2009年1月のブログ記事一覧-カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

animals in the south ②






animals in the south ①
















神々の棲む島 ~後編。


朝はやって来ては夜に融け、次第にあふれていく。
空、月と太陽が昇っては沈む空。
分厚い冬の雲を突き破り、光は今にも漏れ出ようとしている。

夜を昼にした近代。
闇を征服した近代。

今の日本に、本当の闇を知っている若者が果たしてどのくらいいるだろう、
甚だ疑問だ。



かく言う僕も、本当の闇の何たるかを知ったのは、二十歳を越えてからのことだ。

西インドの片田舎。僕はバスを待つ。真夜中。本当に、何も見えない。
目を開けていても閉じていても、寸分違わぬ闇。
上下の感覚すら危なくなってくる。

こうして言葉にしてみると何てことないみたいだが、実際にそういう状況に身を置いてみると、現実なのか夢なのかが曖昧になってくる。
目を開いても何も見えないということ。
足元さえも見えないということ。
もしかしたら僕は夢のなかで、果てしのない宇宙に浮かんでいるのではないだろうか。
そう思わせるだけの説得力が、闇にはある。

世界内存在。

視界に飛び込んでくる無数の情報を我々は過去の経験と照らし合わせ、そこに自らにとってのリアルな意味を見出す。
我々の「世界」はそのように出来ている、僕もそう思う。
情報と経験との関係性が、個々のなかでそれぞれに世界像を結ぶ。

けれども闇は、世界を形作るはずの関係性そのものを無効にしてしまう。
我々には、闇を闇としてありのままに受容するだけの構えがない。



存在を保証してくれるものが何もない。
個の解体。



なんて分かるような分からないような話は置いといて、
要は、本当の夜っていうのは実に怖ろしいものだということだ。

僕は朝日を見るべく早起きして、ニラーハラーを望む東の浜辺に向かう。
漆黒の闇。

たまたま同行する人がいたため、恐怖心はさほどでもなかったが、最高神である太陽が隠れているあいだは、悪霊が跋扈する時間とされている。
島の住民は今でも夜歩きすることを好まないそうだ。



久高島の人々にとって、自然神のなかでも一番偉いのは太陽と月だ。
世界中を見渡してみても、太陽や月を崇拝する原始宗教は枚挙に暇がない。

闇を照らす光の有り難さ。
背後にあるのは近代文明が見失ってしまった、闇への恐怖。



朝がこんなにまぶしいものだなんて、僕は知らなかった。
当たり前のことが当たり前ではなくなっている、世の中はどんどんおかしくなっている。

人間にとって怖ろしいものを、文明はすべて排除してしまった。
自然だとか先祖様だとかを冒瀆したら罰が当たる、だなんて非科学の極みかもしれないけれど、そこにこそ我々のモラルはあった。



肉親や兄弟を殺す、などという忌まわしい事件が増えてきた。
こんなことは、法以前の、個のモラルの問題だ。
何故こんなことが起こり得るのだろう。



敢えてキーワードを挙げるとすれば「畏怖」「尊敬」といったところか。
学力向上も大切かもしれないが、教育の場で教えられなければならないことはたくさんあるのだ。

本当の闇を知らない世代に、久高島のように自然と信仰心が育まれるような環境にない多くの子供達に、我々が教えてあげられることは限られている。



そう考えると、お寺や神社や教会に子供達を連れて行くことも大事なのではないだろうか。
かのアインシュタインは、敬虔なクリスチャンだったそうだ。
自らの発見が原水爆の開発に貢献してしまったことを、終生後悔し続けたという。

清らかな心を持つことが、子供達の成長を阻むことなんて在り得ない。
心の拠りどころがない社会は、それこそ空疎だ。
迷信じみたところはあるかもしれないが、何かをうやまう気持ちは、他の方法ではなかなか教えることが出来ない。
仏教はちょっと違うかもしれないが、基本的に「何故?」を越えたところに宗教は在るからだ。

ある人が言っていた。「何故人を殺してはいけないのか」という問いに答えることが出来るのは、宗教だけなのだと。
それだけでも、宗教には価値がある。



目に見えないものを、畏怖すること。
そのことの意味を、ふたたび問い直してみたいと思った。





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神々の棲む島 ~前編。


沖縄本島から、高速フェリーでわずか20分。
神々が住むというその島は、拍子抜けするほどの呆気なさと、「南国特有の」という表現に留まらない大らかさでもって、僕を招き入れてくれた。
歩いても2時間あれば一周できてしまう小さな島、久高島。

