プーチン大統領の統治をシステムの機能しない個人依存の「手動統治」と呼ぶが、トランプ政治も露以上の手動統治だ。この米国で昨年12月と翌月に「国家安全保障戦略」と「国防戦略」が発表された。これらは冷戦期のように中露を最大のライバルとしており、全ては取引次第と見て「無戦略」とか「海図なき航海」と言われるトランプ政治のイメージと異なる中露は当然反発し、わが国でも眉を顰(ひそ)めた者は多い。ただ筆者はトランプ大統領の「ツイッター外交」の危うさを強く懸念していたので、両戦略の冷静な現実主義にむしろ安心した
日本では悪という非常識が定着
3月には英国で元露諜報員暗殺未遂事件が、4月には露が支援するシリアへの米英仏の爆撃事件が生じ、欧米と露の関係は米大統領自身が「冷戦時代を含めても最悪」と言うほどになった。露首脳の米国批判も辛辣(しんらつ)となり、国連安保理で拒否権合戦も行っている
この状況の中で露国内に、米国とくに米国防総省の抑制したシリア攻撃を「冷戦時の冷静かつプロフェッショナルな経験の伝統」として、「最善の選択だった」と評価する声があることを紹介したい。そして、状況によっては文民よりも軍こそが軍事力の暴走や深刻な戦争を抑える主導力になるということに目を向け、それをどう考えるか問題提起をしたい。わが国では「軍=悪」という非常識が定着し、国防省という名称もタブーとなっているからだ
シリア政権の残虐な化学兵器使用疑惑に関し、トランプ氏は4月8~9日にプーチン氏の責任にも言及し代償を払わせるとして「48時間以内に大きな決断を下す」と述べた。これに対し露は「シリア向け米ミサイルは全て撃墜し、発射地も攻撃する」と応じた。期限の11日にトランプ氏は「ロシアよ準備しろ、高性能のミサイルが飛んで来るぞ」とツイートし、緊張が極度に高まった
機能した危機制御メカニズム
露メディアは一時、米軍などがシリア当局の施設だけでなく、シリアにおける露、イランの施設や軍事基地、さらにはクリミアの基地も攻撃し核戦争に至るという「終末論的予言」までしていた
トランプ氏が一目置く冷戦期以来の経験豊かなマティス国防長官が、大規模な軍事衝突を懸念して攻撃を2回延期させ(BBC)、結局、米英仏によるミサイル105発のシリア攻撃は一人の死者もなく露軍も反応せず、形式的あるいは象徴的なもので「できレース」とさえ言われた。露の独立系メディアも、公式論と一線を画して次のように報じている、露軍は米軍から前もって攻撃目標を予告され、露軍はそれをシリアに通告、シリア側は予(あらかじ)め人員や物資を標的から移動していた(注、公式的には米国は予告を否定もした)。また、1年前のシリア攻撃と異なり、公然とシリア・露への制裁が宣伝されていた。実際に3カ国による攻撃の標的は露関連施設を意図的に避け、米はプーチン氏を追い詰めなかった、それゆえ、シリアや地中海などの露軍も、西側のミサイルや戦闘機、艦船は攻撃しなかった。つまり、西側主要諸国は、冷戦時代の経験から受け継いだ冷静な対応をした。米国政治の中で、感情的な政治家たちの破局的な決定を防止する危機制御メカニズムが機能したのである。その制御メカニズムの最重要の位置にいたのは米国の軍人たちだった。こうして終末論的予言は当たらなかった。今回のミサイル攻撃は、化学兵器使用問題をめぐる露米間の緊張を緩和しその問題を解決する最善の行動だった。(『独立新聞』『ノーヴァヤ・ガゼータ』)
軍人は文民より好戦的なのか
人的犠牲は出さず、各国は公約は実行したとしてメンツは保ったというわけだ。しかし露独立メディアの何(いず)れも、シリアでは何も解決しておらず事態は一層混乱し、欧米と露の不信と対立はますます強まり、今後も危機制御メカニズムが機能するとか悲劇的事態が阻止されるという保証は全くない、と警告している
かつて反動的とされた露皇帝アレクサンドル3世(在位1881~94)は「露に友人はいない。同盟国も裏切る。信頼できるのは露軍のみ」と述べた。プーチン氏はこの皇帝を称賛して昨年11月に彼の言葉を刻んだ記念碑の像をクリミアに作った。露大統領補佐官のV・スルコフ氏はこの4月、次のように述べた。歴史的に露は欧州の一員にもアジアの一員にもなれなかった。クリミア併合後、露は世界と経済関係や戦争を含めさまざまな交流を持つだろう。しかし、露は今後100年以上にわたり本質的に孤独である-と
わが国では、軍といえば好戦的とか軍国主義と自動的に考える者が少なくない。しかしシリアの危機的事態に対して、米国では文民ではなく軍人の国防総省が危機制御メカニズムとして機能した。そして露国内で公式の対米批判とは別に、それが高く評価されている。このことをわれわれは熟考すべきではなかろうか。
袴田 茂樹
産経新聞