日豪和解を促す武人への敬意
5月31日、沖縄近海。海上自衛隊の輸送艦「くにさき」艦上において、日豪による初の洋上追悼式が執り行われた。
くにさきはその2日前、米豪両軍約140人を乗せ、横須賀を出港した。突発災害などを想定し、7年前から米軍が主導してきた「パシフィック・パートナーシップ」と銘打った医療支援活動を行うため、ベトナムに向かっていたのだ。
◆敵国の武勇をたたえる
追悼式は豪州側が申し入れた。72年前のちょうど、この日、旧海軍の特殊潜航艇がシドニー港を攻撃し、少なくない戦死者が出た。このことが豪州側に衝撃を与え、忘れられない日になっていた。
米軍楽隊が日豪の国歌を演奏し、黙祷(もくとう)が行われた。豪州軍指揮官のクローニン陸軍中佐は「祖国を愛する勇敢な行為」と潜航艇の乗組員を称賛した。先の大戦での敵国の武勇が今もたたえられ、継承されている。
昭和17(1942)年に遡(さかのぼ)る。5月31日、潜水艦「伊24」などから発進した特殊潜航艇は3隻だった。リアス式海岸で細長い同港は厳重防備で、潜入は極めて困難とみられていた だが、潜航艇はかいくぐり、港内にいた米重巡洋艦シカゴに魚雷を放った。はずれたものの、魚雷は岸壁に当たって爆発し、係留中の兵員輸送艦クッタブルを撃沈した。豪州兵と英兵の計21人が戦死した。6月1日の未明だった。
豪海軍は2隻の潜航艇を撃沈し、引き揚げた。松尾敬宇大尉ら4人の遺体は日章旗に覆われた棺に納められ、弔銃が斉射された。正式な海軍葬で弔ったのは、衝撃とともに感銘を受けたからだった。
◆日の丸に覆われた棺
国内からは海軍葬への批判が起きたが、豪海軍のグールド少将は「彼らの千分の一の犠牲を払う覚悟がある者が、われわれの中に幾人いるだろうか」と勇者をたたえる姿勢を貫いた。遺骨もその年の10月、日本に交換船で送り届けられた。戦いが終わったあとも豪州はこのことを忘れなかった。 シドニー港近くの基地名をダッフル海軍基地として、毎年6月1日には慰霊式を営んでいる 1968年には一人の日本人女性が豪州を訪れた。83歳の松尾まつ枝さん、松尾中佐(2階級特進)の母だった。まつ枝さんは24歳で亡くなった息子をしのんで、シドニー湾に日本の酒を注いだ。
安倍晋三首相は8日の豪議会での演説で、このことに触れた。「その勇猛を長く記憶に留(とど)めた皆様は、勇士の母を日本から呼び寄せてくれたのです。なんたる、寛容でしょうか」。こう述べたうえで、「いまも心打たれるものを感じる」。
日豪首脳はこの日、「特別な関係」をうたいあげた。
だが、そこに至るまでの道程は平坦(へいたん)ではなかった。戦後のある時期まで豪州の国民感情は日本を敵視していた。日本軍による連合軍捕虜への虐待や空爆の記憶が生々しく残っていた。
「日本への敵意なくせ」
払拭する契機となったのが日本との関係を始める際のメンジーズ豪首相の次の言葉だった。 日本に対する敵意はなくすべきだ。常に記憶を呼び覚ますより、(未来を)期待するほうがよい
1957年、日豪通商協定が締結された。日本は最恵国待遇を与えられ、経済的な利益を共有する基盤が整った。それに加え、敵対意識の抑制、寛容、未来志向が和解を促した。
てこになったのは、戦った者同士の互いの敬意だったのではないだろうか。
問題は日本だ。軍事力を悪とみる傾向に引きずられ、先人たちの労苦を忘れてはいないか。
国を守るとはどういうことなのか、豪州がそっと伝えてくれている
我国こそが追悼式をすべきだ