食品のカラクリと暮らしの裏側

食品の安全・安心が総崩れ、また政治・社会の矛盾や理不尽さも増大
暮らしの裏側の酷さやまやかし、危険性・不健全さに迫る!

▽[二度と戦争を繰り返すな]少数派シリーズ/分野別リンク表紙

2024年08月14日 | 戦争を繰り返すな
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少数派シリーズ 分野別リンク表紙  ■二度と戦争を繰り返すな

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Sindm67137861 ■二度と戦争を繰り返すな

沖縄戦の映像「震える少女」をご存じですか?恐怖におののく姿を米軍が撮影した

長崎原爆投下訓練用の“模擬火薬爆弾”49発を30都市に空襲投下、死者400人
別カテ|☆彡美空ひばり|一本の鉛筆|「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」戦争の過ちを伝える
学徒出陣80年わだつみの悲劇を胸に刻む時、戦争起こさせぬ覚悟を
新国立競技場に生まれ変わっても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで
秋山ちえ子「かわいそうなぞう」、美空ひばり「一本の鉛筆」戦争の過ちを今に伝える作品

「侵略戦争」(太平洋戦争)の日本兵の戦死者230万人のうち6割は餓死と病死だった
防衛費GDP2%への軍事国家づくり狙う年5兆6千億円の増額、暮らしをつぶす大軍拡許すな
与良政談★岸田首相は”安倍氏の遺言”?防衛費「GDP2%」にこだわる必要なし
松尾貴史氏コラム◇防衛費倍増の43兆円「敵基地攻撃能力」保持は無意味で破壊的な発想だ
77回目の終戦の日・再び惨禍招かないために「戦争する国」への逆流許さず

特集・学ぶ沖縄戦 15回連載
15・沖縄戦の悲劇を再び繰り返すな!与野各党が異常な軍拡大合唱・県民の思いと相いれない
14・沖縄「慰霊の日」命の土地を戦争に使うな!所有地を米軍普天間基地に占拠され続けている
13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に
12・生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く
11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲
10・集団自決はなぜ起きた?「敵の捕虜になるのは恥」と日本軍が沖縄県民に強制
9・司令官自決前に「最後まで戦え」、6月23日命を絶ったことで日本軍の組織的戦闘終結
8・日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに
7・辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」
6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む
5・沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容
4・米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石
3・地獄絵図」激しい戦闘で沖縄県民の1/4が死亡、集団自決、軍が食料強奪、県民餓死
2・77年前の沖縄戦なぜ犠牲が20万人も!日本軍は本土決戦備え降伏せずに時間稼ぎ
1・20万人が戦死した1945年の「沖縄戦」、まずは初歩版の連載「学ぶ沖縄戦」を

3/10東京大空襲被害者がウクライナ侵攻に重なる恐怖と苦しみを政府は直視せよ
鬼評|広島式典・子供代表「本当の別れは忘れてしまうこと」、菅首相「核なき世界」読み飛ばし
75回目終戦の日「日本の植民地支配と侵略戦争」安倍首相は惨禍を繰り返さぬ決意を
終戦の日・安倍政治の暴走は歴史が教える「戦争とファシズムへの道」へ!

オヤジ|元首相などが晩年になると戦争反対を訴えるがなぜ現役時に言わぬ
政府は太平洋戦争の空襲被害者へ責任を認め救済と解決を急げ
京都の五条通・堀川通が異様に広いのは戦争中の空襲対策だった
戦後72年、ポツダム宣言認めぬ安倍首相・戦争を反省しない政治の危険
<復活決定>広島市小中学校の平和教育「広島原爆の日(8/6)」の登校を復活せよ

海外派兵の戦死に備え殉死自衛官への弔慰金を9000万円に増額
浅見光彦・遺譜2/日本人には思想がないから戦争や原発を許した
浅見光彦・遺譜1/日本人には思想がないから戦後経済活動ばかりに走った
広島原爆ドームの目先に牡蠣船料亭が移転し市民が撤去運動を広げる
戦争終結への昭和天皇の「聖断」を美化するのは正しい歴史認識ではない

野坂昭如氏の戦争中・戦後その2/戦争は気づいた時には始まっている
野坂昭如氏の戦争中・戦後その1/思考停止70年・敗戦から学べ
海外派兵自衛官は1人も殺されていない?でも帰国後の自殺者が40人
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ…」 日本のいちばん長い日・新作映画化
タレント・サヘルローズさんはイ・イ戦争の空爆で両親・家族12人全て亡くした

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沖縄戦の映像「震える少女」をご存じですか?恐怖におののく姿を米軍が撮影した/少数派

2024年08月14日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
沖縄戦の映像「震える少女」をご存じですか?恐怖におののく姿を米軍が撮影した


左/沖縄戦・米軍占領の恐怖のあまり座りこんだまま体をがたがたと震わせる少女(米軍撮影画像) 右/現・浦崎末子さん

■まず投稿者の文章|戦後74年の2019年に名乗り出た!しかし見知らぬ男に威嚇される
太平洋戦争のTV報道や戦争を収録したDVD宣伝などに、「震える少女」の画像がよく使われているのをご存じですか?(当ブログの画像は静止画)。見たことあるでしょう!この少女は浦崎末子さんと言い、2019年当時、81歳。それまで本人は自分に似ていると思いつつ、名乗り出たのが2019年6月。下記にその経緯についての文章―2019年当時の毎日新聞・しんぶん赤旗・その他の資料をまとめた。浦崎さんは、戦争後74年(2019年時点)経過した後も、「戦争は本当に恐ろしい。二度と起こしてはだめだ」と訴える。恐怖の経験、平和の大切さは本文をご覧になって欲しい。先ほどから2019年を強調したのは、同年8月、浦崎さん宅に突然、面識のない男が現れ無断で家の中に入り込み、こともあろうか新聞に掲載されたことを「叱責・威嚇」したそうだ。男の意図は分からないが、右翼思想か戦争を美化する人間にとって、「震える少女」画像は邪魔な存在だったのであろう。だからと言って、恐怖の体験をされ高齢の方を脅すことは許されず、あまりにも非常識だ。それ以降、浦崎さんは身を潜め安否・ご存命かも分かっていない。投稿者は5年間その後の情報を待ったが、情報検索に表れないのでやむなく19年当時時点の内容を記事化した。

■少女を震えさせた沖縄戦「恐ろしい」「誰が悪いのか」「戦争は二度とだめ」
太平洋戦争で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられ、県民の4人に1人が犠牲となった1945年6月の沖縄戦。その悲惨さを象徴する場面として全国に伝えられた米軍撮影の記録映像(動画)が、米兵を前に「震える少女」だ。映像は、沖縄県高嶺村の農道に座り込んだ少女が、2人組の米兵から水筒で水をもらいながら、がたがたと体をふるわせる姿を映し出している。少女がまだ7歳だった頃の不安と恐怖の体験を、こう証言した。「アメリカー(米兵)を目の前で見るのは初めてで、青い目が怖かった。見慣れない撮影機が何か武器に見え、撃たれるのではないかと怖くなり、がたがた震えた」「米兵が差し出した水筒やお菓子は姉たちから『米軍の食料には毒が入っているから食べてはだめだ』と教わっていたので手をつけなかった」。「震える少女」は、私だと名乗り出た浦崎末子さん・2019年当時、81歳。この少女を自分と重ね合わせ、「似ている」と初めて感じたのは2005年の戦後60年特集のテレビ報道だったと言う。

しかし、「自分だ」と言えるまでの確信がなかなか持てなかった。なぜ映像を“私だ”と確信できたのか―。「身につけている服は、近所のおばぁが着物をほどいて作ってくれた柄と同じだった。座っていた場所は、アンマー(母親のこと)と一緒に、頭の上に芋などの野菜を乗せていつも町まで運んだ通り道だったから覚えていた」。浦崎さんは6人きょうだいの三女で上に姉と兄が2人ずついた。米軍の艦砲射撃や爆弾から逃れ、15歳上の次女と避難場所を捜していた。その次女が別行動だった母と三男を捜すから、ここで座っているようにと言われ、夜明け前の暗闇の中、1人でいました。浦崎さんと戻ってきた次女は、その日のうちに米軍が越来村(現、沖縄市)に設置した収容所に移された。母と三男にも3日後に再会したが、母のいない寂しさと不安で毎日、泣き明かした。三男はその後、避難中に受けた米軍の催涙弾の後遺症で死亡。父と長男も戦死し、その次女も戦時中の傷がもとで亡くなった。8人家族のうち、生き残ったのは4人だけだった。

