長い三平山トンネルを抜けても吹雪は治まるどころか、さらに激しさを増し、フロントガラスの外側に薄く凍ったようにはりついた。
私は前屈みになりながら、絶え間なくフロントガラスにウオッシャー液を噴きかけ、かろうじて視界を確保しながら運転を続けた。
夢中になって運転しているうちに吹雪も少し和らぎ、いつしか下りに向かって走っているのに気付き妻に声をかけた。
「蒜山サービスエリアをいつ頃過ぎた?」
「もう、とっくに過ぎたよ。もうすぐ湯原ICが近いかも?」
いつの間にか前を走っていたはずの観光バスの姿は見えなくなり、蒜山IC~湯原IC間の玉田山トンネル(1.6km)を過ぎ、湯原IC~久世IC間の摺鉢山トンネル(4.1km)を過ぎた頃には、ざらめ雪が“うっすら”道路に残っているだけになっていた。
普段なら40分程度で通過できる米子道に2時間以上もの時間をついやし、中国道の真庭PAに到着したのは11時を過ぎていた。
真庭PAでトイレ休憩をとり、中国道から岡山道そして山陽道に入ると、これまでの天候がまるで嘘のように青空が広がり、途中、渋滞もなくスムースに笠岡に向かうことができた。
娘は岡山の大学を卒業し地元の銀行に就職していたが、一年くらい経った、ある日、突然、私が耳を疑うようなことを言い出した。
「お父さん、私、結婚したい人がいるの」
「裕子、おまえ、そんな人がいるなんて、お父さんに一言もいっちょうへんがな」
「もう少し仕事に慣れたら言おうと思っていたけど、その人が横浜に異動になったの」
娘の話によると、学生時代、アルバイト先で知り合った男性と交際していたが、その彼が横浜に異動になるとのこと。彼曰く、仕事をやめてどうしても横浜について来てもらいたいと強く望んでいるというのだ。
娘は彼と結婚し藤沢に住むようになっていたが、彼が7年前に突然会社を依願退職したため、彼の故郷である瀬戸内の笠岡諸島の或る島で暮らすようになっていた。
(この話の顛末ついてはまたの機会に記すこととする)
「山陽側に来ると、山陰の天気が嘘みたいだね。裕子も早く親離れして一人前にならんと、いつまでも親に甘えていたっていけないのに」
妻は毎日のように娘から掛ってくる電話の声を聞くたび、たまには楽しい話題で電話をして来ればいいのにと、いつも顔を曇らせ気を病んでいた。
「もう来年は迎えに来ないかも?それでも孫たちが小さい間は、迎えに行ってやらんと可哀そうだしな~」
「しかたないか、親が生きている間はいつまで経っても子供は子ども、親が亡くなって初めて親になれるのかも知れない、親が生きている限りは親が何歳になっても、子供にとって親は天皇陛下みたいな存在かもしれないなー」
こんなたわいもない会話を交わしながら、山陽道の笠岡ICを降り13時過ぎにようやく笠岡港に着いた。
復路は子供も乗せて帰らなくてはならない、米子道が猛吹雪だったら無事に越えることができるだろうか?
