ちょっと待っておくんなましの秋、到来。
by |2007-10-09 23:39:10|
かつて人の命が、こんなにも軽い時代があったでしょうか?
ニュースを観れば殺人、殺人、殺人。ちょっと頻繁過ぎやしないか。
19歳の少年がコンビニ店員を刺殺?
ひと昔前なら皆もっともっと大騒ぎしていたはずなのに、今や「また? 物騒だね」の一言で片付いてしまう。一体この奇妙な「慣れ」は何だ?
それこそ毎週のように人が殺されているという紛れもない事実に対して、どこか無感覚になっている社会。そうこうしているうちにまた新たな殺人が起きて、過去の陰惨な事件はたちまちのうちに人々の記憶からデリートされてしまう。
「こないだの殺人事件だけどね」などと話を振られても
「どの殺人事件のこと?」
反問しなければならないなんてただごとではありませんよ、冷静に考えたら?
今も昔も命の重さに変わりはないわけで、万引きを見つかったから殺す、みたいな動機が現在の世相を、そりゃまあ反映してるのかもしれないけれど、だからといってそれが昔は許されなかったけど今は赦されるとかそういう理屈は無論まかり通るはずもないわけで。
何より怖いのは、「一線跳び越える」みたいな感覚の欠如ではないでしょうか。
普通人間が人間を殺すに至るまでには、程度の差こそあれ、越えてはならない一線を踏み越えてしまう瞬間というのがあるはずなんですよ。
錯乱者ならいざ知らず、ほんの少しでも理性を持った人間なら、観念的にも本能的にも絶対に殺人は犯してはならないと悟っているはず。
その越え難い一線を、一時の憤怒であったり積年の憎悪だったり金銭に対する欲望だったりが、越えさせてしまう。そのようにして、殺人は起こっていたのではなかったか。
ところが最近の殺人事件ときたら、あたかも万引きをするのと同じような軽さで、自動販売機でコーヒーを買う手軽さで、人を殺めてしまう。
船に乗ってブラジルに行かなくても温かいコーヒーが飲めて、わざわざ本屋さんに行かなくてもインターネットで頼めば部屋から一歩も出ることなしに本が買える。枝豆が最初から剥いてあったりするし、レトルトパックだって今どきハサミ使わないと切れない商品なんてなくて、何もかもが簡略化されている。
何というか、経緯の重さとでもいうべきものが、体感しにくくなっているような気がしてならないんですね。何かを欲しいと思って行動に移そうと思うと、その過程が結構面倒だったりするのだけれど、その過程こそが、結果としてあらわれたものにリアリティを付与するのではないかと。
ほとんど感覚だけで語っていますが、やっぱり簡単に手に入るものには、リアリティがないと思います。
僕が小学1年生の頃、お小遣いは確か400円とかだったと思います。
言っておきますが、かけそば一杯12円という時代ではありません。
「小学一年生」という雑誌が390円したのですが、僕はお小遣いをもらってすぐにその雑誌を買うので、残り10円で3週間くらい過ごさなければいけない。
水だけ飲んでても水道代すら払えない、くらいの勢いです。
もちろん子供なので必要なものは頼めば買ってもらえたりもしたのですが、そうやって買ってもらったものはあんまり記憶に残っていない。
一方、なけなしのお小遣いをはたいて買った「小学一年生」は、30を超えた今でも愛読している、というと嘘になりますが、当時はやっぱり大事にスミからスミまで読んだものでした。それは僕にとってのリアルでした。