「あんねーる戦(いくさ)でぃ、むるうらんなてぃ(あんな戦争でみんな死んでしまった)。戦争が憎い」。家族4人をはじめ、幼友だちなど多くの命を奪った沖縄戦への浦崎さんの記憶は今も鮮烈だ。山林の「ガマ」とよばれる住民や日本兵が逃げこんでいる避難壕(ごう)などに向けて、容赦なく放たれる戦車からの火炎放射や砲弾の連射。日本兵か住民かの区別のつかない、黒く焦げた死体が横たわる道を進軍する米軍。集落の奥深くまで侵入して、砲撃を繰り返す戦車と海兵隊の歩兵部隊など。浦崎さんは、「こんな戦争を仕掛けたのは誰か、誰が悪いのか」と。目に涙をにじませ、力を込めた。「戦争は本当に恐ろしい。またんあてーならん(二度と起こしてはだめだ)」。


追記/「焼き場に立つ少年」も、ご存じだろうか?死んだ幼子を背負う少年が、焼き場の前に立ち火葬を待つ姿だ。これは1945年、長崎の原爆投下後と推察される。2018年に来日したフランシスコ・ローマ法王(現表記:教皇)が関心を持ち、戦争を問い写真をカードに印刷して配布を指示した。但しこちらは少年の特定には至らず、不明な点が多く見解が分かれる。そのため投稿者は、もう少し勉強してから投稿する予定だ。

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長崎原爆投下訓練用の“模擬火薬爆弾”49発を30都市に空襲投下、死者400人/少数派

2024年08月07日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
長崎原爆投下訓練用の“模擬火薬爆弾”49発を30都市に空襲投下、死者400人



■この空襲は原爆投下の予行演習と第3発目以降の“候補地”の見極めか?
言うまでもなく広島に続き、1945(S20)年8月9日、長崎にはプルトニウム型原爆が投下された。一瞬にして、約7万4千人が亡くなり、約7万5千人が重軽傷を負った。あまり知られていないが今回投稿者が注目したのが、長崎への原爆投下に先立ち「投下訓練用」(予行演習用)として通常火薬を使った“模擬爆弾”が作られことだ。そのため長崎原爆と同じ寸法・長さ3.25m・直径1.52m、同じ重量4.5トンで、爆弾はカボチャのような色と形から「パンプキン」と呼ばれた。米軍は原爆投下の精度を上げることと落下軌道の検証を行うために、B29爆撃機によって7月20日から終戦の前日年8月14日まで、国内30都市に延べ52回(広島と長崎の両原爆含む)高度9000mから空襲投下が続けられた。このテスト爆弾によって、400人以上が亡くなり1300人以上が重軽傷を負った。長崎原爆投下後も模擬爆弾が落とされたのは、通常の空襲でも効果があるか試されたものだ。しかしこの巨大爆弾より、小型爆弾数発のほうが威力があるとして中止された。本来の原爆目標は福岡県・小倉だったか、当日の天候不良によって第2目標の長崎に変更された。

空襲の地域は、福島県6(回数)、茨城2、東京2、新潟3、富山4、福井1、静岡3、愛知8、岐阜1、三重3、和歌山1、京都2、大阪1、兵庫4、広島1、山口3、徳島1、愛媛4、長崎1、※爆撃機故障により海上投棄1、計52回の空襲を行った。主に、国内の軍需工場がターゲットにされた。B29爆撃機は、日本から約2500km離れた北マリアナ諸島のテニアン島が拠点だった。さらに今となって恐ろしいことは、8月9日にテニアン島から2機のB29が米国本国に原爆を取りに舞い上がったことだ。いわゆる「第3の原爆投下」を準備し始めていた。日本が躊躇して長々と「ポツダム宣言」を受諾しなかったことから2発の原爆を受けたが、さらに長引かせていたら「3発目の原爆」が落とされていただろう。52回の各地への空襲は、“3発目”以降を想定しての「原爆投下」候補地を見極めていたのだ。しかし原爆が落とされた広島・長崎が、事前に“空襲演習”しなかったのかは不明。なお上記写真は、2009年、滋賀県大津市歴史博物館で開催した「戦争と市民」展で、子供達が戦争を考えるきっかけにしようと、当時、学芸員だった橋爪修・元館長が発案し、米軍資料を精査して実物と同じ大きさで作ったパンプキン爆弾の模型である。本物の「長崎原爆」(下記の写真)⇒それを同一形状化した「パンプキン爆弾」⇒それを真似た爆弾模型(上記写真)。

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テニアン島に運び込まれた長崎原爆(本物)=1945年、写真は米国立公文書館所蔵

■原爆によって「米兵100万人の死傷者が救われた」正当化論は米国内へ恣意的な作為
映画「オッペンハイマー」の例など、米国では依然、広島・長崎への原爆投下を正当化することが根強く残り、核兵器禁止と廃絶の妨げになっている。当時の米国の経緯を調べてみると、翌年の46年、連邦キリスト教会評議会から、さすがに原爆投下は「道徳的に弁護の余地なし」との批判が高まったのである。そこで原爆正当化の対抗策が打ち出され、代表的なものが「人命救助論」だ。1945年当時、米軍は日本との戦争を終結するため「日本本土上陸作戦」が計画され、突撃すれば“日米双方で数十万人の命が失われる”被害予測が出されていた。米国内の原爆投下への批判が高まるにつれて、「原爆投下によって上陸作戦は中止され米兵100万人の死傷者が救われた」、トルーマン大統領は「50万人の米国民の命が救われた」と恣意的に水増しされ、原爆を正当化しようとした。その論理が今日まで、米国内では支配的な見方が定着しているのだ。もっと言えば、米国大統領や軍部は、原爆投下が「日本の降伏に不可欠だ」と考えていなかった。その先を睨み、戦後、米国が世界で支配権を獲得するためである。特に、対ソ連=現ロシアとの米ソ冷戦、核開発競争を前提にしていた。言わばそのために、日本(広島・長崎原爆投下)が利用されたことだ。

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学徒出陣80年わだつみの悲劇を胸に刻む時、戦争起こさせぬ覚悟を/少数派

2023年10月21日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
学徒出陣80年わだつみの悲劇を胸に刻む時、戦争起こさせぬ覚悟を

音量にご注意下さい(後日、削除されることがあります)。

■ペンを捨てて剣をとり、特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ
投稿はしんぶん赤旗を活用しております/しの突く雨の中、東京の明治神宮外苑競技場で約2万5千人の男子学生らが学生服に銃剣を担いで行進し、6万人余の父母や女子学生らがスタンドから見守りました。80年前の1943年10月21日、「出陣学徒壮行会」の光景です。学徒出陣とは、第2次世界大戦の日本の戦局悪化に伴い、国民が戦争に総動員される中で、それまで徴兵を猶予されていた大学生や旧制高等学校・専門学校生が陸海軍に召集されたことです。43年10月、東条英機内閣は、学生の徴兵猶予を取り消す勅令「在学徴集延期臨時特例」を公布しました。さらに、理工系や教員養成系以外の大学・専門学校の満20歳に達した学生・生徒の徴兵を決定し、同年12月に文科系の学生らを陸海軍に入隊させました。壮行会で東条首相は、学徒出陣について「諸君が悠久の大義に生きる唯一の道」と訓示しました。それにこたえて学徒代表は「挺身以(ていしんもっ)て頑敵を撃滅せん。生等(せいら)もとより生還を期せず」と誓い、命を投げ出す覚悟を表明しました。

学業なかばでペンを捨てて剣をとり、出征した学徒は10万人以上とも推計されます。彼らは短期の訓練の後、中国大陸や東南アジア、南太平洋などの前線に送られました。学問研究への情熱と国家の要請との間で悩みつつ、若い命が奪われていきました。そうした苦悩や葛藤の姿は、戦後出版された戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』に収録されています。「特攻は命じた者は安全で、命じられたる者だけが死ぬ」―歴史学者の直木孝次郎さん(2019年死去)が亡くなる4年前に詠んで朝日歌壇賞を受けた短歌です。直木さんは1943年、京都帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍航空隊に入隊しました。同期には特攻隊で戦死した人も少なくありません。その痛苦の体験を踏まえ、戦後、国民を戦争に駆り立てた「皇国史観」を批判し続けました。

■日本に必要なのは「たたかう覚悟」ではなく「絶対に戦争を起こさせない覚悟」
憲法学者の芦部信喜さん(1999年死去)は43年、東京帝国大学在学中に陸軍に召集されました。翌年、陸軍特別操縦見習士官の試験を受け、1次試験には合格したものの、目が悪くてレーダー画面が読み取りにくかったため、最終的には不合格でした。それが特攻隊要員だったことを後で知ったと語っています(渡辺秀樹『芦部信喜 平和への憲法学』)。戦後の46年3月、復員して長野県の実家にいた芦部さんは、日本国憲法の原案を読んで「特に戦争放棄、軍備の撤廃をうたった条項に目を見張った」といいます。芦部さんが著書『憲法』で「日本国憲法は、第二次世界大戦の悲惨な経験を踏まえ、戦争についての深い反省に基づいて、平和主義を基本原理として採用し、戦争と戦力の放棄を宣言した」と明記したのも、自身の戦争体験に裏づけられたものでした。自民党の麻生太郎副総裁が今年8月、対中国を念頭に「たたかう覚悟」を語ったのは重大です。憲法の平和原則を踏みにじるもので、若者を戦場に送った戦時下の政治家の発言を想起させます。いま日本に必要なのは「たたかう覚悟」ではなく、憲法9条に基づき絶対に戦争を起こさせない覚悟です。学徒出陣から80年、改めて胸に刻みたいと思います。

投稿者によって一部割愛や接続文章等の修正・補足、投稿タイトルは
新聞の原題・原文に基づき、若干、付け加えております。


投稿者からのひと言/前号(下記)でしっかり申し上げたので、謹んで沈黙します。

Sankoub
前号/新国立競技場に生まれ変わっても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで

Akahatatop

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新国立競技場に生まれ変わっても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで/少数派

2023年10月18日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
新国立競技場に生まれ変わっても昭和18年に「学徒出陣」があったことを忘れないで

音量にご注意下さい(後日、削除されることがあります)。

■戦争悪化から大学生にも出兵を命じ10万人が海外派兵され1万人弱が戦死した
今年2023年は、昭和18(1943)年に新国立競技場の先々代に当たる明治神宮外苑競技場で、「学徒出陣」があってから丁度80年に当たる。思えば大いに沸き上がった21年の東京五輪開催前、国立競技場建て替え時に盛んに文化的遺産や文化の継承が言われた。結局お題目に過ぎず、想像通り文化的遺産や文化の継承などは行われず、次々と新会場が建設された。ましてや過去の無形のオリンピック精神やスポーツ文化は、継承されることはなかった。投稿者としてスポーツのことは脇に置き、話が飛躍するが新国立競技場に生まれ変わっても、2代前の国立競技場にまつわる暗い戦争への反省を忘れてはいけないと思う。当時のフィルム映像をご覧になった方もいると思うが、「学徒出陣壮行会」のシーンだ。米軍との太平洋ミッドウェー海戦の惨敗、昭和17年以降の戦争悪化から、大学生にも出兵を命じた式典である。式典後、中国や東南アジアなどの海外戦地に送られ、約1万人弱(推計)が2度と還らぬ人となった。画像の式典以外に、地元学生を集めて全国各地で10回以上行われた。

「学徒出陣壮行会」は昭和18年10月21日の朝、大雨でずぶ濡れになった学生2万5千人が学生服姿で銃を担ぎ、当時の名称・明治神宮外苑競技場を行進した。客席は、女子生徒など5万人で埋め尽くされた。学生は二度と生きて還るつもりはないことを誓い、参加した女子学生も彼等を「生きたお葬式」と涙ながらに見送った。当時の10月は相当寒く、それでも女子学生は誰一人傘を差さずにいた。その後の学徒出陣の総勢は10万人と言われ、戦地に送られ還らぬ人が多かった。戦争の悲惨さを忘れないために、現・国立競技場敷地に「出陣学徒壮行の地」碑が建っている。1964年、2021年と2度も平和な“スポーツの祭典”が国立競技場で行われた根底に、彼等の非業の死を忘れてはならない。戦後、曲がりなりにも平和憲法を遵守した結果だ。明治神宮外苑競技場の雨の壮行会から80年が経過しても、これからも平和を守るための礎として、同じ場所で起きたこうした悲しい歴史を受け継ぐ必要がある。それがオリンピックやスポーツの、“文化的遺産や文化の継承”ではないのか。

画像は、悪質な人物と言われた東條英機首相が出席した。東條は戦後開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)で、A、BC級戦犯として昭和23年に死刑が執行された。画像を見ると、現在の北朝鮮と同じように思え背筋が寒くなる。主催が文部省であり、日本も戦前はそんな国だった。学生を始め国民への教育を誤れば、こういう事態になってしまうのだ。なお肝心な「学徒出陣」の全体的な招集学生数や死者などは、国の資料に残っていない。混乱の最中で不明と言う学者もいるが、戦前の国家は不都合な資料や数字は残したくない意思が働いたと思われる。但し戦後の研究では、招集学生は数十万人だが大半は国内に留まり、海外戦地に派兵されたのは約10万人と言われる。但し高学歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特別甲種幹部候補生や、海軍の予備学生・予備生徒として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。そのため戦死率は9%と推測され、一般兵より低いとされる。

■作家杉本苑子(故人)エッセー「今ある平和を確かな意志を持って明日以降に架橋」
毎日新聞を活用しています。専門記者・栗原俊雄氏の原稿/(略)スタンドでは、女子学生ら5万人以上が見守った。その一人、作家の故・杉本苑子は往時の光景をエッセー「あすへの祈念」に記している。「色彩はまったく無かった。(中略)暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征(ゆ)く人々の行進に添って走った」。大学など高等教育への進学率は当時、5%程度とされ、徴兵を猶予されていた。しかし、戦況悪化に伴い、文系学徒らが陸海軍に召集されたのが学徒出陣だ。杉本苑子は64年10月10日、21年前と同じ場所で東京オリンピックの開会式を見た。前掲のエッセーはその感想を共同通信に寄稿したものだ。エッセー冒頭で「美しかった」と書いた。アンツーカーのトラックのレンガ色と、フィールドの芝の緑。各国選手たちのカラフルな服装、前日の雨がうそのような青空をとらえ「色彩の饗宴(きょうえん)」と評した。その上で「あの雨の日」=10・21の壮行会=に記憶を架橋する。

(途中、略)「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ」。国策決定者たちが始めて、決定に関わることができない庶民の暮らしをめちゃくちゃにするのが戦争だ。明治以降、「戦後」の後に新しい戦争が何度も起きたことからも分かるが、戦争は平和と地続きにある。今ある平和を、確かな意志を持って明日以降に架橋していかなければならない。「10・21」は、そのことを確認する日である。以上

 1964年・東京オリンピック(開会式) 
再び投稿者の文章/敢えて、2つの画像を載せた。あまりにもコントラストが違う。終戦から19年しか経っていなかったが、高い経済成長と平和を甘受していた時代だ。だから意気込みと国民の熱気が高まり、21年の弛んだ東京五輪とは異なり、運営も比べ物にならない。なお個人的には、オールドスタイルの開会式(行進)のほうが感動的で好きだ。なお画像は古いためくすんでいるが、開会式当日は「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、すばらしい秋日和でございます」 とNHK北出清五郎アナウンサー(2003年没)の台詞のように、素晴らしい青空だった。

Sankoub
次号/学徒出陣80年わだつみの悲劇を胸に刻む時、戦争起こさせぬ覚悟を

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秋山ちえ子「かわいそうなぞう」、美空ひばり「一本の鉛筆」戦争の過ちを今に伝える作品/少数派

2023年08月10日 | 戦争を繰り返すな
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秋山ちえ子「かわいそうなぞう」、美空ひばり「一本の鉛筆」戦争の過ちを今に伝える作品

M20230803

■私達の平和への希求、2度と戦争をしない切なる願いを踏みにじるな!
今夏の「侵略戦争」(太平洋戦争)を伝える投稿の2回目は、朗読と歌による「2度と戦争を起こさない誓い」を紹介する。特に投稿者が感じた内容が、どちらも故人になった秋山ちえ子さんの「かわいそうなぞう」(象)の朗読、もう1つが美空ひばりさんの「一本の鉛筆」だ。昔はTVやラジオで悲惨な戦争を繰り返さない、反戦を訴えた番組が多かった。しかし自民党政権とりわけ安倍首相(当時)が台頭するにつれ、TV局などのメディアにあからさまな圧力を掛けるようになり段々と番組が少なくなった。それでもラジオ各局は、まだ反骨精神が強い。下手な文章よりユーチューブをご覧になったほうが実感が伝わるので、説明は最低限に留める。

▽秋山ちえ子さんの朗読「かわいそうなぞう 右が大沢氏
 曲前・曲後の音量にご注意下さい(後日、削除されることがあります)。

投稿者は、かつてTBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版」を聴いていた。大沢氏の高齢化が進み自ら終了を宣言し、惜しまれつつ2022年3月に番組は終わった。それまでは、毎年8月15日が近づくと、秋山ちえ子さんの朗読による「かわいそうなぞう」が流れる。朗読の内容は『戦争が深刻化、軍部は上野動物園に爆弾が落ちて檻が破壊されると街中に動物が逃げ出し、人間に危害を与えると考えた。命令を受けた飼育員はライオンや熊を次々と殺処分、3頭いた象は毒を入れた注射針が刺さらず餌をやらずに餓死させた』。象が衰える悲しい様・人間の身勝手・戦争の見にくさを綴った実話が、戦後、教科書に載り絵本も作られた。

