食品のカラクリと暮らしの裏側

食品の安全・安心が総崩れ、また政治・社会の矛盾や理不尽さも増大
暮らしの裏側の酷さやまやかし、危険性・不健全さに迫る!

学ぶ沖縄戦12・生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く/少数派

2022年06月23日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第12回 
生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa10
米軍が上陸後、収容所に送られる住民たち=沖縄県読谷村楚辺で1945年4月4日撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.沖縄戦で生き残った住民はその後どうなったのか?
A.1945年4月1日に沖縄本島中部へ上陸した米軍は南北に分かれて進攻し、占領地域を拡大していきました。保護された住民は4月上旬ごろから米軍が開設した民間人収容所に送り込まれました。収容所は主に沖縄本島北部の各地に置かれ、日本軍の組織的戦闘が終結した45年6月末には約28万人が収容されていました。残っていた家屋やかやぶきの家、テントなどに大勢が生活し、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多くいました。女性が米兵に襲われることもありました。

一方、投降した日本兵は民間人とは別の捕虜収容所に送られました。沖縄出身の捕虜の中には一時、ハワイに移送された人もいました。日本本土出身の捕虜は46年10月ごろから本土へ送還されました。沖縄戦の間、米軍は占領地域に基地を次々と建設しました。住民は45年10月以降、順次、元の居住地に戻ることを許されましたが、米軍が基地を造った場所には戻れず、周囲に住まざるを得ませんでした。宜野湾市中心部にあり、市面積の4分の1を占める米軍普天間飛行場もその一例です。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(2012-17年)毎日新聞
Okinawa1217b

投稿者からのひと言/投稿した本日6月23日は、沖縄戦等の戦没者を追悼する日と定められている、沖縄「慰霊の日」だ(既号説明)。本題に入り、運よくせっかく沖縄戦で助かった人もその後の米軍の粗雑な扱いで、マラリアや栄養失調で多くの方が亡くなった。米軍は大量の住民収容を進めると同時に、次号のように「銃剣とブルドーザー」の言葉通り勝手に住民の土地を奪い、普天間飛行場が代表するような米軍基地を各地に置いた。不勉強(投稿者から言わせればアホ)な右翼層・ネトウヨは、普天間飛行場や基地近くに住んでいる住民に対し、「危険」「騒音」を言うなら他へ行けと言う。基地そのものが住民の土地(住んでいた自分の地)を奪われ、辛うじて免れた周辺住民などは総じて貧しく、また先祖の土地を大切に守る習慣が強く、そう簡単に移動できないのだ。旧日本軍が戦争を起こさなければ・せめて沖縄を捨て石にしなければ、沖縄は現在と別次元的に発展し、当時住民の子孫の方(現在の方)も沖縄を誇りに生きてきただろう。沖縄戦の悲劇、戦後も基地問題など、過去・現代も本土の誤った考え方の人間(政府・右翼層)によって、沖縄は捻じ曲げられているのだ。

Sankoub
次号/13・沖縄は1972年まで戦後27年間に渡り米国統治下に、4月28日は「屈辱の日」に
前号/11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲/少数派

2022年06月20日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第11回 
10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa09
沖縄戦に動員されたとみられる14歳の少年兵(左)=1945年7月撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.77年前の沖縄戦では10代の学生たちも戦場に駆り出されたと聞いたけれど?
A.沖縄戦では14歳以上の男子学生約1500人と15歳以上の女子学生約500人が学徒隊として日本軍に動員されました。14~16歳の男子学生の動員は法的な手続きに沿ったものではなかったと指摘されます。こうした学校単位の動員とは別に、遊撃隊や義勇隊などとして戦場に動員された少年兵もいました。男子学生は「師範鉄血勤皇隊」や「一中通信隊」などと呼ばれ、日本軍の部隊に分かれて配属されました。軍の弾薬や食糧を運んだり、壕(ごう)を掘ったり、破壊された橋を修理したりしました。米軍との戦闘や陣地への斬り込みに参加させられた学生もいました。

女子学生は野戦病院となった壕で負傷兵の世話や手術の手伝いにあたりました。砲弾が飛び交う壕の外で食事を運んだり、遺体を埋葬したりする危険な作業もありました。「ひめゆり学徒隊」などが知られています。日本軍とともに沖縄本島南部に撤退した後に突然、解散を命令された学徒隊も多く、米軍が掃討戦を展開する戦場に放り出され、命を落としました。学徒隊で亡くなった学生は約1000人に上ります。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(沖縄の課題)毎日新聞
Okinawa22

投稿者からのひと言/写真は大柄の米兵との比較なので、捕虜になった少年兵と言えども14歳には見えない。あどけない少年に、米兵は笑っているようにも見える。そもそも戦前の日本人(子供や年少者)は食べるものがなく、総じて背丈が驚くほど小さかったと聞く。今で言えば中学2年生(身体は小学生並みか)に当たり、気の毒にも戦争に駆り出され幼くして大勢が亡くなった。南方へ出兵しゼロ戦攻撃したのは、16歳・17歳もいた。操縦訓練不足から、米航空部隊の餌食(えじき)にされた。学生は後方の部品製造などに関わらるならともかく、前線へ送り込まれるようだったら戦争の行方はもう終わりだ。彼等は役目を果たせず、無駄に命を落としただけだった。別の機会に書こうと思っているが、太平洋戦争で日本の兵隊2百数十万人が亡くなった。言い方に差し障りがあるが、半数以上が「名誉の戦死」ではなかった。死因は、飢餓(餓死)と病死だった。南方戦線、沖縄戦も、昭和天皇と旧日本軍が起こした無謀な戦争、大勢の兵隊が死ぬことをいとわない戦争だったと言える。

