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ゆるキャン△の聖地を行く38 その4  甲斐武田氏家臣の末裔の地

2024年03月18日 | ゆるキャン△

 馬場家住宅の座敷の縁側より、南の庭園を眺めました。馬場家住宅は、江戸期より地元では長らく「馬場屋敷」または「古屋敷」と呼ばれていましたが、その歴史的かつ文化財的価値が昭和50年代に評価されて以降、県外にも広く知られるようになりました。

 

 馬場家住宅を長らく伝えてきた馬場家は、甲斐武田氏の家臣の馬場美濃守信春の縁戚を祖とします。一説では美濃守信春の子の民部少輔昌房の縁戚といい、その初代が馬場亮政(すけまさ)を名乗ります。

 武田家の滅亡後、家臣の大半が本願地へ帰農して郷士になったりしていますが、馬場亮政は現在地の内田に移り住み、天正九年(1581)に没しました。その子孫は江戸期には広大な田畑を持ち、高島藩主諏訪氏と親密な関係を保った特別な地位を有していたといわれます。

 

 そのためか、上図の馬場家当主の「ザシキ」つまり座敷は、格式的には上級武家の正式な座敷としての体裁に造られています。接客空間の中心ともなるので、庭側に書院が設けられています。書院の上部の欄間には透かし彫りが施されています。 

 

 「ザシキ」の内部です。奥に床の間と違い棚が設けられています。典型的な武家系列の書院造の一例です。

 

 馬場家住宅は、江戸期に相次いで建てられた主要な建物が現在まで揃って伝わります。外側の庭園や土塁囲みの敷地をともなう屋敷構えが、往時の姿を良くとどめている点で歴史的価値が認められ、平成八年(1996)に国の重要文化財に指定されました。

 その指定範囲は、現存の建築物群だけではなく、その敷地や景観も含むため、西側の道路を挟んだ向かいの畑までに及んでいます。来るときに見学路から眺めていた田畑の景色も、重要文化財の指定範囲にあるわけです。

 国重要文化財指定に先立つ平成四年(1992)三月、馬場家現当主より、屋敷地の西半分とそこに所在する建物群が松本市に寄付されました。その後に復元修理工事が行われ、現在の外観に整えられて、平成九年(1997)に松本市立博物館の分館施設として開館し、現在に至っています。

 

 なので、松本市に寄付されていない上図の屋敷地の東半分とそこの建築群は、馬場家現当主の所有のままになっています。建物は「隠居屋」や「茶室」、「奧蔵」があるそうです。

 

 「隠居屋」と「茶室」の案内板です。

 

 主屋の東側の外側を見ると、御覧のように二階部分があるようで、その戸口らしいのがあります。主屋内部を回っている時に、当主の生活空間であった「ネマ」に箱階段が付き、「カッテヨコノマ」に梯子状の階段があるのを見ましたので、どうやら、複数の二階空間があるようですが、それらに関する説明板はなぜか見当たりませんでした。

 ただ、幕末の頃に、賊の侵入に備えて「ネマ」から二階に逃れて屋根づたいに避難出来る仕掛けがあったそうですので、その関連の脱出用の戸であるのかもしれません。

 

 主屋の見学を終えて土間より外に出て、西の前庭に戻りました。上図は西側の通用口で、そこからも土間に出入り出来ますが、見学者用には北側の通用口をあてています。

 

 主屋の軒下より、表門と長屋を見ました。左手には高島藩主専用の中門が見えました。

 

 最後に表門から主屋を一瞥し、興味深くて見どころの多い、長野県西南部に分布する「本棟造(ほんむねづくり)」の比較的大規模な典型例である馬場家住宅の見学を終わりました。

 

 最後に、入った時からものすごく気になっていた、上図の主屋の棟上の破風のような独特の飾りをもう一度見上げました。長野県西南部に分布する「本棟造(ほんむねづくり)」の特徴のひとつで、「雀おどし」と呼ばれる棟飾りの一種であるそうです。

 国重要文化財「馬場家住宅」の公式案内ページはこちら。  (続く)

 


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