高崎駅ビル内の「水香苑」にて水沢うどんの昼食をいただいた後、駅の観光案内所へ行って観光地図や資料を貰いました。ゆるキャンの榛東村エリアの聖地巡礼は午前中で完了しましたので、午後はフリータイムとなりました。
それで、どこへ行こうかと考えを巡らし、ずっと昔、平成の初め頃に、大学時代の知人に誘われて行った妙義神社に参拝しようかと考えましたが、資料を見て妙義神社までのバス便が廃止になっていることを知り、諦めました。ならば、群馬県の歴史博物館へ行くか、と思いつきました。
私はもともと文化財学専攻で仏教美術史が専門ですが、歴史全般や文化財にも関心がありますので、全国各地を旅行してたいていの史跡、神社仏閣、城郭、建造物、博物館施設を回っています。それで各都道府県の県立博物館へは必ず行くことにしていますが、群馬県の歴史博物館は行ったことがありませんでした。いい機会だ、と思ってすぐに行き方を調べ、高崎駅東口からバスが出ていることを知りました。
早速バス停へ移動し、待機していた14時30分発のバスに乗り込み、29分後の14時59分に上図の「群馬の森」バス停で降りました。
下車後に時刻表で帰りのバスの時刻を確認しました。博物館の見学にはだいたい一時間余りをかけることが常なので、17時までの時間帯にバスがあれば、と思いながら探すと、16時54分発がありました。これにしよう、と決めました。
高崎駅から群馬の森までの路線は、上図の通り岩鼻線で系統は16番です。運賃は200円でした。
バス停は、群馬の森の西口のすぐ前にありましたので、東へ進めば公園のゲートに至って上図の公園内に入りました。
群馬の森は、正式名称を「アイ・ディー・エー群馬の森」といい、1968年の「明治百年記念事業」の一環として全国に森林公園設置が設置された際に、群馬県が高崎市内に設けた県立総合公園です。
公園内は御覧のように広々としています。もとは陸軍が1882年に設置した「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」の敷地で、1923年に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」と改称し、1940年に「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」と再改称して、1945年の終戦まで黒色火薬やダイナマイト、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産・供給を行なっていました。
そのため、公園内には爆風避けの土塁や当時の建物や壁の一部が残されています。公園の案内マップを見て、近くにある工場跡の建物と射撃場のコンクリート造トンネル跡へ寄ってみましたが、柵が巡らされて立ち入り禁止、夏の草藪にほぼ覆われていて殆ど見えませんでした。外側の塀や門の跡はなんとか見る事が出来ました。
現在の群馬の森の公園内には、芝生広場やあそびの広場、わんぱくの丘、かたらいの丘などの設備があるほか、ウォーキングコースやサイクリングロードもあり、群馬県立近代美術館や群馬県立歴史博物館などの文化施設もあります。
上図は、群馬県立近代美術館とその前庭の馬の銅像です。
群馬県立近代美術館の東隣に、目指す群馬県立歴史博物館が建っていました。御覧の通りのオシャレな三角錐ふうの耐震防火建築です。
群馬県立歴史博物館といえば、令和二年に国宝に指定されたばかりの「綿貫観音山古墳出土品」が一括して展示されていることで知られます。私自身も長いこと見たいと思っていた、古代の東国を代表する考古学資料の一つです。
上図は、出土した埴輪群像の一部、三人の女子像です。綿貫観音山古墳の横穴式石室の開口部から前方部にかけて中段テラスに配列された形象埴輪群の一部で、被葬者の首長権継承儀礼の場面で並んで奉仕する女官を表しているのであろうと考えられています。
これが綿貫観音山古墳の復原模型です。実物は群馬の森の北約600メートルに位置して国の史跡に指定されています。造営当初の外観と埴輪群像の配置がよく分かります。
古墳の墳丘の長さは97メートル、後円部は径61メートル、高さ9.6メートル、前方部の幅は64メートル、高さ9.4メートルを測ります。二段に築成されており、二重の馬蹄形の周堀を持ちますが、上図の模型では周堀は後円部のみに明瞭です。
出土した埴輪群像の一部です。馬と従者の列をかたどっており、馬は軍用としての装いに表されています。被葬者の経済力および軍事力のありさまが伺えます。群馬県だけに馬の群れが多かったのか・・・?(アホかお前は)
埴輪群像のなかでもひときわ大きな武人像です。「貴人の埴輪」とされ、鎧をまとい剣を帯びていますが、甲ではなくつば広の帽子のようなものをかぶっています。被葬者の首長権継承儀礼の場面で参列する人々のなかに位置しており、被葬者の一族か関係者にあたるのかもしれません。
ここの出土品が凄いのは、古代の中国や朝鮮からの製品も含まれていて国際色豊かな様相を示しているからです。
墓の副葬品の総数は500点を越えますが、そのうちの銅製水瓶(すいびょう)は、中国の北斉様式の遺品です。また獣帯鏡(じゅうたいきょう)は朝鮮の百済の武寧王陵より出土した獣帯鏡と同笵(同じ鋳型から製作された)関係にあります。さらに装飾馬具は朝鮮の新羅の製品で、突起付冑などは朝鮮の伽耶系の遺品です。
また、上図の金銅大帯は国内でも出土例が稀で、鈴を複数取り付けて垂らしている例は、この綿貫観音山古墳の遺品が唯一です。古墳の築造年代が六世紀後半とみられることとあわせると、被葬者は六世紀代のヤマト王権の関係者かまたは関与していた当地の有力者であったかと推定されます。国際色豊かな副葬品の数々は、被葬者が対外交渉に関わったか、または半島へ行き来したことによって入手したか、もしくはそれらを与えられる地位にあったことを推測させます。
いずれにせよ、当時のヤマト王権の東アジアとの交流を示す重要な遺品群であることは間違いなく、その価値が認められての国宝指定であったわけです。
ちなみに群馬県の国宝は、他に旧富岡製糸場の建築群があるだけですので、綿貫観音山古墳出土品の存在感がいかに大きなものであるかが分かります。 (続く)