簡単に人を殺してしまう人たちは、命に対して、イコール殺人に対して何らリアリティを感じていないのではないでしょうか。
達成の実感。
殺人の場合それは震えるほどの、狂ってしまうほどの恐怖であったり自己嫌悪であったり後悔であったりするのでしょうが、どんな形であれそれがリアリティというものだと思うのです。
良い意味での達成感を得るために人は努力して障壁を乗り越える、これもリアル。
やってはいけないとは分かっていて越えてはならない一線を越える、これも、あってはいけないことですが、やはりリアル。
いずれにせよ「越える」という段階を踏まないと、何と言うか当の本人が第三者の視線に終始してしまうような。
良い方向に努力して何かを得たことのある人というのは、リアリティの何たるかを身をもって知っているから、逆方向のリアリティは何があっても獲得してはいけないと分かっているのではないかと思います。
何もかも簡単に手に入れすぎている今の子供達の一部は、リアリティの何たるかを知らないから、殺人などという負のリアリティがもたらす災厄を、実感できないのかもしれません。
昔は家族や親族の誰かが亡くなると親族が総出でお通夜、お葬式の準備をして仏壇の購入やお墓の建立などについてもいちいちその度に家族会議や親族会議を開いてああだこうだと意見を交わし、それこそ大変だったと思います。もちろん今でもそういう家はたくさんあるでしょう。
これは、はっきり言えば、面倒臭い。
でも、そういう面倒なことがあってこそ、ひとつの死が厳粛さを帯びるのではないでしょうか。何だかんだとバタバタして要らぬケンカもしたりしたけど、やっぱりあの人のために立派なお葬式してあげられて良かったね、とか思うんじゃないでしょうか。
そういう意味では、お墓だって面倒ですよ。
お寺の手配から、墓地を選んで、墓石の形も選ばなければならないし、お墓に刻む家紋って言われても実家の蔵をひっくり返さないと分からないかも知れないし。
いざお墓を建てたら今度はお参りに来てあげないといけない。
いつまでもピカピカなわけもなく、来る度に雑巾で綺麗に拭いてあげないといけない。
そりゃもう、面倒臭い。
でも、面倒臭いことほどリアリティがあって、子供の頃からお墓参りに行っている子供は、何とはなしに命の重さを知っているものです。商売柄こんなことを言うと胡散臭いのかもしれませんが、テレビやインターネットで報道される概念としての数え切れない「死」は、お墓のなかに眠る過去のひとつかふたつの「死」に遠く及びません。
命の尊さは、教科書ではなかなか教えられないものです。
株式会社加登ホームページへ
ニュースを観れば殺人、殺人、殺人。ちょっと頻繁過ぎやしないか。
19歳の少年がコンビニ店員を刺殺?
ひと昔前なら皆もっともっと大騒ぎしていたはずなのに、今や「また? 物騒だね」の一言で片付いてしまう。一体この奇妙な「慣れ」は何だ?
それこそ毎週のように人が殺されているという紛れもない事実に対して、どこか無感覚になっている社会。そうこうしているうちにまた新たな殺人が起きて、過去の陰惨な事件はたちまちのうちに人々の記憶からデリートされてしまう。
「こないだの殺人事件だけどね」などと話を振られても
「どの殺人事件のこと?」
反問しなければならないなんてただごとではありませんよ、冷静に考えたら?
