気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

初秋の京都御苑4 中山邸跡と清浄華院

2022年04月27日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 猿ヶ辻から東に進み、左手に見えてきた上図の門に近づきました。多くが跡地となっている公家邸宅のなかで、門と建物の一部を残す少ない例とされる中山邸跡の門です。門前の石橋もそのまま残されており、公家邸宅の門構えの一様相がよく分かります。

 

 説明板です。中山家は、藤原北家花山院家の支流のひとつで、家格は羽林家に相当します。羽林家は鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下に位置して名家と同列です。明治期の華族としての家格は侯爵であり、羽林家の中で侯爵に叙せられた家は他に四条家のみでした。
 この中山邸は、後の明治天皇である皇子祐宮(さちのみや)の生誕地として知られます。その当時の産屋が唯一の建築遺構として現存しています。

 

 その産屋の建物が、門からみて左側、邸宅敷地の西側に建っています。

 

 そして門から右側の奥には井戸が見えました。

 

 望遠モードで撮影し、井戸枠の「祐井」(さめのい)の刻字を確認しました。皇子祐宮(さちのみや)にちなんだ名称です。その井戸水を産湯として使ったといい、産屋とともに記念に残されているもののようです。

 

 中山邸跡からさらに東へ進み、上図の石薬師御門をくぐっていったん外に出ました。門前の梨木通りを南へ進み、次の辻で東に折れました。

 

 東の寺町通に出たところが、浄土宗大本山の清浄華院(しょうじょうけいん)の門前にあたります。浄土宗七大本山の一となり、その京都四ヶ本山の一に連なります。寺伝では清和天皇の勅願により円仁が創建したといいますが、存在を史料上にて確認出来るのは鎌倉期以降とされています。
 鎌倉末期の乾元二年(1302)に向阿証賢が兄弟子の専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、これをのちに「浄華院」と改称したといいます。したがって向阿証賢を事実上の開基とする鎌倉期創建の寺、と理解するのが正しいようです。

 

 ですが、鎌倉期創建以来の建物は既になく、寺地も移転を繰り返して、豊臣政権期の京都市街地再編事業に際して現在地に落ち着いています。それで現存最古の建物は江戸期のものが知られますが、個人的には上図の立派な勅使門に興味がありましたので、ここに立ち寄ったのでした。
 勅使門は、建物自体は昭和九年(1934)の再建になりますが、江戸期以来の様式を忠実に踏襲して造られているので、一見すると江戸初期頃の古い門にみえて見応えがあります。

 

 御覧の通り、門扉に菊紋が輝きます。しかし、皇室の紋とはちょっとデザインが異なります。この寺は御所の東隣にあることで皇室の帰依をうけ、皇室の菊花紋を許されてきましたが、明治以降は皇室の権威に遠慮して菊花に葉をかけたデザインに変更しています。「葉菊紋」と呼ばれます。

 

 勅使門を見た後、総門から境内に入り、上図の本堂格の御影堂の前を通り、一礼しました。

 

 そのまま境内地の東へ行き、墓地の北の参道を進んで河原町通に東面する上図の東門を見ました。これが清浄華院における現存最古の建物です。江戸期の延宝四年(1676)の棟札が打ち付けられています。寺では裏門と呼んでいるようですが、河原町通側なので、参拝の檀徒や信者方の大半がこちらからお詣りするそうです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする