気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

聖護院3 聖護院門跡の書院

2024年12月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院の国重要文化財の書院に入りました。玄関口からの通廊に面した南側の縁側を見ました。上図のように奥に仕切り板戸があり、その手前で縁側が直角に曲がっています。軒が深いので縁側も余裕で張り出せる筈ですが、嫁さんによれば、女性用の書院建築の縁側はこの程度の幅が多いそうです。

 縁側は、本来はお付きの女官もしくは従者の控える場ですが、通常は内側の畳敷きの通廊に控える場合が多いそうなので、あまり使われない縁側に関しては必要最低限の規模で済ませている、ということだそうです。

 嫁さんの話では、こういった建物内部の空間の配置の意味を知っていると、源氏物語などの古典宮廷文学における登場人物たちの動きや立ち位置などが建物の内部でもより具体的に理解出来て楽しい、とのことでした。

 

 同じ位置から宸殿を見ました。同じ縁側でもあちらは幅が広くて柵や欄干も付けられます。日常的に通路空間および遊興に使われる空間であり、庭に降りる階段も付けられています。書院の最低限の縁側との対比が興味深いです。

 

 嫁さんが「ね、これ見て下さい、造りが凝ってますでしょ」と上図の戸板を指しました。

「これ、舞良戸(まいらど)だよな?」
「はい、舞良戸ですけど、武家や一般のとは違いますでしょ」
「うん、桟・・・舞良子(まいらこ)て言うんやったか、横じゃなくて縦になってるな」
「ええ、ええ、そうなんです。縦舞良戸(たてまいらこ)っていいます。舞良子も等間隔じゃなくって、端から3、1、4、1、3本を並べてありますでしょ、お洒落ですよね」
「この並べ方、なんか意味があるのかね?」
「並べ方は分かりませんけど、舞良子が横なのは男性、縦なのはだいたいは女性を表すんですよ。とくに平安時代は建物を外から見て、舞良戸を見るだけで誰の住居かが分かるようになっていたんです」
「なるほど・・・、この書院の場合は、妻の櫛笥隆子の住居であることが分かるように、後水尾天皇が造らせたってわけか」
「はい」

 

 続いて嫁さんが通廊の柱の上図の金具を指差して「これ、見て下さいよ」と言いました。

「釘隠し、だよね」
「ええ、そうですけど、何の意匠か分かります?」
「えっ・・・この形は初めてみたな・・・、家紋なの?」
「家紋じゃないんです。紙を畳んで二つ折にした形で「折れ文」ていうんです。公家がやり取りした恋文を意味します」
「恋文・・・、てことは、後水尾天皇から櫛笥隆子への恋文ってこと?」
「そうです。妻への愛情を建物の金具に表しているんですよ。素敵だと思いません?」
「後水尾天皇って、后妃が沢山いて奔放なイメージあるけど、さっきの縦舞良戸といい、この「折れ文」といい、女性への細やかな心配りとか結構やってるね」
「だから、もてたんですよ。もてたから奧さん何人も出来たんですよ。もてる男って、いつの時代も変わりませんよね」

 

 この通廊も畳敷き、両側の襖は白のみで清新、清潔の雰囲気にまとめてあって素敵、などと楽しそうに話す嫁さんでした。いずれ広い家を見つけて引っ越したら、襖は全部白にしましょう、と言いましたが、私としては家の事は全部嫁さんに任せていますので、頷き返しておきました。

 

 通廊の先には二つの部屋があり、手前が控えの間、奥が主室にあたりますが、その控えの間の柱の上図の釘隠しを嫁さんが指差して「これ、見て下さい、分かります?」と言いました。

