2007年11月のブログ記事一覧-カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

加登CM、公開!!

いやあ、長かったような、短かったような。
早く皆様にお見せしたくてたまらんかったとですよ。

以前からちょろっとずつこのカトカト日記でもご紹介していた新CM。
ジム行ってどうのこうのとか、まるっきりの余談で強引にお茶を濁していましたが、晴れて一般公開出来る日がようやく訪れました。

但し、お使いのパソコンの仕様やインターネット接続環境によっては、スムーズに観られない可能性があります。
近々に対応させて頂きますので、今しばらくご容赦ください。

また、TVでは12月下旬からMBS、1月中旬からはテレビ大阪でも放映されます。目撃した方は「おお、これか」なんて呟いてみてください。

最後に、製作に携わって下さった方々、本当にお疲れ様でした&有難うございました。
我々ド素人ならではの、時に無茶な要望にも笑顔で応えてくださる寛容さと高い技術。
素晴らしいパートナーに恵まれて良かったなと、天恵に感謝している次第です。


加登のCMはこちら

因果応報。

仕事帰りにジムへと通う日々が続いています。

走って、泳いで、ヘロヘロになってジム併設の風呂に入る、
この瞬間の多幸感といったら、他に比較できるものを僕は知りません。

オーバーヒート気味の筋肉は湯船の中で弛緩し、つられて僕の意識もゆるゆるに弛む。
ふと我に返るとヨダレが垂れそうになってたりして、思わず周辺に目を遣る。

よし、誰にも見られなかったぞ。僕は世界一のラッキーガイだ。

必要以上にプラス思考になりつつ、サウナにも入る。アホみたいな量の汗を搾り出したのち、ほわほわと夢心地で風呂場を後にする。
ここでビール党幹部の僕としては喉を鳴らして思いっきりビールを流し込みたいところですが、車通勤なのでそいつは家までお預け。

濡れた身体を大人しく拭いて水気を吸ったタオルでも絞ろうかと思ったら、脱衣所にたったひとつしかない洗面台の前から動かない若者がひとり。
背後で順番待ちをしている僕の気配にも気付かない様子。

わざとらしく咳払いなんかしながら観察してみると、どうやら見てるんですね、鏡を。
鏡に映った自らの姿を。

それも、いろんな角度から。
「その角度、さっきも確認してたやん!」
などと心の中で突っ込みつつ、忍耐強く待つ気弱な男は、ひとり湯冷めの危機を迎えていた。

さっきはヨダレ、今度は鼻水? なんて考えてると無性にやる瀬なくなってきて、僕の狭い狭い心は否応なくこの若者バッシングへと邁進し始める。

外見ばかりいくら磨いたって、人の迷惑を顧みないようでは何の意味もないんだよ?
なんて偉そうに。


photo by Mihoko Ozaki

しかしまあ、こうして今冷静になって振り返ってみれば、気付かぬうちに他人に迷惑掛けてることって、結構ありますよね。
僕なんてこんなこと言いながら、他人に迷惑掛けたり不快にさせたり傷つけたりっていうのが人一倍多いときてる。そんな自分を棚に上げ、他人の傍若無人っぷりには腹を立ててしまう。
程度の差こそあれ、人ってそんなもんだと思うんです。

さて、仏教の基本的な概念に「縁起」というのがあります。
ごく大雑把に言うなら、すべてのものには原因がある、といったところでしょうか。この世で授かる幸も不幸もすべて(前世を含む)過去の行いに起因しているという考え方です。

般若心経に出てくる「色即是空」なんてのもこの「縁起」という概念の延長にあり、「事物が確固とした実体として独立して存在する」「事物には本質がある」と考えてきた西洋的概念とは逆に、たとえばダライ・ラマの言葉を借りれば「物事は相互に依存して存在する。すべては、存在するが、それは他の存在に依拠することで存在する。決して単独で、独立して存在したりはしない。(中略)独立して存在するものは存在しない、それがシューニャ(空)ということだ」。

何だかややこしいですが、人間に当てはめて考えるなら、要するに人は自分ひとりで生きてるんじゃなく、いろんなものに依存し、生かされているのだということ。仏教においてこれまた重要な慈悲の心というのも、そのような発想と密に繋がっているのです。

さらに先ほどの「縁起」の概念と絡めて考えれば、ジムの若者から受けた行為は、僕が過去において誰かに迷惑を掛けたのが今になって返ってきたのかもしれない。そう考えると腹も立たな・・・・・くはないですが、怒りが生み出すものって殆ど何にもないんですよね。