Sankoub
次号/12・生き残った住民28万人が収容所に、マラリアや栄養失調などで亡くなった人も多く
前号/10・集団自決はなぜ起きた?「敵の捕虜になるのは恥」と日本軍が沖縄県民に強制

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦10・集団自決はなぜ起きた?「敵の捕虜になるのは恥」と日本軍が沖縄県民に強制/少数派

2022年06月17日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第10回 
集団自決はなぜ起きた?「敵の捕虜になるのは恥」と日本軍が沖縄県民に強制
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa08
集団自決で83人が亡くなったチビチリガマ=撮影・沖縄県読谷村で2017年9月16日午前9時半

Q.住民が互いを手にかけ合った「集団自決」、沖縄戦でなぜそんな悲劇が生まれたのか?
A.:沖縄本島西の慶良間(けらま)諸島や、沖縄本島中部の読谷(よみたん)村、本島南部の糸満(いとまん)市など各地で住民の集団自決が起きました。森や自然洞窟(ガマ)などで、家族らが身を寄せ合って手投げ弾を爆発させたり、鎌やカミソリで互いを手にかけ合ったりして命を絶ちました。県史によると、集団自決の犠牲者は慶良間諸島の座間味(ざまみ)島で177人、慶留間(げるま)島で53人、渡嘉敷(とかしき)島で約330人とされています。犠牲者の中には幼い子供も多くいました。

「生きて敵の捕虜になるのは恥だ」という日本軍の考えが住民にも浸透していたうえ、「捕虜になれば、男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」と米軍への恐怖心が植え付けられていたことなどが背景として指摘されています。こうしたことから「強制集団死」という言葉も使われます。一方、日本軍がいなかった島では集団自決は起きませんでした。また、読谷村のチビチリガマでは83人が集団自決で亡くなりましたが、約1キロ離れた同じ村内のシムクガマでは、ハワイへの移民経験があった住民が投降を促し、約1000人の命が助かりました。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(2002-11年)毎日新聞
Okinawa0211

投稿者からのひと言/既号で書いたように、旧日本軍は民間人を守るどころか自決を迫り、自分達はさっさと逃げ出したのだ。終戦間際、何万・何十万人もの中国・満州の日本人の民間人を置き去りに、いち早く逃げた軍の構図と全く同じだ。日頃、日本軍は武士道精神を唱えていたが、こんなものは偽物だった。米軍はガマに潜む日本人に対し降伏を促したが、出てこないと見るや手榴(しゅりゅう)弾を投げ込んだり、火炎放射器をガマに向かって放ったのだ。いつの時代も戦争はむごいが、若い頃、TV映像で衝撃を受けた。沖縄戦は軍と民間人が、同じ日本人同士でありながら敵対関係にあったとさえ言える。

Sankoub
次号/11・10代の男女学生2000人が動員、戦闘や砲弾が飛び交う中の医療作業で半数が犠牲
前号/9・司令官自決前に「最後まで戦え」、6月23日命を絶ったことで日本軍の組織的戦闘終結

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦9・司令官自決前に「最後まで戦え」、6月23日命を絶ったことで日本軍の組織的戦闘終結/少数派

2022年06月14日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第9回 
司令官自決前に「最後まで戦え」、6月23日命を絶ったことで日本軍の組織的戦闘終結
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa07
日本陸軍第32軍の牛島満司令官らの墓前に立つ日本軍捕虜=沖縄県公文書館提供、
沖縄県糸満市摩文仁で1945年6月28日撮影


Q.1945年3月下旬に始まった沖縄戦はいつ終わったのか?
A.4月1日に沖縄本島中部に上陸した米軍の進攻を受け、日本陸軍第32軍は5月末、首里(しゅり)(現・那覇市)の司令部を本島南部に移し、戦いを続けました。しかし、既に戦力の大半を失い、約10万人いた兵士は約3万人に減り、武器も十分に行き渡らない状態でした。米軍は6月中旬、第32軍司令部壕(ごう)があった沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)(現・糸満市)の高地を包囲。追い詰められた牛島満司令官らが6月23日に自ら命を絶ったことで、日本軍の組織的戦闘は終結しました。牛島司令官らの自決は22日という説もあります。

牛島司令官は自決を前に「最後まで戦え」という命令を出し、23日以降も日本兵の抵抗は続きました。戦闘終結を知らずに隠れ続けた住民もいました。米軍は掃討作戦を展開し、7月2日に作戦終了を宣言。一方、離島などではその後も日本軍の隊長らが山中に立てこもり、久米島(くめじま)では8月18日に住民に投降を呼び掛けた民間人が日本軍に虐殺(ぎゃくさつ)される事件も起きました。天皇が終戦を国民に知らせた玉音(ぎょくおん)放送の3日後でした。日本軍が沖縄で降伏文書に調印したのは9月7日です。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(1997-2001年)毎日新聞
Okinawa9701

投稿者からのひと言/軍部中枢の無分別と本土さえ守ればよいという、何度も書いた「捨て石・沖縄」の本質が沖縄戦だ。また戦場においても軍部は民間人を守るどころか、「盾」に使ったこと。挙句の果てに、根拠もなく民間人に自決(自殺)を強要、あるいは軍が直接殺害したことが悲惨、残虐な沖縄戦になった。だから戦後も今も、沖縄の方は日本本土の政権・政府を批判する精神が芽生えた。戦後長く続く自民党政権(特に安倍氏)は戦争の反省をすることなく、今もって正当化・美化する。

Sankoub
次号/10・集団自決はなぜ起きた?「敵の捕虜になるのは恥」と日本軍が沖縄県民に強制
前号/8・日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦8・日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに/少数派

