旧伝法院跡の廃墟の横から北西に続く道をたどると、上図の建物の前を横切る。天暦三年(949)に朱雀天皇が発願し建立した法華三昧堂の位置で、その建物は享徳十九年(1470)に焼失している。
その跡地に、真如苑(しんにょえん)の開祖伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するために醍醐寺が平成九年(1997)に建立したのが現在の建物で、真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)と呼ばれる。内陣には金色の涅槃像が祀られる。
真如苑とは、真言宗醍醐派の一派で、旧称を真言宗醍醐派立川不動尊教会という。本拠地の立川真澄寺(しんちょうじ)のことはよく知らないが、その運営する仏教美術品収蔵施設の「半蔵門ミュージアム」には一度行ったことがある。国重要文化財の運慶作の大日如来坐像が展示されているからである。
この大日如来像は、もと足利氏の菩提寺であった栃木県の樺崎寺(かばさきでら)下御堂の本尊であったものが廃仏毀釈の際に行方不明となり、平成二十年(2008)にいきなりニューヨークのクリスティーズのオークションで競売にかけられて大騒ぎとなり、国外流出が懸念されたものの、真如苑が落札して事無きを得た、という経緯をもつ。当時は新聞やテレビでそのニュースが流されていたから、私もよく覚えているが、いずれにせよ運慶作という国宝級の文化財が海外へ売り飛ばされるという最悪の事態を回避出来たのは幸いである。
それで、真如苑が「救出」した大日如来像を、「半蔵門ミュージアム」にて初めて拝見したのだが、見た瞬間に「おお運慶だ・・・」と感動したのをいまも忘れない。
真如三昧耶堂の西隣には、上図の不動堂がある。醍醐寺における立ち位置は不明だが、由緒は平安期までは遡らず、中世以降に設けられた施設であるもののようである。
不動堂は、真言密教の重要な堂宇の一つであるので、たいていの真言宗寺院には見られるが、その安置像である不動明王像への信仰は、平安期においては真言宗よりも天台宗のほうが熱心であった歴史がある。それで平安期までの不動明王の彫刻や絵画の優品は殆ど天台宗寺院に伝わっている。延暦寺、園城寺などの遺品がよく知られる。
不動堂の前庭には円形の石造護摩壇、および前立ての不動明王石像が置かれる。堂前で柴燈護摩(さいとうごま)が焚かれる際の儀場にあたる。真言宗当山派の柴燈護摩は、醍醐寺の開山である聖宝理源大師が初めて行ったとされ、その由緒と伝統を受け継いで、醍醐寺をはじめとする真言宗の当山派修験道系列の寺院でいまも行われる。
醍醐寺での柴燈護摩自体は、もとは醍醐山上の上伽藍で行われたとされるが、現在の上伽藍にその跡はとどめられていないと聞く。聖宝が鎮護国家の祈願道場として延喜十三年(913)に創建した五大堂あたりがその跡地ではないかと個人的には思うのだが、堂宇も変転を重ねているため、詳細がよく分からない。いずれ調べてみたい部分のひとつである。
不動堂の西には下伽藍の中軸線があり、その中心に上図の金堂が、下伽藍の中枢として建つ。いま日本に10棟しか現存しない平安期仏堂の一として、国宝に指定される。
平安期の仏堂建築は、京都府下では5棟、京都市内に限れば4棟しか無い。この醍醐寺金堂はそのうちの1棟であるから大変に重要かつ貴重な建築遺構であるが、もと奈良県民で飛鳥期以来の古代の建築を見慣れた目には、中世期鎌倉ごろの建物に見えてしまう。
それもそのはず、この建物は醍醐寺本来の建物ではなく、もとは紀州の湯浅満願寺金堂であったのを豊臣秀吉が移築、豊臣秀頼が竣工させて現在に至る。建立時期こそ平安後期に遡るが、鎌倉期に改修を受け、さらに安土桃山期に現在地に移築した際にも屋根を改造して近世風の立ちの高い形式に変えている。
それで大学時代の昭和61年に初めて訪れた時、この金堂を見て時期を「あれは平安にしてはなんか違う・・・、鎌倉?室町?もしかして桃山?」と迷いながら推測したのを覚えている。
なぜ推測を迷ったかというと、建物の組物の形式が正面と側面とで異なるからである。正面のは鎌倉期の改修による出三斗、側面と背面のは平安期の平三斗のまま、という珍しい混合形式で他に類例を見ない。さらに屋根は近世風で、移築が完了した慶長五年(1600)の様相をよく示す。
それで、正面観をパッとみれば、組物は中世風、屋根は近世風に見えるから、本当に平安期の仏堂建築なのか、と思ってしまったわけである。
醍醐寺下伽藍の創設時の金堂は、延長四年(926)の建立で、当初は「釈迦堂」と呼ばれた。永仁年間(1293~1299)に焼失し、再建した建物も文明年間(1469~1487)に大内氏の軍勢に焼かれて失われている。
それで当時の醍醐寺座主であった義演准后が金堂の再建を成すべく候補を探していた折、豊臣秀吉が紀州征伐の際に湯浅の国人白樫氏の勢力圏を殲滅すべく、本拠地の満願寺城と満願寺を焼き討ちする流れとなり、これを高野山真言宗の木食応其(もくじきおうご)上人が調停して焼き討ちを回避、交換条件として満願寺の建築物を秀吉に差し出すこととなった経緯がある。
秀吉は貰い受けた満願寺本堂の建物を、義演准后の依頼により、後の慶長三年(1598)の「醍醐の花見」に際して醍醐寺へ移築すべく発願したが、その完成を見ることなく没し、秀頼が引き継いで慶長五年(1600)に移築を完了した。その時点での建物がいまに伝わるわけである。数奇な運命を辿った建築物の一例である。
この建物がもと在った紀州湯浅の満願寺へは、平成の始め頃に和歌山の友人との紀州雑賀一揆の史跡巡りの際に一度立ち寄ったことがある。現在はJR紀勢線湯浅駅の南に小さな境内地を構えており、その背後の低丘陵が満願寺城跡だったが、そこも大した規模ではなかったようで、醍醐寺金堂が本当にそこにあったのか、と疑問すら感じた事を思い出す。
内陣の薬師如来坐像(国重要文化財)および日光菩薩、月光菩薩の両脇侍、および四天王像を拝して一礼し、しばらく眺めた後に金堂を後にした。
仁王門を出て回れ右をし、門の両脇に侍立する阿吽の金剛力士像にも一礼した。久しぶりの下伽藍拝観はこれで終いとはなったが、しかし醍醐寺の歴史上の始原は醍醐山上の上伽藍に在る。かつて車で裏山から登って三度ほど参っただけなので、正規の参詣のかたちである下伽藍からの山道を一度は辿らねばなるまい。
その機会を、来年の桜の咲く頃までには見つけておこう、と思いつつ帰路についた。「醍醐の桜」の時期にこそ、上伽藍の悠久の歴史が鮮やかに感じられるだろう、と考えたからである。 (続く)