怒りという敵が
そうした苦しみを作り出す
誰であれ、一心に怒りを打ち砕く者は
今生と来世で幸福を得る

(シャーンティディーヴァ「入菩提行論」より)


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追伸 @川西中央霊園



そう言えば、書き忘れた情報が。

昨日の日記では永代供養モニュメントの工事が順調に進んでいる様子をご紹介しましたが、こちら無事完成したあかつきには、記念セレモニーを行う予定です。

日程等は現在のところ未定。
詳細が固まりましたらこのカトカト日記や加登ホームページ「WHAT'S NEW」にてご案内したいと思います。

お楽しみに。



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寒けりゃいいってもんでもないぞ。 @川西中央霊園

時折小雨もぱらつくなか、今日は川西中央霊園を訪れました。
写真の通り、永代供養モニュメントの工事は急ピッチで進んでいます。
このままいけばクリスマス頃には完成するとのこと。
めでたいこって。

写真だとちょっと伝わりにくいのですが、実際に足を踏み入れてみると正面のオブジェを設置するための壁は、思いのほか大きくて立派です。
完成図を頭に思い描き、思わず半笑い。キモイから。


作業をしている方の背後にあるのが、オブジェを支える壁。



「どうじゃあ、ワシのシャベルさばきは!!」 もちろん、この方ひとりで工事してるわけではありません。


カロート内部。かなり広い。計算上何千ものお骨を埋葬できる設計。


それにしても、今日に限って日本列島はべらぼうに寒かった。なんでも12月下旬並みの冷え込みだそうで、東北や北陸なんかでは大雪が降っててんやわんやだったとか。
川西中央霊園も例外ではなく、雪こそ降らなかったものの雨は限りなく冷たく、我々の体温を容赦なく奪っていったとさ。

管理事務所に戻り、たまらず啜ったコーンポタージュの温かかさ。
神様ありがとう。
川西中央霊園の自動販売機にコーンポタージュを置いてくれた、コカコーラボトラーズの神様ありがとう。

最後に、霊園からの夕景をどうぞ。





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若い日は皆、何かを目指せ。



社内交流第2弾は、ソフトボールやさかいに!

なんて誰も言っちゃあいないとは思いますが先日、吹田市のグラウンドを借り切り行われたソフトボールの模様がこちら。僕は今回参加してないので、ここからはすべて手前勝手な想像でございます。

・・・・・夜の7時、仕事を終えて集まったカトカト社員一同。
日ごろ使っていない筋肉を、ストレッチでほぐす。久しぶりに手にしたグローブ。

牛皮独特の匂いが、ウン十年前の記憶を呼び覚ます。
日が暮れるまでボールと戯れた少年時代。

名門中学の補欠だったことを言い出せず、人知れぬ努力で真の実力を身につけた。爪をはがしてもなお、投げ続けた。速球対策にと、ピッチングマシンを通常の半分の距離に設置した。才能ある後輩にポジションを奪われ、退部届けを出そうと思った・・・・・。

そんなどこかの漫画から引っ張ってきたような思い出に、皆の心ははやる。誰からともなく、キャッチボールがはじまる。

「先輩、いい球投げますね!」
「いやいや、俺も随分衰えたもんさ」
「何言ってるんですか、受けてる僕の左手が悲鳴上げてますよ」
「おいおい、俺のこと褒めたって何にも出やしないぞ」
「なあんだ、じゃ、前言撤回させてもらいます」

的な、30年前の青春ドラマみたいな会話はないにせよ、野球(ソフトボールですが)ってなんかこう、いい意味でノスタルジックな香りがしますよね。
今でこそサッカーがここまでメジャーになりましたが、僕なんて小学2年になるまで、サッカーというスポーツの存在すら知りませんでした。

球技といったら、何をおいても野球。
そんな時代でした。

実際フットサルに参加している社員は30代前半より若い世代中心ですが、今回のソフトボールは、それより年かさの社員が多かった。勿論フットサルは走りっ放しなので、ある程度の年齢を超えると厳しいものはあるのですが。

そんなこんなでフットサル以上に幅広い層の社員が集まったソフトボール。
受付の女子2名も参加しつつ、加登の結束をさらに強める端緒になったようです。



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Baby, it's you.....

ついこのあいだ出産のため退社したAさんが、ふらっと会社に立ち寄ってくれました。
しかも、ベイビイ(♀)同伴で!

抱いてみてって言ってくれたので恐る恐る抱かせてもらったものの、子供なんてほっとんど抱いたことのない僕。緊張が伝わったのか、予想通りベイビイちゃんは身体をぎゅっと硬くする。か弱い力で何とかこの場を逃れんと、捕まったバッタのように(喩えが悪い? ごめんね!)もぞもぞと蠢く。

む、無理、きっと泣く!
って言うかその前に僕が泣く!