船を下りるとすぐに、貸し自転車の店がある。
「どれでも好きなの使っていいよ」
人懐こい女主人の笑顔に促され、僕は早速自転車を選ぶ。
お世辞にも真新しいとは言えない車体、かつては銀色に輝いていたであろうハンドル。潮風による腐食が激しく、毎日手入れしても錆ついてしまうのだそうだ。

どの車体にも通し番号がマジックで書かれているのだが、彼女は僕が選んだ自転車の番号を控えもしない。
僕は身分証明書の提示を求められることはおろか、宿泊先を訊かれることすらなかった。
たとえば海外で自転車を借りる際などは、大抵パスポートを預けるか、幾らかのお金を預かり金として渡しておかなければならない。

何て素敵な島なんだ、それだけで心が躍った。
見れば自転車には、鍵がついていなかった。

人口およそ200人。
神々を常に感じ、真っ直ぐに生きてきたこの島は、こうして観光客が訪れるようになった今でも、疑うことを知らぬかのように無垢だ。



久高島では、女性神職者を中心とする祭祀組織によって、年に30回近くの祭祀が行われている。
アイヌ文化と同じように仏教伝来以前、縄文時代の信仰、世界観、死生観が今なお色濃く残存する民俗学的にも貴重な島だ。
動植物を含めた自然そのものに神が宿っていると考えられており、観光客もみだりにそれらを動かしたりしてはならない。石ころであれ貝殻であれ、島外への持ち出しも固く禁じられている。
島内にいくつか存在する御嶽(うたき)は自然とともに崇拝される、先祖の魂が留まる地として、外部の人間が立ち入ることは許されない。

自然(特に太陽と月)をあがめ、先祖をまつる。
今では仏教徒が多くを占めるようになった我が国にあってなお、縄文世界の残滓は心の深いところで我々の感性を規定している、そう思う。


海へと抜ける道。


途中にはこんな方もいらっしゃって。


母なる海が見える。ほっとする瞬間。

島の北側には、人が全く住んでいない。祭祀の期間中は一般人が入ることも出来ない。
あぜ道の両側は密度の濃い森となっていて、本州ではお目にかからない亜熱帯ならではの木々が風にざわめいている。
森の中からは時折鳥や猫などが歩く音がして、慣れるまではその都度驚かされた。
その向こうから通低音としてごうごうと鳴り続ける波音。
鼻腔をくすぐるのは土のにおい、潮風のにおい、そして木々のにおい。

五感のすべてが自然を感じ、僕の中に眠る太古の記憶は想像力を掻き立てずにはおかない。沖縄本島でも感じたことだが、この島にいると海や空、木々といったものが本当に意志をもって僕の前に立ち現れているという思いを強く持つのだ。

馬鹿馬鹿しい、と一笑に付したくなる人もいるだろう。
それでは、人を傷つける動物もタチの悪い犯罪者もいないこの島で、森の中のあぜ道を通るときの得も言われぬ不気味さをどう説明したらよいのか。


こんな空があれば、あの世の存在を思わぬわけにはいかない。

自然はやはり、神さまだ。
こちらが大人しくしていればまだ良いが、怒らせると途轍もなく怖い。
人一倍小心者であるという事実はさておき、日本人である僕の心には確実にそう刷り込まれている。御神木を切れ、と言われて平気で切れる日本人がどれだけいるだろう。

目に見えないものを信じる力、それこそが信仰だ。
神さまは信じる人の心にだけ存在するのだ。
祈っても祈っても、台風や旱魃は作物を荒らし、時には人を殺めることもする。この世界の何と理不尽なことか。けれどそれは信仰が足りないせいだ。状況を在りのままに受け入れること、他に責を求めないこと。

そんなふうに生きることが出来たら、どんなに幸せなことだろう。
この美しくも怖ろしい久高の森を、そう思いつつ歩いた。





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お待たせしました。


いよいよ明日から、加登は営業を開始します。
ただし、1月7日(水)は社内研修のため、勝手ながら臨時休業とさせて頂きます。
どうかご了承下さい。

明けましておめでとうございます。




まだまだ不透明な景気の先行きに、日本もまた例年になく不安な年明けを迎えることとなってしまいました。
こんな時代だからこそ加登は、今年もまた揺るぎない価値、変わらぬ心の在りようを、追いかけていきたいと思います。

本当に大切なものって何だろう?
それは昨年度も繰り返し問うてきた、自身にとっての終生のテーマでもあります。

混迷する2009年は、誰もがそんなことを考えたくなるような、内省的な1年になりそうな気がします。

悩みぬく力、その先にある光を信じ切る力。
怖れずに、進んでいきたいものですね。

本年もひとつ宜しくお願い致します。

2009年 元旦