2022年06月11日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第8回 
日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa06
米兵に見つかり、赤ん坊を抱いてガマ(自然洞窟)から出る住民=1955年4月撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.太平洋戦争末期の沖縄戦では約9万4000人の一般住民が亡くなったとされるけれどなぜ住民までもが犠牲になったのか?
A.1944年7月に琉球諸島の住民の島外疎開(避難)が決定し、県史によると、主に45年3月までに本土に約7万3000人、台湾に1万人余りが疎開しました。しかし、当時の県人口は約60万人で、多くの住民が沖縄に残りました。44年8月には疎開船「対馬丸(つしままる)」が米潜水艦の攻撃で沈没し、幼い子供ら約1500人が亡くなる悲劇も起きました。住民の避難が十分でない中、45年4月1日に沖縄本島中部に上陸した米軍は本島を南北に分断。多くの住民が南部へと逃げざるを得ませんでした。

一方、米軍の猛攻に対し、日本陸軍第32軍は降伏せず、首里(しゅり)城(現在の那覇市)の地下に置いていた司令部を放棄し、5月下旬に本島南部に撤退しました。このため沖縄本島南部は軍と住民が入り交じって逃げ惑う戦場と化し、そこに米軍の無差別な攻撃が加えられました。自然洞窟(どうくつ)(ガマ)に隠れていた住民を日本兵が追い出すことも多々あり、逃げ場を失った多くの住民が犠牲になりました。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(沖縄の課題)毎日新聞
Okinawa21

Sankoub
次号/9・司令官自決前に「最後まで戦え」、6月23日命を絶ったことで日本軍の組織的戦闘終結
前号/7・辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦7・辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」/少数派

2022年06月09日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第7回 
辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

20190329_2 しんぶん赤旗の掲載図を複製

■今号は投稿者の文章から|戦没者を逆なで、沖縄県民どころか人間として許されないこと
今号は「沖縄戦」から一旦離れて、現在の辺野古基地の問題に触れます。今までの連載の中で、日米20万人以上が亡くなったと申し上げました。大半が沖縄県民で、お伝えしてきたように哀れな最期でした。今も親がどこで亡くなり、遺骨さえ見つからない遺族が大勢います。戦後、日本や沖縄が経済発展する中で、苦しんでいるのです。そんな皆さんをこともあろうか逆なでする、戦没者の遺骨が混入した土砂を辺野古基地の埋め立てに使われているのです。沖縄県民どころか、人間として許されないことです。「戦没者への冒涜」です。日本政府も日本人も、まともでなくなってしまいました。

一方、辺野古基地の建設場所は既号のように「マヨネーズ並み」と言われ、深さ90mにも及ぶ超・軟弱地盤が指摘されています。ここに、76,699本の砂の杭を打ち込む計画です。しかし国内技術・設備(作業船)では、杭は海面から70m(海底部から40m)の宙ぶらりんの状態(図・左上)が限界だそうです。杭は、固い地盤まで打ち込んでこそ効果が発揮するものです。岩屋防衛大臣(当時)は根拠もなく70mでもOKと言い出し、しかもポイントとなる箇所はボーリング調査さえしていないことが判明しました。あまりにも、いい加減です。杭の下20mも地盤改良しなければ、延々と基地が沈下し続けるのです。つまり現在の最高工法をもってしても、成し得ない地盤なのです。防衛省は4年弱で完成としていましたが、実際は2030年代前半、いやいつまで経っても完成しないでしょう。予算2.5兆円も、実際は数倍掛かるとも言われます。

■凄惨をきわめた戦野には幾万の屍がるいるいとして風雨にさらされ亡魂恨み泣く
ここからはしんぶん赤旗を活用しています/岸田政権は、戦没者の血が染み込み、いまだ多くの遺骨が眠る、沖縄南部の土地から土砂を掘り出し、名護市辺野古の米軍新基地建設の埋め立て工事に使かっています。県民の平和への願いに背く「戦没者への冒涜(ぼうとく)」を許してはなりません。沖縄戦では、日本側18万8136人(うち県出身者12万2228人)、米側1万2520人の計20万656人が戦死しました(県発表)。「それら(日本側)の死体の多くは、少なくとも死後半年から一年以上放置され、沖縄本島南部を中心とした地域のいたるところに散乱していた」(『沖縄県史各論編6沖縄戦』)と言います。

多くの県民が避難していた南部は、日本軍(第32軍)司令部が首里(現・那覇市)から撤退してきた結果、軍民混在の「地獄の戦場」と化します。このため一般住民の犠牲が大きく広がりました。「ひめゆり学徒隊」の引率教師の1人だった仲宗根政善氏は「凄惨(せいさん)をきわめた戦野には、幾万の屍(しかばね)がるいるいとして風雨にさらされ、亡魂恨み泣き、身の毛のよだつ荒野となった」と書いています(『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』)。

■菅官房長官時代「戦後生まれなので沖縄の置かれてきた歴史は分からない」と発言
戦後最初期、米軍収容所から南部の米須(現・糸満市)に移動を許された真和志村(現・那覇市)の人びとが遺骨収集を始めます。自身も2人の娘を亡くし、遺骨収集の中心となった金城和信村長の妻ふみさんは手記で「御遺体は…石垣のそばにも、洞窟の中にも、道ばたにも、畑の中にも、到るところに放置されてゐました」「阿檀(*)の茂みの中に、一家全員(五名)が抱き合って散華(*)した御遺体がありました。…母の手をしっかり握ったままの小さい女の子、学用鞄を肩からさげてゐた男の子、痛ましいその場の光景が、いまでもこの目に浮んできます」と語っています(金城和彦著『嗚呼沖縄戦の学徒隊』)。
投稿者補足1/阿檀(あだん)=タコノキ科の熱帯性常緑低木。沖縄・台湾に自生。
投稿者補足2/散華(さんげ)=華(はな)と散ると解し、戦死を指していう。

