政情がまたも緊迫をはじめたアフガニスタンで26日、日本人男性が拉致されました。
無事解放されることを祈っていましたが、残念ながら最悪の結果となってしまいました。
地域の農業振興のために、本気で頑張っていた人がこんな目に遭わなければならないのは、何とも嘆かわしいことです。
国家間の思惑に翻弄され、罪もない民衆が次々と命を落としているという現実。
今回の犯行がそれ自体赦し難いのは動かぬ事実ですが、何よりも悲しいのは、こうした事件を契機として、国家や宗教というのが時に悪魔のように利己的にふるまい、それが多くの場合において憎しみを増幅するスパイラルを生み出していることです。
犯行グループには犯行グループの正義があり、アメリカにはアメリカの、ロシアにはロシアの正義がある。
争いというのは、程度の差こそあれ、畢竟価値観の対立だと思います。
自らを正当化するために、他を批判し、攻撃する。
相手も自らこそが正義だと思っているから、当然のごとく報復措置をとる。
他を批判し、攻撃する際の原動力は憎悪であり、攻撃された側にも新たな憎悪を生む。
その憎悪は反作用的に相手に向かい、増幅した怒りが相手に対する報復となる。
それは死期を迎えた恒星の、永遠の膨張のように、どちらかが滅びるまでおさまることがない。
それほどまでに、正義というのは守らねばならないものなのでしょうか?
正義という、信仰にも等しい大義名分さえあれば、たとえば誤爆によって一般市民のあいだに死傷者がでてしまうのも、仕方のないことなのでしょうか。
爆撃を命じる地域に自分の親や子供が暮らしていても、指揮官は「正義」のために作戦を遂行するでしょうか。
確かに犯行グループは、本当にひどいことをしたと思います。
だからと言って彼らを裁くだけでは、根本的な解決には至らないでしょう。
本当に大事なのは皆がそれぞれの正義を押し通すことではなく、相手の立場を尊重し、慈悲の心をもって他者と接することなのではないでしょうか。
誰が正しくて、誰が間違っているかを突き詰めたところで、なくなった生命がかえってくるわけではありません。
こんな愚かな過ちを繰り返さないためにも、各国家は自国を正当化してばかりいないで、各々の罪を少なからず認め合うべきだと思うのです。
一方だけが100%悪い、なんて争いは決して存在しないのですから。
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知的障害を持つ男性に暴行・恐喝を繰り返した、13歳から16歳のグループ8名による犯罪について。
詳細については敢えて言及しませんが、ちょっとこれは酷過ぎますね。
何故こんなことになってしまうのでしょうか。
彼らに対する怒りだとか軽蔑だとか、そういった不快な感情がふつふつと湧き起こる一方で、果たしてそこで終わってしまって良いのかな、と思う気持ちもどこかにあって。
彼らが生きる社会を構成する一員として、僕も生きている。
この社会のひずみが彼らを凶行に駆り立てた一因だとすれば、そのひずんだ社会の1億2千万分の1を受け持つ僕にも罪がないとは言い切れないのではないか。
今回の事件はいささか極端な例なのかもしれませんが、「大多数による、少数の(多くの場合、たったひとりの)弱者への攻撃」といういじめの構図。
程度の差こそあれ、この国の至るところ至る場面において見られはしないでしょうか。
本来は、弱いからこそ守ってあげなければいけない。
友人や家族が怪我をしたり病気になったりしたら、助けてあげたいって思いますよね。
道端でお年寄りが倒れていたら、手を差し延べたくなるのが人間の本性です。
僕は性善説を支持しているので、そうした人間本来の善性を歪めるのは社会でありその根幹を支える教育なのではと思っています。
現代の教育について言うなら、学校や家庭に、宗教が欠落している。
都市化によって、寺社がかつて持っていた道徳的求心力が弱まっている。
詰め込み教育への反動として生まれたゆとり教育は、必ずしも心のゆとりを生むものではなかった。
拠りどころのない精神はふわふわと不安定で、善悪に対する鋭敏さをみるみるうちに奪われていった。
文科省が中学生に武道教育を義務付けることにしたそうですが、この施策が新たな暴力を生まないためにも、宗教が本来的に持っているモラルの基準としての機能を、今一度問い直してみるべきではと思うのです。
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少しずつ街は秋の匂いを散らかしながら、
休暇中の閑散とした空気がまるで嘘のように、
無常にも似て胸の奥をちくりと刺すような、
それでいてどこかほっとするような気分を投げている。
夏の終わり。
祭りのあと、光のやわらぎ。
ああ、大人で良かった。
おっさんでもいい。
ひと月分の絵日記を1日で仕上げる苦痛に較べれば、
