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ゆるキャン△の聖地を行く39 その15  旧東海道筋の街並み 上

2024年07月25日 | ゆるキャン△

 島田市博物館から旧東海道筋を東へ進んで島田大堤を越えたところで、左手に上図の建物を見つけました。
 島田大堤のすぐ東側、というのが気になりましたが、それ以上に外観がちょっと変わっていて、かなり古い建物であることが察せられました。島田宿大井川川越遺跡に現存する唯一の江戸期の建物はこれかな、と考えつつ近寄りました。

 

 近づこうと足を進めだした途端に、右手に上図の案内板があるのに気づき、読みました。島田宿大井川川越遺跡の歴史というか、大井川の川越の歴史についての説明文でした。島田市博物館の展示で見た説明文と大体同じ内容でした。

 

 そしてこの建物が、やはり島田宿大井川川越遺跡に現存する唯一の江戸期の建物でした。安政三年(1856)の建築で、江戸期に東海道第一の難所とうたわれた大井川の川越を統括した川庄屋の事務所にあたります。

 

 建物の名称は、上図のとおり川会所といいます。説明文の通りですが、もう一つ、日本に現存する江戸期の東海道筋の会所の建築遺構はこれが唯一であり、貴重な文化財であることを覚えておくべきです。会所という建物自体は中世期から各地に設けられ、近世には日本中の町や村に置かれましたが、その建築遺構が残っているという事例を殆ど聞いたことがありません。

 

 川会所は公開されていて中にあがれます。個人的には会所と言う建物に関心があり、昔のままに現存する会所の建築を見るのは初めてのことでしたから、興味津々で中に入りました。

 まず右側に、上図のように納戸が並んでいました。内部空間の一方が納戸で占められる点も会所らしいな、と感じました。会所は、現在の言葉でいうと公民館にあたります。一般的な公民館もやはり納戸や押入れといった収納スペースが多い点、共通しているな、と思います。

 

 隣の部屋には川庄屋が使用した駕籠がありました。会所は江戸期には町や村の公的施設として寄合や集会や相談窓口などに使用され、江戸幕府や諸藩の地方統治システムの基本単位となっていましたから、これを預かる管理責任者は、幕府および諸藩から任命された役人か、認可を受けた町および村の庄屋階級でした。だから会所の責任者には駕籠の使用が認められていたわけです。

 

 江戸期の川会所の窓口業務の様子がマネキン使用でリアルに展示されていました。川会所に詰めて事務にあたった担当者は裃を着用していて、幕府および諸藩から任命または認可を受けた正式な事務官であったことを示しています。

 

 そして川会所の場合は、川越業務に関連して何らかの不正や過ちがあった場合に被疑者を検挙し裁判にかけて検証する施設でもありましたから、上図のように床が高く造られており、裁きの場では川役人が裁判官として上に座ったわけです。一段低い縁側に川役人に仕える庄屋階級や町や村の役人が並んでいたものと思われます。

 なお、川会所の建物自体は、やはり昭和45年に移築復元されており、もとは北西900メートルの場所に位置していたそうです。最初に、島田大堤のすぐ東側、というのが気になりましたが、会所という公的施設を堤防のすぐ横に設置する事は江戸期の治水防災の観点からして有り得ない、と考えたからです。
 なにしろ、今でも増水期には暴れ川となる大井川ですから、昔の氾濫の被害もどれだけ多かったかが察せられます。江戸期だけでも堤防決壊が七度、氾濫による浸水被害は数え知れず、という日本最大級の危険度を示した大井川ですから、その堤防のすぐ横に建物を建てたら、流される可能性が大です。

 

 なかなか興味深い建築遺構でした。色々と楽しい学びがありました。

 私自身は長らく中世戦国期の歴史を勉強していて、故郷の奈良県の中世戦国期の城館や寺社や集落をあちこちまわって調査していた時期がおよそ10年ほどありました。その期間中に奈良県下の中世武士や土豪の根拠地、城郭や城館や屋敷の遺跡、集落の遺構などを回り、その総数は600ヶ所余りに及びました。
 その取り組みのなかで、地域によっては公民館のことを今でも会所と呼ぶところがあったり、公民館自体がかつての会所の位置に建てられているケースが多い事を知りました。さらに会所といっても中世と近世では中身や機能が異なること、近世つまり江戸期の会所のほうが、現在の公民館に近いこと、などを知りました。

 しかしながら、会所の建物が中世や近世のままに残っている事例は、文化財の多い奈良県でさえ、一件も見かけませんでした。京都府でも事情は同じでしたから、今回の島田市の島田宿大井川川越遺跡の川会所の建築遺構が本当に珍しく、大変勉強になりました。こういった貴重な歴史遺産はいつまでも伝えていただきたいものです。

 

 川会所の入口付近に建てられている、国史跡の指定標柱。島田宿大井川川越遺跡、とあります。指定年は昭和41年、私の生まれた年です。

 

 川会所から東には、島田宿大井川川越遺跡の復原建物が幾つか並んでいました。多くの建物は昭和47年から48年にかけて遺構調査成果にもとづいて江戸期の姿に復原されています。周辺地域の大半においては昭和57年までに発掘調査が続けられて数多くの遺構や遺跡範囲が確認されています。

 

 こんな感じで江戸期の島田宿大井川川越地区の街並みが見られます。時代劇のセットみたいですが、建物の一棟一棟がちゃんと内部空間や細部に至るまで江戸期の姿にて復原されています。道路はかつての東海道ですから、江戸期の旅人の気分が味わえます。

 こうした中世近世の街並みを復原している事例は、私の知る限りでは他には福井県の一乗谷朝倉氏遺跡しかありません。あちらは中世戦国期の街並みの唯一の復原例で、こちらは近世江戸期の街並みの唯一の復原例です。  (続く)

 

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