加登ホームページ の【What's New】でも紹介していますが、川西中央霊園 、はびきの中央霊園 、四条畷霊園 の、イメージ映像ページができました。
加登インデックスページ から各霊園のボタンを押すと、何とも素敵な映像と音楽があなたの心を癒します。
まずは川西中央霊園 。
テーマは「誕生」。
公園墓地の草分けとしてオープンし、今年25周年を迎える川西中央霊園 。
幾千もの魂が眠るこの地を、かつての幼子が訪れそっと手を合わせる。
悲しい別離のすべては、来たるべき芽生えへと連なっていく。
BGMは「優しい光」。
緑萌ゆる大地に、母なる太陽。
生命の痛みをほどくような、おだやかな包むような真白な光。
誕生。
つづいて、はびきの中央霊園 。
一転して童話の世界。どこか懐かしいオルゴールの音色に乗って、小鳥は羽ばたく。
ぶどうの産地としても有名な南河内の、のどかな田園風景をゆく。
製作チームの方々がフランスの片田舎をイメージしてつくっただけあって、確かにジュヌセパでウアビテヴでコマンタレヴな雰囲気。
もちろん挿入されてる写真は、紛れもなくはびきの中央霊園 の実際の風景です。
霊園スタッフも、昼食にはカマンベールチーズでしたよ、確か。
箸も米も東海道中膝栗毛も苦手みたいですし。
とどめに、四条畷霊園 。
こちらも大変な力作です。
四条畷霊園 の最新区画「あおぞら」に着想し、澄みわたる空の清明さを追い求めた作品。
まばゆい太陽を吸い込んだ、熱っぽい雲のスケッチにはじまる映像。
空の向こうから、なつかしいあの人の声がやってくる。
僕はここに生きている。
あなたの空を見上げている。
何故だかよく分かりませんが「頑張ろう」って気持ちにさせてくれます。
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昨日あたりから検索エンジン YAHOO! のTOP画面が何故かピンク色。
おまけにハートマークがやたらと飛び交っている。
何かちょっと気持ち悪いなと思ってたら、アレですね、例のイベント。
いやね、別にいいんですけど、元々チョコレートって結構好きなんで、普段からコンビニなんか行くとちょくちょく買ったりするんです。
だからこそ明日は気をつけないと、うっかりいつもの調子でチョコなんてレジに持って行こうものなら
「チョコくれる相手がいないから自分で買ってるわあの人」
などと要らぬ誤解を与え兼ねません。
いやまあ、確かに、確かにチョコはもらえんかもしれんけど!
そうゆうことじゃなくて!!
まったく、何故こんなに気を遣わなきゃいけないんだ、バレンタインデー。
僕は純粋にチョコレートを愛しているだけなのに・・・。
納得いかないので、英語版Wikipediaにて他国における祝い方を調べてみました。
北米: グリーティングカード(バレンタインズカードと呼ばれる)に自筆で愛のメッセージを書いて、恋人同士が交換。85%の女性がカードを購入、クリスマスカードの次にグリーティングカードが売れる。
英国: Norfolkというところでは、ジャック・バレンタインなる人が家の勝手口みたいなところに、子供たち向けのお菓子を配って回る。ハロウィンっぽいですね。でも、子供たちはジャックのことを不気味がっているらしい。
デンマーク、ノルウェイ: 地味に恋人と夕食のひとときを過ごす。カードや赤いバラを相手に贈ることも。
スウェーデン: 割とアメリカナイズされていて、コスメや花が母の日に次いで売れる。
フィンランド: 「フレンズ・デイ(友人の日)」と呼ばれ、恋人に限らずあらゆる友人に思いを馳せる日。
スロヴェニア: もともとは植物が育ち始める日。あるいは鳥たちが求婚し、結婚する日。
東アジア諸国では日本と韓国、中国の場合が紹介されています。
韓国も日本と同じように、ほとんど女性から男性に対して一方的にチョコや花を送る日とされているようです。
僕は知らなかったのですが、日本では特に女友達どうしで「友チョコ」というのを交換することがあるそうです(Friends, especially girls, may exchange chocolate referred to as tomo-choko (友チョコ); from tomo meaning "friend".)。
中国: 七夕がバレンタインデーの役割を果たしている。
イラン: グレゴリオ暦(我々の認識している「西暦」)で2月17日がSepandarmazganという日。政府によりいろいろと規制があって、若い男女はちょっとこっそり気味に出かけて愛する人のためにプレゼントを買ったりする。
サウジアラビア: 今年からバレンタイングッズの販売禁止!!
