました。このお寺は拈華といい、庵主の法名は蚊牛(ぶんぎゅう)という名だそうです。あちらこちらの人が帰依していて、我が家もまた檀家でしたので、まったく疑うこともなく頼まれても断れずに庵の留守番をして、日が暮れて」
 そこから先は言いにくそうだったが、手束は何とか切り出した。
「庵主が帰った後に、悪心あっての所業と分かりました。浅ましいことにこの法師はいつの間にか私に懸想しており、私を一晩泊めるために謀って留守を頼んで、真夜中に帰って来て、私を捉えて口説くのです。法師にはあるまじき、淫らな行為に私の胸は潰れ、拒んで近くへ寄せつけない様にしておりましたら、とうとう菜切り包丁を閃かして脅すうちにその声は高くなってしまい、遂にはあなた様に疑われ、思い掛けなく殺されてしまいました。宿世の因果でしょう、仏の弟子として色を貪り、嘘偽りを持って私を留め、強いて乱暴をしようとした天罰は、立ちどころに自分の身に及んだのです。それは悲しむべきことです」
 手束は悲しそうな顔になった。
「ですからあなた様を泊めたことを庵主に告げる暇がなく、庵主はすぐに迫ってきたので、他に人がいるとは気づかなかったはずです。あなた様はみずから顧みて、そのお疑いをお晴らし下さい。私は、結城の残党、他の人の凋落を自分の利にして、捕縛して都へ連れて行こうとするならば、逃れられるための路はないでしょう。人を殺して物を盗る賊婦などとは、思いも掛けない濡れ衣です。晴らさなくては死ねません。それだけではありません、亡き親の名を汚すことができないのです、そう思えばこそ惜しくもない命を惜しむのでございます」
 そう言って眼を拭う雄々しき少女の物語に、大塚番作は小膝を打った。
「さてはあなたは井丹三直秀様のご息女であったか。今示された一通に直秀氏と読むことができたが、同名の別人がいるかもしれないと思ってしまいました、ご事情を聞くまでは、といまだ私は名を言っていませんでした。父は鎌倉譜代の近臣、大塚匠作三戌が子、番作一戌と言います。籠城の始めから両若君を大事にお世話して、あなた様の父と我が父はともに城の搦め手を守っていたので、親しく話し合う様になりました」
 大塚番作は落城の日のことを思い出した。
「落城するになって、少し考えることがあって私は父と一緒に虎口を逃れて、両若君の後を追い掛けて、垂井まで行きました。しかし若君たちはそこで討たれてしまい、父の匠作も討死にしたのです。私は当座に親の仇である牡蠣崎小二郎という者を討取り、君父の首を奪い取り、血戦を挑んで必死に逃げました。そして一昼夜で二十余里(80キロ)も遥かに走ってきたので、三つの首を埋めようと思った矢先に、こちらの寺院の墓所に行き当たりました。おあつらえ向きに新仏がいたので、近くの土を掘り起こし、密かにそこへ埋めました」
 手束は眼を見張って、大塚番作の話を聞いている。
「その後は宿を求めましたが、私は落武者ですので吹く風の音にすら用心します。先に法師の体たらくを見て、その話を良く聞かずに私を傷つけようと思ってしまい、少しも疑いもせずに早まって法師を倒してしまいました。軽率でそそっかしい話ではありますが、知らないうちにあなた様を救い、図らずも悪僧を倒したことは天罰です」
 面はゆい様子で大塚番作は続けた。
「こう言うと、何やらあなたに懸想している様で言いにくい話ですが、結城籠城の日に直秀殿は我が父に約束をしました。若君の武運が開いて東国が平穏になったら、娘が一人いるのでご子息の嫁にいたしましょう。それは公私ともに幸いでございますので、必ず頂戴いたしますと約束をした親たちは本意を遂げずに討死にし、その子供たちはともに必死の危難を逃れてここで名乗り合う。私たちにどうにもならないのは命です。もし誤ってあなた様に危害を加え、後にそれに気づいたら、亡き親たちに手を合わせ、何と言ったら良いか分かりません。実に危ないところでございました」
 人の身の上、我が身の上を説明する言葉に真心が籠っていた。

 手束は大塚番作の話を良く聞き、件の書状を再び開いて、
「前からお名前をお聞きしておりました。思いも掛けず番作様、ここで名乗り合うとは、いつまでも変わらない縁でございましょう。これをご覧下さい、我が父の今際の果てに遺した手紙の筆跡、もう引き留めることのできない父の手紙、あなた様のことをひどく心残りに書いています。この契りは空しいものではございません、若君と親との三つの頭を埋めなさったすぐそばの新仏は、私の母の墓なのです。親と親が決めた夫婦というのも恥ずかしいことではございますが、今日からは苦難をあなた様とともに過ごしたいと思います、そのほかに望みはございません。あなた様の望む様になさって下さいませ」
 そう言って手束は顔を隠すのだった。
 一方の大塚番作はそれを聞いて感嘆し、
「図らずもここに舅と姑が塚に並んで、両若君の遺骨を守って下さるだけではなく、約束も固くあなたと私をめぐり合わせて下さった。これもまた亡き親の魂の導きに疑いはありません。あなた様と手を携えて、浮世を深く忍んで行こうと思います。しかし我々の親の喪に服さなくてはならないから、すぐに夫婦になるのは不本意である。十三か月の喪が明けてから、改めて夫婦となりましょう」
 手束はうなずいた。
「私もその様に思います。あなたはすでに蚊牛法師を殺してしまいましたが、今は誰も知りません。後に災いになるかもしれません。それを思うと神坂の私の家にも連れてはいけません。信濃の筑摩には母方の所縁があります。特にそこの温泉では刀傷に効能がありと聞きます。昔、飛鳥浄御原宮の帝、天武帝がこの温泉に行幸なさろうと軽部足瀬らに仮の宮を作らせました。そこは今も御湯と呼ばれております。私と一緒に参りましょう、筑摩の里へ」
 と勧めると、大塚番作はそれに従って、
「空が明けないうちに」
 そう言うと急いで手束を伴って、拈華庵から出て歩き出した。進むことわずか五六町(500~600メートル)で後ろを振り返れると、寺院から火が燃え出しており、進む方向すら赤く照らし出している。
 手束は驚いて、
「恐ろしい、出発する時に慌てて火を消さなかった。あれは私の過ちです」
 と呟いたが、大塚番作は笑って、
「手束、そんなに驚ないで欲しい。拈華庵は山寺で、浮世には遠い良いところだが、乱れているこの世に戒律を守り、品行の正しい清僧は稀だ。蚊牛法師すら色を貪ろうとし、そぞろに悪心を起こしていた。蚊牛が死んで後に住む者がいなければ、恐らく山賊の棲家となってしまうだろう、と思ったので出る時に、灰の中の火を起こして、障子やすだれを掛けてきたのだ。これであの寺院は灰燼と化すだろう」
 一瞬、大塚番作と手束の顔が赤く照らされた。
「蚊牛には罪があり、ただ彼は欲望を遂げられずに、我が手で死んだこと、憐れむ気持ちもない訳ではないが、やはり気持ちを落ち着けることができない。だから法師を火葬してやり、彼の恥を隠してやることは、我が一片の老婆心。またここは君父の墓地であり、燃やすことは良くないが、山賊の棲家とするには忍びない。やむを得ないことだ。私がもし後に大きな志を手にした時にはここに大きな伽藍を建立しようと思う。難しいことかもしれないけれど」
 大塚番作が諭すと、手束は番作の思いを初めて悟り、また感じ、また嘆き、拈華庵の猛火を明かり代わりにして、後に続き、時には先を歩き、道を急いで進むのだった。

