気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く43 その11  伊香保神社へ

2024年12月16日 | ゆるキャン△

 伊香保温泉の石段街は、沢山の観光客で賑わっていました。年間160万人が訪れる北関東有数の人気観光地であるうえ、インバウンドの回復もあって海外からの観光客も多く、周囲から聞こえる話し言葉の数割が中国語か欧州語でした。

 気温も高かったので、アイスや飲み物がどこでも売れているようで、石段をベンチがわりにして座って飲み食いしている観光客が多数にのぼり、場所によっては邪魔になっていて歩きづらいこともありました。

 

 この日は伊香保温泉街の下見というか、聖地スポットの位置の確認を行ない、ついでに伊香保温泉の鎮守である伊香保神社に参拝する予定でした。

 石段街のメインルートである365段の階段は、もともとは伊香保神社への参道も兼ねていて、階段の上へ登り切ったところに境内地が位置しています。それで、普通の階段よりも段差が大きい石段をずっと登っていきました。身延山久遠寺の菩提梯ほどではありませんが、足を高く踏み出して登るので、だんだんと疲れてきました。

 

 途中にあった蕎麦屋です。蕎麦が好物ですので、こういうお店には引き寄せられてしまいますが、中をのぞいてみると超満員でした。人気の観光地の食事処あるあるでした。

 

 さらに登っていくと、ゆるキャンの第96話の表紙イラストの景色によく似た場所にきました。その東側にあるのが上図の「すみよしや」でした。その建物のレンガ調の外装になんとなく既視感を覚えました。

 

 それで、少し上へ登って振り返り、上図の景色を見ました。このアングルじゃないかなあ、と思い、あらかじめプリントして持参した第96話のイラストやキャプションを取り出して比較しました。

 上図右の饅頭屋の看板、左の酒の看板がだいたい一致したので、ここだな、と確認しました。石段街のほぼ中央あたりに位置しています。

 

 右側の饅頭屋の外観です。この日は閉まっていました。地図を取り出して、作中のスポット4ヶ所、石段下、アヒル神社、石段の湯、石段街の中央あたり、の全ての位置を書き込み、位置の確認と下見を終えました。

 

 そのあとは、伊香保神社へお詣りに行きました。石段をひたすら登り、各所に設置されている湯桶のガラス窓をのぞいて、山上の湯元からザーッと流れて落ちてゆく湯を眺めたりして、石段街の一番上の辻まで行きました。そこから上図の伊香保神社の鳥居をくぐって参道階段を登りました。

 

 伊香保神社の境内地に着きました。上図は拝殿で、後ろの本殿とともに明治十七年(1884)の再建とされます。神社では仮宮としているので、いずれ正式な拝殿と本殿を建てる計画があるのでしょうか。

 

 案内板の略記です。平安期の「延喜式」神名帳に「群馬郡 井加保神社 名神大」と記載される式内社のひとつで、社格は名神大社(みょうじんたいしゃ)です。

 創建は九世紀の天長二年(825)とされますが、もとの本社とされる三宮神社は八世紀の天平勝宝二年(750)まで遡りますので、当地の渋川市においては間違いなく最古級の神社です。上野国の三宮ともされたようで、富岡市の一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)、前橋市の二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)に次ぐ重要な神社でありました。

 

 参拝し今回の聖地巡礼の道中安全を祈願した後、拝殿の横へ回って本殿を見ました。建物は周囲の玉垣も含めて最近に塗り直しの修理がなされたようで、真新しい茶色一色に染められていました。

 

 拝殿の側面に懸かる上図の大きな額、おそらく奉納絵馬のそれと思われますが、これも茶色に塗られていました。額内に三枚の板が縦に並べてはめられてあり、それぞれに何らかの図柄もしくは文字が書かれていたような痕跡がありました。いずれ新たに描き直すのでしょうか。

 

 伊香保神社の境内地の一段下に、上図の薬師堂がありました。正式には医王寺薬師堂といい、薬師如来を本尊として祀ります。

 

 薬師堂の内陣を拝みました。本尊の薬師如来は医療と温泉の効験もつかさどる仏として古代より信仰され、全国各地の有名な温泉地にはたいてい薬師堂があってお祀りされています。

