気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影17 洛翠園の門

2024年07月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺中門の見学後に上図の勅使門を見ましたが、こちらは旧京都御所の門なので、今回のテーマである「旧伏見城建築遺構めぐり」の対象には含まれませんでした。U氏もさらりと一瞥したのみでした。

 

 改めて中門の全景を見、撮りつつ「京五山の別格筆頭たる南禅寺に寄進されたからこそ、今日まで残ったわけだな」となにか満足げに呟くU氏でした。

 

 南禅寺の境内地から北への路地を進み、上図の扇ダム放水路沿いの歩道を西へたどりました。U氏が言いました。

「次はどこかね」
「そこの表通り、白川通に出たらすぐ右にあるよ」
「どういう建物かね?」
「よく分からんね、言うなれば、判じ物やな」
「なに判じ物・・・、水戸藩28万4千石の面目にかけても、解いてつかわそう」
「御意」

 

 その建物の前に着きました。白川通に面した松下美術苑真々庵の隣の庭園、洛翠園の西端に位置し、現地では不明門(あかずのもん)と呼ばれる建物です。

 U氏は初めて見るらしく、「うわ、変わった建物だなあ」と驚きと感嘆と不審の入り混じった声を上げました。

 

「門扉の家紋は、もしかして菊紋・・・いや違うな、別の花かな・・・」
「水戸の、菊紋で正しいで」
「あんな菊紋があるのかね」
「八重菊紋や」
「ふーん、初めて聞いたな。この建物がもと伏見城の門なのかね」
「横の説明板にそう書いてあるよ」
「あ、あれか」

 

 脇の説明板を例によって三度読みした後で、うーむと腕組みしつつ、上図の軒下の造作を見上げるU氏でした。垂木は疎垂木で放射状に配されていますが、城郭関連の建物にはあまり見かけない形式です。寺社の小建築に多い建て方です。

 

 御覧のように門口の上の貫の上に直接屋根が架かっています。門口の上辺材の左右には彩色の痕跡が白っぽく残っています。胡粉でしょうか。

 

「おい、内部は門というより部屋みたいになってるぞ」
「うん、内側に障子戸みたいなのが張ってあるな、庭園を眺める東屋みたいになってる。待合が設えてあるんかもな」
「待合があるんなら、門としては使ってないということか」

 待合(まちあい)とは、待ち合わせや会合のための場所または座席を指します。庭園内の東屋や観覧所などに多く設けられる施設ですが、常設のものではなく、場合によっては取り外したりします。ここの建物の場合は門であるので、門として使う場合には待合を外して通路空間を確保したのでしょう。

 

「見ろ、あの上の虹梁みたいなのは、破風の板と違うかね」
「言われてみれば確かに・・・破風やな。虹梁とは全然違う。真ん中に繰り下げがついとる」
「そのうえに丸い穴が開いてるだろ、あれ家紋を打ってた跡と違うかね」
「水戸の、あれが破風板なら真ん中に家紋は打たないよ、釘隠しの飾りなら打つけどね」
「ああ、確かに」
「しかし、破風板をあんなふうに構造材に転用してるの初めてみたな。もとは破風付きの門だったのを改造したようにも見える」

 

 もしあれが破風板ならば、門に破風を付けるのは、唐門形式であれば前後、妻門形式であれば左右、の一対になりますから、二枚あることになります。が、反対側へ回ってみたら破風板はありませんでした。

 

 そのことは、ネットで探して見つけた、上図の不明門の内部画像によっても確かめられます。破風板は上の一枚のみで、向こう側には付いていません。他の建物の部材を持ってきたのかもしれませんが、門の左側だけに付いているのも妙です。

 さらに、天井には龍が描かれています。門の天井に龍を描く事例は初めて見た気がします。昔からの絵ではなくて、現在地に移築後に新たに描かれた可能性も考えられます。

 全体としては、門のように見えるが門としての体裁にはなっていない、庭園内の東屋のような位置にあるという、よく分からない建物です。複数の部材を寄せ集めてこしらえたような、変わった造りも他に例をみません。伏見城からの移築とされていますが、史実なのか、伝承なのかは分かりません。

 U氏が「さっき判じ物と言われたけどさ、これは判じ物以上だな、さっぱり分からんぞ」とボヤいていました。

 

 この不明門が建つ庭園は、もとは南禅寺の境内地に含まれていましたが、明治になって政府の所轄地となり、1909年に実業家の藤田小太郎の私邸が建てられました。その際に庭園が新たに小川治兵衛によって造られましたが、それがそのまま今に伝わって洛翠園と呼ばれています。
 戦後には旧郵政省の所有となって宿泊施設が置かれ、庭園も公開されていましたが、2009年に閉鎖となって売却されました。そのまま企業の所有となって現在に至っており、ここ十数年にわたって非公開のままであると聞きます。

 

 U氏が再び門扉の菊紋を見ながら、「これも現在地に移築してから付けたんだろうな」と言いました。門扉に家紋を貼るのは皇族か貴族、もしくは明治以降の富豪や政治家や財界人に限られます。武家の門に家紋を表す場合はたいてい妻飾りか瓦に付けます。

 なので、旧伏見城の建物の門扉では有り得ません。U氏の推測通り、菊紋を含めた門扉そのものが、昔からのものではなくて現在地に建ててからの追加であると思われます。不明門そのものも、旧伏見城の建物であるかどうかは確証がないようです。  (続く)

 

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