碓氷峠鉄道文化むらの続きです。上図はEF63形の1号機です。全部で25輌が製造されたなかの、最初の試作機にあたります。昭和三十七年(1962)に製造され、同時期に製造されたEF62形1号機とともに試験運転に投入され、EF63形の特徴や不備や内部機能などのチェックや初期データの構築に貢献、それらの成果をふまえての諸改良が行われ、量産型の2号機以降の1次車、14号機以降の2次車、22号機以降の3次車が製造されています。
この1号機も、唯一無二の試作車タイプですから、Nゲージ化されていません。ですが、私のレイアウトでは同じぶどう色車体の19号機を1号機とみなして走らせて楽しんでいます。
EF63-1の隣にはEF53-2が並びます。EF53形は、国鉄の前身である鉄道省が昭和七年(1932)から製造した直流用電気機関車で、計19輌が製造されました。その後、昭和三十八年(1963)に全車が改造されてEF59形に改番されています。上図の展示機は、EF59-11に改造改番されていたEF53-2を改造前の状態に復元したものです。
EF53-2の南隣には上図のEF58-172があります。EF58形は、国鉄の前身である運輸省鉄道総局が製造した旅客用直流電気機関車です。太平洋戦争終戦後に激増した旅客輸送需要に対応する機関車として昭和二十一年(1946)に登場、昭和三十三年(1958)までに改良型も含めて172両が製造されました。
上図の172号機は、昭和五十七年(1982)5月21日に栃木県で開催された植樹祭に、昭和天皇皇后両陛下が来臨された際のお召し列車を牽引した名誉ある車体です。現在はかなりボロボロですが、装備および塗色はお召し列車牽引時の状態を再現しています。
EF58-172の南隣に並ぶEF30-20です。このEF30形は、国鉄が製造した世界最初の交直流電気機関車です。関門トンネルを挟む山陽本線の下関 - 門司間における交流電化に伴う専用機として開発され、22輌が製造されました。
このEF30形は、他の電気機関車と異なって車体が銀色に見えますが、これはステンレス板を車体外板としているためです。これは関門トンネルの覆工より滲み出す海水による錆(塩害)を防ぐための外板です。その外板の下半分が波板状になっているのは強度維持のためで、コルゲーションと呼ばれるプレス加工処理が施された状態です。
このEF30-20と、先に紹介したEF58-172が並んで作中にも登場しています。右のシーンです。ナンバーは描かれていませんが、展示状況は実際と同じです。斉藤恵那が両車の間に進んでいますので、その後は今回の私と同じように奥の階段を登って、奥にある車輌を見ていったのでしょう。
EF58-172の後ろには10系客車のオハネ12-29が続きます。10系客車は、国鉄が昭和30年(1955)年に開発し量産した軽量構造の客車です。上図のオハネ12形は、三等寝台車のナハネ11形を冷房改造した型式です。
この10系客車は、ここ碓氷峠鉄道文化むらにて初めて実物を見ました。これまではこういうタイプの客車は、大井川鐡道の12系と14系しか見た事がなかったのでした。
オハネ12-29の斜め隣には上図のEF70-1001があります。御覧の通りのボロボロ状態で、前面窓の応急補修テープが痛々しい感じです。左右を他の車輛に囲まれていて外からはほとんど見えない位置にあるため、メンテナンス作業も後回しになっているのでしょうか。
このEF70形は、国鉄が昭和三十六年(1961)に開発、製造した交流用電気機関車です。81輌が製造されていますが、上図の保存機は1001番になっているので調べてみたところ、22号機から28号機までの7輌を昭和四十三年(1968)に改造して1000番台に改番したうちのトップナンバーであったことを知りました。もとは22号機であったわけです。そしてこのEF70-1001が、現存唯一の車体であるらしいです。
EF70-1001の横には「お座敷列車」と名付けられた2輌の12系客車があります。スロフ12-822の車番を見て、これは大井川鐡道に無い型式だな、と気付きました。
周知のように、大井川鐡道にはかつて「SLやまぐち号」列車に使用された12系客車6輌が譲渡され、いまも新金谷駅の側線に留め置かれています。オハ12の3輌、スハフ12、オハフ13、マイテ49の組み合わせです。
対してこちらのスロフ12-822は、連結しているオロ12 841とともに、国鉄が昭和五十八年(1983)に登場させた「ジョイフルトレイン」と呼ばれる車両の一種で、12系客車を改造して車内を畳敷きにした6輌からなる「くつろぎ」の1編成をなしていたものです。そのうちの2輌がここに移されて保存され、内部を公開しています。
こちらの車体もボロボロです。園路からも見えますので、補修するべきだとは思うのですが、予算不足にしても、もう少し何とかならなかったのでしょうか。
車内はわりと綺麗に保たれており、外側のボロボロ状態とは対照的でした。畳敷きに座卓も並んでいますので、休憩所としても使えそうな感じでした。
一周して、上図のD51-96の前まで戻ってきました。前回見られなかった車輛も全て見る事が出来ましたので、満足感と安堵感とに包まれました。そのまま、近くの東屋に寄って休憩し、高崎駅で買ってきた「30品目バランス弁当」を食べました。
屋外展示場から鉄道資料館に移動する際に見た、旧検修車庫の西側外観です。手前の一段低い建物が、ED42-1やTMC200Bを収容展示している所にあたります。
鉄道資料館では、前回時間がなくて見られなかった模型ジオラマとレイアウトを見ました。このコーナーにだけ、親子連れや子供たちがいっぱい入っていました。あとは、上図のイメージキャラクターのパネルを撮っただけで済みました。
この三人のうち、両側の「横川結(ゆい)」と「横川夢」の姉妹はここ碓氷峠鉄道文化むらの三代目イメージキャラクターとして知られており、同じパネルが横川駅にもありましたので知っていましたが、中央の「浅間夏綺(あさま なつき)」は初めて見ました。新たに追加されたイメージキャラクターなのでしょうか。
バイバーイ。横川鉄道博物館はいつ行っても最高だねぃ(各務原なでしこ風に)。
ということでゲートを出たのですが、時計を見ると16時前でした。あっ、確か16時の横川駅発の列車があったっけ、と思い出して100メートル先の横川駅までダッシュしました。 (続く)