 なので、ここの薬師如来も古くから伊香保温泉の護り仏として崇められたのだろうと思いますが、医王寺薬師堂の歴史は不明のことが多く、一時期は伊香保神社の摂社に組み入れられて温泉神社と名乗っていたこともあるそうです。いわゆる神仏混交の形態であったことが伺えます。

 

 薬師堂の近くの道端に建つ大きな石碑です。北辰鎮宅霊符尊(ほくしんちんたくれいふそん)と刻まれています。北辰とは道教でいう北斗星、鎮宅霊符とは家内安全などのための72種の護符のことで、これを司る守護神が北辰鎮宅霊符尊です。
 これの信仰は古く飛鳥時代に朝鮮半島の百済からもたらされたといわれ、仏教の妙見信仰と結びついて厄除および開運の守護神として信仰された歴史があります。

 北辰の方角、つまりは北の守護神とも崇められましたから、北向きの町である伊香保温泉石段街の守護神とされ、周辺の旅館や商店を中心とする人々によって、昭和四年にこの石碑が建てられました。
 伊香保温泉は、江戸時代から大正九年に至るまで何度も壊滅的な大火に遭っていますが、この北辰鎮宅霊符尊碑が建てられてからは、大きな火事は起きておらず、太平洋戦争中の空襲も免れたといいます。霊験あらたかな神様です。

 

 引き返して石段街の石段を降りました。途中で上図のマンホールを見つけました。この漫画およびアニメとは縁がありませんでしたので、伊香保温泉がその聖地の一つであることを初めて知りました。

 

 途中にあった萌え自販機。石段街を登る時には気付かなかったのですが、降りる時に大勢の外国人が一様にスマホを向けていたので、何を撮っているのだろうと近寄っていって、この自販機を見つけました。「温泉むすめ」のキャラクターのようです。伊香保葉凪、ですか・・・。

 

 自販機の側面には5人のキャラクターがありました。群馬県の有名温泉の温泉むすめ達です。上左は四万温泉の四万治佳、上右は水上温泉の水上凛心、下左は万座温泉の万座千斗星、下右は草津温泉の草津結衣奈、だそうです。  (続く)

 

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聖護院3 聖護院門跡の書院

2024年12月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院の国重要文化財の書院に入りました。玄関口からの通廊に面した南側の縁側を見ました。上図のように奥に仕切り板戸があり、その手前で縁側が直角に曲がっています。軒が深いので縁側も余裕で張り出せる筈ですが、嫁さんによれば、女性用の書院建築の縁側はこの程度の幅が多いそうです。

 縁側は、本来はお付きの女官もしくは従者の控える場ですが、通常は内側の畳敷きの通廊に控える場合が多いそうなので、あまり使われない縁側に関しては必要最低限の規模で済ませている、ということだそうです。

 嫁さんの話では、こういった建物内部の空間の配置の意味を知っていると、源氏物語などの古典宮廷文学における登場人物たちの動きや立ち位置などが建物の内部でもより具体的に理解出来て楽しい、とのことでした。

 

 同じ位置から宸殿を見ました。同じ縁側でもあちらは幅が広くて柵や欄干も付けられます。日常的に通路空間および遊興に使われる空間であり、庭に降りる階段も付けられています。書院の最低限の縁側との対比が興味深いです。

 

 嫁さんが「ね、これ見て下さい、造りが凝ってますでしょ」と上図の戸板を指しました。

「これ、舞良戸(まいらど)だよな?」
「はい、舞良戸ですけど、武家や一般のとは違いますでしょ」
「うん、桟・・・舞良子(まいらこ)て言うんやったか、横じゃなくて縦になってるな」
「ええ、ええ、そうなんです。縦舞良戸(たてまいらこ)っていいます。舞良子も等間隔じゃなくって、端から3、1、4、1、3本を並べてありますでしょ、お洒落ですよね」
「この並べ方、なんか意味があるのかね?」
「並べ方は分かりませんけど、舞良子が横なのは男性、縦なのはだいたいは女性を表すんですよ。とくに平安時代は建物を外から見て、舞良戸を見るだけで誰の住居かが分かるようになっていたんです」
「なるほど・・・、この書院の場合は、妻の櫛笥隆子の住居であることが分かるように、後水尾天皇が造らせたってわけか」
「はい」

 

