後ろばっか振り返ってたって、何にも生まれない。
傷口を舐め合ったところで、得るものなんて何もない。
現状を嘆くことなら、誰にだって出来る。
事象の負の側面を拾い出すのは、思ってるよかzuttozutto簡単で。
前に進むための反省ならいざ知らず、他人の揚げ足取って賢こぶってるのは時間の浪費でしかnine inch nails。
本当に国を良くしようって、そう思ってる人がどんだけいるんだろ。
株式会社加登ホームページはこちら
メールの良さっていうのも確かにありますよね。
しっかり記録に残しておくことで言った言わないの話をしなくて済みますし、同じ内容を複数の相手に伝えるのにも適したツールだと思います。
特に仕事の場面では、自分自身のアタマを整理する意味でもなるべくメールを使うようにしています。
不安なのは、相手がちゃんとメールの到着に気付いてくれているかですね。
大事なことはやっぱり、電話でもいいからリアルタイムで直接伝えなきゃいけない。
僕も前述の通り基本は何でもメール派だったのですが、最近はそれじゃあダメだなと思ってます。
直接話した方がいいこともあればメールで伝えた方がいいこともあり、両方を組み合わせれば確実だけど時間は食います。
要は常にその取捨選択を心掛けることではないかなと。
コミュニケーションの手段が多様化するに連れその選択は難しくなっていくような気もしますが、結局ゴールなんて常にひとつ、ですよね?
株式会社加登ホームページはこちら
あれは中学生の頃でした。
マスカットの表面にチョコレートをコーティングしたような、随分手の込んだ手作りチョコをもらったことがあります。
すぐに食べてしまうのはもったいない位の、見た目にも綺麗なチョコレートでした。とりあえず後で食べようかと、僕はそれをリビングのテーブルの上に置いておきました。
しばらくすると母が僕の部屋にやって来て、こんなことを仰るではありませんか。
「あのチョコな、皮むいてからコーティングせんとあかんな、えらい食べにくいわ」
て言うか母上、何故あなたは僕より先に食べてんの?
そのうえ辛口の批評ですか?
僕の天然はあなたからの遺伝ですか?
不良になろうかと一瞬思いました。
世のおかんは皆、自由ですね。
今となっては良い思い出ですが、母の天然は今なお健在です。
株式会社加登ホームページはこちらをクリック
大阪が発祥と言われる恵方巻き。
節分の日に巻き寿司を丸かじりするっていう行事だそうですが、僕はつい最近までこの慣わしを知りませんでした。
本当にやってる人っているんでしょうか?
国民全員で僕一人を騙しているんじゃないかと、壮大な被害妄想にさえ陥っています。
とりあえず、今年の恵方は東北東だそうで。
その方角に向かって目を閉じ一言も口をきかず、願い事を思い浮かべながら、休まず一気に巻き寿司を食べる。
・・・・・・食べ切る。
こっそり薄目を開けたらば、おとんやおかんが目を閉じて、見たこともないような形相で巻き寿司に喰らい付いてるのを目撃したりするわけですね。
目を瞑ってるもんだから、食べてるうちに微妙に方位がずれてたりして、それでも「あかんやん!」みたいなことも言えないわけです。
「彼らの巻き寿司が喉につまりませんように」僕の願い事はそれだけです。
そのためだけに、巻き寿司をかじります。
・・・・・・うーん、想像するだけでほのぼのしますね。
子供がいたら是非一緒にやってみたい。
行事ごとって、大切ですよね。
恵方巻の歴史は比較的新しいようですが、節分の日に行うことにも意義があると思います。
祝祭日なども含め、色々な行事があって多くは形骸化しているかもしれませんが、それぞれの起源や意味を調べてみるとなかなか奥深いものがあります。
先人の智恵や文化に触れ、それらが知らぬ間に我々の血の中にも流れているのに気づいたりすると、ちょっとした感慨をおぼえることもあったりして。
今年はもう少し、日々をたしかめながら生きてみようかと、そんなことを思ってみました。
株式会社加登ホームページはこちらをクリック
今日は会社で少しばかり、「他力」について話をする機会がありました。
僕は特定の宗教や宗派を支持しないというスタンスなのですが、やはり親鸞聖人の説く「他力」というのは深いなあと。
知識とボキャブラリーがなさ過ぎて雑駁な感覚でしか語れないのですが、
「現象を如何に判断すべきか」という絶対的な基準提示に重きを置くのが西洋の宗教で、
「現象を如何に受容すべきか」という相対的な心構えに重心があるのが日本仏教なのかなあと、そんなことを漠然と思います。
神がそう仰っているのだからそうしなさい、という一神教とは随分違っていて、やっぱり仏教は宗教というより哲学なんですね。
「他力」という概念にも、それが色濃くあらわれている気がします。
チベット仏教などでも「正しい」修行法の大切さが説かれていたりはするのですが、「正しい」の裏には必ず「正しくない」が存在する。
「善」を求めれば必ず「悪」が生まれる。
大乗の教えが集約されていると言われる般若心経にも、こんなくだりがあります。
是諸法空相不生不滅不垢不浄
(すべてのものは実体でなく、生じることも、滅することもない。穢れることもなければ、浄化されることもない。)
善も悪も、我々凡夫の小さな執着でしかない。
弥陀の本願も、そのようなこだわりを遥かに超えている。
そう考えると、「空性」という難解な概念を、阿弥陀如来や浄土、念仏という浄土宗の教えを受け継ぎながら、さらにやさしく表現し直したのが親鸞聖人なのかもしれませんね。
一切の執着を捨て去ること。
ありのままを受け入れ、心が揺れないこと。
それは諦めの境地などではなく、積極的な生を生きるための力強い指針なんだと僕は思っています。
株式会社加登ホームページはこちら
気がつけば2月。
そんなに寒くもないのでちょっと嬉しくもあり。
閏年も明けた今年の如月は例年通り28日、それを過ぎればいよいよお彼岸です。
お墓ごとを考えるには、丁度良い時期なのではないでしょうか。
本日より新区画販売開始の大林寺(宝塚市)
株式会社加登ホームページはこちらをクリック