菅政権は20年、辺野古新基地建設の埋め立て予定海域に軟弱地盤があることを認め、その改良のための設計変更を県に申請しました。それによると、当初は本島北部地区に限っていた県内の土砂(岩ズリ)採取場所に南部地区(糸満市、八重瀬町)などが加えられました。しかも、県全体の岩ズリの調達可能量約4476万立方メートルの7割に当たる約3160万立方メートルが南部地区からとされています。これに対し沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんが抗議のハンストを決行し、県議会や県内市町村議会も次々と戦没者の遺骨が混入した土砂を埋め立てに使わないように求める意見書を可決しています。菅氏が官房長官時代、当時の翁長雄志県知事が沖縄の苦難の歴史を語り、辺野古新基地反対を訴えたのに対し、「私は戦後生まれなので、沖縄の置かれてきた歴史はなかなか分からない」と言い放ったことがあります。新基地建設の埋め立て工事をやめさせるためには、菅政権から続く岸田政権を終わらせなければなりません。

Sankoub
次号/8・日本軍は住民を盾に抗戦・米軍の無差別攻撃によって9万4000人が巻き添えに
前号/6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む/少数派

2022年06月06日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第6回 
日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa05
米軍の攻撃でがれきと化した首里城の城壁=1945年5月撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.太平洋戦争末期の沖縄戦で日米両軍の戦いはどういう経過をたどったのか?
A.米軍は1945年3月26日に沖縄本島の西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には現在の読谷(よみたん)村や嘉手納(かでな)町あたりの沖縄本島中部の西海岸に上陸しました。日本軍の攻撃はほぼなく、この日のうちに約6万人もの兵士が「無血上陸」しました。その後、米軍は沖縄本島を南北に切り離して進攻します。これに対し、日本軍は4月6日以降、九州などから航空機による米艦船への大規模な特攻作戦を開始。戦艦「大和(やまと)」も海上特攻に出撃しましたが、7日に鹿児島県沖で撃沈されました。沖縄の日本陸軍第32軍は沖縄本島中部の高地に陣地を構え、米軍に応戦しました。

4月中旬以降、約40日間に及ぶ一進一退の激戦が現在の宜野湾(ぎのわん)市、浦添(うらそえ)市などの一帯で繰り広げられましたが、米軍は戦闘を制し、5月中旬には首里(しゅり)城(現在の那覇市)の地下に掘られた第32軍司令部に迫りました。日本軍は既に多くの戦力を失っていましたが、沖縄本島南部に撤退して徹底抗戦する方針を選びました。米軍の日本本土上陸までの時間を稼ぐためだったとされますが、この撤退が大きな被害を生みました。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(1992-96年)毎日新聞
Okinawa9296

Sankoub
次号/7・辺野古米軍新基地建設の埋立工事に県民の遺骨が残る土砂を使う「戦没者への冒涜」
前号/5・沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦5・沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容/少数派

2022年06月02日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第5回 
沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa04
上陸作戦で沖縄本島に押し寄せた米軍の艦船=1945年4月3日撮影(沖縄県公文書館提供)

Q.激しい地上戦となった沖縄戦だけど日米両軍の戦力はどちらが上回っていたのか?
A.沖縄に上陸した米軍戦闘部隊は陸軍や海兵隊を中心とする約18万人。周辺海域などで支援した部隊を合わせると約55万人に上り、太平洋戦争で最大規模の上陸作戦でした。1945年4月に米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸した際には、海が無数の艦船で埋め尽くされ、真っ黒に見えたといわれています。対する日本軍は陸軍を中心に約10万人の兵力だったとみられます。しかし、このうち2万人余りは「防衛隊」や「学徒隊」などと呼ばれる臨時の補充要員でした。

「根こそぎ動員」ともいわれ、兵力不足を補うために、沖縄の一般住民や学生の中から、14~45歳の男性を兵士として、15歳~40代の女性を兵士に準ずる軍属などとして動員したのです。兵力だけでなく、兵器や補給などの面でも米軍が圧倒し、総戦力において10倍以上の差があったといわれています。米軍は艦船からの艦砲射撃や軍用機からの爆撃などおびただしい数の砲弾を撃ち込みました。この「鉄の暴風」といわれる激しい砲爆撃で沖縄の地形は変容し、日本軍の軍人・軍属の死者は米軍の約8倍にも上りました。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(1972-91年)毎日新聞
Okinawa7291

投稿者からのひと言/復帰50年の歴史を振り返る。後号でも年表を掲載する。

Sankoub
次号/6・日本軍戦力失うも米軍の本土上陸まで時間を稼ぐための徹底抗戦が大きな被害生む
前号/4・米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦4・米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石/少数派

2022年05月30日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第4回 
米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa03
火炎放射戦車で日本兵を攻撃する米兵たち=沖縄県公文書館提供

Q.77年前の日米両軍による沖縄戦だけど、そもそもなぜ米軍は沖縄に上陸したのか?
A.太平洋戦争で日本を降伏させるため、米軍は九州や関東への上陸作戦を計画していました。そのための補給拠点として適した場所にある沖縄を占領しようと考えたのです。太平洋戦争は1941年12月に日本が米ハワイの真珠湾を攻撃して始まりましたが、米軍は42年6月のミッドウェー海戦で勝利を収めたのを境に反転攻勢に出ました。44年7~8月には日本が「絶対国防圏」とした防衛ラインを米軍が突破し、サイパンやテニアン、グアムなどを占領。これらの島々を拠点に日本への空襲を本格化させるとともに、44年10月に沖縄への上陸作戦を決定しました。

