五重塔を見た後、下伽藍の東側に進む参道をたどり、並ぶ諸施設を順に見た。最初は上図の祖師堂に近寄った。
祖師堂は、奈良仏教系の寺院でいう開山堂にあたり、寺を創建した開基または開山、宗祖や中興の師などを祀る。開基と開山はよく混同されているが、私自身の基本的理解としては、開基は寺院の建立者、開山は寺院の初代住職、と捉える。両方を同一人物が兼ねるケースも見られるが、京都や奈良の古寺においては稀である。
ここ醍醐寺の祖師堂においては、内陣の向かって右に弘法大師空海、左に理源大師聖宝を祀る。空海は真言宗の宗祖、聖宝は醍醐寺初代住職(座主)であるので、宗祖と開山が祀られていることが分かる。
ちなみに建物は江戸初期の慶長十年(1605)の建立で、発願者は第46代座主の義演准后であるので、真言宗醍醐派の祖と先師の顕彰の意味で建てられた施設であろう。
祖師堂の前より東に進むと、上図の門が見えてきた。
寺では日月門と称しているが、その位置は元々は下伽藍域の東辺にあたるらしい。そうであれば東大門として上伽藍との連絡路の通用門としての役割を果たしたものと推察されるが、現在の日月門に関しては寺での位置付けがいまひとつ分からない。
この門は、広島県出身でのち京都に住んだ実業家の山口玄洞が昭和五年(1930)に醍醐寺に多数の建物、施設を寄進建立したうちの一棟にあたる。この日月門から東にある建物も殆どが山口玄洞の寄進による建立である。
なので、日月門をくぐって左手に見えてくる上図の大講堂も昭和五年の山口玄洞の寄進建立になる。大講堂として本尊の阿弥陀如来像を祀るが、現在は観音堂とも呼ばれる。西国三十三所札所の上醍醐の准胝堂が平成二十年(2008)に落雷で焼失したため、その再建までの間の西国札所をこの大講堂に仮移設し、納経もここだけで行うからである。
そういえば私自身も30代の前半ぐらいに西国三十三所の札所巡礼を行なって全所満願を果たしたが、当時の醍醐の札所は第十一番で上醍醐の准胝堂であったな、と思い出す。
現在は下伽藍からの山道を一時間余り登らないと上醍醐へ行けないが、昔は南の宇治谷を経由する県道782号線で醍醐山の東に登り、県道横の通用門から上醍醐境内地に直接入れたため、車で三度ほど上醍醐まで登ったことがある。その頃は准胝堂も健在であったが、建物は昭和四十三年(1968)の再建であったと聞く。
大講堂の隣には上図の弁天池があり、池のへりに弁天堂が建つ。 これも山口玄洞による寄進建立である。
大講堂を中心とする区域を、醍醐寺では大伝法院と称しているが、その東側の通用門は上醍醐への連絡口となっていて、これを出てしまうと再び下醍醐境内地に戻れなくなるので、引き返して今度は大伝法院の東側の参拝路へ回った。その右手に上図の倒壊した建物を見て驚いた。
なんだこの廃墟は、という驚きと、ここに建物があったのか、という驚きが重なった。右の建物は半壊状態、左の建物も大きく傾いて倒壊寸前といった状態であった。世界遺産にも登録されている醍醐寺の境内になぜこのような廃屋同然の施設が放置されているのか、と不思議に思った。奥に見える建物が健在であるようなのが、対照的であった。
横に回り込むと、大きく傾いて倒壊寸前の左の建物の一部が見えた。こちらは外観はまだ維持されているものの、建物の半分は無くなっているのて、窓や格子の向こうに木々の緑色が見えた。
この廃墟は、塔頭の一つだろうか、と後日調べてみたが、醍醐寺の塔頭は今も昔も三ヶ所のまま、理性院、報恩院、光台院が存在する。廃墟に該当するような施設は、寺の境内図にも見当たらなかった。
ところがグーグルマップで見ると、廃墟の位置に「旧伝法学院」とあり、「醍醐の杜」と同じく台風で被害を受けて倒壊して未だにそのまま、という記事にも出会った。
伝法学院とは醍醐寺の修学道場つまりは僧侶の教育施設にあたり、現在は光台院の東側に大きな施設を構えているので、例の廃墟は昔の施設であったもののようである。 (続く)