鳴門ロータリークラブ例会(4月9日)
4月9日のロータリークラブの卓話者は、長谷寺 元住職 小塩 祐光氏でした。この住職は、本当にたくさんの徳を積んでこられて、地域では誰からも尊敬をされている人でありますので、たくさんの参加者がありました。
生まれた所である岡山の中学校で、同窓会に卒業してから65年以上の年月が経ち、初めて参加をして、2年ごとに参加をして、参加人数が半減していく様を表現して「死に対する心の準備」を説かれました。
住職が尊敬して止まない有名な良寛禅師の言葉を引用して、深いお話をしていただきました。聞いていて、涙がでそうなほど感慨深いお話でした。
「死があるが故に生あり」、「無常は世の定めである。」
知り合いの人が飼っていた愛犬が、13歳の時に病気で療養をしていた頃、外で飼っている大きな犬なのですが、寒さや雨に困るといけないので、裏庭にある大きな松の木の下に穴を掘ってあげていたそうです。
しばらくすると、愛犬は、朝、誰にもわからないように、飼い主が掘ってくれた穴に入って、 飼い主の方に、手と顔を差し出して、静かに息を引き取っていたそうです。誰にも迷惑をかけずに、自然に身を任せて息を引き取れたということです。
人間には、知恵と欲望があるので、植物や他の動物のように自然に身を任せて静かに死んでいくということが大変難しい 。
この考えを改めていく必要がある時が近づいてきている。去る人が居るから新しくでてくる人が出てくるのであると。
住職のお寺には、樹齢500年のイチョウの木があるそうです。 葉は、枯れたり生えたりしていくが、木はずっと生き続けている。
これが、人間のあり方と同じではないか。
最後に、印象に残った住職のお話をいただいた良寛禅師の辞世をご紹介して、今日の日記は終了させていただきます。
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ 」
(訳)紅葉したもみじが風に吹かれて、パッと枝から離れ、ゆらりゆらりと裏をみせ、表をみせて落ちていきます。ここにはやけっぱちになって飛び落ちる悲痛さもなく、落ちたくない、死にたくないとしがみつく苦しみもなく、縁のままに、風のままに去っていく、大悟徹底した静けさ、安らかさがあります。
僕には、まだ、死に対する認識はありませんでしたが、住職がお話いただいた過程を目標に、これから生き続ける様を、楽しみたいと思いました。