そんなことを考えていると不安がよぎり、フェリー到着までの一時間余りの間、仮眠をとろうとするがなかなか眠ることができなかった。
「もうすぐフェリーが着く頃だよ」
妻の声に“うとうと”まどろいでいた私が目を覚ますと、フェリー到着の10分前であった。
「着いたらすぐ出発するよ、フェリーの中でトイレを済ませておくよう裕子に連絡しておいて!」
私は妻に言い残しフェリーの待合所に向かった。
白い大きな船体が桟橋に接岸し多くの下船する客に交じって、両手にボストンバックを提げた裕子と、リックサックを背負った孫たちも下船し“コニコ”溢れんばかりの笑みを浮かべながら私に近づいてきた。
「お帰り、汐里、沙織、元気だった!」
「おじいちゃん、お迎えありがとう」
孫は人目には、とても可愛いいとは言い難い容姿だろうが、そこは数カ月ぶりに会う我が孫、やはり可愛いく目が潤む。
この一瞬のために186キロの雪道を、遠路車を飛ばしてきたようなものである。
「裕子、久しぶりだなー、荷物を持つから出しなさい」
私は娘たちの荷物を車に積み、助手席に妻、後部座席に娘と孫を乗せ、これが悲惨な事態の始まりとも知らず青空の広がる山陽路を後にした。
Ⅰ―4へ続く
私は前屈みになりながら、絶え間なくフロントガラスにウオッシャー液を噴きかけ、かろうじて視界を確保しながら運転を続けた。
夢中になって運転しているうちに吹雪も少し和らぎ、いつしか下りに向かって走っているのに気付き妻に声をかけた。
「蒜山サービスエリアをいつ頃過ぎた?」
「もう、とっくに過ぎたよ。もうすぐ湯原ICが近いかも?」
いつの間にか前を走っていたはずの観光バスの姿は見えなくなり、蒜山IC~湯原IC間の玉田山トンネル(1.6km)を過ぎ、湯原IC~久世IC間の摺鉢山トンネル(4.1km)を過ぎた頃には、ざらめ雪が“うっすら”道路に残っているだけになっていた。
普段なら40分程度で通過できる米子道に2時間以上もの時間をついやし、中国道の真庭PAに到着したのは11時を過ぎていた。
真庭PAでトイレ休憩をとり、中国道から岡山道そして山陽道に入ると、これまでの天候がまるで嘘のように青空が広がり、途中、渋滞もなくスムースに笠岡に向かうことができた。
娘は岡山の大学を卒業し地元の銀行に就職していたが、一年くらい経った、ある日、突然、私が耳を疑うようなことを言い出した。
「お父さん、私、結婚したい人がいるの」
「裕子、おまえ、そんな人がいるなんて、お父さんに一言もいっちょうへんがな」
「もう少し仕事に慣れたら言おうと思っていたけど、その人が横浜に異動になったの」
娘の話によると、学生時代、アルバイト先で知り合った男性と交際していたが、その彼が横浜に異動になるとのこと。彼曰く、仕事をやめてどうしても横浜について来てもらいたいと強く望んでいるというのだ。
娘は彼と結婚し藤沢に住むようになっていたが、彼が7年前に突然会社を依願退職したため、彼の故郷である瀬戸内の笠岡諸島の或る島で暮らすようになっていた。
(この話の顛末ついてはまたの機会に記すこととする)
「山陽側に来ると、山陰の天気が嘘みたいだね。裕子も早く親離れして一人前にならんと、いつまでも親に甘えていたっていけないのに」
妻は毎日のように娘から掛ってくる電話の声を聞くたび、たまには楽しい話題で電話をして来ればいいのにと、いつも顔を曇らせ気を病んでいた。
「もう来年は迎えに来ないかも?それでも孫たちが小さい間は、迎えに行ってやらんと可哀そうだしな~」
「しかたないか、親が生きている間はいつまで経っても子供は子ども、親が亡くなって初めて親になれるのかも知れない、親が生きている限りは親が何歳になっても、子供にとって親は天皇陛下みたいな存在かもしれないなー」
こんなたわいもない会話を交わしながら、山陽道の笠岡ICを降り13時過ぎにようやく笠岡港に着いた。
復路は子供も乗せて帰らなくてはならない、米子道が猛吹雪だったら無事に越えることができるだろうか?
そんなことを考えていると不安がよぎり、フェリー到着までの一時間余りの間、仮眠をとろうとするがなかなか眠ることができなかった。
「もうすぐフェリーが着く頃だよ」
妻の声に“うとうと”まどろいでいた私が目を覚ますと、フェリー到着の10分前であった。
「着いたらすぐ出発するよ、フェリーの中でトイレを済ませておくよう裕子に連絡しておいて!」
私は妻に言い残しフェリーの待合所に向かった。
白い大きな船体が桟橋に接岸し多くの下船する客に交じって、両手にボストンバックを提げた裕子と、リックサックを背負った孫たちも下船し“コニコ”溢れんばかりの笑みを浮かべながら私に近づいてきた。
「お帰り、汐里、沙織、元気だった!」
「おじいちゃん、お迎えありがとう」
孫は人目には、とても可愛いいとは言い難い容姿だろうが、そこは数カ月ぶりに会う我が孫、やはり可愛いく目が潤む。
この一瞬のために186キロの雪道を、遠路車を飛ばしてきたようなものである。
「裕子、久しぶりだなー、荷物を持つから出しなさい」
私は娘たちの荷物を車に積み、助手席に妻、後部座席に娘と孫を乗せ、これが悲惨な事態の始まりとも知らず青空の広がる山陽路を後にした。
Ⅰ―4へ続く