大山の北壁の峰々が、薄いオレンジ色にかすかに染まりはじめた時、賽の河原から南光河原の谷底を這うようにつむじ風が巻き起こり、誠輝は吹き飛ばされそうになって身をすくめた。
つむじ風が過ぎ去り、再び鹿笛を吹こうと誠輝が首をもたげ、しののめの薄明かりに照らされた金門の頂に目をやると、小さな白い雲が風にたなびいているように見えた。
その雲は、険しく突き出した金門の岩肌を、まるで、ムササビが滑降でもするかのように岩から岩へ飛び移り“あっ”という間に降下して、南光河原の誠輝の前に立った。
「鹿笛を吹いたのはあなたですか? 私は昔、大雪の中で村の皆さんに命を助けていただいたカラス天狗の勇翔です」と言った。
その勇姿には、昔の痩せてやつれたカラス天狗の面影など微塵もなく、たくましく成長した身体からは力がみなぎり、凛々しく神々しくさえ見えて、誠輝は言葉を失い呆然として立ち竦んでしまった。
「いったい、村で何が起きたのですか」
勇翔の優しい問いかけに、ようやく気を取り直した誠輝は、今年に入ってからの異常気象で村が水不足の窮地に追い込まれている窮状を訴えて助けを求めた。
勇翔はこの話を黙って聞いていたが
「誠輝さん、昔の約束をよく思い出してくれました。これから祠に帰って、仁翔という爺さんと二人で直ぐに村に向かいます。誠輝さんは先に帰って、この事を村の人に伝えてください」
勇翔は誠輝にそう言うと、まだうす暗い河原を北壁の谷底へ飛ぶように姿を消して行った。
「天狗さんが来てくれれば、礼香も村も助かるかもしれない。早く帰って村主さんに伝えなくては」
誠輝の心にようやく光明が差し込み、賽の河原から北壁の谷底に姿を消した勇翔を見送ると、薄明かりに照らされながら河原を下り、林を抜け、雑木林を通って村に向かって一目散に走り続けた。
太陽は山の峰から少しずつ顔をのぞかせると、誠輝の後を追いかけるように高く登り、村に着く頃にはすっかり明るくなっていた。
誠輝が村に入ると、お堂の前の広場に義助を囲んで村人たちが集まっているのが見え、誠輝はその輪の中に息絶え絶えに走り込みながら叫んだ。
「カラス天狗さんに、会えました!」
「それで、天狗は何と言った!」
いつもは沈着冷静な義助も、この時ばかりは平常心を失い、叫ぶとも怒鳴るともつかぬ大声で誠輝の次の言葉を迫った。
「直ぐ! 村に来てくれるそうです」
「そうか、これで村も助かるかもしれん」
この話を聞いて、義助や村人が安堵の表情を浮かべたのを確かめて、誠輝がその場に座り込んでしまった。
この様子を傍らから見ていた礼香が、竹筒に入った水を誠輝に渡すと、その水を美味しそうに“グイ、グイ”と一気に飲み干して誠輝は話を続けた。
「村主さん、この鹿笛のお陰でカラス天狗さんに会うことが出来ました。天狗さんは鹿笛の事も、昔の事もよく覚えていてくれました」
誠輝がさらに天狗との出会いのを詳しく話そうとしていると、村人の一人が大きな声で叫んだ。
「あ!あれは、カラス天狗ではないか!」
みんなは一斉に、その村人の指差す方向を見つめた。
干からびた田圃の先に見える雑木林から、白い二羽のカラスが地上すれすれを滑空するように、“ぐんぐん”村に近づいて来るではないか。