うーん、国によって本当に様々だ。
もうチョコ食べなくてもお腹いっぱいであります。
まあ、何にせよバレンタインデーは概して「愛のイベント」なんですね。
ただ、日本はチョコにこだわり過ぎですね。
恋人にカレイの干物を送る、みたいな風習だったら、うっかりコンビニで購入してしまうなんてバレンタインデー・ミッスを犯さずに済むものを・・・。
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雪とともに始まった、連休。
都会の雑音を吸い込んで、雪は眠りのような呟きを、謡う。
日常の営みは中空に静止して、一切の抑揚を剥奪される。
苦い空を見上げてはいつになく黙り込んで、人はただ雪の声に耳を傾ける。
自然はけっして克服出来るものなどではない。
思い上がった近代の干上がりを、しんしんと雪は逆説的に濡らしていく。
畏れ。
浅はかな人間の理性を超えた大いなる力への、畏れ。
かつて自然をあがめ、自然と共生していた日本人。
今はどうなんだろう。
多少の雪が降ったところで電車のダイヤはたちまち復旧するし、農業人口も昔に比べれば遥かに減少しているわけで、それこそ生き死にの問題になったりなんかしない。
それでも何とはなしに雪の夜は、言い知れぬ不安みたいなものが至る所に渦巻いている、そんな気がしてならない。
それはもしかしたら、遺伝子のどこかしらにつけられた、小さな傷なんじゃないだろうか。
時に残酷な自然によって痛めつけられた記憶。
それが僕たちの深層に眠っていて、時に目を覚ます。
何もかも手に入らないものなんて無いかのような世界においてなお、目に見えない、一種霊的なものに畏怖を感じさせる記憶の痕跡。
そういう感性を、失ってはいけないと思います。
科学万能と言われる時代にあって、霊魂だとかお墓だとかお盆だとか初詣だとかそういうものが未だに信仰の対象となっているのは何故なのか。
仏教が、神道が、キリスト教が、イスラム教が、ということではなく、
宗教を超えた、というか宗教以前の存在の有り方、心の在り様みたいなものが、僕たちという文化の無意識に根づいているのではなかろうか。
千年前、二千年前に僕たちの先祖が感じたこと、考えたことを、知らず識らずのうちに、僕たちも感じたり考えたりしている。
この雪は、今に降りながら、過去に降ってもいるのだ。
僕たちの子孫もまた、同じ雪をきっと見ることだろう。
街の様子はすっかり変わっても、同じように漠とした不安とともに夜を過ごすだろう。
こういう場だからこんなこと言うのではなく、本当に時間は繋がってると思うんです。歴史的に多数の断絶があるのは否めないにせよ、日本人は日本人でしかあり得なかった。
その深層にあるのが何なのかはよく分かりませんが、そういう自然観であったり死生観であったりが、僕たちの血のなかに脈々と流れ続けている。
僕たちの仕事に関連付けて言うなら、お墓に向かって手を合わせる行為だってそういうことなのではないか。
お墓は山にあることが多いですが、かつて山は死霊の眠る場所とされていました。
死霊は怖れられ、石を使って封じ込められたりもしていた。
やがて仏教が伝わり、霊は怖れるべき対象ではなくなったわけですが、日本のお墓が石でなければならないのは、石の持つ霊力を、今でも僕たちが無意識のうちに信じている証ではないかと思います。
お盆になれば山から空から魂が帰ってくる。
墓石はその目印となる。
そういうのはどうも、仏教だけでは説明しきれないもののようです。
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寒い。
何が立春だ。
部屋の中でマフラーを巻き、スノボ用のジャケットを羽織ってフードまで被っている。
アムンゼン風。
・・・・・吐く息が、白い。
こんな春があってたまるか。
まったく、はやいとこ桜でも観たいもんですね。
霊園にお参りをお考えの方は是非、暖かい服装でお越しください。
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ものの本を紐解くと、「節分」というのは読んで字のごとく「季節を分ける」の意。
もともとは立春・立夏・立秋・立冬の前日をすべて「節分」と呼んでおり、それがいつの間にやら立春の前日だけを節分と称するようになったとか。
小さなお子さんのいる家庭では、豆撒きをされたところも多いのではないでしょうか。
僕も幼い頃は鬼の面を被った父に向け、思い切り豆を投げつけたもんでした。
鬼退治が終わると、散らかった豆を拾い集めて歳の数だけ食べる。
さして美味しいものでもなかった気がしますが、何となく楽しい思い出です。
1週間ほど経って、ソファの下から拾い損なった豆が出てきたりしたこともあったっけ。
感傷に浸る暇もなく、暦の上ではもう春がはじまります。
関東では随分雪が降り、関西もぱっとしない一日でしたが、それでも春だと言うのだから、きっと春なんでしょう。
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