因みに同番組は、東京大空襲があった3月10日の前になると、大沢氏の実母が空襲の火の中を4歳の大沢氏をおんぶして、逃げ惑った苦難を語った母親のインタビュー録音を流す。毎年、録音内容は同じものだが、投稿者は両方の録音を欠かさず聴いていた。毎年聴いていても、涙が出る。大沢氏はまだ身体が言うことを利くうちに番組を辞めたい意思だったので、残念ながら仕方ないと思う。


▽美空ひばりさんの歌「一本の鉛筆

この曲は、広島原爆と戦争を起こさない誓いを歌ったもので感慨深い。1974(S49)年、第一回広島平和音樂祭のために松山善三監督が作詞・佐藤勝氏が作曲した。「一枚のザラ紙があれば、あなたをかえしてと私は書く」の切なる願いに、ジーンとさせられた。ひばりさんは子供の頃、横浜空襲の怖さを体験し戦争反対の声を上げている。さすがの歌唱力に、伝わって来る。ここからウィキペディアの要約、14年後の88年、第15回の同音楽祭にも出演。当時、重病で楽屋に運び込んだベッドで点滴を打っていた。しかし観客の前では、満面の笑みで歌い切った。その余話を知らずにユーチューブを見たが、さすがプロで全く素振りも見せていない。翌年89年6月24日に死去した。関心のある方は、下記もご覧(お聴き)下さい。話は変わり、戦争の虚しさ・残酷さを説き、著書「日本のいちばん長い日」(2度、映画化された)半藤一利氏も2021年亡くなった(90歳)。半藤氏のインタビュー番組をよく見ただけに、つらい。
第15回広島平和音樂祭 ← クリック!

国民が今でも原爆や空襲の苦しみに苛まれ、戦争反対を叫んでいる。しかし歴代政府は広島・長崎記念式典、8月15日の全国戦没者追悼式にただただ出席するだけ。事務的にこなしているだけで、真心や反省の意が見られない。その証拠に、安倍首相(当時)は毎年、あるいは広島と長崎の追悼文を使い回し、日時・場所を替えただけと厳しく批判された。菅首相に至っては肝心な「核なき世界」のアピールを読み飛ばし、長崎の式典では遅刻した。近年、広島・長崎市長は、核兵器を持っていれば平和が保たれる「核抑止論」を否定し始めている。プーチンのような狂人・ならず者が、核を持てば使用する可能性が大になる。また”核の傘”に頼り、「核廃絶」に消極的な岸田首相を暗に批判したのだろう。政府自民党は、私達の平和への希求、2度と戦争をしない切なる願いを踏みにじるな!

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「侵略戦争」(太平洋戦争)の日本兵の死者230万人のうち6割は餓死と病死だった/少数派

2023年08月06日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
「侵略戦争」(太平洋戦争)の日本兵の死者230万人のうち6割は餓死と病死だった

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■補給を無視し戦線拡大をして戦局悪化、戦前の日本国と旧軍部の無謀・無計画さ
無謀な日本の「侵略戦争」(太平洋戦争)が終わったのが1945(S20)年、それから78年経った。その間、再び戦争が起こらなかったのは、平和を求める多くの国民の努力と「平和憲法」のお陰だと確信している。しかし昨今は安倍首相(当時)と後継の岸田首相、自民党右翼議員が再び“戦争ができる国”(戦争を行う体制作り)への政策強化や「改憲」に奔走している。先制攻撃と称し、敵国にミサイルを撃ち込むことさえ平然と発する様相だ。軍事費(防衛費)をGDPの1%から2%へ、あらたに43兆円を注ぎ込もうとしている。こうしたことに過去の戦争を体験したお年寄りは、「先の戦争の突入間際に似ている」と証言。タモリ氏も、現状を「新しい戦前」になりうると警告した。日本は自国民を悲惨な目に遭わし、アジア各国にも甚大な被害を及ぼした。にも関わらず前述の安倍氏や自民党議員は、中国や韓国・アジア諸国に1つも「謝る理由はない」と言い切る始末だ。

とんでもない話で、首相や彼等は歴史を勉強しないからだ。またこうした歴史を学校教育で受けたことがない中年以下の人は、安易に支持する。朝鮮半島の分断と中国・北朝鮮が日本を敵視するのは、戦前の日本が起こした戦争と戦後も一貫して謝らない自民党政権のせいと考える。ドイツは戦後徹底して、ヨーロッパ諸国に詫びたので敵対関係がない。愚かな自民党政権が戦後78年(短期の政権交代があった)も続き、ほころびが見え始め、政府自民党の平和希求が嘘と上辺のポーズだったことが明確になった。さて本題の「日本兵の死者のうち6割が餓死・病死」の事実を初めて知った時、苦しいというか虚しさで衝撃を受けた。戦前の日本国と旧軍部の無謀・無計画さを改めて認識する。新聞数紙・書籍・雑誌・TV情報から、一部を次項にまとめた。「八月ジャーナリズム」の言葉があるように、TV・新聞は8月になると戦争と原爆を糾す。当ブログも一夏にまとめて連載するのではなく、これからは継続を重視して少しずつでも毎年投稿したい。では、ご覧頂きたい。

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■無謀残虐な「侵略戦争」で日本人310万人・アジア圏2000万人の方が亡くなった
侵略戦争で、旧厚生省の発表資料から日本国民は310万人が亡くなった。うち軍人は210万人・軍属20万人・計230万人だ。しかしその61%・140万人が、何と餓死・病死・自殺だった。戦争中の死者とは言うものの、戦わずして亡くなっていることだ。あえて不適切な言い方をすれば、軍部が称讃した壮絶な戦いの末の「名誉の戦死」ではない。犬死で、さぞかし無念だったろう。投稿者は虚しさを覚えたと前述したが、皆様も驚いたのではないだろうか?死んだら「靖国(神社)で会おう!」の美化・華々しい戦争映画と異なり、戦争の現実はこのようなものだ。この原因は、①旧日本軍中枢が、戦況把握ができておらず。②同軍部が、「弾薬・食糧の補給を無視し戦線を南方に拡大」していったこと。③「戦陣訓の“生きて虜囚の辱めを受けず”~死を最高の名誉(生きて帰るな)」とした教育にある。専門家は、特に②の無計画・メチャクチャ性が高く、占領地の長期確保の戦略も無くただただ侵攻、補給路も確保せずニューギニアや点々とする南西太平洋諸島、インドまで攻め入ったことだ。お粗末なのは、弾薬・食糧を軍艦の護衛なしに民間貨物船が単独で戦地まで運ぶ有り様だった。そのため台湾沖の連合軍潜水艦が次々と魚雷発射し沈没させる作戦で、戦わずして勝つ「兵糧攻め」に徹した。だから兵士の大半が、食糧が尽きて亡くなる。これでは戦争以前の問題だ。

正確に言うと、亡くなった230万人のうち栄養失調による餓死者、栄養失調に伴う体力消耗によってマラリアなどに感染して死亡、併せて「広義の餓死者」が61%・140万人と推定される。その他に、極度の痩せや食欲不振、貧血、慢性の下痢になる兵士が多発していた。栄養不足や戦闘による心身の過酷さに起因する。現地によっては全く食べ物がなくなり、昆虫や草も食べた例がいくらでもある。これでは戦いにはならない。戦況の悪化に比例して精神疾患による自殺、捕虜になることを拒否した自殺者も多くいた。民間人を含めれば、日本人は310万人が亡くなった。終戦の前年1944(S19)年以降のたった1年で、国内の空襲を含めその9割の方が亡くなったのだ。日本軍は各国で石油や鉱石の重要な資源を日本に送る(大半が撃沈された)一方、食糧は現地住民から強奪(その際に強姦)が絶えず、現地人を殺傷し2000万人(あるいは3000万人)の命を奪ったのである。日本の愚かな行為によって、アジアの人々を巻き込み容赦なく殺したのだ!連合軍だけに留まらず現地人との戦い、そして弾薬・食糧の兵站が枯渇すれば日本が敗れるのは当然だ。日本は旧来の精神主義、連合国は「ロジスティク」(この場合は戦争物流)を重要視した違いでもあった。

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防衛費GDP2%への軍事国家づくり狙う年5兆6千億円の増額、暮らしをつぶす大軍拡許すな/少数派

2023年01月28日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな(GDP2%の大軍拡3
防衛費GDP2%への軍事国家づくり狙う年5兆6千億円の増額、暮らしをつぶす大軍拡許すな