 続いて嫁さんが通廊の柱の上図の金具を指差して「これ、見て下さいよ」と言いました。

「釘隠し、だよね」
「ええ、そうですけど、何の意匠か分かります?」
「えっ・・・この形は初めてみたな・・・、家紋なの?」
「家紋じゃないんです。紙を畳んで二つ折にした形で「折れ文」ていうんです。公家がやり取りした恋文を意味します」
「恋文・・・、てことは、後水尾天皇から櫛笥隆子への恋文ってこと?」
「そうです。妻への愛情を建物の金具に表しているんですよ。素敵だと思いません?」
「後水尾天皇って、后妃が沢山いて奔放なイメージあるけど、さっきの縦舞良戸といい、この「折れ文」といい、女性への細やかな心配りとか結構やってるね」
「だから、もてたんですよ。もてたから奧さん何人も出来たんですよ。もてる男って、いつの時代も変わりませんよね」

 

 この通廊も畳敷き、両側の襖は白のみで清新、清潔の雰囲気にまとめてあって素敵、などと楽しそうに話す嫁さんでした。いずれ広い家を見つけて引っ越したら、襖は全部白にしましょう、と言いましたが、私としては家の事は全部嫁さんに任せていますので、頷き返しておきました。

 

 通廊の先には二つの部屋があり、手前が控えの間、奥が主室にあたりますが、その控えの間の柱の上図の釘隠しを嫁さんが指差して「これ、見て下さい、分かります?」と言いました。

「笹竜胆(ささりんどう)かね?」
「ええ、そうです、そうです。後水尾天皇が好まれたデザインだそうです」
「家紋じゃないんやな」
「天皇家は菊ですからね・・・。でもここは櫛笥隆子の住居なんで・・・」
「櫛笥藤原氏の家紋でもないんやな」
「公家の書院では基本的に家紋は付けなかったらしいですよ。五摂家でもあんまり付けなかったと聞きますし、だいいち公家の殆どはみんな藤原氏なんで、家紋もほぼ一緒なわけで、区別する必要もないし、武家みたいに家紋を誇示してテリトリーを明確にするっていう必要がありませんでしたし」
「なるほど」

 

 手前が控えの間、奥が主室にあたります。主室は主の櫛笥隆子の御座所にあたり、背後に違い棚と床の間を設けて格式を表しています。ですが、身分差を表す床の段が無く、控えの間と主室の床が同じ高さになっています。

 

 しかも控えの間にも西側に床の間と違い棚が設けられており、格式のうえでは主室とあまり変わらない造りになっています。こちらも上座として使用できる空間になっているようで、「梅之間」と名付けられています。

 この二つの部屋を繋ぐと上座が二つ存在することになりますが、そうすることで意図的に立場や身分の上下を曖昧にして、主従がお互いに気を遣わなくてもよいような、打ち解けた寛ぎの空間を演出しているのです、と嫁さんが説明してくれました。
 なるほど、と感心しました。天皇の側室の住居であれば、お付きの女官も相当の高位の人しか居ませんから、主と同じ典侍クラスになるわけです。身分差も官位の差もそんなに隔たりが無かったでしょうから、控えの間と主室がワンセットのような関係に設えられているのも頷けます。

 

 主室を見ました。「奧之間」とも呼ばれます。さきに見た宸殿の「上段之間」に次ぐ格式の部屋ですが、建具や調度が落ち着いた繊細な造りになっていて、女性らしい部屋の雰囲気がかもし出されています。

 嫁さんが「見どころは、あの右の出窓部分ですかねー」と上図右端の花頭窓(かとうまど)を指差しました。
「出窓部分て・・・、付書院(つけしょいん)だろ」
「あー、そうですそうです、付書院って言うんでしたね」
「あれ、花頭窓の上にも障子の明り取り窓が付いてるよな」
「ええ、珍しいみたいですよね。一般的には欄間が付きますもんね。あれも後水尾天皇の心配りのデザインかも」
「それが見どころ?」
「いえ、見どころはですね、花頭窓の障子がガラスなんですよ。江戸時代のガラス・・・」
「ほう、輸入品かね?」
「だと思いますねえ、窓ガラスなんて当時の日本で生産してないでしょうから、長崎出島あたりから・・・ね」
「オランダか。それにしてもよく調達出来たもんやな。これも後水尾天皇の御配慮かな」
「でしょうね」

 

