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ゆるキャン△の聖地を行く39 その14  島田の旧東海道筋へ

2024年07月21日 | ゆるキャン△

 静岡ホビースクエアからJR静岡駅に戻り、12時21分発の列車に乗り、26分後の12時47分に島田駅で降りました。

 

 島田駅南口のバスターミナルで13時発のバスに乗り、大井川沿いの堤防道路を通って上図の島田市博物館に行きました。この日は川根温泉ホテルに泊まる予定でしたが、チェックイン時刻を16時台にしていたため、それまでの約3時間を博物館と大井川川越遺跡および旧東海道筋の見学にあてました。

 大井川川越遺跡は、正式には「島田宿大井川川越遺跡」といい、江戸期に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれた東海道大井川の川越しに関わる人々の仕事場や旅人たちが利用した施設などを、当時のままに復元し公開している遺跡です。国の史跡に指定されており、旧東海道筋の街並みなどが復原整備されています。日本でもここだけしかない珍しい屋外歴史ミュージアム施設ですので、一度行ってみたいと思っていました。

 大井川川越遺跡の一角に島田市博物館が位置し、旧街道筋の古民家の一つが博物館の分館となっている関係で、大井川川越遺跡と島田市博物館はワンセットの観光スポットになっています。大井川鐡道の新金谷駅から大井川橋を東へ渡って徒歩30分ぐらいで行けますので、私も平成11年に新金谷駅からのんびり歩いて大井川を渡って島田市博物館まで行ったことがあります。当時は大井川川越遺跡はまだ発掘作業および復原整備事業の最中でした。

 

 まずは島田市博物館に入って上図の常設展示と大井川川越遺跡のパネル展示を見ました。中世から近世にかけての史跡が多い島田市なので、この種の展示構成と展示資料の面白さは静岡県でも指折りです。
 大井川川越遺跡という、全国的にも類例が殆ど無い歴史文化財集中エリアを全面的に保存して景観保存に尽力している点からも、島田市の文化財行政のレベルの高さがうかがえますが、それは島田市博物館の展示の中身にもよく表れていると思います。

 文化財学専攻で文化財行政にも多々関わってきた私の経験からいいますと、文化財行政がしっかりしている自治体ほど、政策や施策がしっかりしていて財政状況も健全で町が住みやすいように造られている傾向がある、と思います。
 逆に言えば、財政もしっかりしていて行政機能が正常にコンスタントに機能しているから、教育関連や文化関連にもきちんと注力出来るわけで、結果として文化財保存などの取り組みに積極的になり、これを観光資源としても活かす方向へ努力する流れになります。もちろん自然災害などへの緊急対応も素早く出来る傾向があります。

 私の感覚からいうと、島田市は文化財行政の充実度は静岡県でもトップクラスだと思います。諏訪原城の復原整備事業もそうでしたが、とにかく国史跡クラスの遺跡が多いので、それらにきちんと対応してきた歴史があります。発掘調査に関しても地味に精力的に展開しているようです。
 島田市には私の文化財学科時代の後輩が居ますので、発掘調査報告書も何冊かいただいたこともあり、そういう情報は割と入ってくるのですが、川根本町の無いも同然な文化財行政に比べれば、全然違います。

 大井川鐡道に関しても、沿線自治体のなかでの支援および援助の総額は島田市が最も多く、大井川鐡道の昭和期開業以来の駅舎や施設の多くが登録文化財に指定されているのも、島田市域においてであり、島田市の文化財保存施策が大井川鐡道にも及んでいることが伺えます。
 また、令和4年台風15号災害による大井川鐡道の被災に関しても、島田市がいち早く対応して、国道と鉄道の被害復旧にあたっています。その流れで川根温泉笹間渡駅までの区間を復旧させています。隣接する川根本町が何の対策もせず予算も計上せず、川根本町域の鉄道の不通区間も放置されたままになっているのとは雲泥の差です。

 

 島田市博物館の展示を一通り見て予備知識を得た後、隣の大井川川越遺跡に行きました。正確には博物館の敷地も全て大井川川越遺跡の範囲に含まれるそうで、それを前提としての史跡エリア「ヒストピア島田」構想の一環として平成4年に開館しています。

 

 博物館の南側に旧東海道の道筋が通り、その西端は大井川の河原につながっています。一帯は江戸期の景観をイメージして公園化されていますが、江戸期にはこの辺りも河原であったそうです。

 

 江戸期までの大井川東岸の堤防であった、「善太夫嶋堤」の案内説明板です。

 

 「善太夫嶋堤」の遺構です。高さ六尺であったといいますが、現存の遺構はそれより低くなっています。

 

 「善太夫嶋堤」と旧東海道が交わる地点に設けられていた堰の戸板をはめ込む溝石です。堰はセキと読みますが、ここ島田宿では「セギ」と呼ばれていたそうです。

 

 「善太夫嶋堤」から東へ続く車道が、旧東海道の街道筋です。博物館のすぐ東側のエリアですが、景観復原事業の範囲外であるようで、両側の民家は新しいものが多いです。道だけが緩やかに屈折して江戸期の街道の面影を伝えています。

 

 博物館から100メートルほど東進した地点の左手には一本の大木が建つ堤がありました。最初見た時は、一里塚かなと思いましたが、違いました。大堤と呼ばれる、江戸期の護岸堤防の一種でした。

 

 大堤に沿った小川に橋がかかりますが、江戸期の姿に復原されています。この大堤が近世までの大井川と島田宿の境目であり、橋から東がかつての島田宿の範囲になります。大井川川越遺跡の復原整備事業による街並み復元エリアにあたります。

 

 大堤の脇に立つ案内説明板です。江戸期に築かれた大井川東岸の堤防で、島田大堤と呼ばれました。戦国期までに築かれていた川除堤(かわよけづつみ)が、慶長の大洪水(1604~1605)で決壊したため、正保元年(1644)頃までに築かれた大きな堤です。大堤の規模は高さ二間(約3.6メートル)、長さは三一五〇間(5733メートル)と記録され、現在も遺構が途切れ途切れに残されています。
 この島田大堤の築造を含む治水灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えたそうです。

 

 島田大堤の案内説明板の奥、島田宿の街並みエリアの西端に上図の背の高い古そうな建物が見えました。おや、あれは?と気付いて歩きかけた足を止めました。  (続く)

 

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