希望なんてない時代のような、これから。
あくせく頑張っても、見返りの少ない世の中かもしれない。
けれどいかなる時代においても、生が苦でなかった試しはない。
頑張って結局何も残らなかったとしても、頑張ってる自分ってちょっといいよ。
過程をたのしむってのも、悪くない。
だから、0点でもいい、解答用紙は全部埋めよう。
そんな子供たちを、大人たちがたくさん褒めてあげる、そんな世の中になればいいと希う。
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とある本に、こんなことが書いてありました。
何事も、懸命に打ち込めばその面白みが分かるのだと。
仕事にしても趣味にしても、やる前から「こんなことやっても面白くないんじゃないか」とか「こんなことやっても大した成果は得られないのではないか」と言ってやらない人は、決してその面白さを知ることはない。
打ち込むからこそ面白さが「理解」できるのに、やる前から面白さや意味を求めてしまうところに、今まさに蔓延しているニヒリズムの元凶があるのではと、そんなことが書いてありました。
確かにそうだなあ。
ジムで30分も1時間も走って何が楽しいのかと問われれば、走ってみないと分からない、としか答えようがありません。
「しんどいだけやん」
とよく言われますが、とりあえず本当にそうなのかどうか、走ってみたらいいと思います。
それで楽しくなかったら、やめたらいいだけの話です。
やってみて本当に面白いこと、意味のあることなんてそんなにはないかも知れません。
でも、何にもしなければ、確実にゼロです。
そんな日々に満足しているのなら良いのですが、何にもする気が起きないときというのは、得てして現状を憂いてしまう。
そんなとき、現状を変えるのは、自身の「行動」しかないのです。
何か面白いものがないか探しても、見つからないことが殆どです。
まずはとにかく「行動」してみて本当につまらなかったら、また別の「行動」を起こせばいいのです。
そうしているうちに、きっと面白いことに出会える。
と言うか、面白さを「見出せる」自分に出会える。
そういうことなんでしょうね。
心が疲弊しているときは、どうしても腰が重くなりがちです。
かく言う自分も、人一倍腰が重いんですよね。
で、ストレスを感じているときって大体、身体が動いてません。
身体が動いてないときって大体、心が動いてないんです。
「馬鹿馬鹿しいけどやってみる」精神状態のときは、物事が上手くいくことが多い。
上手くいかなくても、別の角度からトライしてみたりもできる。
面白い面白くないを決めるのは、結局自分自身でしかなくて、物事の存在自体の性質ではないわけです。
そう考えると、今の世の中、そう捨てたもんじゃないと思います。
消費すること、蕩尽することに快楽を求めるとキリがありませんが、一見無価値に見えるものとも真剣に向き合うことで、何らかの面白さを吸い上げることが出来れば、それってむしろ幸福なことではないでしょうか。
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世界規模の不況の中、どことなく暗鬱とした気分が市井を覆っています。
好きなものを好きなだけ買えるという時代は過ぎ去り、限られた予算の中で自分にとって本当に必要なものだけを選択しなければならない。
そのうえ、善良な消費者を嘲笑うかのように、世間には嘘やまがい物がはびこり、種々の判断を難しくしています。
そうしたなか、何が必要で何が必要でないか、何が真実で何が虚偽なのかという取捨を繰り返すことはすなわち、自身の価値基準を積極的に定め、確固たる価値体系を構築することに他なりません。
それはつまり自己を対象化し「自分とは何なのか」を突き詰めて考えることではないでしょうか。
大なり小なり、人は皆幸福を求めている。
ものすごく大雑把に言いますが、仏教的には心が凪いで平穏な状態を、人生の常態である「苦」から逃れている状態と位置づけているようです。
お金がたくさんあっても心が病んでいる人はたくさんいます。
誰もが振り返るほどの美女が、必ずしも良い結婚をするとは限りません。
身体的なハンデを背負っている人のほうが前向きに人生を楽しんでいる例だってたくさんあります。
30年しか生きられなかったけれど充実した人生を送った人もいれば、90歳まで生きたけど常に誰かを憎みつづけた人もいるのです。
「幸福」と聞くと、量的な問題だと思っている人がほとんどなのではないでしょうか。
たくさんお金を稼ぐこと。
友達よりいい大学に入ること。
同僚よりはやく出世すること。
たくさんの異性から言い寄られること。
これらはすべて、量的(数的)な価値観です。
幸福とイコールであることももちろんありますが、先述したように、その反対であることも多々あるわけです。
資本主義の罪過というのは、こうした優劣を可視化することで、本来人の数だけあると言って良い価値体系を、完全に一元化してしまったことだと思います。
冒頭で「自分とは」何なのかを問う必要性について述べましたが、それは「自分自身にとっての」幸福を求めることであって、世間に流布する画一的かつ量的な「幸福」を追うことではないのです。
では、質的な「幸福」って何でしょうか。
個人的には「感謝できる心」を持つことかなあと、漠然と思っています。
僕自身感謝する気持ちに欠けた人間だという自覚があるので、この「感謝する心」は幸福へのパスワードなんじゃないかと、思っているわけです。
他が存在するからこそ己が在る。
ドーナツがあるから「ドーナツの穴」が在るのと同じこと。
僕は所詮、ドーナツの穴なのだ。
他に依拠して存在する自我。
僕は畢竟、生かされているに過ぎないのだ。
僕でないすべての存在によって、生かされているに過ぎないのだ。
そのことに、感謝しなければいけないのだ。
ありがとう、僕を生んでくれた両親、そしてご先祖様。
森羅万象に感謝するのも大事ですが、まずは身近なところから感謝を広げていくのが良いでしょうね。
それによってもたらされる心の平穏こそが、今求められているんじゃないでしょうか。
えらく遠回りしてしまいましたが、何とか燃料の切れないうちに着陸できそうです。
皆さん、先祖供養ってホントに大事ですよ。
え? それだけ? とか言わない言わない。
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皆さん、お気づきですか?
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今日はめでたく新コンテンツ「墓石デザインカタログ」が公開されました。
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最近、「お墓の引っ越し」に関するお問い合わせが増えてきました。
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といったケースです。
(1)の場合、お墓そのものの移転が出来ない霊園や寺院が多いことと、かなりの重量がある石碑の撤去費・運搬費が思いのほか高額になることから、(2)のようにお骨だけを移転されるケースが大半のようです。
お骨の引っ越しを「改葬」と言いますが、改葬には所定の手続きが必要です。
勝手にお骨を掘り起こして移転することは、法律により禁じられていますのでご注意ください。
改葬の手続きはなかなか複雑で、改葬許可証をはじめとする各種書類を取得・提出しなければいけません。
そのうえ、市区町村や霊園・寺院によって手順や書類が異なるケースがほとんどです。
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