そして米軍は45年3月26日に沖縄本島の西に浮かぶ慶良間(けらま)諸島に上陸。4月1日には沖縄本島中部の西海岸に上陸して、占領した土地に日本本土への攻撃拠点となる飛行場を次々と建設しました。米軍は45年11月には九州南部、46年3月には関東へ上陸する計画でした。これに対し、日本軍は本土での戦いまでの時間を沖縄で稼ごうと持久戦に持ち込んだ結果、約3カ月にも及ぶ凄惨(せいさん)な地上戦が沖縄で繰り広げられたのです。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


■復帰50年(沖縄の課題)毎日新聞
Okinawa23

投稿者からのひと言/奇しくも今年22年は、沖縄復帰50年にあたります。新聞スクラップを交えて、並行的に基地問題などをお伝え致します。

Sankoub
次号/5・沖縄戦で米軍の兵力差は10倍、激しい砲爆撃「鉄の暴風」で沖縄の地形は変容
前号/3・地獄絵図」激しい戦闘で沖縄県民の1/4が死亡、集団自決、軍が食料強奪、県民餓死

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦3・「地獄絵図」激しい戦闘で沖縄県民の1/4が死亡、集団自決、軍が食料強奪、県民餓死/少数派

2022年05月26日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第3回 
「地獄絵図」激しい戦闘で沖縄県民の1/4が死亡、集団自決、軍が食料強奪、県民餓死
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa02
白旗を手に投降する少女=沖縄県公文書館提供

Q.77年前に沖縄で何があったのか?
A.当時の日本は、米国をはじめとする連合国との太平洋戦争中でした。米軍は1945年3月26日に沖縄本島西の慶良間(けらま)諸島に、4月1日に沖縄本島に上陸し、日本軍との地上戦が始まりました。これが沖縄戦です。逃げ場も少ない小さな島での地上戦は約3カ月に及び、軍人だけでなく多くの一般住民が巻き込まれて犠牲になりました。太平洋戦争末期、日本は米軍による空襲や原爆を受けましたが、米軍の地上侵攻があったのは現在の日本国土では沖縄と硫黄(いおう)島(東京都)だけです。沖縄県によると、沖縄戦での死者は約20万人。米軍は1万2520人で、残りの19万人弱が日本の犠牲者です。

このうち日本軍の軍人・軍属は9万4136人で、一般住民は約9万4000人(推計)。軍人・軍属の中にも沖縄県出身者が2万8228人いたとされ、一般住民と合わせると当時の県民の4人に1人に当たる約12万人が亡くなりました。沖縄戦では「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい砲爆撃のほか、住民同士が手をかけ合った「集団自決(強制集団死)」、日本軍による住民のスパイ視や殺害、食糧の強奪、さらに餓死などが起きました。小さな島々で一般住民を巻き込んだ地上戦であったがゆえに、その悲惨さはまさに「地獄絵図」でした。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


投稿者からのひと言/別途投稿の内容と重複。今年の5月15日は、沖縄が本土復帰して50年。投稿者も感慨深い。前日に、TBS「報道特集」で過去の歴史を振り返っていた。「核抜き本土並み」のフレーズを、久しぶりに聞いた。番組で印象深かったことは、沖縄は戦後二重に「植民地」にされていたこと。それはご存じの通り、米国・米軍の植民地化。もう1つが、沖縄は日本の「植民地」にもなっていたことだ。沖縄に基地を押し付け、日米地位協定の壁、戦争危険負担、挙句に沖縄の方を差別し都合の悪いことを全て沖縄に無理強いしてきたこと。今現在でも自民党や右翼は、沖縄を差別・侮辱化する。あれから50年経って、番組が言う通り少しも変わっていない。本土の人間として、恥ずかしいし情けない。

Sankoub
次号/4・米軍の沖縄上陸は本土攻撃の拠点化目指し日本軍は本土決戦への時間稼ぎ・捨て石
前号/2・77年前の沖縄戦なぜ犠牲が20万人も!日本軍は本土決戦備え降伏せずに時間稼ぎ

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦2・77年前の沖縄戦なぜ犠牲が20万人も!日本軍は本土決戦備え降伏せずに時間稼ぎ/少数派

2022年05月24日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第2回 
77年前の沖縄戦なぜ犠牲が20万人も!日本軍は本土決戦備え降伏せずに時間稼ぎ
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa01
日本軍が潜んでいた教会を見張る米兵=首里(現在の那覇市)で1945年(沖縄県公文書館提供)

Q.77年前の沖縄戦だけどどうして沖縄が戦場になったのか?
A.1941年12月に日本が米国や英国などの連合国軍と始めた太平洋戦争は、序盤こそ日本軍が優勢でしたが、兵力や装備で勝る米軍の反撃で撤退を繰り返しました。日本本土まであと一歩と迫った米軍は沖縄を占領し、本土上陸作戦のための拠点にしようとしたのです。

Q.日本軍の考えはどうだったのか?
A.戦いをできるだけ長引かせ、本土での決戦に備える時間を稼ごうと考えました。主戦場と想定した沖縄本島中南部に丘や洞窟を利用した地下陣地を張り巡らし、要塞(ようさい)化しました。

Q.その作戦はどうだったのか?
A.米軍は45年4月1日には本島に上陸し、沖縄戦が始まりました。約40日間に及ぶ一進一退の激戦が繰り広げられたのですが、米軍が戦闘を制し、5月中旬には首里(しゅり)城(現在の那覇市)の地下に掘られた日本陸軍の第32軍司令部に迫りました。日本軍は既に多くの戦力を失っていましたが、米軍の日本本土上陸までの時間を稼ぐため、沖縄本島南部に撤退して徹底抗戦をする方針を選びました。日本軍が降伏しなかったことで、沖縄本島南部は避難してきた住民と敗走する兵士とが入り交じる戦場と化してしまい、住民の犠牲が飛躍的に増えたのです。