 その付書院の外側を縁側より見ました。花頭窓の外側の障子の中央にガラスが入っているのが分かります。嫁さんによれば、左側のガラスは明治期に割れてしまい、当時のガラスに交換されているとのことです。
 そして、花頭窓の上の障子部分の外側が跳ね上げ戸になっているのが分かりました。主室内部をより明るくするための仕掛けですが、あまり類例を見ない方式です。

 嫁さんが「ここの書院はいつ見ても面白いですけど、今回はさらに知識が増えて面白かったですね」と言いました。
 さきに大徳寺真珠庵で見た書院の通僊院(つうせんいん)ももとは京都御所の女御(にょうご)の化粧御殿であったといいますから、この日は安土桃山期と江戸初期の后妃の住居建築を続けて見学出来たことになります。

 嫁さんが大徳寺真珠庵の次に聖護院を選んだのも、京都にさえ数棟しか現存しない后妃の住居建築のうちの二棟を同じ日に見る、という意図があったからだそうです。私としてはいずれも初の見学でしたが、安土桃山期と江戸初期の建築遺構を順に見た事で時期ごとの違い、建物の特色や様相が大変によく理解出来ました。いい学びの機会を与えてくれた嫁さんに感謝、です。

 ですが、聖護院の面白さは、まだまだ終わらなかったのでした。  (続く)

 

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ヨーグルト学園 38(t)戦車 作ります!! その5

2024年12月14日 | ガルパン模型制作記

 車体の組み立てに戻りました。ステップ3から入って車輪を取り付けますが、付けるのは起動輪と誘導輪のみとし、転輪は塗装後に取り付けます。
 ステップ4では戦闘室前面部と左右フェンダーを組み立てます。戦闘室前面部は左隅部の形状を劇中車に合わせて改造します。左右フェンダーもガルパン仕様にあわせてリブを削り取ります。

 

 ステップ3で組み付ける車輪類やダンパーのパーツです。転輪はタイヤゴム部のパーツを付けていない状態です。

 

 転輪を仮組みし、サスペンションの並びを一直線に揃えて調整し、サスペンションを接着固定しました。転輪は後で外す予定です。上部転輪は取り付けてタイヤゴム部のパーツを塗装後に組み付けます。

 

 ステップ4に進んで戦闘室前面部の組み立てにとりかかりました。ガルパン仕様に合わせて、不足している視察窓ハッチをドラゴンのジャンクパーツよりもってきました。上図のグレーの2個のパーツです。

 

 戦闘室前面部のパーツC6です。このまま使うと劇中車とは形状が違ってきます。左右に突き出すステーは位置がやや後ろにずれますので、後でカットし、位置をずらしてジャンクパーツなどで補完します。

 

 視察窓のハッチをドラゴンのパーツに置き換え、機銃のパーツを組み付けました。

 

 内側は塗装しています。

 

 車体に組み付けたのち、左隅部の形状を劇中車に合わせてプラ板を張り、上図のように改造しました。

 

 改造部分は内側ではそのままにしました。完成後は完全に見えなくなるからです。

 

 左側の視察窓ハッチを取り付けました。

 

 戦闘室前面部の組み立てと並行して、左右フェンダーのガルパン仕様への改造も進めました。キットのパーツC26およびC27は余分なモールドも多くて形状もやや異なるため、不要パーツに含まれているF1およびF2に置き換えました。F1およびF2はE型以降のタイプなのですが、劇中車のフェンダーがこれに最も近似しているためです。

 おそらく、劇中車の基本デザインは、従来言われてきたように、B型からE型までの各型の特徴を合わせているのでしょうし、それによって史実には無いB/C型などという謎バージョンが設定されたのだろう、と推察します。

 

 さて、キットのパーツでは御覧のように4本のリブがステーの位置を飛ばして先端から後端までモールドされていますが、劇中車のフェンダーにはリブが無く、平滑面となっています。

 

 そこで4本のリブを削り取り、ヤスって平滑面に仕上げました。上図ではまだ痕跡が見えていますが、この後でアートナイフでカンナがけして更に削っています。

 

 そうして車体に組み付けた左右フェンダーの様子です。

 

 戦闘室前面部のパーツC6の、カットした左右のステーを劇中車の位置に合わせてドラゴンのパーツで付け直しました。

 

 以上でステップ4が完了しました。戦闘室前面の機銃は、ボールマウント部を接着固定していませんので、実車と同じように可動で、グルグルと旋回出来ます。上図の状態は仰角いっぱいに上げています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その10  伊香保温泉石段街めぐり