 ここにまた武蔵国の大塚の里には、母と一緒にずっと忍んで暮らしていた大塚匠作の娘亀篠(かめざさ)がいた。彼女は前妻の子であるので、大塚番作には異母姉である。しかし彼女は父にも弟にも似ない不肖の姉だったので、親や同胞の籠城を思いやることもなく、まして継母の苦労や苦心をこれっぽっちも分かろうともしなかった。更に色気づく年ごろから髪を結ったり、化粧することにうつつを抜かし、それは春の日よりも長く、馴染みの男と忍びあう日は秋の夕べを短くさせていた。
 愚かなる手弱女と言っても、実の子ではないだけに母親は厳しく叱ることはできずに、ただ苦々しく思ってはいたが、その上とうとう多病になってしまった。
 そして亀篠は、同郷の弥々山蟇六(ややままひきろく)というならず者と深く交わる様になった。二人はまるでニカワで繋いだ様にいつも一緒で、少しも離れようとはしなかった。
 一層二人は仲良くなり、生死不明の父の籠城、母の苦労を幸いにしてか、婿を取るべき状況になったが、あれこれ過ごしている間に、結城の城が落とされ、父匠作は美濃路の垂井にて討死にし、弟の番作は行方不明、と今年七月上旬に大塚にも伝わってきた。ただでさえ思い悩んで病気がちな母親は、どうしてと嘆き悲しみ、その日から病床から起き上がれなくなり、白湯も水も咽喉をなかなか通らなくなった。死を待つ他になくなってしまったのだ。
 亀篠は、
「私一人では母の病を看病できない。前から頼もしき人と思っていた蟇六殿を雇いましょう」
 と言って、そのまま弥々山蟇六を家に引入れて、人目を気にして薬は与えたが、母を粗略にする始末だった。蟇六とともに食事を取る様になり、ともに夜を過ごすことをあるまじき楽しみと思う様になった。

 そのうちに母親はその月の最後の日に、四十の月を見ることなく、ついに亡くなってしまった。烏の他に泣く者がなく、某寺に送られて墓石は苔生して、墓参りする者は稀になってしまった。
 こうして亀篠は望み通り蟇六と夫婦になって、一二年を送ったころ、1443年嘉吉三年のころと思われるが、ある事件が起きた。
 前の鎌倉公方足利持氏の末の子である永寿王が、鎌倉滅亡の際に乳母に抱かれ信濃の山中に逃れており、佐久の安養寺の住僧は乳母の兄でもあったので、甲斐甲斐しく世話をして匿った。譜代の近臣でもある大井扶光(おおいすけみつ)と協力し、数年養育していると鎌倉に噂が届き、関東管領上杉憲忠の老臣長尾判官昌賢(ながおはんがんまさかた)は東国の諸将と相談して、遂に鎌倉に迎えて関八州の総大将と仰ぎ、元服させて即ち左兵衛督成氏(なりうじ)とした。
 そして結城合戦にて討死にした家臣の子孫を召出す旨の話が大塚まで聞こえてきた。
 これを例の弥々山蟇六は、時を得たと喜びつつ、急に大塚氏の氏名を冒して鎌倉に参上して、美濃の垂井で討死にした成氏の兄春王と安王の両若君に仕えていた大塚匠作の女婿であると申し立てた。そして恩賞を乞うた結果、長尾昌賢はやがて豊島の大塚に人を派遣し、
「大塚匠作の娘に連れ合ったこと、すでに明白である」
 とはしたものの、やはり蟇六の人となりに疑わしいことがあり、わずかに村長をとなることと帯刀を許し、八丁四反(13,200坪)の荘園を知行された。また大塚の陣代大石兵衛尉の下知を受けて勤める旨を命じられた。これより蟇六は瓦の屋根と門をいかめしく造り、七八人を召使い、百姓に対して年貢の過不足を責めたり、自分の田だけに水を引いたりした。
 後のことは分からないが、豊かな身分になったのである。

 大塚番作一戌は手束を伴って、信濃の筑摩に到着した。筑摩で湯治をする間に手足の傷は癒えてきたが、ふくらはぎの筋や腱が縮んでしまったのか、歩行が不自由になった。従ってそのまま筑摩に留まり、一年あまり送ると、父の喪は明けてしまい、まだ武蔵の母を訪れることができないでいた。
 今年こそ杖にすがりついてでも大塚に行こうと思ったが、その甲斐なく、今年の夏は発熱して震えるという瘧の病に掛かってしまい、秋が終わるまで立ち上がることができなくなった。憂いと闘病の苦しみに年月が経ち、嘉吉の年号も早くに三年になっていた。

【関連地図】

恐らく松本近郊の美ケ原温泉と思われます

天武帝の意を受けてこの辺りに仮の宮を作るも、天武帝は崩御されてしまいました

不自由な身で番作君はここまでよく歩きましたなあ

 

 世の中は狭く我が身を顧みず、今もなお大塚と名乗ることにはばかりを感じ、筑摩に足を留めた日から、大塚の大の字に点を加えて犬塚番作と名乗ることにしたが、生活の糧を得る仕事もない。手束はわずかに織紡ぐ麻布の糸より細く生きることしかできなかった。
 仮にも三年の流浪で貯えはすでに尽きてしまい、どうやって過ごそうかと思う折り、
「春王、安王の弟君の永寿王成氏朝臣が長尾昌賢の計らいにて、鎌倉の武将と仰がれ、戦死した家臣の子供らがあちこちに潜伏しているというので召出しなさる」
 という噂を筑摩の温泉で湯治する旅人たちが語り合っている。風聞が大きくなり、何度も聞くので、犬塚番作夫婦は深く喜び、
「今は時を待とう。例え歩行には不自由であっても、ともかくにも武蔵国に行き、母と姉にお逢いして、直ちに鎌倉に推参しなくてはならない。春王丸様の形見である村雨の刀を成氏朝臣にお捧げして、父匠作のことはもちろん、舅の井直秀の忠死の旨をご報告して、我が身の進退を君にお任せしようと思う。そうしよう」
 と話し合うと、夫婦は忙しく旅の用意をして、日頃お世話になっていた里人たちにも別れを告げて、武蔵国大塚に向かった。

 しかし犬塚番作は片足が萎えていた。杖の力を借りて道すがら手束に助けられ、数町(一町は約110メートル)進んでは休み、三四里(約12キロ~約16キロ)進んでは宿に泊まるので、思いのほか日数が掛かった。八月に信濃を出たが、ようやく十月の末になって故郷に近づいた。
 犬塚番作は今更に母の消息が心配になり、故郷から少し離れた貧しい農家に立ち寄って、
「大塚匠作という人の妻と娘はご健在か?」
 とよそよそしく問うと、家主と思われる老人が稲の脱穀をしながら、夫婦を見て、
「さてはあなたたちは連中の出世をご存じないのか。母親は亡くなって二年余り、いや三年にもなるかもしれない。母親の病の看病もせずに、娘の不孝、淫乱奔放はお話しするのも心苦しい。その婿、弥々山蟇六は皆から爪弾きされたならず者だが、大塚匠作殿の縁者を名乗って八町四反の荘園をいただき、刀を持つことさえ許されて、しかも村長になってしまった。名前も今では大塚蟇六と言う。屋敷は波切の向こう、あの辺りにあるそうな」
 といろいろ詳しく教えてくれた。
 犬塚番作は聞きながら内心驚き、また姉の亀篠の評判や蟇六の人柄を更に詳しく聞いた。
 そしてすべてを聞き終えてから外に出ると、手束とともに言葉はなく、涙を流すばかりだった。しばらくすると、犬塚番作は杖を止めて、ため息を吐いた。
「病気とは言え情けないことだ。筑摩で年を重ねて、母の臨終に間に合わず、それのみならず父の忠死を蟇六とやらに掠められて、大塚の名字を汚されてしまった。今、この件を訴えれば村雨の宝刀も我が手にあり、勝利は間違いないと言えるが、名誉と利益のために姉と争い、骨肉の姉弟の醜い争いはしたくない。従ってこの刀も鎌倉殿には献上したくない。私の姉は不孝の人だ。婿の蟇六は不義の人で裕福になった。とても頼りがたい姉夫婦に何も言いたくもない。そうは思わないか」
 と呟くと、手束も涙を拭うのみで、それは当然とも言えず、慰めることもできず、眼を犬塚番作に合わせて一緒に嘆くだけである。

 このことがあって犬塚番作は蟇六の元へは訪れず、里の古老たちのところに行き、自分の身の上、妻の身の上を隠すことなく明かし、心持ちを説明して、親の墓を守るためにこの土地に住むと言った。
 里の老人たちは犬塚番作の苦労を憐れんで、快く引き受けて、あちらこちらの人を集めて、また番作のことを知らしめると、皆は蟇六と亀篠のことを聞いて憤るのだった。
「我が村は昔から大塚氏の領分だ。一旦は断絶はしたと言っても、本領安堵の今に至って、実子の番作殿が日陰の花と萎み、姉婿とは言いながらごろつきの蟇六にすべて横領されてしまったこと、これより不幸はあるだろうか。しかし今更ながらに争えば、世間で言う証文の出し遅れ、面倒ばかりで利がない訴えになってしまう」
「弱きを助けて強きをくじくは、我々東国の者の常じゃ。憎いと思う蟇六の面当てに、ともかくも番作殿を村中の者で引き受けて、養って差し上げよう。足が萎えていても、手が折れても、安心なさるが良い」
 里の老人の一人が言えば、他の老人も同調し、更に皆は承諾した。そしてうるさいまでに騒がしく、だが頼もしく、立ちどころに衆議は一決して、番作夫婦を歓待することになった。


