醍醐寺の下伽藍の清瀧宮本殿に礼拝した後、左右の四棟の摂社を順に拝んだが、上図の黒保社には特に念入りに祈念した。
折しも、ゆるキャン群馬キャンプ編ルートの聖地巡礼を継続中で、巡礼地域の殆どの景色のなかに赤城の連山が望まれるのだが、その赤城山の古名を黒保(くろほ)、または黒保根(くろほね)ともいう。その山頂に鎮まる赤城神社ももとは黒保神社と呼ばれたというが、上州一円ならばともかく、遠く離れた畿内洛東の醍醐寺境内にその勧請社が鎮座するのは奇異の観すら抱かせる。
しかし、ここ醍醐寺を本拠とする修験道の一派、当山派(とうざんは)の山岳修験者が中世、近世期には東国へも進出して武蔵、上野、下野、相模の諸国に教線を展開、ことに上野国においては上毛三山(じょうもうさんざん)の霊峰群がその支配下に置かれたという。いま妙義山に鎮座する妙義神社はその一拠点であったほか、榛名山と赤城山にも山岳修験の霊場が明治の神仏分離まであったというから、赤城の黒保神と醍醐寺とは中世、近世を通じて700年余りも繋がっていたことになる。いま清瀧宮の摂社に黒保社が並ぶのも、そうした歴史の反映と理解出来る。
それで、今後のゆるキャン群馬キャンプ編ルート聖地巡礼の安全と成功を、上毛三山の霊峰のひとつ赤城の黒保神に祈願しておいた。
清瀧宮より拝殿の横を通って、奥に五重塔の姿を認めつつ、拝殿の正面に回った。いま清瀧宮に礼拝したが、参詣の作法としては逆で、拝殿からの遥拝から始めるのが本来の形である。それでいったん拝殿の前へ回ることにした。
しかし、何度見ても上図の建物は、神社の拝殿というよりは住房のような外観と雰囲気を持つ。現代人の感覚からすれば珍しい部類に入るが、中世近世においてはこうした四面障子の三間の規模がわりと多かったと聞く。理由の一つとして、拝殿が神楽殿を兼ね、祭礼時には障子を全て外して四方吹き放ちとして、周囲から祭礼神楽を見られるようにする場合があったことが挙げられる。
特に近世、江戸期においては神社の祭礼神楽儀式がアトラクションの一種として人気があり、祭礼そのものが人々の娯楽であったから、拝殿の建物それ自体を舞台装置とするケースはむしろ一般的であったようである。そうした歴史を反映しての、この拝殿の形式であったとすれば、旧拝殿建築の七間の規模をあえて踏襲しなかったのも頷けよう。
清瀧宮の区域の南東には、上図の南門が建つ。近世の簡素な造りながらも、下伽藍創建以来の南大門の位置と機能とを踏襲する重要な門である。普段は西大門からの出入りがなされるために、こちらは常に閉じられていると聞く。いま西大門の両脇に侍立する藤原期の金剛力士像は、もとはこの位置にあった南大門の安置像であったものである。
南門から振り返って清瀧宮の境内域を見渡した。拝殿と本殿が東に向いて中軸線を西へと引く配置であるが、これは下伽藍の中軸線が南北に通るのとは異なる。おそらくは醍醐山上の上伽藍の清瀧宮本宮の軸線に合わせているのかもしれないが、しかし現在の境内地にて拝礼すれば、拝者は西に向くので、東の上伽藍の清瀧宮本宮には背中を向けることになる。不可解な状況ではあるが、何らかの意図なり事情なりが介在していたのであろうと推察される。
南門から下伽藍の中軸線に沿う参道を進んで右に視線を転ずれば、上図の五重塔の端正な佇まいがみえてくる。醍醐寺の語りつくせぬ魅力の第一と謳われる、国宝の名建築である。
近づいて見上げれば、いかにも古代の五重塔らしい低めの輪郭と大きな逓減率(ていげんりつ)が実感されてくる。京都に現存する他の五重塔に比べると塔高における相輪の占める割合が大きく見える。
総高は38メートルを測るが、相輪部(そうりんぶ)は12.8メートルに達して全体の3割以上を占める。それで屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、中世以降の塔のような細長い外見とは異なった安定感を示す。