そう思って4.3秒だけ抱いてすぐにお母さんの腕に戻ってもらう。
たちまち彼女の緊張はほぐれ、解放された人質のようにニコニコと笑いながらお母さんの身体に額を擦り付ける。可愛い。

30余年生きてきた僕が、生まれて4ヶ月とかのぽっと出に負けてしまった。何だったんだ、僕の人生・・・。


うーん、それにしても、ちょっと見ないうちにいきなしお母さんかよ・・・。
何と言うべきか、生き物としてものすごく尊敬してしまう。

僕ときたらメシばっかバカバカバカバカ食って、その割には何にも産み出してないぞ。
いかんいかん。

頑張れ、自分!

そんな自己憐憫はさておき、生命ってすごいです。
亡くなった方をお祀りするのが我々の仕事なわけですが、こうして身近なところでは、新しいいのちが次々と生まれている。

加えて、開眼法要など霊園での法要の場には幼い子が列席していることが多い。
亡くなった方のお孫さんだったり甥、姪だったり子供さんだったりと様々ですが、長い長い一生を終えた魂とそれを見送る幼い生命とのコントラストがひとつの大きなうねりを形成し、大河のように未来へと確かに流れていくのを強く感じます。

死を感じることは、生を感じることだ。

死があるから生がある。

人がもし死ななかったら、生なんて単なる持続に過ぎない。
生が尊いのは、観念としての死が存在するからだ。

死という瞬間で区切られた生を、大切に生きる。
歳をとったとかそういうのもあるのでしょうが、死と切り離せないこの仕事に携わるようになって、却って生命の眩さみたいなのに対しとても敏感になったような気がします。


・・・写真アップしたいなー。



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秋の気配。 @はびきの中央霊園(大阪府羽曳野市)


はびきの中央霊園(大阪府羽曳野市)にも、秋がやってきましたよ。
ご覧ください、メイン通路の奥から少しずつ紅葉がはじまっています。

燃ゆるような葉色を湛える木々、静やかな朝。
丘上の空気は生真面目にぴんと張って、この季節特有の時間の透明を模倣するかのようだ。

暑すぎた夏も、今となっては遠い昔のことみたいで、
微妙に懐かしがっている僕を尻目に短い秋もこれまた呆気もなく通り過ぎ、冷たい季節は逡巡なく世界を覆うのでしょう。



目を閉じて耳を澄ませば、秋の声。
ひどい句だな、しかし。

とりあえず紅葉の期間って、ご存知の通りあっと言う間です。
今のうちに行楽気分で霊園散策なんていかがですか?



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進行チュう。  @川西中央霊園

先月の日記でもお伝えしました川西中央霊園の永代供養モニュメント、いよいよ工事がはじまりました。

なるほど、着々と進んでますねー。


写真右上に、おなじみトワストーンズが。



工事期間中は、車道が狭くなってます。ご迷惑おかけします・・・。



「・・・・・カップ手前でちょいスライスだな」 なんて言ってるんでしょうか。



直径2センチの鉄筋を惜しげもなく使用。大切なお骨を地震から守ります。


天候の問題などあって予定より若干遅れが出ているものの、何とか年内には完成しそうです。

川西中央霊園の新しいシンボル【lights:arc】に、乞うご期待!!



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そう言えば、ですけど。

加登ホームページのTOP画面って、じっくり見たことありますか?
大抵の方はイライラしてすぐに [ENTER] ボタンをクリックしているのでは?

確かにまどろっこしいかもしれませんが、絵画でも眺めるように、ぜひ一度ゆっくりと鑑賞してみてください。

夏、夏、秋、秋、海。
微妙に偏ってますが、ゆるやかに移ろう日本の季節がそこにはあります。

それはそうと最近関西にも、納骨堂というものが少しずつ増えてきたようです。
お墓に較べると掃除などの面倒がなくて便利、などの理由で購入する方が多いとのこと。

一方お墓と言えば、以前にも書いたように随分面倒臭い。お参りやら掃除やら法要やら、とかく大変。
大変なのですが、中に入る仏様からしたら、春夏秋冬の光と匂いをじかに感じることが出来て楽しいんじゃないかなあと、あるスタッフが言っていました。

