西園寺邸跡からさらに通りを北上して蛤御門からの通りとの交差点にて清水谷家の椋を見た後、御所の西側築地塀に沿って宜秋門(ぎしゅうもん)の前を過ぎ、車返桜のある辻で左折して上図の中立売休憩所に寄りました。しかし、改修工事のため一部の休憩空間を除いて休館していました。その東隣では2022年5月にオープン予定の京都御苑情報館の建物が建設中でした。
京都御苑内には、中立売休憩所と富小路休憩所の2ヶ所の休憩所があります。2022年5月からはさらに近衛邸跡休憩所と清和院休憩所の2ヶ所がオープンして休憩所が4ヶ所になりますので、それ以降にまた行こうと考えました。
中立売休憩所から北に行く遊歩道を進むと、縣井(あがたい)がありました。上図はその説明板です。
縣井(あがたい)の現状です。この北側に一條邸跡があり、東側には宮内庁京都事務所の大きな建物があってフェンスで囲まれていました。京都御苑は環境省の管轄ですが、京都御所や大宮御所や仙洞御所は宮内庁の管轄であるので事務所が置かれているわけです。
縣井(あがたい)の井戸には安全対策のためか木の蓋がはめられてありました。その留め木が覆屋の柱の礎柱石に固定されているので、昔からこうなっていたのでしょう。
縣井からさらに北へ行くと一條邸跡の西側、上図の乾御門の内側に出ました。とりあえず乾御門の外まで行って上図の画を撮影し、また中へ戻りました。
乾御門から今度は東へまっすぐ進みました。御所の北側築地塀に沿って歩き、何となく通りの中央に白く浮かび上がっている自転車の轍をたどりました。
御所の北側に位置する朔平門(さくへいもん)の前に来ました。平安宮内裏外郭の北正面にあった同名の御門の伝統を受け継いで禁裏の北門の位置にあります。「朔」は北を意味します。この朔平門の名は、歴史に親しむ人の間では幕末の朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)によって有名になっています。
朔平門外の変とは、一般的には猿ヶ辻の変(さるがつじのへん)と呼ばれます。事件の場所が朔平門外東側の猿ヶ辻であったためです。
その猿ヶ辻に行きました。京都御所の築地塀の北東の角部分が、鬼門除けのために隅を作らずに築地塀を内側に折れさせてある部分を猿ヶ辻と呼びます。幕末の文久三年(1863)5月20日に攘夷を唱える公家の有力指導者であった国事参政、右近衛少将の姉小路公知(あねがこうじきんとも)が暗殺された現場ですが、当時は少し西側の朔平門寄りに位置していました。現在の猿ヶ辻は慶応二年(1866)に御所の敷地を東へ拡張した際に移されたものです。
事件の当時、現場に残された太刀と薩摩下駄から、薩摩藩士で幕末の四大人斬りの一人と恐れられた田中新兵衛に容疑がかかりましたが、京都町奉行所に捕縛され監禁された田中新兵衛は尋問直前に自刃し、真相は闇に葬られてしまいました。本当に田中新兵衛が下手人であったのかは定かではなく、暗殺者の真偽は今なお不明なままです。
説明板は猿ヶ辻の東向かいの道端に立てられています。
猿ヶ辻の築地塀の内側軒下に安置して祀られる猿の木像を望遠モードで撮りました。保護用の金網に覆われているために見えにくいですが、烏帽子をかぶり御幣を担いだ姿に造られています。禁裏の鬼門を守護する日吉山王権現社(現在の日吉大社)の神使が猿であった由緒にちなむ造形です。猿ヶ辻の名称もここからきているそうです。 (続く)