少数派シリーズ/防災・大震災
関東大震災に乗じて6000人の朝鮮人・中国人・日本人(地方出身者・障害者)が虐殺された
東京都慰霊堂
■軍隊・警察官・自警団・一般市民によって「差別下」にある人々が殺された
100年前の1923(T12)年9月1日、午前11時58分に関東大震災が起きた。死者・行方
不明者10万5000人のうち、9割近くが焼死だった。東京が甚大な被害だったため東京直下の地震と
思う方がいるが、震源地は神奈川県西部。死者数の6割は東京でも、家の倒壊は圧倒的に神奈川県が多か
った。100年目として被害の状況がかなり報道されていることから、大変申し訳ないが当投稿としは詳
細を割愛する。ここでは流言蜚(飛)語に注目したく、デマ・流言がどんなに怖いことかをお伝えする。
大震災の死者の数%にあたる、朝鮮人・中国人・日本人も合わせて6000人が、災害に乗じて「虐殺」
されたことをご存じだろうか?日本人が殺されたのは、主に地方出身者や障害者だ。地方出身者は現在と
違い東京の言葉に慣れておらず、言葉が通じない人々や障害者は「朝鮮人」と見做され、日本の軍隊、警
察官、武装した市民で結成された自警団、一般市民によって、何の罪もない人々が殺されたのだ。根底に
は、彼等への「差別」だ。大虐殺のきっかけが、その差別に満ちた政府や警察が流した”官製デマ”にある。
■公人よる”官製デマ”の発出が流言飛語を呼び普通の市民が狂気に変わる怖さは現代にも通ずる
内務省警保局や警視庁いわゆる政府と都の公人が、何の根拠もなく差別と憎しみの感情で、朝鮮人の
放火に警戒する通達を出したことが発端だった。言わば、公人による”官製デマ”の発出だ。質(たち)の
悪い新聞が、このことを煽るように書いたことから、自警団が顔つきや話し方で判断し殺害に及んだ。公
然と殺害が行われた記録が残っている例は、荒川の河川敷に朝鮮人を並べ機関銃で次々と撃ち殺していっ
た。また「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマや流言が波状的に市民の間に広がり、都内各地で殺さ
れたのだ。混乱の最中とは言え、デマや流言を信じ込み、普通の市民が狂気に変わる怖さは現代にも通ず
る。背景には、当時、政府が行った「植民地支配」という差別の構造を作り出したことにある。一方で、
植民地支配に対する朝鮮人の抵抗運動に日本人が恐怖心を抱いていたことにもある。警視庁の記録には残
されていない(都合が悪いため元々記録しなかったか、その後に廃棄か)が、東京都公文書館所蔵の「関
東戒厳司令部詳報」には、はっきりと軍や警察による殺害事実が記されているそうだ。さらには神奈川県
内で145人が殺害された県作成文書が、近年見つかった。その他、至る所に記録は残っているのだ。
にも関わらず松野官房長官は、「虐殺の記録はない」と開き直った。当時も今も、政府主体の虐殺を
隠蔽し続ける。太平洋戦争もそうだが、こうした“加害の歴史”を認めようとしないことが、日本の将来を
危うくさせる。ところで、墨田区・現在の横網(よこあみ)公園に東京都慰霊堂がある。大震災直後、陸
軍被服廠(ひふくしょう)跡地に4万人近い避難者が詰めかけたが、いくつもの火の竜巻が起こり、後に
「火災旋風」と呼ばれる大火災に巻き込まれてほとんどの方が焼死した。その場所に、東京都慰霊堂が建
てられた。投稿者は、かつて中に入って見学したことがある。その隣に、小さな「関東大震災朝鮮人犠牲
者追悼碑」があり立ち合った。毎年、遺族や支援者が慰霊を行っているが、残念なことに追悼碑の面前で
大勢の日本人右翼思想者がヘイトスピーチで罵り、騒然することの繰り返しだ。今年は特に酷く、小競り
合いの中に警察官や都職員が入り静止する事態に。その原因は、100年が経過したとは言え小池都知事
は就任以来、関東大震災朝鮮人犠牲者の追悼式典の追悼文送付さえ行わない。超右翼と言われた石原慎太
郎知事さえ、追悼文送付を行っていた。都の代表者とは言いがたい悲しい偏見思想の姿が、隣国との付き
合いを悪くする。時代を越え、非を詫びる器量が必要だ。