2024年12月13日 | ゆるキャン△

 伊香保温泉に着いて上図の石段街下のエリアに入り、上図右端にある休憩所へ寄ってお茶を飲み、携帯電話を取り出しました。かけた先は、大学時代の友人の番号でした。

 平成八年(1996)の夏、その友人に誘われて、彼の地元である碓氷郡松井田町へ行き、彼の実家が氏子になっている妙義神社に参拝し、横川駅、坂本宿の街並み、碓氷関所跡を回り、帰りに「峠の釜めし」も食べました。当時の彼の実家はJR信越線の西松井田駅の近くにあり、江戸期は安中藩の藩士だった歴史をもつ立派な古民家でした。

 その数年後に彼は結婚し、奥様の地元である渋川市に移住し、そのまま現在に至っています。私がゆるキャン群馬キャンプ編聖地巡礼を計画した際に、群馬県の公共交通事情について色々教えて貰おうと電話をかけたことで21年ぶりに交流が再開、前回の榛東村エリアおよびアプトの道への聖地巡礼、今回の榛名エリア、野反湖、そして伊香保温泉への聖地巡礼に関して色々なアドバイスをいただきました。あまり知らない群馬県の各地への旅がスムーズにいったのも、彼の数多くの教示によるところが大きかったです。古い友人は大切にしなければならない、とよく言われますが、本当にその通りだと改めて思います。

 その彼が電話に出たので、伊香保温泉に着いた旨を報告したら「うん、今日は下見だったっけ、泊まるのは明後日だったな」と応じてきました。今回の聖地巡礼で伊香保温泉にも行くことを伝えた際に「そんなら、伊香保に一泊していけよ、家内が伊東園ホテルに勤めてるんだ」と勧められたのでした。それで四泊五日の行程の四泊目を伊香保温泉にした次第でした。

「うん、予約はもうしてあるぞ、場所はな・・・いま石段街口のバス停に居るんだろ、そこから東の斜め向かいだ」
「ホテルの建物は、バス停から見えるのかね?」
「うん、バス停に向かって右側、橋から100メートルもいかない、そのへんで一番高い白いビルだ」

 それで上図の中央に見える白いビルが、明後日泊まる伊東園ホテル「とどろき」であることを確かめました。

 

「それで今日はどうするんだ、伊香保の街歩きかね」
「いや、街歩きは明後日にやるんで、今日は下見や。それと、伊香保神社にお参りしておこうかな、と」
「うん、聖地巡礼とやらの道中安全祈願だな」
「まあ、そういうとこやな」
「あと、歴史関係で見て欲しいのは関所跡だ、関所跡ぐらいは見ておけよ」
「関所?伊香保温泉に関所があったのか、なんで・・・」
「行けば分かるよ。バス停から石段登っていってすぐ右にある。当時の建物はもう無いけどさ、復元された番所がある」
「分かった」

 

 電話を終えて石段を登り始めました。一度振り返ってバス停の方向を見ました。上図の範囲は「石段アルウィン公園」および「だんだん広場」と呼ばれていて、石段の西側に簡易ステージのような施設があります。

 

 石段に関する説明板です。要約すれば、石段が設けられたのは戦国期の天正四年(1576)頃とされ、武田勝頼が長篠合戦の負傷者の治療のために伊香保の源泉を各浴舎に引湯する目的で配下の真田氏に造らせたものと言われます。

 真田氏に命じられた地元伊香保の郷士の木暮氏、千明氏、岸氏、大島氏、島田氏、望月(永井)氏、後閑氏の七氏が湯元から現在地に集落を移して石段街を作りました。湯元から温泉を引き、石段を作り、中央に湯桶を伏せて左右に流し、区画された屋敷に湯を分けるシステムを構築したのです。これが、日本で最初の温泉リゾート計画であったといいます。

 

 石段を登っていくとまもなく右手に上図の「伊香保口留番所」の門が見えました。ああ、Mが言ってた関所跡とはこれか、と気付きました。口留番所(くちどめばんしょ)とは、小規模な関所のことを言います。

 

 江戸時代、徳川幕府は江戸に繋がる各地の主要街道筋における軍事および警察上の必要から関所を設置し、主要政策としていわゆる「入鉄砲出女(いりてっぽうにでおんな)」を定めましたが、それとは別に諸藩でも同様に私的に口留番所を設けて「入鉄砲出女」のほか交通監視や犯罪防止、関税徴収を行なっていました。