この塔の逓減率の大きさというのは、それ自体がこの塔独自の特色でもあるが、それは各層の軒先の中心線つまり逓減線が内側にへこむラインをとっている事に起因する。近世初期の木割書(木造建築の教科書)である「匠明(しょうめい)」にて「三墨チカイ」と述べられるラインにあたる。
試みに塔の柱間と逓減の数値を実測値と比例値にて表すと、それぞれの平均値は2.14と2.15になるが、中世以降の五重塔のそれは平均して1.32から1.75と1.48から1.92となる。古代の五重塔のそれは2.43から2.60と2.4から3.0となるので、醍醐寺五重塔が古代の遺構の数値に近いことがよく示される。最も近似する数値を持つのが法隆寺五重塔であるのは示唆的で、相輪部の比率が大きい点も共通する。
加えて各層の軒の出の長さも注目される。仏教建築のなかで最も高層であり、風雨に晒されて劣化する確率が高いのが塔であるので、古代以来の多くの塔が風雨対策として屋根の軒の出を長くして、横風や横なぐりの雨が塔身部に及ばないように工夫した歴史がある。軒の出を長くとると、そのぶん屋根が広がって瓦の必要数も増えるので、屋根全体の重量が増してゆく。それを支える軒先の木組みをより大きく、より外側へ延ばし、かつ頑丈に造る工夫が要求される。
醍醐寺の塔は、日本の塔のなかでも軒の出が割と長いほうに属するので、上図のように二段の垂木列とこれらを支える堅固な木組みとが特色のひとつとなっている。
木組みを拡大して撮影してみた。御覧のように、軒を支える支持装置である、斗(ます)と栱(ひじき)の組み合わせである斗栱 (ときょう) を外に二つ重ねて支持架としている。いわゆる二手先(ふたてさき)の組物である。
白鳳・天平時代の塔にはさらに一つの組物を追加した三手先(みてさき)のケースも見られるが、醍醐寺の塔はそこまで軒が長くなく、その意味では平安期の塔建築らしいとも言える。
醍醐寺五重塔は、平安期の天暦五年(951)に建立された創建当初の遺構である。醍醐天皇の冥福を祈るため、承平元年(931)に第三皇子の代明(よしあきら)親王が発願し、醍醐天皇の中宮であった穏子(やすこ)皇太后の令旨で建立が計画されたが、承平七年(937)の代明親王薨去により工事が停滞し、親王の弟にあたる朱雀天皇が引き継いで、発願の20年後となる村上天皇治世の天暦五年にようやく完成した。
なので、建物の実年代は十世紀半ばであるわけだが、それにしては前述のように七、八世紀以来の伝統的な塔婆の数値と外観を示す。基本プランは、おそらく発願当時に決定していたはずであるから、八世紀代までの塔の前例を参考にしたか、それに倣っての設計がなされたものと思われる。
現存する平安期の塔婆建築の建設期間の平均が約2、3年とされているので、20年もかかった醍醐寺五重塔は極めて特殊な事例と言える。そして現在においては、現存する十世紀代の塔婆建築の唯一の遺構であり、醍醐寺においても創建以来の姿を伝える唯一の建築である。
そして何よりも特筆すべきは、この醍醐寺五重塔が、平安期最古の塔婆建築であり、平安京内外の数多くの塔婆建築がおしなべて応仁文明の乱にて焼滅したなかで、唯一難を逃れた塔である、という点である。
いまの京都市の内外を巡り歩いても、華やかなりし平安京の景色や雰囲気は微塵も感じられないが、ここ醍醐寺にだけは、平安期の時空間がなおも生き続けている。平安京の最後の残り香、と形容するのも勿体ないほどの、平安期の歴史の真実とその重みが、この塔にだけは、鮮やかなほどに感じられる。
その歴史的体験が常に心地よくもあるので、個人的には平等院に次いでこの醍醐寺に多く参拝してきた。それでも見飽きることはなく、いまなお語りつくせぬ魅力がここにはある。魅惑の醍醐寺、と題して綴るのも、その五重塔の存在ゆえにである。 (続く)