 こうして大塚村の里人たちは、犬塚番作のために住居を探していたが、蟇六の屋敷の向かいに古くはない空き家を見つけてやった。これはちょうど良いと購入することにして、番作夫婦をそこへ住まわした。更に金銭を出し集めて、わずかながらでも田畑も買い求めてやり、これを番作田(ばんさくた)と名づけて、夫婦の生活の糧とした。
 この行為は旧主の恩を思い、犬塚番作の薄幸を憐れむだけではなく、憎まれている蟇六夫婦に思い知らせるという意味もあった。剛毅朴訥は仁に近いと言うが、聖人の話す言葉もその上に成り立っているのだ。
 従って犬塚番作は里人たちの好意によって、決して裕福ではないが貧しさに苦しむこともなかった。名字は姉の夫に奪われているので、今更大塚に戻しても意味がないとして、ずっと犬塚を名乗り続けた。
 また里の子供たちに手習いの師範となって、親である里人に恩を報い、手束は里の女の子たちに綿を積み、衣服を縫うことを教えて、やはり親たる者たちへ恩を報い、更に里の者たちは喜んで、その年最初の野菜をいろいろとくれたり、何くれとなく結構な量の物を贈ったりした。

【時はすでに1443年嘉吉三年である。去年安房で伏姫が生まれ、今年は里見義成が誕生する。このことは第八回で示した通りである】

 蟇六と亀篠は死んだと思っていた番作が、足が不自由ではあるが妻を連れて帰ってきただけではなく、里の者たちからの尊敬を集めており、驚いた。しかも自分の家の斜め向いに移住してきた様子を見ても聞いても、妬む他なかった。
 今日は姉夫婦の家に来るか、明日は他人の口を使って非難させるか、と心配する有様であった。百歩の間に住んでいながらも、犬塚番作は一度も姉の元を訪れなかった。
 今はもうこれまでと腹に据えかねて、ある日、亀篠は蟇六と語らった上で、人を遣わせてこう言わせた。

 私は女の頼りない身だったが、母の看病は怠らなかった。親の遺言も無視できずに、蟇六殿を婿ととして招き入れ、断絶しようとしていた家を継いだことは、人の知るところである。
 それなのに、弟のお前はおめおめと戦場を逃げ出し、いたちのごとく走り隠れて、母の最期にも間に合わなかった。命が助かったのを幸いに、それなりに世間を知って女性を携え、里人たちを誑かすだけでは足らずに、すでに皆に助けを求めてその恩を被っても恥としない。
 しかもこれ見よがしに家の近くに住み、一度も訪ねようとはせず、他人に親しみ、実の姉を遠ざけて、無礼を働くとは何ごとか。
 私はともあれ、夫は大塚の家督相続者にして、すでにこの村の村長である。およそ人の心を持たず、古代中国の北方の胡と南方の越の様に心が遠く離れてしまっても、国には貴賤の差別があり、人には長少の礼儀作法があるものだ。もしそれらを知らないと言うのなら、我が村には置いてはいけない。他所の村にでも立ち去るが良い。

 犬塚番作はこれを聞いて冷笑した。
「私は不肖の息子ではあるが、父とともに籠城して主君のために命を惜しまなかった。戦場で死ななかったのは、君父のそれからの行方を見るためだ。だからこそ美濃の垂井で父の仇を討取り、君父の首を隠して、思い掛けなくも親の約束した女房の手束と名乗り合い、巡り合うことができた。筑摩の温泉で手傷を癒し、多少は治ってはきたが、歩くには不自由で長い旅には苦労した。昨年はまた長患いに一年を無駄にしてしまった。今年こそと思い起こして、杖に縋り、妻に助けられてようやく来ることができた」
 犬塚番作の瞳に怒りの色が混じった。
「聞けば母が亡くなったこと、我が姉の不孝と身持ちの悪いこと、すべて人の良く知るところだった。姉婿は何の功があって、村長という重職をお受けになり、大禄をいただくことができたのか、これは私が知らないことだ。私は父の遺命によって、春王君の刀である村雨の一振りを預かってここにいる。しかしこれを鎌倉殿に献上せず、少しも争う気がないのは、我が姉夫婦の幸いではないか。番作は本当に不肖ではあるが、不孝な姉を見るに忍びず、不義の姉婿にもへつらうことができない」
 そして使者にこう言い放った。
「それでもここを追い出すと言うなら、是非には及ばない、鎌倉へ訴え出て、公式の裁きにお任せいたそう」

 使者は帰って犬塚番作の話した内容を言えば、亀篠はもちろん、蟇六は困って、また断腸の思いになったが、人の弱点を指摘しようとして、かえって自分の弱点をさらけ出してしまう、ということにようやく気づいて、この後は何も言わなかった。
 犬塚番作は杖に縋って、母の墓参りをする時など、ばったり蟇六と顔を合わすことがあっても、話すことはなかった。

 こうして十年余りの年が経った。
 1454年享徳三年十二月、鎌倉公方の足利成氏が、亡父の怨敵である関東管領上杉憲忠を計略によって呼び寄せて誅殺してしまうという事件が起きた。
 これにより東国は再び乱れて、次の年康正元年【里見義実が滝田城に籠城し、安西景連が滅亡した年である】には、足利成氏の軍が破れて、上杉憲忠の弟房顕(ふさあき)、その部下の長尾昌賢らによって、鎌倉を追放されてしまい、下総古河の城に籠って、合戦をまた繰り返し、数年に及んでいた。

 このころ大塚番作、いや犬塚番作はつくづく考えていた。
 
 今は戦国の習いとは言え、下位の者が上位の者を廃し、順序や秩序を覆していく下剋上という世のたたずまいが流行っている。それを見ても、私の薄幸な運命など嘆くには当たらない。
 ただ後継ぎがいないことだけが不孝というが、女房手束を娶ってから十四五年の間、男の子を三人まで産ませたが、すべて赤子の時に亡くなってしまい、一人として育った者がいない。
 自分と手束は同い年で、早くも私たちは三十路の齢を過ぎている。これ以上、子供を設けるのは難しいだろう。それだけが心残りだ。

 不満がましい夫の呟きを聞いて、手束も同じ様に僻んでいた。

【わが心 慰めかねつ 更級や 姥捨山に 照る月を見て】という古歌があり、意味は、自分の心を慰めることはできない。更級の姨捨山に照る月を見ていると、ということだ。
 ある男が、妻にそそのかされて、親のように養ってもらってきた伯母が年を取ったので山に打ち捨ててきたものの、家に帰って、山の上にある月を眺めていると、悲しい思いに反省し、伯母を連れに戻ったという話だ。

 ともかく手束も自分の心を慰めきれずにいたが、たちまち考えを改めて、滝野川の弁財天はこの辺りでは古いお社であり、霊験ありと人が噂しているので、祈れば応報が必ずあるだろうと思い立った。早速夫に告げて、次の日から朝早く起きて、滝野川弁財天に日参し、子宝を得ることを真剣に祈った。

【関連地図】

大体のイメージです

大塚から滝野川は今でもそんなに遠くありませんね

今なら都電ですぐ行けてしまいます(笑)


 今年1457年長禄元年の秋から初めて、【伏姫が八房に伴われて、富山の奥へ入った年である】三年の間、一日も怠らなかった。

 時に1459年長禄三年、【伏姫が自決した翌年である】、九月二十日過ぎのことであるが、手束は時間を間違えてしまったのだ。夜明けに残る月影を登る日の出と勘違いしてしまい、急いで宿所を出て、滝野川の岩屋殿に参詣した。宿所へ戻ろうとするが、夜はまだ明けていなかった。
「遅いな」
 と呟きながら、秋の露を払いつつ帰る途中、田の畔で捨てられたと思われる犬の子を見つけた。犬の子は背が黒く、腹は白く、人待ち顔に尾を振って、手束の裾にまとわりつくのである。
 追い返しても追い返しても手束をまた慕って着いてきて、離れる様子もないので、とうとう持て余しつつ立ち止まって、
「ここまで人を慕うものを誰が捨てたりしたのか、良く見れば雄の犬だ。犬はたくさんの子を産むし、子供は必ず育つ。それにあやかって赤ん坊の枕に犬の張り子を置くのだ。神様へ歩みを運んで、子供を授けて欲しいと祈っているのに、どうしてこれを拾わないでおれようか。連れて帰ろう」
 と独り呟き、子犬を抱き上げようとした瞬間、南の方角に紫の雲がまっすぐにたなびいて、地面すれすれに黒白の斑の老犬に座った艶やかに美しい一人の山姫が現れた。
 山姫の顔は、古代中国の楚の国の宋玉が夢に見たという神女の面影を留めており、或いは三国時代の魏の曹植が筆を託した洛神賦、洛水の女神の様に見える。
 山姫は左手にたくさんの珠を持ち、右手で手束を招きながら、しかし無言で一つの珠を投げた。

 

【庚申塚に手束、神女に謁す】

犬に乗った山女にて神女。果たしてその正体は……ご存じですよね。

漫画みたいに集中線が入ってますね、凄い!!