Q.どれぐらいの人が亡くなったのか?
A.6月23日で日本軍の組織的戦闘が終わったとされていますが、戦死者は米軍の1万2520人を含め約20万人です。このうち一般住民は約9万4000人(推計)とされています。

2021年、毎日新聞が同タイトルで10回の連載を掲載したものです。
戦後77年など時間的な表現は、一部変えております。


投稿者からのひと言/この連載に当たって再び強く言いたいのは、沖縄戦で20万人が死んだのは本土と本土の人間を守るために、また本土決戦備え降伏せずに無駄な戦争を長引かせ時間稼ぎしたことだ。言わば、日本本土のために「捨て石」にされたことだ。それが現在に至っても根底にあり、沖縄の方には日本の中枢、政治への反発が強くなっている。

Sankoub
次号/3・地獄絵図」激しい戦闘で沖縄県民の1/4が死亡、集団自決、軍が食料強奪、県民餓死
前号/1・20万人が戦死した1945年の「沖縄戦」、まずは初歩版の連載「学ぶ沖縄戦」を

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学ぶ沖縄戦1・20万人が戦死した1945年の「沖縄戦」、まずは初歩版の連載「学ぶ沖縄戦」を/少数派

2022年05月21日 | 戦争を繰り返すな
少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな
Okinawamanabu 毎日新聞「学ぶ沖縄戦」1945年 第1回 
20万人が戦死した1945年の「沖縄戦」、まずは初歩版の連載「学ぶ沖縄戦」を
沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終結から6月23日で77年。
なぜ沖縄が戦場となり、多くの悲劇が生まれたのかを考える。

Okinawa00

■沖縄戦の本質は本土防衛のために沖縄を無駄に戦場化・捨て石にしたこと
まずは投稿者より/「学ぶ沖縄戦」と題して、終戦間際の1945(S20)年、旧日本軍と上陸した米軍間に起きた壮烈・悲惨な沖縄での戦争の状況をお伝えいたします。比較的短い文章にて、数日おきに6月末まで14回に渡り連載致します。投稿の元々は昨年21年に毎日新聞に掲載された内容で、Q&A形式の文章になっています。沖縄県公文書館提供の貴重な写真も添付しました。そこに、投稿者の感想を加えております。何卒、最後までお読み頂きたいと存じます。

太平洋線戦争について、段々と語られることが少なくなっています。メディアが取り上げるのは、45年の終戦時や東京大空襲、広島・長崎原爆投下、41(S16)年・開戦のハワイ真珠湾攻撃、42(S17)年ガダルカナル島の戦いや45年・硫黄島の戦いなど玉砕・餓死した特定の戦争に限られています。唯一、日本国土で起った戦闘だった沖縄戦は、日米で20万人が戦死する悲惨な戦争にも関わらず、なぜか取り上げられることが少ないようです(※厳密には硫黄島も国土戦)。なお6月23日を、沖縄「慰霊の日」と定めています。

取り上げられる理由は本文で明らかになるように、旧日本軍が沖縄県民を蹂躙、盾に戦うことから多大な死者が出た、県民に自決を強要する残虐さが伴います。何よりも昭和天皇や当時の内閣・軍部が本土防衛に備え、時間稼ぎのために「沖縄戦」を講じ、捨て石、無駄な抗戦によって甚大な被害が及ぼしたのでした。またそれが戦後、米軍基地の集中化をもたらし、そうした背景から自民党政権が避けてきたことがあります。沖縄戦がなければ、戦後の基地問題も変わっていたでしょう。

基になる毎日新聞の記事はコラム形式だったため、文字数が少なく突っ込みが浅いきらいがあります。そのため悲惨な沖縄県民の扱い、ひめゆり学徒隊や強制された集団自決などまだまだ語られていない事実が多く残されています。投稿者は、いつか別途書きたいと考えております。失礼ながら、まずは次号より「沖縄戦」の初歩をお伝え致します。
※途中、辺野古基地への移転問題、6/23の沖縄慰霊の日について、毎日新聞の他記事、しんぶん赤旗の記事なども挿入します。

Sankoub 次号/2・77年前の沖縄戦なぜ犠牲が20万人も!日本軍は本土決戦備え降伏せずに時間稼ぎ

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3/10東京大空襲被害者がウクライナ侵攻に重なる恐怖と苦しみを政府は直視せよ/少数派

2022年03月11日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな(赤旗だより)
3/10東京大空襲被害者がウクライナ侵攻に重なる恐怖と苦しみを政府は直視せよ

M20220310

■米軍無差別爆撃の東京大空襲は一夜で約10万人の命を奪う・被害者の深い傷は生涯癒えることがない
投稿はしんぶん赤旗を活用しております/1945年3月10日未明の東京大空襲は、一夜で約10万人の命を奪いました。米軍の無差別爆撃は名古屋、大阪、神戸など各地に拡大され、多くの市街地は焦土と化しました。ロシア・プーチン政権のウクライナ侵略で街が破壊され、子どもを含む多くの市民が殺されています。日本の空襲被害者は、この惨状を77年前の自らの体験と重ね胸が張り裂ける思いです。親やきょうだいを殺され、体や心に負った深い傷は生涯癒えることがありません。日本政府は民間の空襲被害者の苦しみを直視し補償に踏み切るべきです。

