トップアスリートと言葉。
by |2011-01-24 23:22:17|
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いやあ、やりましたねアジアカップ。
サッカーと言ったらワールドカップの本戦をちょろりと覗き見する程度の僕ですが、先日のカタール戦はしっかりチェックしましたよ。
技術論、戦術論については何の知見も持ち合わせてないので、当然ここで語れることなどありません。
が、そんな僕の素人目に見ても、あそこまでドラマチックな勝利をもぎ取るためには、並外れた精神力が不可欠であることくらいは分かります。
「ヤバいな」「マズいな」という状況を如何にして切り抜けるのか。
確たるノウハウがその根底に存在するのならば、ぜひともあやかって日常の様々なシーンに応用したいものです。
ところで、スポーツの話題ついでになりますが、僕は雑誌などに掲載されている一流スポーツ選手のインタビューを読むのが好きです。
何故か。
何と言っても、それぞれの競技のトップに君臨する人というのは皆とても頭が良いですよね。
知識や教養の多少は別として、頭の回転が速く論理的な思考が出来る。
インタビュアーの質問に対し的外れなことをあまり言わないし、何より言葉が常に明晰です。
だから読んでいて心地良いし、なるほどと思わず唸らされることもしばしばです。
無論雑誌なんかだと後からいくらでも編集が出来るので、ある程度のギミックが介在する余地もなくはないのですが。
まあそれは置いといて、いくらスポーツの世界と言えども、持って生まれた反射神経や身体能力だけでは、いいところまで辿り着けてもナンバーワンにはなかなかなれないんですね。
物事を筋道立てて考えることが出来ないとダメみたいです。
実際の試合の場面などでは当然瞬時の判断力の方が大事になってくるのですが、そこに至るまでに避けては通れないのが地道な練習の積み重ね。
それもただがむしゃらに血を吐くまで頑張れば良いというものではなく、少なくとも近代のスポーツにおいては論理的な思考に支えられた方法論を持たねば通用しないのです。
自分が今どうなりたいか、そのために不足していることは何か、そのためにどんな練習が必要でどのくらいの時間を要するか、などなどを冷静かつ客観的に語ることが出来ない選手は伸びていかないといいます。
優れたコーチ陣に恵まれてさえいればそれで良いということでもなく、選手の側にコーチの指示を理解する力がなければ宝の持ち腐れとなってしまいます。
何のための練習なのかを理解して練習するのと言われるがまま闇雲に練習するのとでは、天と地の差があるのです。
何かの雑誌で読みましたが、水泳の北島康介選手のコーチは北島選手に対し、自身のコンディションを言葉で表現するよう徹底させたそうです。
言語以前の感覚にとどまっていては、課題を明確にすることは難しい。
言葉にすることではじめて課題は課題となり、自分自身にさえ曖昧だった問題の輪郭が、コーチをはじめとするスタッフにとっても明らかなカタチで現前する。
課題は共有され、乗り越えるための道筋はより具体的な熱を帯びる。
日々成長するサッカー日本代表の躍進の裏に何があるのか僕には知る由もありません。
明らかなビハインドを背負ったときの諦めない強さの底には、根性論の類もあったことでしょう。
それは僕にとって寧ろ肯定したいことですらあるのですが、それ以上に彼らを支えたのは論理の力ではないかと思えてならないのです。
1点のビハインドは、1点のビハインドでしかない。
ただのビハインドではなく、退場により数的不利ができたと言うのなら、「数的に1人不利な状態での1点ビハインド」というだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
「だけ」って簡単に言うなよって言いたくなるのはもっともだけれど、論理的機械的に考えると、どうしてもそうなる。
重要なのは「それ以上でもない」ということだ。
置かれた状況を必要以上に悪く捉える必要なんてどこにもない。
前田日明はこんなことを言っています。
「リングの上でも淡々と機械のように試合を運べる奴が一番強い」
日本代表は勝ちたいという強い熱を持ちながらも、危機的状況における冷静さを失わなかった。
ただ単に神に祈るような希望ではなく、
「いつもの練習通りこうやって、こう攻めて、こう守ったら、残り時間から考えて十分に逆転できる」
みたいな単純な論法をある種淡々と運び得るという静かな確信めいたものが、チームを支えていたのではないかと、そう思うのです。
間違ってるかも知れませんが、勝手にそう思ってるんです。
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