なるほど、確かにそうだ。納骨堂には納骨堂の良さがあるのだろうけれど、個人的には大空の下、生まれ育った地球を感じていたい。

ヒマラヤ山脈に位置するチベットやブータン、タイやミャンマーをはじめとする東南アジアの仏教国同様、仏教の伝来以前から日本にはアニミズム=精霊信仰の伝統があった。草木にも山にも、川にも土にも火にも、すべて精霊が宿っている。

たとえばタイなんかに行くと、未だにどの家庭にも精霊(タイ語で「ピー」)を祀る廟がある。首都バンコクのサイアム・スクエアという一画は、日本で言うと新宿と渋谷を足して2で割ってナンプラーを思い切りかけたような繁華街(伊勢丹もそごうもあります)なのですが、そこにもピーを祀る巨大なスペースがあって、林立するデパートの群れの間で、畏怖すべきピーに対して線香を捧げる人が後を絶たない。

バンコクの若者は総じてお洒落で、男も女もみな細くてチャラチャラしているように見えるのですが、そんな若者たちが当たり前のように線香に火をつけて手を合わせている姿をみると、何とも言えない気分になります。

随分脱線してしまいましたが、農耕、特に稲作で発展してきたアジア諸国にとって、自然とは崇拝の対象だったわけですね。身のまわりの自然を怒らせると、それこそ生きてはいけなかった。現在でも神道の行事として地鎮祭などありますが、基本的に自然を敬い、自然のなかで生きるということが、我々にとって至極ナチュラルなことなんですよね。

そういう意味でも、やっぱし、お墓って、ええで!

お参りだとか掃除だとか確かに面倒臭いかもしれないけど、僕達が親やその親たちにかけた苦労を思えば、そのくらいしてあげないと、供養とは呼べないのかもしれませんしね。

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雨の新御堂筋。

小ぬか雨ふる新御堂筋を北上し、帰途に就く。
しばらく日記を更新しない間に、気がつけば雪の季節が目前に迫っていました。

冬に備えて皮下脂肪を蓄えんと躍起になっているのか、幾らジムで走ろうと僕の体重は一向に減る気配を見せません。

何か知らんが、秋は食べ物が旨いのです。
春や夏、それから、冬と大体同じくらい旨い。

それはそうと。
今日のテーマは、相互理解について。

唐突ですが、我々の世界は、すべて言語で出来ている。
言語「的」に説明し切れない事象は、存在しないのと同じだ。

虹は7色だと我々日本人は信じて疑わないが、フランスでは虹は5色だ。
「ドレミファソラシド」の音階のなかに、アラブの人々はその十数倍もの微妙な音階を聞き分けている。たとえば、西洋音楽で育った人間が聞くとどれも「ラ」にしか聞こえない3つの音を、彼らは全く別の音として認識しているというのです。

自分にとって存在しない音を聞いている人もいれば、自分がふだん当たり前のように認識している色が、見えていない人もいる。

いや、実際は聞こえているし、見えているのです。
ただ、それを分節する言葉を持たないだけ。

虹の色にしても、「ここからがオレンジで、それ以上は茶色ね」という言語的な取り決めがなければ、全部(たとえば)「オレンジ」ってことになってしまう。


photo by Mihoko Ozaki

そもそも僕らは、得てして他人のことを判ったつもりでいるわけです。
文化が違えば当然分節の単位も違う、これは誰にでも分かります。

けれど、同じ文化圏で、たとえば毎日顔を合わせているもの同士でも、この分節の基準って結構違うんですよね。
むしろ、その基準を共有しているという幻想自体が大なり小なりその共同体の求心力を保持する原動力となっているのではとさえ思うわけです。

そして、自身の基準イコール他人の基準だと思い違いしている人には、留保がない。ひとたび「こいつは悪い人間だ」などと決め付けてしまうと、その人の言動のすべてはたちまちその枠の中に無理矢理押し込められてしまう。

心から反省して述べられた言葉も「これはポーズに過ぎない。心底反省なんてするわけがない」と一蹴。実際そうかもしれないのだけれど、そうでないかもしれない可能性については一切顧みることをしない。

そもそも他人の気持ちなんて分かるはずがないのです。他人の気持ちを語っているつもりの言葉は、既に自身の言葉なのですから。自らの、限られたボキャブラリーの範疇でしか他者の内部(と思われるもの)は語れない。究極的に互いが理解し合えるはずがないという前提のもとにしか、コミュニケーションは成立し得ないという逆説がここにある。

とある格闘技の世界戦後の騒動を見ていると、ふとそんな気持ちになりました。
他者に対する配慮とは、自身が他者を理解し得るという傲慢さの対極にあるのではないでしょうか。戦争のない世界は、そういうところから始まるんだ、なんていうと笑われそうだな。


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