 

 手束はこの奇跡を見て、恐る恐る畏まってはいたが、投げられた珠を受け止めようと手を伸ばしたが、珠は指と指の間を洩れて、ころころと子犬の近くに落ちてしまった。犬の周りをそこかと探しても、どこを探しても見つからない。
 不思議なことだと天を見上げたが、紫の霊雲はもう跡形もなくなっていて、神女も老犬の姿も見えなかった。これはただごとではないと思って、再び子犬を抱き上げて、急いで宿に戻り、今起きたことを夫の犬塚番作に告げた。
「神女の姿は山姫というものに似ていて、弁財天ではないようでした。山姫が授けようとして下さった珠は、子種だったかもしれませんが、見失ってしまいました。願いごとがかなわないかもしれません。心残りです」
 と言えば、犬塚番作はしばらく考え込んでいたが、
「いや、そうではない、その神女は黒白斑毛の老犬に乗っていらしたのだろう。それに私の氏は大塚だったが、犬塚に改めた。また私の名は一戌だ。一戌の戌の字はすなわち干支の戌であれば、名は本質を示す、の言葉通り、頼もしい。しかもお前は、求めてもいなかったのに子犬を得たではないか。念願成就の前触れに違いない。その子犬を逃がさないで育ててみよ」
 と諭した。
 手束はなるほどと思ったが、半信半疑だった。
 しかし犬塚番作が論じた様に、手束はしばらくすると身重になって、1460年寛正元年秋七月、戊戌の日になって無事に男児を産んだ。
 この子は名にしおう八犬士の一人にして犬塚信乃(いぬづかしの)と呼ばれる者である。信乃のことはなお後の物語で詳しく描かれるだろう。

 犬塚信乃の列伝は、父祖の詳細まで細かく述べたがその他のことは省略する。
 これより後、七犬士の列伝に至っては、それぞれの家伝を省略し、ただその人の身上を描くものである。物語を綴り、義を演じる、用心には用心を重ねよう。
 読者はよろしく察して欲しい。

(続く……かも)

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なぜなに八犬伝Ⅲ

2024-09-10 01:21:58 | 南総里見八犬伝

第十一回から第十五回まで超意訳:南総里見八犬伝をお届けしました。
ようやく安房編伏姫の物語が落ち着き、犬士列伝に入っていくようです。
気になったあれこれについて書いてみます、どうかおつきあいのほどを。

 

①中将姫伝説
第十二回で、姫の心映えは、横佩大臣(よこはぎのおとど)と呼ばれた右大臣藤原豊成の息女である中将姫(ちゅうじょうひめ)にも等しい、と中将姫が出てきました。

詳しい逸話は下記Wikiをご覧下さい。

 

中将姫 - Wikipedia

 
 

當麻寺 - Wikipedia

 

二上山と当麻寺に行ったお話はこちら。

 

二上山に登って、当麻寺に行ってきました - 馬鹿琴の独り言

2024年7月6日奈良県の二上山(ふたがみやまではなく、にじょうざん)へ登って、当麻寺に行ってきました。出発は大阪の阿部野橋から、近鉄南大阪線でたった30分。藤井寺、道...

goo blog

 

曼荼羅を蓮の花で作った場所も見て参りましたが、ちと信じにくい感じです。
現物の曼荼羅も見ることができず、不完全燃焼でした。

まあ、中将姫のお話は継子虐めと仏教説話潭ですね。
中将姫のふるまいと等しく、伏姫の行いは立派だった、という引合いにされてしまったのだと思います。
ちょっと可哀そうな、咬ませ犬的な中将姫さん(´・ω・`)

 

②生の腕を生んだ話
第十二回で不思議な童が出てきます。
まあ生意気で腹が立つ神童なのですが(笑)、生の腕を生んだ話を例え話として説明します。
あんまり聞いたことがないので、調べてみました。

と思ったらWikiまでありましたよ。

手孕説話 - Wikipedia

手孕説話(てばらみせつわ)は、女性が、その身体に男性の手が接触したのが原因で孕み、片手を産んだという説話。

この説話を地名の起源とする土地に、滋賀県旧手孕村(現在の栗東市手原)があり、『広益俗説弁 遺篇』その他に記載がある。兵庫県旧手孕村にも村名の起源として同じ説があり、下総結城の手持観音の縁起もおなじ筋を説く。

下総結城、というのが引っ掛かりませんか?八犬伝世界と微妙にリンクしている様な、違う様な(笑)

こんなブログもありました。

 

『手原駅前にある腕の像の意味』

先週に「ざ・ろかたりあん」更新の案内を書きましたが、今回はその中で登場したJR「手原(てはら)」駅に関して書きたいと思います。 怪しげな腕の石像を気にしつつ …

ふらろぐ

 
 

手原地名由来と手孕ベンチ : 紗蘭広夢の紗らり筆まかせ

7月10日(水)の3413:36   稲荷神社稲荷神社の前に、手孕(てはらみ)ベンチと、赤い三角の石が山のように連なる石碑がありました。手孕ベンチ手孕ベンチ石碑案内文「     手孕...

紗蘭広夢の紗らり筆まかせ

 

手原駅のオブジェ怖すぎ(笑)

歌舞伎と文楽に源平布引滝という演目があり、女性が産んだのは手だったという哀しくも怖い話。
馬琴翁は舞台を見たのでしょうかね。

 

③鉄砲伝来の謎
鉄砲伝来は、通説では1543年天文12年8月25日、大隅国の種子島、西村の小浦に一艘の船が漂着したことが、始まりとされています。
えーと第十三回で金碗大輔が鉄砲を撃ったのは1458年長禄二年ですから、あれ?計算が合いませんよ。

仕方ない、八犬伝世界ではポルトガル船漂着前に鉄砲が伝わっていたことになる訳です、としましょう。

 

④二つ玉とは?
第十三回で、

飛来した二つの弾の一つに八房は咽喉を撃ち抜かれて、煙の中にはたと倒れ込んだ。
もう一つの弾は伏姫の右の胸を撃ち、あっと一声叫んで、経典を手に持ったまま、姫は横に転ぶのだった。

とあります。
この二つの弾については、栗八さんからコメントをいただき、

Q:玉の弾を2つ込めたということですかね?
とあり、私は、
A:玉は2発撃っているようです。連射式か2回引き金を引いたかは分かりません。

としました。連射式か2回引き金を引いたか、って同じこと書いてますやん、私(´・ω・`)
調べていくとやはり歌舞伎にぶち当たりました。
仮名手本忠臣蔵五段目二つ玉の段というのがあります。

文楽編・仮名手本忠臣蔵|文化デジタルライブラリー

「二つ玉」という呼び方は、歌舞伎では、揚幕(あげまく)の中と花道に出てからと、早野勘平が2度鉄砲を撃つからだとも、大きな猪を撃つとき、通常の2倍の火薬を使うからだともいいます。

ふーむ、何かしっくりこない。

他に検索すると、戦国のゴルゴ13、杉谷善住坊が出てきました。

 

【戦国こぼれ話】「戦国のゴルゴ13」杉谷善住坊は、織田信長の狙撃に失敗して悲惨な最期を迎えた(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

 9月24日に漫画家のさいとう・たかをさんが亡くなった。さいとうさんの代表作は、「ゴルゴ13」である。ところで、「戦国のゴルゴ13」と言えば杉谷善住坊であるが、...

Yahoo!ニュース

 

杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎(六角承禎)に憑まれ(たのまれ)、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候

信長公記ですが、ここでも善住坊は2発の銃弾を放った、とされていますから、やはり二連発なんですかねえ。

それもしつこく検索すると面白いものを発見しました。
信長には鉄砲の師匠がいました。橋本一巴さんです。
愛知県稲沢市のHPに逸話がありました。

 

稲沢のむかしばなし 鉄砲の名人と弓の達人 | 稲沢市

稲沢市

 

子供向けで平仮名が多いのですが、

一把のもっているてっぽうから、火がふいた。
”ズドーン”
てっぽうには、二つの玉が、こめられていた。

ですって!!
1回の発射で2発の弾を撃ったのですよ!!