 そしてここ伊香保の口留番所は、上図の復元建物の戸口に懸かる幔幕の徳川葵が示すように、幕府が設置した公的施設で、その目的は、幕府直轄の佐渡金山の金鉱石を運搬した三国街道の脇往還であった伊香保道の監視および警護でした。設置は寛永八年(1631)といい、明治二年の関所廃止令までの238年間にわたって「入鉄砲出女」も厳しく執り行いました。

 「入鉄砲出女(いりてっぽうにでおんな)」の「入鉄炮」とは「江戸に持ち込まれる鉄炮」、「出女」とは「江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が江戸を脱出する」の意で、この二つを取り締まって江戸の治安維持を図ることを指しました。
 もし「入鉄炮」を許せば、江戸にて騒乱や戦争が起きかねません。「出女」を許せば、その大名家には謀反の疑い有り、ということになって下手すればこれも一大事になりかねません。とくに伊香保温泉は、江戸期には「子宝の湯」と喧伝(けんでん)されて有名で、女性の湯治客も多かったため、「出女」については特に厳重に取り締まったそうです。

 

 復元建物の横を通って反対側へ回ると、そこが西側の門の跡で、上図の説明板が立っていました。石段に面した門は、方角からみて東門、裏門にあたるようでした。

 

 当時の西門の礎石だけが、江戸期の口留番所の唯一の遺物として残されています。

 

 なので、上図の西門および番所の建物は近年に復元されたものです。江戸期の建物は間口五間、奥行三間の約15坪の藁葺屋根の建物であったそうですが、いまの復元建物はそれを忠実には表していないようで、屋根は板葺きになっています。保存維持上の観点からそうなったのでしょう。

 

 口留番所跡から石段に戻り、少し登ると右手に上図の祠が見えました。すぐ上の敷地に外湯施設のひとつ「石段の湯」があるので、おそらくはその「湯の神様」なのだろうと思いますが、地図でも現地でも「アヒル神社」と呼ばれます。

 ですが、なぜ「アヒル神社」と呼ばれるのかは不明であるようです。祠の屋根の上下に沢山のアヒルの人形が奉納というか、並べてあり、それに因む俗称なのかと思いましたが、ではなぜアヒルの人形が並べてあるのか、いつからアヒルの人形を並べるようになったのか、が分かりませんので、結局は何も分からない、ということになります。

 

 試しに扉の上半分に並ぶ丸い穴に目を近づけて中をのぞいてみましたが、何かを祀ってあるような感じはなく、真っ暗で何があるのかは分かりませんでした。ただ、その真下辺りで水の流れる音が響いていたので、おそらくは送湯施設があるのかもしれず、それに関連した祠形式の管理用扉であるのかもしれません。

 

 そして、しばらく見ていて気付いたのですが、屋根の破風の形の部分が、なんとなくアヒルの口に見えてくるのでした。それで「アヒル神社」の通称が付けられて広まったのかもしれないな、と思いました。

 この「アヒル神社」もゆるキャンの作中に登場しています。作中ではアヒルの人形がガアガア鳴いていますが、実際には鳴いていません。

 

 「アヒル神社」がある石垣の壇上には、上図の温泉施設「石段の湯」があります。伊香保温泉に二ヶ所ある外湯つまり共同浴場のひとつです。

 この「石段の湯」もゆるキャンの作中に「石畳の湯」の名で登場し、各務原なでしこ達が入浴しています。3人が榛東村のキャンプ場から伊香保温泉に立ち寄ったのも、この温泉に入るためであったようで、石段街の散策も一部にとどめて次の榛名山へ移動しています。

 

 玄関口横の利用案内板です。明後日の伊香保温泉街歩きの際に入浴する予定でしたので、料金と時間を見て、明後日が定休日にあたっていないことを確かめました。  (続く)

 

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聖護院2 聖護院門跡の宸殿から書院へ

2024年12月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院宸殿の対面所は、武家の御殿建築の対面所と比べると、広さにおいてはあまり変わりませんが、明るさにおいては暗めで、室内装飾については控えめに造られているように思います。

 例えば、明るさについては、上図右側の障壁を開ければ外の光が入りますが、対面の儀では上段之間の主上を御簾と暗がりのなかに包むために閉め切るのが普通だそうで、昼間でも暗くなりますから、燭台も用意して火をともすということです。