今も昔も命の重さに変わりはないわけで、万引きを見つかったから殺す、みたいな動機が現在の世相を、そりゃまあ反映してるのかもしれないけれど、だからといってそれが昔は許されなかったけど今は赦されるとかそういう理屈は無論まかり通るはずもないわけで。
何より怖いのは、「一線跳び越える」みたいな感覚の欠如ではないでしょうか。
普通人間が人間を殺すに至るまでには、程度の差こそあれ、越えてはならない一線を踏み越えてしまう瞬間というのがあるはずなんですよ。
錯乱者ならいざ知らず、ほんの少しでも理性を持った人間なら、観念的にも本能的にも絶対に殺人は犯してはならないと悟っているはず。
その越え難い一線を、一時の憤怒であったり積年の憎悪だったり金銭に対する欲望だったりが、越えさせてしまう。そのようにして、殺人は起こっていたのではなかったか。
ところが最近の殺人事件ときたら、あたかも万引きをするのと同じような軽さで、自動販売機でコーヒーを買う手軽さで、人を殺めてしまう。
船に乗ってブラジルに行かなくても温かいコーヒーが飲めて、わざわざ本屋さんに行かなくてもインターネットで頼めば部屋から一歩も出ることなしに本が買える。枝豆が最初から剥いてあったりするし、レトルトパックだって今どきハサミ使わないと切れない商品なんてなくて、何もかもが簡略化されている。
何というか、経緯の重さとでもいうべきものが、体感しにくくなっているような気がしてならないんですね。何かを欲しいと思って行動に移そうと思うと、その過程が結構面倒だったりするのだけれど、その過程こそが、結果としてあらわれたものにリアリティを付与するのではないかと。
ほとんど感覚だけで語っていますが、やっぱり簡単に手に入るものには、リアリティがないと思います。
僕が小学1年生の頃、お小遣いは確か400円とかだったと思います。
言っておきますが、かけそば一杯12円という時代ではありません。
「小学一年生」という雑誌が390円したのですが、僕はお小遣いをもらってすぐにその雑誌を買うので、残り10円で3週間くらい過ごさなければいけない。
水だけ飲んでても水道代すら払えない、くらいの勢いです。
もちろん子供なので必要なものは頼めば買ってもらえたりもしたのですが、そうやって買ってもらったものはあんまり記憶に残っていない。
一方、なけなしのお小遣いをはたいて買った「小学一年生」は、30を超えた今でも愛読している、というと嘘になりますが、当時はやっぱり大事にスミからスミまで読んだものでした。それは僕にとってのリアルでした。
簡単に人を殺してしまう人たちは、命に対して、イコール殺人に対して何らリアリティを感じていないのではないでしょうか。
達成の実感。
殺人の場合それは震えるほどの、狂ってしまうほどの恐怖であったり自己嫌悪であったり後悔であったりするのでしょうが、どんな形であれそれがリアリティというものだと思うのです。
良い意味での達成感を得るために人は努力して障壁を乗り越える、これもリアル。
やってはいけないとは分かっていて越えてはならない一線を越える、これも、あってはいけないことですが、やはりリアル。
いずれにせよ「越える」という段階を踏まないと、何と言うか当の本人が第三者の視線に終始してしまうような。
良い方向に努力して何かを得たことのある人というのは、リアリティの何たるかを身をもって知っているから、逆方向のリアリティは何があっても獲得してはいけないと分かっているのではないかと思います。
何もかも簡単に手に入れすぎている今の子供達の一部は、リアリティの何たるかを知らないから、殺人などという負のリアリティがもたらす災厄を、実感できないのかもしれません。
昔は家族や親族の誰かが亡くなると親族が総出でお通夜、お葬式の準備をして仏壇の購入やお墓の建立などについてもいちいちその度に家族会議や親族会議を開いてああだこうだと意見を交わし、それこそ大変だったと思います。もちろん今でもそういう家はたくさんあるでしょう。
これは、はっきり言えば、面倒臭い。
でも、そういう面倒なことがあってこそ、ひとつの死が厳粛さを帯びるのではないでしょうか。何だかんだとバタバタして要らぬケンカもしたりしたけど、やっぱりあの人のために立派なお葬式してあげられて良かったね、とか思うんじゃないでしょうか。
そういう意味では、お墓だって面倒ですよ。
お寺の手配から、墓地を選んで、墓石の形も選ばなければならないし、お墓に刻む家紋って言われても実家の蔵をひっくり返さないと分からないかも知れないし。
いざお墓を建てたら今度はお参りに来てあげないといけない。
いつまでもピカピカなわけもなく、来る度に雑巾で綺麗に拭いてあげないといけない。
そりゃもう、面倒臭い。
でも、面倒臭いことほどリアリティがあって、子供の頃からお墓参りに行っている子供は、何とはなしに命の重さを知っているものです。商売柄こんなことを言うと胡散臭いのかもしれませんが、テレビやインターネットで報道される概念としての数え切れない「死」は、お墓のなかに眠る過去のひとつかふたつの「死」に遠く及びません。
命の尊さは、教科書ではなかなか教えられないものです。
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