更に城郭研究家長谷川博美さんのブログにもこうありました。

 

2つ玉を使う、戦国鉄砲名人2人 尾張一色城の謎 - 城郭 長谷川博美 基本記録

https://youtu.be/i1CnB7XQwGk城郭ビイスタ論上文字クリックhttps://youtu.be/EE7JARecV8M北近江城郭鳥瞰図上文字クリック★★2つ玉を使う、戦国鉄砲名人2人尾張一色城の謎対...

goo blog

 

下段で上記の橋本一巴の話と二ツ玉のことに触れています。

対談者
ニツ玉って一体何ですか?★★

長谷川★★
鉄砲玉を2個込めた被弾性の高い殺傷能力のある鉄砲!従って当時の合戦でニツ玉鉄砲を使う砲術家は名人級!

一般様★★
ニツ玉鉄砲を使うのは橋本一巴だけと言うことですね?

長谷川★★
いいえ!杉谷善住坊もニツ玉を使う鉄砲名人なのです!

橋本一巴のWikiには、2発の弾丸を込めることとして、紹介されています。

橋本一巴 - Wikipedia

従って散弾銃ではありませんが、1回の発射で2発の弾が飛んだ、これならしっくり来ます。

更に検索。

ノート:火縄銃 - Wikipedia

火縄銃のWikiのノートです。
真ん中くらいに、火縄銃の進化について意見が述べられています。

(信長公記)の中にある信長狙撃事件の記述で「ふたつ玉にて打ち申し」という記述、もう一カ所鉄砲名人と弓の名人が騒乱中に対決した記録でも「ふたつ玉にて云々」という記述。(橋本一巴さん?)
これを二連式銃によるとか、二梃の銃を取り替え射撃したと書いた小説家がいますが、これは根拠を示すことの出来ない想像創作です。
可能性が高い二つ玉とは各種伝書に共通して現れる二個の弾丸を紙と糸でくくり合わせた一種の散弾で、命中確率もしくは殺生力が非常に高いと信じられていたものだと思われます。

長谷川さんと同じ意見がですかね。
1つは狙い通り、八房の咽喉を撃ったまでは良かったのですが、もう一発は姫の胸に当たってしまったのです。
発射音も1回しかないし、これでスッキリしました。あなたもそう思うでしょ!!(半ば脅迫)

 

⑤犬を何度も殴る金碗大輔はんの恨み
第十三回は陰惨なシーンがあり、突込みも多くなります。

そして鉄砲を振り上げて、倒れた八房を五六十度も叩いた。骨を砕き皮は破れ、もう甦りそうもないのを見てから、若き狩人はにっこりと笑って、鉄砲を投げ捨てた。

……やり過ぎじゃないの?
動物愛護協会からクレーム来るわ、こんなに叩いたら。
鉄砲の様に重い物を持って叩くとしても、5、6回で息が切れますわ。
まだこの時点では、里見義実が姫の婚約者として金碗大輔を指名していないので、恋敵の恨みとも言えなさそうです。
は、それとも実は金碗大輔は姫を慕っていて、犬に取られたから復讐をした、それなら……いやそれでも50回も60回もやっぱり無理です。

 

⑥父を小禄とか言ってしまう番作君
第十五回、番作はお父上の匠作に対してこんな失礼なことを言うのです。

「ご安心下さい、ご教訓、ありがたきまでにかたじけなく、すべて忘れません。小禄のご身分であっても我が父は鎌倉殿足利持氏公の家臣でございました。私は本当に不肖な息子」
ホンマに不肖な息子やで、番作君。
他人に対して、我が父は小禄ではございましたが、精いっぱいお仕えいたしました、なら分かるのですが、本人に対して言うなんて。

匠作さんも、あ、俺ってやっぱり小禄だったんだ、息子はそんな風に思ってたんだ、となってしまいますよ。

もっとも殿の側近である近習というのは、江戸時代ではかなり身分が低く小禄だったそうです。
赤穂浪士なんかその典型だそうでして、近習の俸禄は微々たるそうでして。室町期はどうか分かりませんが。

 

⑦首を三つ持って、叫び、戦う番作君
垂井金蓮寺から木曾神坂峠まで126キロ、不眠不休、飲まず食わずで走った番作君。
いや途中で水くらいは飲んだのかもしれません。川とか滝とかで。

そもそもですよ、第十五回の挿絵を見て下さい。
右手は宝刀村雨、左手で2人の若君の首を持ち、口で匠作さんの髷を咥え、叫ぶのです。

「足利持氏朝臣恩顧の近臣、大塚匠作三戌が一子、番作一戌十六歳、親の言いつけを断ることができず、戦場から逃れ出た。父には知らせず、私もまた君父の先途を見果てるつもりで、ここまでやってきたのだ。その甲斐あって、親の仇は討ち取った。我と思わん者は、捕まえてみよ」

超絶カッコ良いです。

で  も  ど  う  や  っ  て  叫  ぶ  の  ?

乱戦修羅場で首を離すことは、至難の技ではありませんか。下手したら蹴飛ばされてサッカー状態になってしまいます。
仮にも父の首ですから、乱暴には扱えないでしょう。

それともお父上の首を地面に置いて、警固隊に対して、
「ちょっと待ってね、今名乗るから、首を置くね。手出ししたら駄目だよ」
とか言ってから名乗ったのでしょうか。

右手の宝刀村雨は武器ですからもちろん手放すことはできない、左手の若君たちの首は一番大切ですから置くのはもっと無理。

やはりお父さんの首を一瞬離してから、名乗ったとしか思えません。

左手で3個持ったのかなあ。
ちなみに首の重さですが調べてみました。
整骨院の方のHPでは、大体体重の10%だそうです。平均4キロから6キロなんですって。

 

※「頭の重さ」って何キロくらい?:2018年11月9日|整体院 みどり健康館のブログ|ホットペッパービューティー

【ホットペッパービューティー】※「頭の重さ」って何キロくらい?|整体院 みどり健康館の加藤 浩さんの2018年11月9日のブログをご紹介。気になるお店の雰囲気を感じるには、...

ホットペッパービューティー

 
 

戦国時代 首をとるその訳とは  首の重さは平均6キロある : 新令和日本史編纂所

戦国時代 首をとるその訳とは     首の重さは平均6キロある軍記物などをよむと、合戦の折、草縄であんだ袋へ西瓜のように入れて、三つも四つも腰にさげて歩いたというが、...

新令和日本史編纂所

 

若君は春王丸が11歳、安王丸が10歳で処刑されています。
なぜなに八犬伝Ⅱで使用した明治33年以降5か年ごと学校保健統計:文部科学省を見てみましょう。

5 明治33年以降5か年ごと学校保健統計:文部科学省

11歳が27キロ、10歳が25キロですから、体重の10%として2.7キロと2.5キロ、足して5キロ!!

匠作さんは年齢不明、この表では50キロしましょうか。10%は5キロ。

3つの首を持つとおよそ約10キロです。これを持って、戦い、走って、しかも126キロを走るのです。
ビックリするほどタフな男ですね、番作さん。凄いわあ。


以上なぜなに八犬伝Ⅲでした、でわまた。

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超意訳:南総里見八犬伝【第十五回 金蓮寺に大塚番作、仇を討つ/拈華庵に手束、客を留める】

2024-09-08 23:38:35 | 南総里見八犬伝

 前回までにすでに説明を終えていることだが、伏姫が富山に入ったころは、十六歳の時であり、1457年長禄元年の秋である。
 また金碗入道ヽ大坊は、1441年嘉吉元年の秋、父孝吉が自決した時はすでに五歳であったので、1458年長禄二年富山での伏姫昇天の憂いごとに関わり、俄かに出家して身も心も雲水に任せつつ、仏門修行の門出を出発した。この時二十二歳である。伏姫は年齢わずかに十七で昇天したので、ヽ大坊は姫より五歳年上ということだ。

 長禄という元号は三年にして寛正に改まり、また六年にして文正と改元される。そして文正も元年だけで、また応仁と改められる。これもたった二年にして、文明と改元されてしまった。
 応仁の乱が治まって、軍馬の蹄の跡もようやくなくなり、名前だけの花の都は、元の春のころに立ち返りつつあり、のどかになっていくも、このころのことと言えば、

