8月22日、水曜日、父が亡くなりました。
89歳6ヶ月の生涯でした。
慢性腎炎だった父が余命宣告を受けたのは
一昨年の晩秋…
年齢的な事もあり、父の意志で人工透析はせず自宅療養を選びました。
早ければ余命は3ヶ月と言われていましたが、
在宅看護で今年の初夏頃までは元気でしたが
尿毒症からか、せん妄状態が出るようになり、
主に介護する母が、次第に音をあげるようになり、
ショートステイを利用しながらの在宅介護でした。
せん妄状態で混乱した事を言う事も有りましたが、かなり意識の明確なこともあり、
ただ、足の裏が浮腫み、痛みが出てほとんど歩けなくなり、
この先の介護をどうするか、緩和病棟や見取りのある病院など
いろいろ調べたりしていた矢先、
ショートステイから帰ってきた翌日に熱発…、肺炎でした。
直ぐに近くの総合病院に緊急入院したのが8月14日、
肺炎は直ぐに収まりましたが、腎機能の衰えから予断を許さないと言われたのが
日曜辺り…そして月曜から昏睡状態になり、全く呼びかけにも反応せず…
水曜に勤務に出掛けた先で、「血圧が下がった」と母から連絡が入り、
直ぐに駆けつけました…まるで待っていてくれたかのように
その後、体内の酸素割合がどんどん落ちていくのが数値でもわかり…
13時43分に永眠しました。
最期は苦しむこともなく、ろうそくの炎が消えるが如くでした…
余命宣告をされてから1年と8か月、よく頑張ってくれました。
昏睡状態に入った時から覚悟はしていましたが…
その少し前、ちょうどショートから帰ってきた夜、
父がなかなか寝付かないから見てくれ、と母に言われ
夜中の2時に父の枕元に行くと、はっきりと私だとわかったのか
会話ができました。
最近は美味しいものが食べたいなぁ~が口ぐせで、
その時も、また、その話しかなぁ…と思い最初は話していたのですが、
「孫たちやみんなに美味しいものを食べさせてやってほしい、
自分は今、さがせないから代わりに調べてちゃんとやってほしい…」
という内容を聞き、父は自分の死期が近いことをわかってるのだと感じました。
それが父との最後の会話でした…
友引を挟んだので24日に通夜、25日に告別式でした。
喪主は母がつとめましたが、私の以前の勤務先の葬儀会社に頼んだことや
耳が遠い上に、段々疲れが出てきた母の代わりに喪主の役割をしながら、
無事に父の旅立ちを見送る事ができました。
親族だけの小さなお葬儀には似つかわしくないお花で一杯の祭壇は
生前の父の希望だからと母の想いに応えたもの…
最後の別れの時にも、棺がお花で溢れるほどで…
父は希望通りに花に囲まれて、まるで微笑んでいるかのようでした。
末期の水は、父の大好きだったお酒で…
葬儀関係のことは、以前の仕事絡みで他の人よりは分かっていましたが、
いざその立場になると、ちゃんと出来たのかなぁ…とも思い…
叔父が祭壇の写真をいいねと、とても誉めて下さいました。
娘とふたりで選んだ写真が好評だった事はきっと父も喜んでくれたかな…
また、旅が好きでいつも帽子を被っていたので、そのうちの幾つかと、
退職後に習ったポールペンで描いた作品や旅の写真を
斎場の一角に飾っていただきました。
手続き的な事は、まだまだありますが、明日からは日常生活が始まります。
きっと、いつもと変わらない日々の中で
フッと、父のいない事を感じ、寂しさが募るんでしょうね…
「今まで、ありがとう、お父さん。
また、いつか会いましょうね、その日まで、そちらから見守っていてね…」
89歳6ヶ月の生涯でした。
慢性腎炎だった父が余命宣告を受けたのは
一昨年の晩秋…
年齢的な事もあり、父の意志で人工透析はせず自宅療養を選びました。
早ければ余命は3ヶ月と言われていましたが、
在宅看護で今年の初夏頃までは元気でしたが
尿毒症からか、せん妄状態が出るようになり、
主に介護する母が、次第に音をあげるようになり、
ショートステイを利用しながらの在宅介護でした。
せん妄状態で混乱した事を言う事も有りましたが、かなり意識の明確なこともあり、
ただ、足の裏が浮腫み、痛みが出てほとんど歩けなくなり、
この先の介護をどうするか、緩和病棟や見取りのある病院など
いろいろ調べたりしていた矢先、
ショートステイから帰ってきた翌日に熱発…、肺炎でした。
直ぐに近くの総合病院に緊急入院したのが8月14日、
肺炎は直ぐに収まりましたが、腎機能の衰えから予断を許さないと言われたのが
日曜辺り…そして月曜から昏睡状態になり、全く呼びかけにも反応せず…
水曜に勤務に出掛けた先で、「血圧が下がった」と母から連絡が入り、
直ぐに駆けつけました…まるで待っていてくれたかのように
その後、体内の酸素割合がどんどん落ちていくのが数値でもわかり…
13時43分に永眠しました。
最期は苦しむこともなく、ろうそくの炎が消えるが如くでした…
余命宣告をされてから1年と8か月、よく頑張ってくれました。
昏睡状態に入った時から覚悟はしていましたが…
その少し前、ちょうどショートから帰ってきた夜、
父がなかなか寝付かないから見てくれ、と母に言われ
夜中の2時に父の枕元に行くと、はっきりと私だとわかったのか
会話ができました。
最近は美味しいものが食べたいなぁ~が口ぐせで、
その時も、また、その話しかなぁ…と思い最初は話していたのですが、
「孫たちやみんなに美味しいものを食べさせてやってほしい、
自分は今、さがせないから代わりに調べてちゃんとやってほしい…」
という内容を聞き、父は自分の死期が近いことをわかってるのだと感じました。
それが父との最後の会話でした…
友引を挟んだので24日に通夜、25日に告別式でした。
喪主は母がつとめましたが、私の以前の勤務先の葬儀会社に頼んだことや
耳が遠い上に、段々疲れが出てきた母の代わりに喪主の役割をしながら、
無事に父の旅立ちを見送る事ができました。
親族だけの小さなお葬儀には似つかわしくないお花で一杯の祭壇は
生前の父の希望だからと母の想いに応えたもの…
最後の別れの時にも、棺がお花で溢れるほどで…
父は希望通りに花に囲まれて、まるで微笑んでいるかのようでした。
末期の水は、父の大好きだったお酒で…
葬儀関係のことは、以前の仕事絡みで他の人よりは分かっていましたが、
いざその立場になると、ちゃんと出来たのかなぁ…とも思い…
叔父が祭壇の写真をいいねと、とても誉めて下さいました。
娘とふたりで選んだ写真が好評だった事はきっと父も喜んでくれたかな…
また、旅が好きでいつも帽子を被っていたので、そのうちの幾つかと、
退職後に習ったポールペンで描いた作品や旅の写真を
斎場の一角に飾っていただきました。
手続き的な事は、まだまだありますが、明日からは日常生活が始まります。
きっと、いつもと変わらない日々の中で
フッと、父のいない事を感じ、寂しさが募るんでしょうね…
「今まで、ありがとう、お父さん。
また、いつか会いましょうね、その日まで、そちらから見守っていてね…」