全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)は、ロシアの侵略開始直後、「ウクライナ市民の苦しみは私たち自身のもの」だと談話を発表し、軍の撤退を求めました。清水市(現静岡市)で米軍の焼夷弾(しょういだん)攻撃を受けた石川雅一さん(86)は「おまえだけ先に逃げなさい」と母に促され、火の海を逃げました。家の防空壕(ごう)に身を寄せた他の家族全員は、近くの変電所に落とされた焼夷弾で焼き殺されました。「ウクライナで防空壕に避難している家族の映像を見ると、自分の体験を思い出す」と話します。東京大空襲で両親と生後3カ月の妹を殺され、孤児になった共同代表の吉田由美子さん(80)は「ウクライナの子どもの不安と恐怖に満ちた目は、当時の自分たちと重なり、胸が痛い。罪のない人たちがこんなひどい目に遭うことを絶対に許したくない」と強調します。

■空襲被害者への謝罪と補償は再び戦争を起こさないと決意した憲法精神に合致したもの
空襲連は3月3日、国会の議員会館で集会を開き、開会中の国会での救済法の成立を求めました。超党派の議員連盟がまとめた法案は、心身に障害を負った民間被害者への一時金支給や、被害の実態調査を盛り込んでいます。鹿児島の空襲で左足を奪われた安野輝子さん(82)は集会の動画メッセージで「酷使してきた右足がもう歩けないと悲鳴を上げています」と述べ、長生きは苦しみが続くことだと訴えました。そして「国民の命と暮らしを守るのが私の仕事」と繰り返す岸田文雄首相に対し「早くその言葉を守っていただきたい。私たちには時間がありません」と求めました。民間空襲被害者は戦後、「戦争を二度と起こさせない。同じ苦しみを誰にも味わわせない」と願い活動してきました。救済法制定を求めているのは、政府が過去の侵略戦争を反省し、再び戦争の道に進ませない証しにするためです。

日本は1931年の中国東北部への侵略、37年の日中全面戦争、41年のアジア・太平洋戦争の開戦と戦線を拡大しました。日本の起こした侵略戦争が各地で一般市民を巻き込み、アジア諸国民と日本国民に甚大な犠牲と被害を与えたのは動かせない歴史の事実です。しかし、国は「戦争被害は等しく受忍すべきだ」などと責任を認めず、謝罪も補償も放置してきました。元軍人・軍属と遺族には補償を続ける一方、民間被害者を救済しないことも全く道理がありません。民間空襲被害者への謝罪と補償は、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさないと決意した憲法の精神に合致したものです。9条を持つ国として、岸田政権に求められるのは、過去の過ちに正面から向き合った被害の救済です。先延ばしは許されません。

しんぶん赤旗の複製可能範囲内において、投稿者によって一部割愛や
それに伴う接続文章等の修正・タイトル付けを行いました。


投稿者からのひと言/東京大空襲を始め全国各地の空襲で亡くなった方は、広島・長崎原爆、東京大空襲などで40万人以上に達する。今で言えば、大量無差別殺人・殺戮(さつりく)だった。命からがらで逃げ惑った方は、数え切れない。そうした方々が、ロシア・プーチンのウクライナ侵攻と重ね合わせればどんなに辛いことか。77年経とうが、悲惨な思いは消えない。辺り一面に燃え盛る炎の中、あちこちで子供が「おかあさん、おかあさん」と泣き叫び、母親は狂乱状態・大声で子供の呼び叫び探している声が未だに耳の中に残っている。別の被害者は、空襲の高熱で親と子供の身体が溶けて駅のガード下の壁にくっつき、その中におんぶされたまま死んだ小さな赤ちゃんが埋もれていたと証言した。投稿者はロシアを擁護する気はないが、米国も日本やベトナム戦争などで、無差別の大量殺人を繰り返してきたことには違いない。だから空襲被害者の皆さんは、どんな国もどんな理由であっても戦争をやってはいけないと訴える。日本が始めた先の戦争に対し、歴代の政府は日本国民を始め世界に心からの反省や謝罪をしていない。国民への補償も、何らされていない。それどころか安倍元首相や維新は、日本の参戦や米国との核兵器共同保有を目論んでいる。全く戦争の悲惨さを学んでいない。だからいくら岸田首相がロシアを批判しようと広島出身?であろうと、魂が入っておらず虚しさを感じるだけだ。

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島式典・子供代表「本当の別れは忘れてしまうこと」、菅首相「核なき世界」読み飛ばし/うるせー鬼評

2021年08月06日 | 戦争を繰り返すな
うるせー鬼評/二度と戦争を繰り返すな
広島式典・子供代表「本当の別れは忘れてしまうこと」、菅首相「核なき世界」読み飛ばし

Sind1481443b

投稿者は、毎年、概ね8/6の「広島平和記念式典」と8/15の「全国戦没者追悼式」をTVで観る。今年の広島式典のこども代表、小学校6年・伊藤まりあさんと同年・宅味義将君の言葉に感銘した。「『本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。』、私たちは、犠牲になられた方々を決して忘れてはいけないのです」(全文は下記記載)。堂々と、そしてハッキリと挨拶を終えた。清々しさを感じた。若い純真な気持ちは、素晴らしい。こういう子供達に、「核なき世界」の実現を託したい。

一方、出席した大の大人の菅首相の挨拶は全くスガスガしくなく、こともあろうか最も重要な「核なき世界」の箇所を読み飛ばしてしまったのだ。ニュースによると、次のくだりを読み忘れたそうだ。「わが国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、核兵器のない世界の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要だ」。実に情けない。コロナ対策などの国会や記者会見の説明に、手許のメモなしでは何も答えられぬ首相。その文章さえ読み飛ばすとは、全く平和・非核への信念も緊張感もないのだろう。首相にとって、一番、言いたくなかった言葉なので、勘繰れば読み飛ばしは意図的か?(苦)