【1473年文明五年春三月に西軍の山名宗全が病で亡くなり、五月に至って東軍の細川勝元もまた病で亡くなった。ここにおいて東軍西軍の合戦は、決着が着かずに終わった。これを応仁の乱と言う】

 文明という年号のみ長く十八年まで続いた。ここで年月を数えれば、伏姫のことがあってヽ大の行脚の出発した前回、1458年長禄二年から今文明の末までおおよそ二十余年及んでいる。この期間の、犬塚信乃が生まれる前のことを述べよう。今回はまた1441年嘉吉に始まって1487年文明のころに至る話である。

 後土御門天皇の御代、常徳院足利義尚公が将軍であった寛正か文明のころと思われるが、武蔵国豊島郡、巣鴨(すがも)と大塚の里外れに大塚番作一戌(おおつかばんさくかずもり)という武士の浪人がいた。その父匠作三戌(しょうさくみつもり)は鎌倉公方、足利持氏の近習であった。1439年永享十一年足利持氏自害の時に、大塚匠作は忠義の近臣たちと謀って、持氏の子息である春王、安王の二人の若君を守って鎌倉を脱出した。
 そして下野国に行き、結城氏朝に招かれて、主従ともども城に立て籠もり、寄せ手の大軍を引き受けたのである。防戦一方であったが、年を重ねても士卒の心は一致して、弛む気配はなかった。しかし、1441年嘉吉元年四月十六日に巌木五郎の裏切りにより、思い掛けなくも攻め破られてしまった。
 大将結城氏朝父子はもちろん、味方の諸将から恩顧の士卒に至るまで、わき目も振らずに出撃して、奮戦するものの、時が経てば一人も残さず討死し、二人の若君も生け捕られてしまった。

 この時、大塚匠作は今年十六歳の一子、番作一戌を呼んで、すぐにこう言った。
「寄る年波の老いた身だが、生死のことは考えずにここまで来た。百年千年後までもとお守り致そうとしていた両公達もご運つたなく、防戦するも遂に思うようにならず、諸将も死んでしまい、城は落ちようとしている。主君もこのままでは辱めにあうだろう。臣たる者、死すべき時が来たのだ。しかしお前は部屋住みだ。まだお仕えしていない身の上であるから、ここで犬死にすべきではない」
 同じ様な会話が、近くで繰り返されているのかもしれなかった。
「先に鎌倉を落ち延びた時、お前の母と姉の亀篠(かめざさ)は、わずかな縁を頼りに武蔵国豊島の大塚に忍んでいる。あそこはお前も知っている通り我が先祖の生国であり、すなわち大塚の荘園であるが、今はもう名前だけですべて他人の土地である。誰が母と姉を養ってくれるだろうか。これもまた苦しいことだ。お前は生き永らえて、大塚の里に行き、父の最期を告げて、母に仕えて孝行を尽くせ」
 大塚番作は身を震わせて父の言葉を聞いた。
「しかしながら私も犬死にはせず、若君が捕らわれなさったと言っても、柳営、すなわち幕府のご親族だ。さすがにご一族であれば、そう簡単にはお命には及ぶまい。私もどうにか切り抜けて、密かに後を追い、どうにか若君たちをお救いしようと思う」
 後に幕府の裁定は、そんなに甘いものではないと気づかされることになる。
「しかし大きな建物が傾く時、一木では支えることは難しいものだ。お救いできない時には討死して、黄泉路のお供をするつもりでいる」
 匠作は息子に刀を見せた。
「これは主君重代のご佩刀、村雨と名づけられたものだ。この刀については、様々に不思議な話があるのだが、殺気を含んで刀身を抜けば、刀の根本から露を滴るのだ。まして人を切る時には、露の滴りがますます強くなり、刀身の鮮血を洗って流し、刃をきれいにする。例えば、強く降ってすぐ止む雨、すなわち村雨が葉の先端を洗うのと似ている、というところから村雨と名づけられたのだ。実に源氏の重宝であるから、先君足利持氏公が、春王君に早くから譲られなさって、護身刀にされた。若君は捕らわれなさり、今ご佩刀は我が手にある。私が本意を遂げられず、主従が落命してしまえば、この刀は敵に取られてしまう。それではますます残念なことになる。従ってお前に預けようと思う。若君がこの危機からお逃げになることができ、再びこの世に立身なされた時には、一番に馳せ参じてこの宝刀をお返しせよ。また若君も私も討たれてしまったら、これは君父の形見となる。宝刀を主君と見立てて、菩提を弔うのだ。決して粗末に扱ってはならない、良いな、分かったか」
 と説明し、錦の袋に包まれたままの腰に帯びていた村雨の宝刀を我が子に渡すのだった。

 大塚番作は十六歳の少年ではあったが、心意気は逞しく人並み以上に勝っているので、尚も思うことがあった。一言一句も父に逆らうことなく、うやうやしくひざまづいて宝刀を受け取り、
「ご安心下さい、ご教訓、ありがたきまでにかたじけなく、すべて忘れません。小禄のご身分であっても我が父は鎌倉殿足利持氏公の家臣でございました。私は本当に不肖な息子ではございますが、ご主君と父の必死のご奮闘を外から見て、逃げろとのご命令をを喜びましょうか。しかし名を惜しんで誹りを顧みて、父子が一緒に死んでしまえば、それは名声に似て、実は君父にまったく利益がございません。生き延びて母と姉を養えとおっしゃる父のお慈しみは、私だけのことではなく、親子三人の身の上に関わることであり、どうして断るができましょう。とは言え」
 大塚番作は笑おうとしても笑えないでいた。
「再会はきっとかなわないでしょう。ここでお別れでございますので、私、先鋒を仕ります。せめて親子一緒に虎口を逃れましょう。父の鎧の縅毛は派手で目立ちます。雑兵の革具足の袖を外しますので、それにお着替え下さい」
 と父を慰めながら甲斐甲斐しく、逃げ延びる支度を急がせる。
 父は涙で乾かない眼尻を拭いもせずににっこりと笑った。
「番作、良く言った。お前はひたすら血気に逸り、一緒に死にましょうと言って言うことを聞かず、また言いつけを守らないだろうと思っていた。この父親も恥ずかしくなるほどの親孝行者である。元から覚悟はできているので、私も雑兵らに混じって、ひとまず虎口を逃れよう」
 父は息子の進言を聞いてくれたと、大塚番作は少しだけ安堵する。
「しかし共に親と子が一緒に走れば、策略がないも同然。お前は先に落ちるのだ。私はまた搦手から道を変えて走って行こう。急げや急げ」
 と焦燥する声も激しくなった矢の音、戦場の声に紛れていく。攻め入る敵軍、必死の城兵、討たれるもあり、討ち取るもあり、名もなき城方の端武者は足に任せて、風に落葉が舞う様に塀を越え、堀を渡って、道なき道を求めながら、散り散りばらばらに逃亡していく。
 それに紛れた大塚親子も辛くも城中から脱出し、親は子を見つけようとするが、遂にその姿も影も見ることができなかった。子もまた親を探そうとするが、逢うことは決してなかった。

 そもそもこの下りは、第一回の巻頭に描写された結城合戦の落城の時、里見季基が遺訓を伝えて嫡男義実を落とした時と同日のことだ。里見季基は義を重んじる智勇を備えた大将、大塚匠作は誠忠に満ちた譜代の近臣、官職には差があったが、述べることは私事に及ぶものの、恩義のためにその身を捧げ、我が子のために教えを残すという、両者の心は符節を合わせたかの様である。
 人の親としての慈しみは、おのずから出た誠だった。

 こうして大塚番作は、父の必死の戦いを見ながらも、生き延びることは難しいと思った。
 しかし今は火急の時である。父の願いをかなえるのであれば、その今際に思いを馳せ時間を掛けている間に、父子が捕らわれては後悔も立たないことになる。
 一旦悩んだが思いを断ち切って、大塚番作は城中を逃れ出た。袖の印を捨てて、髪を振り乱し、顔を隠して、敵兵の中に紛れていく。そして二人の若君の行方を探すことにした。

 二人の若君を思う心は、父の大塚匠作も同じであった。彼も敵陣に忍び込み、ことの次第を窺うと、春王、安王の兄弟は関東管領上杉清方の部下である長尾因幡介の手中に捕まり、征討軍解散後に鎌倉へ送付される予定と分かった。
 大塚匠作はなおも姿形を変え、成行きを見ようと、結城城落城後一か月後の五月十日過ぎに以下のことが分かった。
 上杉清方は長尾因幡介を警固使として、小笠原信濃介政康を副使として、二人の若君を粗末な駕籠付きの輿に乗せて、京都へ登るというのだ。
 大塚匠作はこの時も小笠原政康の従卒に成りすまして、陰ながら若君たちの供をして、何とかして都への道中の間に救い出そうと考えた。しかし警固の軍勢二百余騎が四方八方を取り囲み、夜も徹夜で本陣にかがり火が灯され、幾つもの隊の指揮官が交代で警備をしており、少しも油断がない。匠作はいろいろと手立てを考えたが、まったく隙がないのだった。

 二人の若君を護送する旅は、五日六日と日を重ねていくうちに、五月十六日に美濃の青野ヶ原を過ぎた。そこへ京都の将軍の使者が訪れて、
「両公達を今更都へ入れずに、路地にて早く処刑せよ。首のみ都へ運べ」
 と固く命令を下した。
 長尾因幡介たちはこれを受けて、美濃路垂井の寺院の金蓮寺に駕籠輿を運び入れた。その夜は住職を戒師として、形式的ではあるが手続きを取った。矢来の四面にかがり火を焚き、春王と安王を敷革の上に座らせて、最期のことを告げた。
 長尾がため息を吐いて退くと、住職は数珠を鳴らし、若君たちにの間近に進んで、静かに丁寧に、仏の道を説いた。春王はおとなしく、弟の安王に対して、
「捕らわれたその日から、いつかこうなると分かっていた。思えば先月結城にて結城氏朝を始めとして、我らのために討ち死にしたたくさんの武士の月命日を迎えるところに、私たち兄弟がその日に死ぬのはせめてもの罪滅ぼしになる。嘆くことはない」
 と慰めると、安王はただうなずき、
「西方とやら、浄土とやらに父君も母君もいらっしゃると人々が教えて下さいました。ですから死して再び亡き親にお逢いできるので悲しいことなどありません。でも冥土の道を良く知らないので、それだけが心細いのです。気後れなさいますな」
「分かった、気後れはすまい」
 とお互いを諫め、励まし合い、泣き騒ぐこともなく、小さな手を合わせて早くも眼を閉じてその時を待つのだった。
 長尾の老臣である牡蠣崎小二郎(かきさきこじろう)、錦織頓二(にしごりとんじ)が刃を持って後ろに立った。これを見た長尾も小笠原も、痛ましいことよと涙ぐみ、雑兵まで鎧の袖を濡らした。
 人々の後方でこれを見る大塚匠作は声も出ず、涙だけは泉の様に湧き、胸は潰れそうになり、そのはらわたはちぎれた。

 私はここにおりますと名乗れるならともかく、名乗られず、深い主従の暇乞いを迎えて、何も言えないのだ。何もできないのだ。
 憤然として思うのは、阿修羅の様に三面六臂があっても、この期に及んで若君をお救い出すことができない、ということだ。殉死して追い腹を切ることはたやすいが、せめて当座の仇敵である長尾を討って私も死のう。いやここは遠すぎる。もし仕損じてしまったら、無駄だ。
 よし牡蠣崎、錦織たちであれば、主君の仇としては一緒だ。奴らを討ち果たして、黄泉路への道しるべを仕ろうと、腹の中で思案し、臍を固めて、刀の目釘を口で湿らした。若君たちの西を巡り、東に行き、少しでも近づこうとしていると、二人が太刀を取り、声とともに刃の光が煌めいた。
 憐れむべきことに、二人の若君の首ははたと地面に落ちていた。
 大塚匠作はああ、と叫び、取り囲んでいた警固の武士を踏み越えて、処刑場の中に躍り入った。
「若君たちの世話役、大塚匠作、ここにあり。恨みの刃を受けよ」
 と怒りの大声で名乗り、二尺九寸(約87センチ)の大業物の刀を抜いて、鋭く振った。刃は、錦織頓二の肩先から胸までをばっさりと切り倒した。
 牡蠣崎小二郎はひどく驚いて、さては曲者め、逃がすものか、と首を切って血に濡れたままの刀を閃かして、素早く振った。それは大塚匠作の右の腕を一瞬で切り落とし、弱ったところを畳み掛け、次に牡蠣崎小二郎は細首を落としてしまった。

 その途端、陣笠を被った一人の雑兵が、群がって騒いでいる兵士たちを押し分けて、やはり処刑場の中に飛び込んできた。そして二人の若君の首を髻こと左手で掴み、更に大塚匠作の首を拾い上げた。匠作の首は髷を口で咥えて、都合三つの首を持ったことになる。
 陣笠を被った雑兵は、腰刀を片手で抜く手も見せず、牡蠣崎を唐竹割に切り伏せた。思いもがけないことに、二百余人の兵士たちは、あれはあれはとどよめくのみである。近くにいた者は呆れるばかりでなすすべもなく、遠くにいた者は手前で騒ぐだけの者に遮られてどうしても進むことができない。
 その隙に例の陣笠の男は、顔を隠していた陣笠を破って捨てて、
「足利持氏朝臣恩顧の近臣、大塚匠作三戌が一子、番作一戌十六歳、親の言いつけを断ることができず、戦場から逃れ出た。父には知らせず、私もまた君父の先途を見果てるつもりで、ここまでやってきたのだ。その甲斐あって、親の仇は討ち取った。我と思わん者は、捕まえてみよ」

【怨みを報いて大塚番作、君父の首を隠す】

奮戦する大塚番作君16歳。

左手に両若君の首2つ、口にお父さん匠作さんの首を咥えて無双中。

若君の仇の錦織頓二さんはすでに首だけになっています。牡蠣崎小二郎さんは唐竹割りにされて、昇天中。

 

 と叫ぶと、長尾因幡介はきっと睨み、
「さては結城の残党がいつしか紛れ込んでいたぞ。あれは二十歳にも至らない童の分際で、何ほどのことができようか。奴を生け捕れ」
 と命令を下した。
「承った」
 数多くの士卒が乱入者を捕まえようと処刑場の中に入ろうとするところを、大塚番作は、真向から梨割り、横から薙ぎ払う車切りといった秘術を尽くして迎え撃つ。その太刀風は草が風になびく様に、紅葉が散る様に、その切っ先に立ち向かう者は皆、深手を負うのだった。
 それは大塚番作の刀が名にしおう村雨だからである。刀の奇瑞は間違いなく発現し、振るたびに切っ先から湧き出る水が霧の様に四方八方に降り掛かるのである。燃えていたかがり火が打ち消されていく。時は皐月(五月)の空であったが、昼の雨雲が更にどんどん重なり、十六日の月がまったく見えず、真っ暗闇となってしまった。
 長尾因幡介の士卒は同士討ちをしてしまい、手傷を追う者が増えていくばかりである。
 大塚番作は、この光景を見て天の助けと更に気合が入る。敵を打ち倒し、切り開き、処刑場の外に出ることができた。そして大勢の敵兵の中に割って入り、隙を窺って金蓮寺の墓場から藪を抜けて、堀を飛び越え、行方知れずとなった。

 油断大敵とは正にこのことであった。世間に慣れた長尾因幡介ではあったが、名剣の奇跡発現によりかがり火を消されてしまい、曲者を捕まえることができず、あまつさえ春王と安王の首を奪い取られ、面目を失うことになった。
 しかしそのままにしておけないので、京都へ使者を走らせて、まず室町将軍へ事件の報告を行い、その夜から四方八方へ手分けして大塚番作の行方を探索させた。だが遂に分からず、いたずらに日々を送るだけであり、京都へ送った使者が帰ってくる始末であった。
 帰ってきた使者が将軍の御教書を取り出し、長尾因幡介はうやうやしく受け取り、中を見た。大略として以下のことが書いてあった。

 春王、安王の首を奪い取られたことは大きな失態ではあるが、すでに処刑しているので、首を盗んだ者には利益もなく、国家に取っては実害はない。
 よって長尾因幡介の今回の軍功に替えて、と幕府は考え、その罪を問わず寛大な処置を取る。
 鎌倉へ向かって、関東管領上杉清方にその旨報告し、残党を捜索せよ。
 
 よって通達、件の如し。

 1441年嘉吉元年五月十八日。
 斯波義淳(しばよしあつ、室町幕府管領)ら献上する。

 これを読むや否や、長尾因幡介一党はようやく微笑み合い、初めて安堵した。
 やがて二人の若君を棺に納め、また処刑場で亡くなった士卒の亡骸と一緒に金蓮寺に埋葬し、次の日垂井を出発して鎌倉に向かって帰投した。
 長尾因幡介の話はこれでお終いである。