「笹竜胆(ささりんどう)かね?」
「ええ、そうです、そうです。後水尾天皇が好まれたデザインだそうです」
「家紋じゃないんやな」
「天皇家は菊ですからね・・・。でもここは櫛笥隆子の住居なんで・・・」
「櫛笥藤原氏の家紋でもないんやな」
「公家の書院では基本的に家紋は付けなかったらしいですよ。五摂家でもあんまり付けなかったと聞きますし、だいいち公家の殆どはみんな藤原氏なんで、家紋もほぼ一緒なわけで、区別する必要もないし、武家みたいに家紋を誇示してテリトリーを明確にするっていう必要がありませんでしたし」
「なるほど」

 

 手前が控えの間、奥が主室にあたります。主室は主の櫛笥隆子の御座所にあたり、背後に違い棚と床の間を設けて格式を表しています。ですが、身分差を表す床の段が無く、控えの間と主室の床が同じ高さになっています。

 

 しかも控えの間にも西側に床の間と違い棚が設けられており、格式のうえでは主室とあまり変わらない造りになっています。こちらも上座として使用できる空間になっているようで、「梅之間」と名付けられています。

 この二つの部屋を繋ぐと上座が二つ存在することになりますが、そうすることで意図的に立場や身分の上下を曖昧にして、主従がお互いに気を遣わなくてもよいような、打ち解けた寛ぎの空間を演出しているのです、と嫁さんが説明してくれました。
 なるほど、と感心しました。天皇の側室の住居であれば、お付きの女官も相当の高位の人しか居ませんから、主と同じ典侍クラスになるわけです。身分差も官位の差もそんなに隔たりが無かったでしょうから、控えの間と主室がワンセットのような関係に設えられているのも頷けます。

 

 主室を見ました。「奧之間」とも呼ばれます。さきに見た宸殿の「上段之間」に次ぐ格式の部屋ですが、建具や調度が落ち着いた繊細な造りになっていて、女性らしい部屋の雰囲気がかもし出されています。

 嫁さんが「見どころは、あの右の出窓部分ですかねー」と上図右端の花頭窓(かとうまど)を指差しました。
「出窓部分て・・・、付書院(つけしょいん)だろ」
「あー、そうですそうです、付書院って言うんでしたね」
「あれ、花頭窓の上にも障子の明り取り窓が付いてるよな」
「ええ、珍しいみたいですよね。一般的には欄間が付きますもんね。あれも後水尾天皇の心配りのデザインかも」
「それが見どころ?」
「いえ、見どころはですね、花頭窓の障子がガラスなんですよ。江戸時代のガラス・・・」
「ほう、輸入品かね?」
「だと思いますねえ、窓ガラスなんて当時の日本で生産してないでしょうから、長崎出島あたりから・・・ね」
「オランダか。それにしてもよく調達出来たもんやな。これも後水尾天皇の御配慮かな」
「でしょうね」

 

 その付書院の外側を縁側より見ました。花頭窓の外側の障子の中央にガラスが入っているのが分かります。嫁さんによれば、左側のガラスは明治期に割れてしまい、当時のガラスに交換されているとのことです。
 そして、花頭窓の上の障子部分の外側が跳ね上げ戸になっているのが分かりました。主室内部をより明るくするための仕掛けですが、あまり類例を見ない方式です。

 嫁さんが「ここの書院はいつ見ても面白いですけど、今回はさらに知識が増えて面白かったですね」と言いました。
 さきに大徳寺真珠庵で見た書院の通僊院(つうせんいん)ももとは京都御所の女御(にょうご)の化粧御殿であったといいますから、この日は安土桃山期と江戸初期の后妃の住居建築を続けて見学出来たことになります。

 嫁さんが大徳寺真珠庵の次に聖護院を選んだのも、京都にさえ数棟しか現存しない后妃の住居建築のうちの二棟を同じ日に見る、という意図があったからだそうです。私としてはいずれも初の見学でしたが、安土桃山期と江戸初期の建築遺構を順に見た事で時期ごとの違い、建物の特色や様相が大変によく理解出来ました。いい学びの機会を与えてくれた嫁さんに感謝、です。

 ですが、聖護院の面白さは、まだまだ終わらなかったのでした。  (続く)

 

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