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やくみつる氏/しんぶん赤旗掲載

投稿はしんぶん赤旗を活用しております/岸田文雄首相が軍事費を今後5年以内に大きく増やし、2027年度に関連経費と合わせ国内総生産(GDP)比で2%にするよう浜田靖一防衛相と鈴木俊一財務相に指示しました。これまで軍事費はGDP比1%程度の水準が続いていましたが、2倍近い大軍拡となります。首相は、将来にわたり軍事費を維持・強化するための財源を確保する措置を年末に決定することも求めました。国民の暮らし関連予算の削減、所得税や消費税などの大増税に道を開くものです。首相は浜田、鈴木両氏に対し ▽「防衛力」の抜本的強化の中核となる「防衛費」について5年以内に緊急的に強化を進める必要がある ▽27年度に「防衛費」と補完する取り組み(関連経費)を合わせ、現在のGDPの2%に達するよう予算措置を講じる ▽「防衛力」は27年度以降も維持・強化していく必要があり、これを安定的に支えるためのしっかりとした財源措置が不可欠である ▽23年度から27年度まで5年間の「中期防衛力整備計画」の予算規模と歳出・歳入両面での財源確保の措置を年末に一体的に決定する―と伝えました。

首相が「防衛費」増額の具体的水準を示したのは初めてです。防衛省所管の「防衛費」に新たに加算する関連経費は、首相が設置した有識者会議の報告書が示した「総合的な防衛体制の強化に資する経費」が中心になるとみられます。具体的には、科学技術、公共インフラ、サイバー安全保障、国際的協力の4分野で、これまで他省庁の予算とされてきたものです。このほか、海上保安庁の予算なども加えるとされます。現在のGDPの2%はおよそ11兆円に上ります。22年度当初予算の「防衛費」は、約5兆4000億円です。関連経費を合算したとしてもGDP比2%を実現するには、約5兆6000億円の増額が必要になります。「防衛費」そのものの大幅増は避けられません。しかも、関連経費は、科学技術の分野では、軍事力強化につながる研究開発を政府と大学、民間機関が一体となって推進するためのものです。公共インフラは、沖縄県など南西地域(特に宮古、石垣など先島諸島)の空港・港湾を自衛隊などが軍事利用できるようにするための経費です。軍事優先の国家づくりが狙いです。

首相は指示の中で、財源に関し「まずは歳出改革」とした上で、歳入面で「安定財源」の必要性を強調しました。有識者会議の報告書は「幅広い税目による(国民)負担が必要」としつつ、法人税を上げることについては「企業の努力に水を差すことのないよう」にと配慮の姿勢を示しています。個人所得税や、さらには消費税の増税につながる恐れが大です。首相が指示した「防衛費」増の中心となるのは、相手国のミサイル発射拠点などをたたく「敵基地攻撃能力(反撃能力)」の保有です。「抑止力の強化」が口実ですが、日本が他国を攻撃する能力を持てば相手国はそれを上回る攻撃力を持とうとし、無限の軍拡競争を招くだけです。「抑止」が破綻すれば被害はいっそう甚大になります。国民の暮らしを押しつぶし、日本を危険にさらす大軍拡は決して許されません。


投稿者によって一部割愛や接続文章等の修正・補足、投稿タイトルは
新聞の原題・原文に基づき、若干、付け加えております。


■投稿者の文章|軍拡反対!③無理な軍拡より、戦争を起こさない・起こさせない政治努力を求めたい
故・安倍首相の持論だった、相手国が日本への攻撃を準備している動きを見せたら、先にミサイル発射拠点などを叩く「敵基地攻撃能力(反撃能力)」の保有は狂気の沙汰だ。戦争を知らない安倍氏のオボッチャマ的感覚を、岸田首相はそのまま引き継ぐ。米国から巡航ミサイル「トマホーク」を購入する計画で、1発1~2億円・500発を買うそうだ(関連機材を含むと3217億円)。そもそも米国は最新鋭の機種は日本には売らず、湾岸戦争時代の“払い下げ”的な機種を引き渡されそうだ。時速880kmとジェット旅客機並みで、ミサイルとしては「低速」なので敵基地到着のだいぶ手前で撃ち落とされてしまう。「敵基地」とは北朝鮮、中国、ロシアのどこを示すか分からないが、例えば中国は高性能な中距離ミサイルだけでも2000発以上もっていると言う。彼らが配備している弾道ミサイルや極超音速兵器の速度は音速の数倍から10数倍で、トマホークは”おもちゃ”に過ぎない。そもそも3か国だけでも核ミサイル100発以上が、常時、東京・大阪の都市、自衛隊基地や日本の米軍基地に、照準を合わせている。日本が一旦ミサイルを撃ち込んでも敵陣をつぶせず、反撃によって日本中が火の海・放射能の海になることは誰でも分かる。日本が他国を攻撃する能力を持てば相手国はそれを上回る攻撃力を持とうとし、早々に日本は軍拡競争に負ける。防衛省や自衛隊はその恐怖の実態を把握しているので、3か国を刺激しないようにしている。一方、その発想さえできないのが、生存中の際のお粗末な考え方だった安倍氏であり岸田氏だ。無理な軍拡より、戦争を起こさない・起こさせない政治努力を求めたい。

Akahatatop

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与良政談★岸田首相は”安倍氏の遺言”?防衛費「GDP2%」にこだわる必要なし/少数派

2023年01月19日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな(GDP2%の大軍拡2
与良政談★岸田首相は”安倍氏の遺言”?防衛費「GDP2%」にこだわる必要なし

Yoraseidan
毎日新聞の夕刊、「熱血!与良政談」というコラムからの記事をご紹介します。
コラムの中で、痛烈な批判をしています。ぜひお読み下さい。
*投稿タイトルは、新聞の原題・原文に基づいて投稿者が行ったものです。


◆要するに岸田内閣は安倍氏がやり残した(安倍氏でもできなかった!)課題を事後処理する内閣なのだ
防衛費を大幅に増やすのが、いかに難しいか。それがよく分かったということではないだろうか。岸田文雄内閣が、相手国のミサイル発射基地などをたたく反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有を認める戦後安全保障政策の大転換に踏み切った。同時に掲げたのが、5年後に防衛関連予算を国内総生産(GDP)比2%に倍増する方針だ。ただし、その財源は、一定部分を増税によって確保するというものの、いつから増税するのか、判断は先送りされた。増税に反対する自民党内の声に押された決着だ。世論調査を見れば、有権者の多くは増税に反対している。だから党側は「増税は選挙に不利だ」と恐れているのだろう。だが代わって主張しているのは国債の発行(借金)だ。岸田首相からすれば、それは「将来世代にツケを回すだけだ」と映る。

で、国会論議そっちのけの党内対立は収まりそうにない。無論、財源の議論は必要だ。でも、そもそも無理をして2%にこだわるからこんな事態になっているのではないか、と私は思う。「2%」を言い出したのは安倍晋三元首相だった。日本と同様に軍事費を抑制してきたドイツが、ロシアによるウクライナ侵攻を受けてGDP比2%以上にすると発表したのを機に、安倍氏は銃撃事件前の昨年4月、こう言った。「ドイツは決意を示した。日本の独立は、私たち自身の手で守り抜くという決意を予算において示していきたい」。精神論のような数字だった点を忘れてはならない。

その後も合理的な説明はほとんど聞こえない。岸田氏も「2%という数字ありきではない」と繰り返してきたはずだ。ところが、現実は「数字ありき」で今に至る。しかも東日本大震災後に創設された「復興特別所得税」まで転用するという。そこまでつじつま合わせをして数字を達成しようとしていること自体が、身の丈に合わない話を進めている証拠ではないか。今後は米国製の巡航ミサイル「トマホーク」も買うという。振り返れば、敵基地攻撃能力の保有も安倍政権以来のテーマだった。要するに岸田内閣は安倍氏がやり残した(安倍氏でもできなかった!)課題を事後処理する内閣なのだ。それもよく分かったということだ。

■投稿者の文章|軍拡反対!②国家理念や国民的議論もないまま「軍拡化」の予算確保が先行している
岸田首相は、安倍首相狙撃事件で大勢の右翼層や旧統一教会信者が悼むシーンを見て国葬を決めた。しかし実際はサクラ(動員)で、国民の多くが国葬を望んでおらず、厳しく岸田首相は叩かれた。「軍拡・GDP2%の方針」も国葬の失敗を顧みず、ロシアによるウクライナ侵攻を見て日本国民が心配する気配に悪乗り、どさくさ紛れの軍拡を煽った。当初、防衛費GDP2%案に、国民の70%以上が賛成した。しかしその費用の捻出に、始めは国債、次に増税で行うことが浮上する。すると増税反対はもちろん、GDP2%軍拡についても国民は反対するようになった。ウクライナ侵攻の便乗軍拡であり、真からこの国を守る気がないことが国民にも分かってしまったのだ。国をどういう方向に導くかの国家理念や国民的議論もないまま、「軍拡化」の予算確保ばかりが先行したため、ここへ来て頓挫してしまった。国葬しかり軍拡しかり、国民の表面的な動きだけで判断する岸田首相の薄さ、軽さがこの国を一段と危うくする!もうこれ以上、こんな首相に国政を任せられない。