そう言えば安倍首相が在任中の挨拶は、最初の時候と結びの年月日が違う程度で、数年間、全く同じ文言だったそうだ。被爆者団体から、熱意がないとクレームがついた。自民党・日本会議・右翼は、日本が起こした戦争の過ちを戦後76年経っても認めようとしない。こういう間違っている大人達は相手にせず、若い世代が戦争の悲惨さを訴える活動が高まっていることは喜ばしい。最後の”生き証人”(失礼)の高齢者たちから、戦争経験を聴いている。生の声が聴けるのは、もうわずか。伊藤さんと宅味君もあと10年経ったら、戦争の悲惨さを広く言い伝えているだろう。

追記8.7(土)/①同日・6日夜の7時のNHKニュースでは、読み飛ばしたことを言わず「核問題には触れなかった」と報道した。”スガちゃん(が)大好きNHK”は贔屓の引き倒しで、読み飛ばしたことを報道すると批判されることを恐れたと考える。しかし「読み飛ばし」と「核問題に触れなかった」とは、政治的・社会的な影響・意味合いは全く異なってしまう。現に菅首相は記者会見で、読み飛ばしたことを謝罪しているので、NHKの意図的な報道だったと考える。報道の在り方について、かねてからNHK7時のニュースは悪質と言われている。
②読み飛ばした原因を他のメディアが周辺関係者に取材した結果、読み上げる資料にノリが付いて剥がれなかったので、対象の文言が読めなかったとした。またこれも言い訳と贔屓の引き倒しで、仮に事実ならば菅首相は下読みせずぶっつけ本番で読んだことになる。却って菅首相を貶(おとし)めることになる。いずれにしても菅首相は、非核・戦争責任にも関心ないことが印象付けられた。


TOPページへ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

75回目終戦の日「日本の植民地支配と侵略戦争」安倍首相は惨禍を繰り返さぬ決意を*赤旗だより/少数派

2020年08月15日 | 戦争を繰り返すな
Ns170minoritytp 少数派シリーズ/二度と戦争を繰り返すな(赤旗だより)
75回目終戦の日「日本の植民地支配と侵略戦争」安倍首相は惨禍を繰り返さぬ決意を

Akahatan05

■日本が起こした侵略戦争は日本国民310万人・アジア諸国民2000万人が犠牲に
投稿はしんぶん赤旗を活用しております/日本がアジア・太平洋戦争に敗北した1945年8月15日から75年です。絶対主義的な天皇制国家だった戦前の日本が海外での領土と利権の拡大を狙って始めた侵略戦争は、日本国民とアジアをはじめとする世界の諸国民に甚大な被害を与えました。新型コロナウイルスの感染拡大という戦後かつてない事態の中で、改めて平和の重みをかみしめ、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」(日本国憲法前文)決意を新たにしたいと思います。

日本の侵略戦争は、31年に当時「満州」と呼ばれた中国東北部で日本軍が始めた「満州事変」から本格化し、37年に中国全土、さらにアジア・太平洋全域へと拡大されました。敗戦までに310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジア諸国民が犠牲になりました。日本国内だけでなくアジア諸国にも大きな被害を与え、その深刻な傷痕は今も消えません。日米関係史などを専門とする油井大三郎氏の近著『避けられた戦争』は、「満州事変」に至る日本と世界の動きを丹念にたどり、戦争回避の機会があったのに、無謀な戦争に突入していった当時の支配層の姿を浮き彫りにしています。

戦争は自然現象ではなく避けられないものでもありません。第1次世界大戦後に生まれた不戦条約などの新しい平和の国際潮流に逆らい、侵略戦争に突き進んだ日本の軍部や政治家の責任は重大です。国民は真実を知らされず、戦争への批判や反対の運動は強権で弾圧されました。当時の翼賛的なマスメディアは政府と一体で、戦争遂行をあおり立てました。この過去は絶対にあいまいにできません。

■A級戦犯・祖父の岸信介を賛美する安倍首相には日本の侵略戦争の反省がない
戦前の東条英機内閣の一員でA級戦犯容疑者だった岸信介元首相を賛美する安倍晋三首相には、日本の侵略戦争に反省がありません。それを鮮明にしたのは2015年の戦後70年にあたっての「首相談話」でした。「侵略」や「植民地支配」などの文言はちりばめたものの、日本が「国策を誤り」 「植民地支配と侵略」を行ったという戦後50年の「村山首相談話」などに示された歴史認識は全くありません。油井氏の著書は、「安倍談話は、戦争にいたる過程が、欧米列強による『圧迫』などどこか『他人のせい』にされていて、主体的反省が欠如している」と批判しています。この姿勢では近隣諸国はもとより、国際社会からの共感も信頼も得られません。

過去の戦争への反省を欠いた安倍首相は、再び「戦争する国」になる9条改憲の旗を振り続けています。しかし、国民は「安倍改憲」を求めていません。日本世論調査会の調査では、日本が戦後、戦争をしなかったのは9条があったからと評価する回答が最多の47%です(「東京新聞」8月2日付)。二度と戦争の悲劇を引き起こさないというのは、戦後日本の出発点です。「政府の行為」による戦争を繰り返させないため、安倍改憲などの策動を阻止しましょう。

しんぶん赤旗の複製可能範囲内において、投稿者によって一部割愛や
それに伴う接続文章等の修正・タイトル付けを行いました。


投稿者からのひと言/意外に知られていないことは、海外の戦地で亡くなった日本兵230万人のうち、約6割が「餓死」やマラリアなどの感染症死・病死だったことだ。無謀な侵略戦争は、戦域を広げ過ぎたことによって食料・弾薬の補給ができず、ガダルカナル島・レイテ島・インパールなど各地で玉砕とされるものは、実際は餓死者が多数だったのだ。こんな無謀な戦争を賛美し、改憲を野望にする安倍首相を許してはならない。だから今でも、中国・韓国などから外国から非難される。

Akahatatop

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする