
そうなんだ。
日本では死刑制度存続派のほうが多いんだ。
国際的に見ると死刑制度が「残っている」国のほうが少ないのに。
とりあえず政治的視点とかそういうの全く抜きにして、
飽くまで一個人としての見解ですが、
僕は死刑に代えて終身刑制度を採用すべきだと思っています。
ここで争点となるのは主に以下の3点でしょうか。
(1)凶悪犯罪抑止力の有無
(2)被害者家族の感情
(3)犯罪者の人権
(1)について。
正直、死刑制度のあるなしでは変わらない気がします。
ヒトを平然と殺めることのできる人間が、「近い将来訪れるかも知れない」自らの死を怖れるほどの想像力を持ち合わせているとは到底思えません。
もちろん、実際に死刑を言い渡された後に改悛する人はたくさんいるでしょうが、それでは犯罪を未然に防ぐことは出来ませんよね。
(2)について。
これは確かに自分が被害者の立場になったら、憎き加害者がこの世に生き永らえているなんて許せないでしょう。
だからこれは綺麗ごとに過ぎないのかもしれませんが、やっぱり「目には目を」っていうのでは根本的な解決にならないと思うんです。
たとえそれがどんな人であろうとも、誰かが死ぬことで満足感(?)を得るというのはとても不幸なことです。
罪は償われなければならない。死ぬことでそれが達成できるとすれば、ある意味何の努力も要らないわけです。
被害者家族の憎しみを背負い、犯した罪を生涯悔いつづけるためだけに存在する日々。
それこそが加害者に課せられるべき地獄なのではないでしょうか。
(3)について。
被害者の人権を奪った人間の人権を奪う、それはそれで良いと思います。
僕が偏っているのかも知れませんが、原則的には人を殺した人間に人権なんて認めなくて良いと思います。
ただ、その人の人権を剥奪することが、イコール死刑だとは思わないのです。
人が人らしく生きる権利を「人権」と言うのなら、薄暗い刑務所の中で一生を過ごすことは、人らしく生きる権利を奪われていることにならないでしょうか。
何だか上手く言い表せないんですが、犯した罪から簡単に逃してはいけないって、とにかくそう思うんですね。
犯罪者が悔悟するか否かは、僕的には二の次かなあ。
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先日、京都で催されている「円空・木喰展」を訪れました。
前々から円空仏には惹かれるものがあり、
一度はこの目で直に触れてみたいと思っていたので、開催を知ったときはなかなかの嬉しさでありました。
まずは京都駅ビル内の「粒麺小路」に店を構える、博多豚骨ラーメンの有名店「一幸舎」にて腹ごしらえ。
味玉ねぎチャーシュー麺、超美味でした。豚骨に感動を覚えたのは久し振りですわ。
げふ。
さて、本題に入りますが、円空(えんくう)、木喰(もくじき)のふたりはともに江戸時代の遊行僧で、全国を行脚しながら多数の仏像を残しました。
特に円空は64歳で入定するまでに12万体もの像を彫ったと言い伝えられており、
現在確認されている作品だけでも5,000点を超えるとのこと。
写真などの平面でしか見たことのなかった円空仏ですが、
この3次元において悠々と鎮座するお姿を目の当たりにして、
「やっぱりナマはいいね」
などと夏場のビールのCMみたいなフレーズが口をついて出てしまう僕。
ライティングの妙もあるんでしょうが、
見る角度によって表情を変えるのがまるで本当に魂が通っているようで、
やわらかに笑む口元を見ていると、今にもやさしく話しかけてくれそうな気さえしてくるのです。
「芸術作品(と呼んで差し支えないでしょう)とは見る側の心を映す鏡だ」てなことがよく言われますが、
円空の作品もまたそれ自体で完結しているというよりは、
見る主体と見られる客体とがあってはじめて成立するというような、
つまりは見る人の数だけ作品があるというような傾向が特に強いのではないかと思いました。
仏教はその寛容さゆえに、普及の過程において各地に伝わる民間信仰を吸収し、
地域の文化に(征服ではなく)親和していきました。
生きとし生けるもののすべてに、仏性は宿っている。
カタチはさほど問題ではなく、個々の心のありようのみが問われるのだと。
全国を旅してまわった円空もまた、ほとけの道はそのようなものだと感じていたのでしょう。
ただの木片に最小限の彫りで表情をあらわす程度のいわゆる「木っ端仏」の果てしない深さ。
どんな木片にだって、みほとけが宿っている。
この世に無駄なものなんてないんだ。
だからそう、つまらない人間もくだらない人生もなくて、
ただ生きてるってことが本当に何かの縁で、
大好きなひともちょっと苦手なひとも、きっと意味があっての出会いなんだ。
すべてを赦し、自らを赦し、そうして生きていくことだけがほとけの道なんだ。
そんな円空の人類愛的なメッセージを感じながら会場を後にし、2杯目のラーメンを食すべく再度「粒麺小路」へと向かう僕でした。
レッツ・メ・タ・ボ・リック・・・・・パーン!!
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サムライ・スピリット。
この語が意味するところの精神について意義を唱えるつもりは毛頭ありません。
ただ、サムライと呼ばれる人々が全体の何割を占めてたんだろって考えると、
「今の日本人はサムライ魂を失ってしまった」とか言われてもなあ、と思わざるを得ないというだけです。
たこ焼きだけで大阪の食文化を語られると、たとえ褒められたとしても手放しでは喜べないのと同じですね。
異文化を理解するというのは本当に難しいことです。
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先日、とある広告代理店の方とお墓について話をする機会がありました。
その方は、お墓を建てるか納骨堂などで済ませるかという選択を迫られた際に、
「自分の子供にお墓を知らない人間になってほしくなかった」ということで、
結局お墓をえらんだそうです。

倫理観を養うために宗教教育は不可欠です。
しかし、我が国の義務教育の場において宗教は排除されているため、宗教教育を実践できる場というとそれぞれの家庭しかないのが実情です。
その意味でお墓がある家というのはいいなって思います。
「宗教」とか言うと何だか物々しくも感じられますが、「お墓参り」の源流はこの国に宗教が伝わる以前の先祖供養の文化なんです。
だから仏教徒もクリスチャンも神徒も関係なく、日本人だったらお墓参りをするのがごくごく自然なことで、難しく考える必要など一切ありません。
ただただお墓の前で手を合わせ、自らを生んでくれた両親や祖父母、ご先祖様に「ありがとう」の気持ちを伝えるだけで充分ではありませんか。
子供が親兄弟を殺したりする事件が当たり前のようになっている今だからこそ、「ありがとう」の気持ちを育む場が必要となってくるのではないでしょうか。
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