Ntopkeiji

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松尾貴史氏コラム◇防衛費倍増の43兆円「敵基地攻撃能力」保持は無意味で破壊的な発想だ/少数派

2023年01月12日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな(GDP2%の大軍拡1
松尾貴史氏コラム◇防衛費倍増の43兆円「敵基地攻撃能力」保持は無意味で破壊的な発想だ

Matsuoiwakan
毎日新聞の日曜版、「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムからの記事をご紹介します。
松尾貴史氏はコラムの中で、痛烈な批判をしています。ぜひお読み下さい。
*投稿タイトルは、新聞の原題・原文に基づいて投稿者が行ったものです。


 ↓ ↓ ▽松尾貴史氏のコラム

■敵基地攻撃で得られる安心などみじんもない・日本の大都市はあっという間に焦土と化すだろう
日本が、どんどんときな臭い状態になってきて、物騒な雰囲気が充満し、なぜか勇ましい言葉が飛び交うようになってきているので素直に喜んでいられるかどうか、この時点ではなんとも言えない。安倍晋三政権の頃から「日本を取り戻す」などという、あおり気味のスローガンが出てきた。しかし、自分の政権で実現すると豪語していた拉致被害者を奪還するための交渉も外交努力も、やった形跡もないまま、政治家たちの青いバッジだけがむなしい「やっているフリ感」を醸し続けている。「日本を取り巻く安全保障上の環境が厳しさを増している」などという口実で、岸田文雄政権は、アメリカから武器類を言い値で買わされ、貢ぎ続けるためとしか思えないのに、増税まですると言い出した。防衛費を5年で43兆円に増額するとは、自分の金でもないのによくも無遠慮な大盤振る舞いができるものだ。安全保障環境が厳しさを増しているのはお互いのことであって、それは外交で解決すべきものなのに、外相経験者でもある岸田氏はミサイルを並べて「撃ってこようとしたら反撃するもんね」という雰囲気で、抑止力を高めるという詭弁(きべん)を弄(ろう)している。

なぜ、ファイティングポーズをとれば、相手が攻撃してこないと思い込んでいるのだろうか。握手の手を差し出せばもっと攻撃されるリスクは小さくなるのに、拳を振り上げるばかりで、自分からいさかいの口実を与えているようなものではないか。「敵基地攻撃能力」などという無意味で破壊的な発想がまともに議論されるような国に成り下がったのは誰のせいだろう。そのための増税の言い訳に「国民自らの責任において」などというまともな人の神経を逆なでするようなことを垂れる尊大さは何だろうか。攻めてきた、攻めそうだ、だから敵基地を攻撃できる。それで得られる安心などみじんもない。敵基地を攻撃したとして「日本を攻撃してくる国」は、ピンポイントの爆撃で収まるはずがない。その「敵国」には、さまざまな地域に攻撃能力の高い基地がいくらでもある。日本が「反撃」と称して攻撃を始めれば、別の基地からの攻撃を受けて、日本の大都市はあっという間に焦土と化すだろう。日本海側にずらりと並ぶ老朽化した原子力発電所にミサイルを撃ち込まれれば、焦土どころか人の住めない放射能汚染の国土になるだけだ。

少子化対策担当相なる役職が作られたが、16年には出生数が100万人を割り込み、22年は80万人を切りそうなところまできてしまった。本当に対策を考えているのかどうか。40年以上前から「高齢化だ」「少子化になる」と騒ぎ続けているのに、そのほとんどの期間で実権を握っている自民党は何の効果的な方策も取らず、工夫もせず、そして問題を理解すらしようとしない。子どもを産み育てやすい仕組みや知恵は、アメリカから買う武器の何十分の一の予算で賄えるのに「少子化支援のための財源がない」などとうそぶいている。どこが「少子化対策は最重要課題」なのか。子どもが減るどころか、何百万人単位で人口が減る戦禍を引き起こすリスクを高めるために巨費をつぎ込もうとしている、歴史的愚挙に一心不乱ではないか。どこぞの反社会的に思える宗教組織の支援を受けたいがために「家庭」の形に拘泥し、選択的夫婦別姓にすら抵抗し続ける。出産育児一時金をわずかに増額したからといって、それを聞いて「よし産もう」と思う人がどれだけ増えると思っているのか。そのあまりにもいびつな想像力は、自分たちの利権にしか発揮しないようだ。

■投稿者の文章|軍拡反対!①背広組(政治家等)は軍の暴走を防ぐため設けられたが今は逆に背広組が煽る
投稿者はもちろん、故・安倍首相から岸田首相に継承された軍拡路線に大反対する。言いたいことは山ほどあり、連載化するのであらゆる機会に少しずつ書き足したい。まずは基礎からで、昔、学校で憲法や戦争の歴史を学んだ時、軍部が暴走し太平洋戦争に突入していった苦い経験から、自衛隊には敢えて「背広組」(政治家など)が監視するとした趣旨だ。ところが今度は、政治家が煽り「軍拡化」を目指す本末転倒ぶり。そもそも”戦争の悲惨”を誰よりも知らない、日本を壊しこれからも壊し続ける故・安倍首相が「軍拡」を言い始めた。敵基地にミサイル攻撃をしたらどういうことになるか? 一番、慎重なのが自衛隊幹部や戦争研究家なのだ。防衛大臣は除き、防衛庁制服組からは声が聞こえてこない。安物のドラマでは自衛隊員はいきり立ち戦争を言うが、意外だが本当の自衛隊員は平和主義者なのだ。普段、武器を駆使する以上、戦争の怖さ・残酷さを知っているから。馬鹿な政治家や国民ほど、戦争<攻撃>をやりたがる。

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77回目の終戦の日・再び惨禍招かないために「戦争する国」への逆流許さず/少数派

2022年08月15日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな(赤旗だより)
77回目の終戦の日・再び惨禍招かないために「戦争する国」への逆流許さず

Akahatan05

■ウクライナ侵略に乗じて自民党などが憲法の破壊と戦後の歩みを逆転させる動きは重大
投稿はしんぶん赤旗を活用しております/日本がアジア・太平洋戦争に敗北した1945年8月15日から、きょうで77年です。31年の中国東北部への侵略(「満州事変」)で始まった15年にわたる侵略戦争は310万人以上の日本国民、2000万人を超えるアジア諸国民の命を奪いました。戦争の惨禍を二度と繰り返さないという誓いこそが戦後日本の出発点です。ロシアのウクライナ侵略という暴挙に乗じて自民党などが日本国憲法の破壊を企て、戦後の歩みを逆転させる動きを強めていることは重大です。東アジアと日本に戦火を招かないために平和外交に全力をあげる政治への転換が必要です。破壊しつくされた街、砲撃で恐怖に震える子どもの姿―ウクライナから伝えられる戦争の悲惨な光景に胸が締め付けられます。自分の戦争体験と重ね合わせ、心を痛める人も数多くいます。戦争を絶対に起こさないため知恵と力を尽くす責任が政治にはあります。

岸田文雄首相は10日の内閣改造後の記者会見で、最重要課題のトップに軍事力の「抜本強化」を掲げました。「敵基地攻撃能力」の保有や、軍事費を国内総生産(GDP)比2%以上にすることを念頭に大幅増を狙うなど大軍拡に拍車をかけようとしています。それと一体で、憲法9条に自衛隊を明記する改憲策動も加速する構えです。東アジアで「軍事対軍事」の緊張を高める道に踏み込もうという危険な姿勢です。しかし国民の願いは異なります。日本世論調査会の「平和世論調査」(7月31日報道)がそのことを示しています。「戦争を回避するために、最も重要と思うことは」との質問では「平和に向け日本が外交に力を注ぐ」(32%)、「戦争放棄を掲げた日本国憲法を順守する」(24%)との回答が、「軍備を大幅に増強し他国からの侵攻を防ぐ」(15%)を大きく上回りました。

■憲法9条は戦争違法化の流れから「人類の一つの到達点」9条を守ることは世界の平和に貢献
ロシアのような国が世界秩序を揺るがしている時だからこそ日本国憲法に意義があると説く外国の国際法学者もいます。アメリカのイエール大学のオーナ・ハサウェイ教授です。同氏は「長い人間の知の歴史、さまざまな人々のアイデアと考えの積み重ねがあって、1928年の不戦条約があり、第2次世界大戦があり、国連が生まれ、そして日本国憲法が生まれた」と世界史の文脈で考えることが重要と語り、憲法9条は「戦争違法化の流れからいって、人類の一つの到達点」と強調します。そして、いま日本が平和憲法を変えることは、「戦争違法化」の世界秩序を覆したい勢力に付け入らせることになり、世界の法体系に影響し、安全を損なう恐れがあるとも指摘します(朝日新聞社『ジャーナリズム』8月号)。9条を守り生かすことは世界の平和にも重要な貢献となります。日本の侵略戦争と植民地支配の深い傷はいまもアジア・太平洋の各地に残され、日本の責任は問われ続けています。過去の過ちを直視しない政治では平和の未来は開けません。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」。憲法前文に記されたこの一節を心に刻んで、「戦争する国」づくりを許さないために力を合わせましょう。

■投稿者の文章|戦後77年戦争なし・そのもう1つ前の77年は侵略戦争と植民地支配の歴史だった
終戦日を前に先日TVを見たのが、以前にご紹介したBS-TBS「関口宏のもう1度!近現代史」、保阪正康氏を解説者した番組(再放送)だった。保阪氏は、2022年は戦後77年と言うが、終戦(敗戦)の1945年を起点とすると、もう1つその77年前は1868年・明治維新だったと指摘。1874年の台湾出兵(初の海外派兵)、94年日清戦争、1904~05年日露戦争、14~18年第1次世界大戦、31年満州事変、37年日中全面戦争開始、41年真珠湾攻撃(第2次世界大戦、アジア・太平洋戦争開始)。最初の77年は、日本の侵略戦争と植民地支配の歴史だった。しかし戦後77年は、曲りなりにも戦争は起こらなかったと言っていた。ここからは投稿者の感想で、やはり戦後の国民がもう戦争は懲り懲りといった強い平和への意識、それを下支えしたのが『現憲法』だと思う。そんな戦争の歴史を知ろうともしない・戦争の残虐さを真っ向から捉えない安倍首相(当時)が生前から右翼層と若い世代を巻き込み、「戦争をする国」に仕立てようとしていたのは『罪悪』である。賢明な国民は、安倍氏の”置き土産(願望)”は、絶対、実現させません。

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学ぶ沖縄戦15・沖縄戦の悲劇を再び繰り返すな!与野各党が異常な軍拡大合唱・県民の思いと相いれない/少数派

2022年07月08日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第15回 <最終回> 
沖縄戦の悲劇を再び繰り返すな!与野各党が異常な軍拡大合唱・県民の思いと相いれない
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa220215
綺麗な沖縄の海が消されようとしている。また「沖縄戦」で亡くなった方の遺骨が混じった土砂が埋め立てに使われる。

■東アジアでの米国の軍事戦略に日本を組み込み沖縄を再び戦場にしかねない危険極まりない企て
今号はしんぶん赤旗を活用しております。6月23日付/沖縄はきょう、県が定めた「慰霊の日」を迎えます。77年前の沖縄戦で命を奪われた20万人余の犠牲者を追悼し、恒久平和を誓う日です。沖縄戦最後の激戦地・本島南部の摩文仁(まぶに)の丘にある平和祈念公園(糸満市)では「沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。22日公示された参院選で、自民党や日本維新の会、国民民主党などが、「敵基地攻撃能力」の保有をはじめ大軍拡を公約しています。ウクライナ危機を口実に、東アジアでの米国の軍事戦略に日本を組み込み、沖縄を再び戦場にしかねない危険極まりない企てです。自民党の参院選公約は、軍事費について、対GDP(国内総生産)比2%以上も念頭に「来年度から5年以内に、防衛力の抜本的強化に必要な予算水準の達成を目指す」としています。

相手国のミサイル発射拠点などを破壊する敵基地攻撃能力については「わが国への武力攻撃に対する反撃能力を保有し、これらの攻撃を抑止し、対処する」と明記しています。しかも、「反撃能力」の対象を「ミサイル基地に限定されるものではなく、相手国の指揮統制機能等も含む」とし、国家中枢までも標的にしています。これについては自民党内でも「いたずらに周辺国を刺激するだけでなく、対処のための準備を促し、軍拡競争につながる恐れがある。…かえって衝突の危険を高めることにつながりかねない。無益であるばかりでなく、むしろ有害なことではないか」(岩屋毅・元防衛相、「東京新聞」3日付)との指摘が上がっていました。同党の公約は、「防衛力の抜本的強化」の理由の一つに「尖閣・台湾周辺等における軍事活動の活発化や力による一方的な現状変更を試みる中国」の存在を挙げます。

■玉城知事「悲惨な沖縄戦を経験した県民の平和を希求する思いとは全く相いれるものではない」
台湾有事をめぐっては、沖縄など南西諸島を拠点にした米軍と自衛隊の新たな共同作戦計画が策定されていると報じられています。これが実行されれば、広大な米軍基地が集中し、自衛隊のミサイル部隊などの配備が進む沖縄が攻撃目標となり、住民が戦闘に巻き込まれることは必至です。日本が敵基地攻撃能力を本格的に保有し、集団的自衛権の行使を認めた安保法制に基づいて自衛隊が米軍の攻撃に加われば、一層大きな戦火を呼び込むことになります。日本維新の会も、「防衛費のGDP比2%への増額」や「専守防衛」の見直しをはじめ、敵基地攻撃兵器である「中距離ミサイル」の保有などを公約しています。国民民主党も、「打撃力(反撃力)」を整備するため「必要な防衛費を増額」すると主張しています。公明党は、「防衛力を着実に整備・強化」し、「日米同盟の抑止力・対処力の一層の向上を図る」としています。

自民・公明政権が、名護市辺野古で米軍新基地建設を強行し、沖縄戦犠牲者の遺骨が眠る本島南部の土砂を埋め立て工事に使おうとしていることも重大です。戦没者への冒涜(ぼうとく)は許されません。沖縄県の玉城デニー知事は本土復帰50年に当たっての建議書で、沖縄の軍事強化の動きや敵基地攻撃能力保有の議論を「悲惨な沖縄戦を経験した県民の平和を希求する思いとは全く相いれるものではない」と批判しています。「沖縄戦の悲劇を再び繰り返すな」の意思を参院選で示すことが必要です。

しんぶん赤旗の複製可能範囲内において、投稿者によって一部割愛や
それに伴う接続文章等の修正・タイトル付けを行いました。


【ことば|平和の礎(いしじ)】 1945年の沖縄戦で亡くなった全ての人の名を刻む記念碑。沖縄県糸満市の県営平和祈念公園の中にある。慰霊の日や終戦記念日のニュースで、遺族や家族が名前の部分をさするシーンをご存じかと思う。1995年6月に除幕された。高さ1.5m・全長2.2kmで、刻銘されている人数は24万1632人(21年時点)。敵味方関係なく、沖縄戦などの戦没者全ての氏名を刻んでいる。「礎」は普通「いしずえ」ですが、この場合は沖縄の方言の「いしじ」と読む。

投稿者からのひと言/今まで15回に渡り、「毎日新聞『学ぶ沖縄戦』1945年」の連載をご覧頂き、誠に感謝申し上げます。毎日新聞・しんぶん赤旗・投稿者の感想で構成して参りましたが、いくらかか「沖縄戦」や沖縄の実態を知って頂いたかと存じます。こうした事実を目の当たりにすると、政府自民党・公明党、改憲勢力の無責任さが見えて来ます。沖縄の方だけで進む問題ではありません。やはり本土で安穏(あんのん)と暮らしている私達が、少しでも改善する努力が必要でしょう。もちろん投票行動だけでなく、一人一人が勉強や関心を持つだけでも流れが変わるものです。9条「改憲」や軍備増強すれば、ますます沖縄が狙われます。本土も危ないでしょう。「改憲・軍拡」反対を叫び、絶対、戦争に巻き込まれないようにしましょう!

Sankoub 前号/14・沖縄「慰霊の日」命の土地を戦争に使うな!所有地を米軍普天間基地に占拠され続けている

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学ぶ沖縄戦14・沖縄「慰霊の日」命の土地を戦争に使うな!所有地を米軍普天間基地に占拠され続けている/少数派

2022年07月05日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第14回 
沖縄「慰霊の日」命の土地を戦争に使うな!所有地を米軍普天間基地に占拠され続けている
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa14

■「戦争のためには一坪の土地も貸さない。使わせない。売らない」―
今号はしんぶん赤旗を活用しております。6月23日付/太平洋戦争末期に住民を巻き込んだ悲惨な地上戦が行われた沖縄戦から77年。沖縄県では6月23日、「慰霊の日」を迎えました。20万人以上の尊い命を奪い、命の糧の農地を破壊し尽くした沖縄戦で上陸した米軍は住民を収容所に閉じ込め、土地を強制接収して次々と基地を建設しました。基地は沖縄の本土復帰50年を経た現在も県民の命と暮らしを脅かし続けています。「戦争のためには一坪の土地も貸さない。使わせない。売らない」―。9歳のときに沖縄戦で父親と生き別れになり、所有地を米軍普天間基地(宜野湾市)に占拠され続けている宜野湾市の宮城正雄さん(86)は、「軍隊は住民を守らない。基地は平和のためではない」と訴え、同基地内の所有地の賃貸借契約を日本政府と結ぶことを拒否しています。

1944年3月、旧日本陸軍は第32軍を編成し「国体(天皇絶対の体制)護持」「本土防衛」のため沖縄に配備しました。宮城さんが住んでいた宜野湾村(現・宜野湾市)にも部隊が駐屯しました。大山地域の宮城さんの実家にも、兵士が寝泊まりするようになり、通っていた学校は徴発され「生徒は追い出され、運動場には戦車が駆け巡り訓練場になっていた」といいます。米軍は、沖縄本島上陸前から猛烈な艦砲射撃を開始。危険を避け、宮城さんは、父方の曽祖母、両親、兄、弟2人の家族7人で実家から離れた場所にあった壕(ごう)に避難しました。45年4月1日、米軍は本島に上陸しました。宮城さんらが避難していた壕はガス攻撃を受けました。家族の命は無事でしたが、「ここにいたら助からない」と、壕から実家近くに移動することにしました。

夜間、父親と5歳の弟、2歳の末の弟を帯で縛り付けておぶった宮城さんの4人が先発しましたが4人が農道を進んでいると、約10メートルの至近距離で砲弾が破裂し、「大きな爆発音とともに、破片が火の玉になって、四方八方に飛び散った。真昼のような明るさだった」といいます。「麦畑の中を転んでは起き、必死に逃げようともがいた」―。宮城さんと2人の弟は他の家族と合流できましたが、爆発の衝撃で5歳の弟の手を離してしまった父親は別の方向へ逃げ、行方不明になりました。その後宮城さんたちは実家近くに戻ることができましたが、程なくして米軍に捕まりました。宮城さんら家族が移送された本島北部の収容所では、食料不足、マラリアのまん延、シラミの大量発生など「生き地獄」が待っていました。合流していた親戚の赤ちゃんが亡くなりました。

■「岸田内閣がこのまま突っ走っていくと沖縄も戦場にならない保証はない」
戦後、宮城さんらが宜野湾村に戻ると、街並みや広大な農地は消滅し、すでに普天間基地が横たわっていました。大山地域は焦土と化し、実家の家屋は倒壊していました。宮城さんたちは住民らの「ゆいまーる(助け合い)」で荒れ果てた農地を徐々に復元し、生活を再建していきましたが、小学3年生になった末の弟が米軍属の起こした交通事故で命を奪われました。当時は米軍の圧政下で、事故の補償はなかったといいます。宮城さんは「戦(いくさ)の中、弾の中をくぐって弟を助けたのに」と悔しさをにじませます。宮城さんの同基地内の土地は、父方の祖父母が戦前に手に入れた農地で、「おじぃ、おばぁが節約し、寝る間も惜しんで働いて築いた、命と暮らしを守るため、子や孫や平和のための財産」だといいます。宮城さんは戦後、土地の強制接収に反対する「島ぐるみ闘争」(56年)の集会にも参加。「権利と財産を守る軍用地主会」の活動なども行ってきました。本土復帰運動でも奮闘しました。

同基地周辺では、2004年に沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落、17年には普天間第二小学校に米軍ヘリの窓枠が落下、基地由来の人体に有害な有機フッ素化合物PFAS(ピーファス)による水汚染など米軍絡みの事件・事故が相次いでいます。宮城さんは「普天間基地は百害あって一利なし。返還・撤去以外ない」と訴え、名護市辺野古の米軍新基地建設にも反対。ロシアのウクライナ侵略に乗じた岸田文雄政権の改憲・大軍拡路線は、「絶対に許せない。岸田内閣がこのまま突っ走っていくと、沖縄も戦場にならない保証はない」と強調します。戦争で犠牲になった「すべての人たちの魂が集約されている憲法9条。この日本の、世界の宝を生かして平和外交を進めてほしい。戦争はいかなる理由があっても絶対反対」―。宮城さんの切なる願いです。

しんぶん赤旗の複製可能範囲内において、投稿者によって一部割愛や
それに伴う接続文章等の修正・タイトル付けを行いました。


投稿者からのひと言/沖縄戦で、多くの「命」が消えた。何度も書くが、悲惨だ。幸いにも助かった方も、戦後、本土政府の弱腰あるいは無関心によって、暮らし・人生さえも翻弄される。本土復帰50年と言っても形ばかりで、沖縄は米軍が取り仕切っている。日本政府は不平等な「地位協定」の改定を言い出すどころか、避けて逃げ回る姿を何度見ただろうか。本土の人間が関心を持たない限り、沖縄は変わらない。そのため稚拙ながら、当連載を組んだ。次回が最終回。

Sankoub
次号/15・沖縄戦の悲劇を再び繰り返すな!与野各党が異常な軍拡大合唱・県民の思いと相いれない
前号/13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に

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学ぶ沖縄戦13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に/少数派

2022年06月28日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第13回 
沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa11
米軍普天間飛行場の建設工事の様子=1945年6月28日撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.1945年の沖縄戦が終わった後、沖縄はどうなったのか?
A.第二次世界大戦の終結後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、間接統治によって民主化が進められました。一方、沖縄や奄美群島、小笠原諸島は切り離され、米国が直接統治しました。昭和天皇は47年9月、側近を通じてGHQに「米国が沖縄の軍事占領を継続することを希望する」と伝えています。52年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して占領が終わり、日本は独立を果たしましたが、沖縄などはそのまま米国の施政権下に置かれました。このため沖縄では4月28日は「屈辱の日」と呼ばれています。

日本本土では主権回復後、米軍基地への反対運動が激化し、基地が削減されました。同じ頃、沖縄では「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強権的な方法で住民の土地が米軍に奪われて基地が拡張され、日本本土から米海兵隊が移転してきました。沖縄は72年5月に日本に復帰し、沖縄戦から戦後27年間にわたった米国統治は終わりましたが、今も全国の米軍専用施設の7割が集中しています。現在の米軍基地問題の原点には77年前の沖縄戦があり、地続きの問題なのです。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(2018-22年)毎日新聞
Okinawa1822c

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次号/14・沖縄「慰霊の日」命の土地を戦争に使うな!所有地を米軍普天間基地に占拠され続けている
前号/12・生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く

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学ぶ沖縄戦12・生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く/少数派

2022年06月23日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第12回 
生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa10
米軍が上陸後、収容所に送られる住民たち=沖縄県読谷村楚辺で1945年4月4日撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.沖縄戦で生き残った住民はその後どうなったのか?
A.1945年4月1日に沖縄本島中部へ上陸した米軍は南北に分かれて進攻し、占領地域を拡大していきました。保護された住民は4月上旬ごろから米軍が開設した民間人収容所に送り込まれました。収容所は主に沖縄本島北部の各地に置かれ、日本軍の組織的戦闘が終結した45年6月末には約28万人が収容されていました。残っていた家屋やかやぶきの家、テントなどに大勢が生活し、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多くいました。女性が米兵に襲われることもありました。

一方、投降した日本兵は民間人とは別の捕虜収容所に送られました。沖縄出身の捕虜の中には一時、ハワイに移送された人もいました。日本本土出身の捕虜は46年10月ごろから本土へ送還されました。沖縄戦の間、米軍は占領地域に基地を次々と建設しました。住民は45年10月以降、順次、元の居住地に戻ることを許されましたが、米軍が基地を造った場所には戻れず、周囲に住まざるを得ませんでした。宜野湾市中心部にあり、市面積の4分の1を占める米軍普天間飛行場もその一例です。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(2012-17年)毎日新聞
Okinawa1217b

投稿者からのひと言/投稿した本日6月23日は、沖縄戦等の戦没者を追悼する日と定められている、沖縄「慰霊の日」だ(既号説明)。本題に入り、運よくせっかく沖縄戦で助かった人もその後の米軍の粗雑な扱いで、マラリアや栄養失調で多くの方が亡くなった。米軍は大量の住民収容を進めると同時に、次号のように「銃剣とブルドーザー」の言葉通り勝手に住民の土地を奪い、普天間飛行場が代表するような米軍基地を各地に置いた。不勉強(投稿者から言わせればアホ)な右翼層・ネトウヨは、普天間飛行場や基地近くに住んでいる住民に対し、「危険」「騒音」を言うなら他へ行けと言う。基地そのものが住民の土地(住んでいた自分の地)を奪われ、辛うじて免れた周辺住民などは総じて貧しく、また先祖の土地を大切に守る習慣が強く、そう簡単に移動できないのだ。旧日本軍が戦争を起こさなければ・せめて沖縄を捨て石にしなければ、沖縄は現在と別次元的に発展し、当時住民の子孫の方(現在の方)も沖縄を誇りに生きてきただろう。沖縄戦の悲劇、戦後も基地問題など、過去・現代も本土の誤った考え方の人間(政府・右翼層)によって、沖縄は捻じ曲げられているのだ。

Sankoub
次号/13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に
前号/11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲

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