 それはさておき、大塚番作は必死の覚悟で、忠考の誠を守って下さる神明仏陀のご加護もあって、辛くも一筋の血路を切り開いて金蓮寺を脱出し、東を目指して夜もすがら走るのだった。
 名も知らない山道に分け入り、木こりの通う細道をたどって、夜を明かした。次の日も休まずひたすらに走るうちに、十七日の黄昏には、木曽の神坂峠手前の夜長嶽の麓に出ていた。
 この道のりを数えると、垂井から二十余里(80キロ)、と言うより三十里(120キロ)に近かった。ここまで来れば追手は来るまいと思った途端、安堵したせいか手足の痛みが酷くなった。自分の身体を良く見れば、浅傷ばかりではあったが、鮮血が衣服を五六箇所真っ赤に染めている。
 それだけではなく、昨夜から飲まず食わずで走っていたので、心身共にひどく疲れている。これ以上は一歩も動けまいとは思ったが、どうにか父の志を思い出して、自らを励ましてまた歩き出した。道中休まず、君父の首を隠す場所を探そうと、苦痛に耐えながらあちこち適当な場所を探してみるが、この辺りは人里も遠く、山々の奥であるから雲は近く、峰は翠、水は白く輝いていた。
 見上げれば青い壁、刀で削った様である。見下ろせば青い谷底、ノミで穿った様に見える。素晴らしい眺めではあるが、いろいろ考えなくてはならない身では、眼に留めてもいられない。風が吹けば追い掛けてきた敵の声と疑い、騒がしく鳴く鳥の声は一人旅の憂いを慰めてもくれないのだ。

【関連地図】

参考までに美濃付近の地図。

番作君、健脚過ぎませんか?

 

 道を歩き今日も十七日の月の影が山の端に登るころ、生け垣で張り巡らせられた白い茅で屋根をふいた貧しい家の近くに出た。門の扉は半分朽ち果てて、荒れた一軒の家である。
 今宵はここに足を休めて一碗の飯を乞おう、と思って庭に進み入り、月の明かりを照らしてみると、ここは田舎寺で持仏堂である。屋根に檜の丸板を額にして、粘華庵(ねんげあん)の三字が掛かっている。それすら漏れた雨に摩滅して、かすかにしか読めない。この辺りは墓所であり、墓石が数多く立っている。

 大塚番作は良く考えた。君父の首を埋葬するのにここはちょうど良い場所だが、二人の若君と父のことを明白に説明すれば、庵主は恐れて必ず受けてくれないだろう。庵主には内緒にして、埋葬した後に宿を頼もうと思案したのだ。
 足をつま先立てて忍び足であちこちを覗くと、持仏堂の片隅に鋤が一丁見つかった。これは良い物を見つけたと肩にかついで、墓所に行き、さあどこに埋めようと周囲を見渡すと、最近埋めたばかりの墓と思われる塚があった。まだ墓石がない。
 この辺りの土はまだ柔らかく、掘り起こして埋めるにはちょうど良いと考え、早速思うがままに穴を掘っていく。新しい仏と並べて三つの頭を埋めて、元の様に土で覆い隠し、大塚番作は跪いて合掌し、念仏を唱えた。
 君父の菩提を文字通り弔ったのである。

 身を起こして鋤を元の場所へ戻したが、相変わらず庵の中には人の気配がなく、大塚番作を咎める声もない。厨房の方に立ち寄って戸を叩き、
「こちらの庵主に申し上げる。私は山道で日が暮れてしまい、飢えて疲れた旅人でございます。憐れみ、お助け下さるお寺とお見受けいたします。今宵、どうかお泊め下さいませんでしょうか」
 と話し掛けて扉を押し開くと、庵主と思われる僧は見当たらなかった。それどころか、思いもよらず一人の婦人がいた。年の頃は十六歳ばかり、素朴な感じはするが、気品にあふれている。露を含んだ野の花が匂いこぼれる風情である。婦人は独り、一本の蝋燭に向かって座っていて、誰か人を待ちわびている面持ちだった。
 大塚番作が声を掛けて扉を開けて進むと、待ち人と違ったためか驚き、そして恐れて、返答しなかった。番作も困り果てていると、婦人も堪えられなくなったのか、つと立って納戸の方へ逃げようとする。
 大塚番作は慌てて呼び止めた。
「お女中の方、そんなに驚かないで下さい。私は山人でも夜盗でもありません。昨日、実はあるところで親の仇を討ち果たし、更に仇の一党を切り抜けて来たのです。昨日から何も食べておりませんので、飢えて、疲れてもうどこにも行けません。せめて一碗の飯をお恵み、宿をお許し下されば、私は生き返りますし、そのご恩は決して忘れません。私には決して悪気はございません、お疑いをどうかお解き下さい」
 と言い、腰の刀を右手に取って、後ろに押しやって、部屋の中に入った。婦人は恐る恐る行燈の明かりを向けて、大塚番作のの姿をつくづく見てため息を吐き、
「まだ年若き方の仇を討ちなさった道中のご難儀を、お救いすることができないのでございます。ただ一碗の糧を惜しんでつれなくする訳ではないのですが、ここは私の宿所ではございません。ご覧の通り寺院ですが、元から田舎のことでございますので、庵主の他には守る人はおりません。私は亡き親の墓参りに参ったのですが、庵主に呼び止められたのです。良くお参りに来すった、私は大井の里まで行く用事があり、黄昏には帰って来るのでしばしの間留守をして欲しいと」
 どうやら事情がある様だ。
「そう言われましたので断れずに、仕方なく留守を預かって今か今かと待っておったのですが、日も暮れてしまい、しかし勝手に帰る訳にも行かずなすすべもなく待っておりました。飯はある様ですが、私が勝手にする訳にも参りません」
 と言うので空腹だった大塚番作はすかさず、
「あなたが言われること、すべて道理ではございますが、庵主のお帰りを待つと言って、車輪の跡で苦しむ鮒の困窮を救わなければ、私はもう市場で売られる魚の干物になってしまいます。つまり、私はひどく空腹なのです。人を救うことは出家の本願、庵主にお断りなされなくても、そこまで咎められることがあるのでしょう。もしお帰りになられて、腹を立てられて飯を惜しんであなたをお叱りになるのであれば、私がよろしく事情をお話ししましょう。どうか曲げて私の飢餓をお救い下さい」
 その乞いにとうとう負けてしまった婦人は、白木の盆に麻の布巾を掛けて、庵主の碗を乗せて、それを大塚番作の近くに置いた。また檜の飯櫃を引き寄せて、飯をうず高く盛って出してやった。干した野菜混じりの粗麦も時にはご馳走となり、皿に盛られた味噌玉は、番作の口を湿らす箸休めとなった。
 大塚番作は、櫃の中の飯が尽きるまで満足するまで食事を終えて、礼と美味かった旨を述べた。膳を押すと、婦人はそれを受けてからこう言った。
「さあ旅のお方。飢えをお救いいたしました。庵の留守に、お若い方と一緒に今宵を明かすことになれば、余人のお疑いを招いてしまいます。一刻も早く出て行きなされ」
 連れない返事にも耳を掛けず、袖を巻き上げて己の肘を差し伸べて、
「これを見て下さい。この様に数か所の生傷がある者が、同じ寝所で寝たとしても何も起きません。それにそんな疑いは人によるでしょう。どうか曲げて一夜を明かさせて下さい。飢えていた腹を満たしたら、今ひとしおに疲れをしまい、一歩たりとも動けません。夏の夜は短く、間もなく庵主はお帰りになるでしょう。曲げて一晩泊まらせて下さい」
 と打ち解けた口調で言われてしまい、婦人はまたもそれ以上言えず、ため息を吐いて、
「具合が悪いことではありますが、私とて主ではございませんので、この上はともかくもあなた様のお望み通りにどうぞ。しかしこんな山寺でございますので、客殿というものはございません。枕を見つけて、ご本尊の御前で今宵を明かし下さい。山里の取り柄は、蚤や蚊がいないことですが」
 大塚番作は笑って、
「無理を言って泊まることができました。喜ばしいことこの上ありません。お礼を申し上げるのに、短い言葉では言い尽くせませんが、誠にお女中のおかげでございます。どうか非礼の段、お許し下さい」
 と話し掛けて、ようやく立ち上がった。婦人は短い蝋燭を渡して、
「これを持ってお行きなさい」
 と差し出すのを、かたじけありません、と礼を言い、右手で受取って、左手で障子を押し開き、持仏堂で寝ることにした。

(続く……かも)

 

コメント (4)
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