平凡で頼りないけれど、穏やかな毎日。
今日はモナカの皮がパリパリで、そんな他愛もない幸せを、噛み締めるでもなく味わっています。
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毎年恒例のお盆がやってきました。
職業柄避けては通れないトピックということもあり、ベタではありますが今年も関連ネタでいきたいと思います。
さて、お盆と言えばお墓参りや迎え火・送り火などもそうですが、
幼い頃から馴染み深いのは、何と言っても盆踊り。
「盆」踊りというのにどうして皆お盆を持って、ドジョウ掬いよろしくコミカルに踊り狂ったりしないのだろうと、子供の頃は不思議に思っていました。
昨年もこの日記に書きましたが、お盆の「盆」というのは「盂蘭盆会」の通称なんですね。
サンスクリット語の「ウラバンナ」から派生したこともあって仏教行事ということにはなっているものの、
祖霊(祖先の霊。神道で用いられることが多い語)を呼び戻し交感するという世界観は、縄文時代からつづく汎神論的・アニミズム的な民間信仰に端緒があるようです。
死者の霊は空や海、山という他界に留まり、やがて人格を失って祖霊となり、神となる。
我々の生きる世界と死者の住む他界とは、隔てられながらも時に往来ができる。
輪廻転生という概念がありながら死者の霊が帰ってくるというのは決して矛盾なんかではなく、
仏教という柔軟で寛容な教えが、世界各地で土着信仰と見事に融和していくなかで、たまたま極東の島国日本ではこのような形で受容されたというだけのことなのだと思います。
お盆の時期に死霊、祖霊を呼ぶ目印として迎え火を焚き、提灯を吊るす。
お墓もやはり、ご先祖様が帰ってくる際の目印となる。
もともと日本人が持っていた素朴な信仰を征服するほどに仏教は、暴力的でも独善的でもなかった。
絶対なるものなど存在しない。
同じ仏教国でも国によって様々なヴァリエーションがあるのも、仏教のもつ本来的なやさしさを示しているのかもしれません。
お墓の前で手を合わせる。
故人に思いを馳せ、ご先祖様に感謝する。
それは仏様への祈りであると同時に、森羅万象への祈りでもある。
世界をつくるすべてに対する祈り。
平和への祈り。
ここんとこ何とも殺伐とした空気が世を満たしています。
お墓の前で手を合わせる、そんなひと昔前には当たり前だったことが、そうではなくなってきている。
それとこれとは、別個の話?
僕にはそうは思えないのですが。
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いやあ、夏ですね。
暦のうえでは既に秋だということですが、馬鹿言ってんじゃないよと叫びたくなるほど。
暑いを通り越して熱いです。
しかも、
こないだ書いた日記を誤って消去するわ、
パリパリのはずのモナカアイスの皮が、ここんとこいつ買ってもフニャフニャだわで、
この怒りをどこにぶつけてよいのか分からない今日この頃でしたが、
気がつけば北京オリンピックに高校野球と、世間はすっかりアスレティックな熱気に包まれているではありませんか。
なかでも北島康介、内柴正人両選手が見事金メダル獲得と、元気のない日本社会に大きな感動を与えてくれました。
もちろんメダルを逃してしまった選手も、それこそ血を吐くような練習を重ねてこその晴れ舞台なわけですから、十二分にすごい。
「オリンピックは、参加することに意義がある」と言ったのは近代オリンピックの父クーベルタン男爵ですが、普通の人間は参加すらできない世界ですよね。
僕も昨日ジムのプールで泳いできましたが、どうやったら100メートルを、しかも平泳ぎで、1分前後で泳げるのか全く理解できません。
クロールで50メートルなら、1分切れるんだけどな・・・。
恐るべき才能と、恐るべき努力。
モナカの皮で悩んでいるような人間には、想像すらできない次元に生きてるんでしょうね。
よし、僕も頑張るぞ。
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さて、ここで問題です。
「エコバッグ、うちわときたら、次は一体何でしょう?」
ヒントその1:エコとはさほど関係ありません。無理矢理エコネタをこじつける自信はなくもないのですが・・・。
ヒントその2:何故か女性は大抵好きですね。男性でも、積極的に嫌いという人はあまりいないと思います。
ヒントその3:何と言うか、なくても特に困ったりはしないんですが、なければないでちょっとばかり寂しい。
ここまできたら、皆様もうお分かりですね。
正解の前に、コマーシャル(こちらをクリックで加登のTVコマーシャルをご覧頂けます)!!
正解はこのカトカト日記にて、後日お知らせします。
乞うご期待!!
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