 武家の場合は、外側の障壁の半分を障子戸にしていますから閉めていても外の光を淡く取り入れて室内もそれなりに明るくなります。室内装飾も、武家の御殿のほうは釘隠や打金具の量が多く、家紋入りの金具も目立つように配置し、さらに障壁画の背景に金泥を塗るケースも多いですから、例えば二条城二の丸御殿のように金色の装飾がとにかく目立ちます。

 そういう、公家と武家の御殿対面所の差がよく分かる、聖護院宸殿の事例でした。京都広しと言えども、そういう学びが出来る場所はここ聖護院宸殿しかありませんから、嫁さんも昔は何度も通って公家の御殿建築の特色を細かく観察し研究していたのだそうです。

 

 順路にしたがって宸殿の東に建つ本堂へ行きました。上図は本堂の前から宸殿をみたところです。

 嫁さんが「やっぱりそのへんのお寺の本堂とか方丈とかとは、建物の造りや雰囲気がまったく違いますよねー、御所の紫宸殿をモデルにして縮小したタイプやとよく言われてますけど、ほんまにそうですねえ」と話していましたが、同感でした。なにしろ皇族が住持を勤め、一時期は実際に仮の皇居として使用されていたのですから、建物もそれなりの規模と格式で設計されて建てられたのでしょう。

 

 本堂は、宸殿と同時期の建物がありましたが、昭和四十三年(1968)に建替えてコンクリート造の建物になっています。創建以来の平安期の国重要文化財の本尊不動明王像を安置しているので、その保護の目的も兼ねて本質的には耐震耐火の文化財収蔵庫として造られ、外見のみを旧本堂のそれにあわせています。

 なので、写真は撮らず、内陣の安置像を拝するにとどめました。本尊不動明王像は典型的な天台宗系の十九観の姿にて表されています。嫁さんに問われるままに、十九観について簡単に説明しました。

 十九観(じゅうきゅうかん)とは、正式には「不動十九観」といい、不動明王を心にイメージした際の姿形においてみられる十九の特徴、を指します。空海が請来したものを始め、幾つかの典拠がありますが、それらを天台宗の安然(あんねん)が集約して「不動十九相観」というテキストにまとめました。
 そのテキストを手本として、平安期から鎌倉期にかけて数多くの画像や彫像が造られました。時期によって色々な変化や特徴がありますので、それらと本来の十九観を識別する専門用語として、私自身は「安然様」の語句を用いています。そして聖護院の本尊不動明王像は、その「安然様」の典型例であります。

 本堂を辞して、上図の宸殿の東側面を見ました。さきに見学した対面所の外回りにあたります。一番右の「上段之間」の部分のみが床が高く上げられているため、それに応じて外構えの貫や扉も一段高くなっているのが分かります。

 

 宸殿の北東に隣接する、国重要文化財の書院です。拝観順路はそちらへ回りますが、書院の全景を撮るならここしかないので、撮影しておきました。左隣の宸殿に比べて背が低く、建物の造りや雰囲気も異なります。

 

 京都御所でいえば化粧御殿とか妃御常御殿にあたる建物だ、と嫁さんが教えてくれました。なるほど女性専用の御殿か、道理で優しく雅な数寄屋風の外観にまとまっているな、と思いました。

 

 本堂から引き返して宸殿の東縁を進みました。まっすぐ行って書院の前室へと向かいましたが・・・。

 

 途中の宸殿の「二之間」の襖と板戸が開け放たれていたので、そこから上図のように「上段之間」を間近に見る事が出来ました。

 

 ここに光格天皇や孝明天皇がお出ましになられていたのですか・・・。京都御所の同じ「上段之間」は特別公開の時期でさえ見られませんから、ここの遺構はとても参考になります。

 

 同じ位置から、「二之間」および「三之間」の内部も見えました。狩野益信の障壁画は、南からみるよりも東から見た方が、障壁画全体の構図やデザインがよく見渡せます。

 

 それから、書院へと向かいました。

 

 宸殿の東縁の北端の仕切り板戸を外して書院玄関口への渡り廊下が付けられています。書院の建物は江戸初期の建立といい、これを江戸中期にいまの宸殿を新造した際に京都御所より移築して、宸殿と連接させたといいます。

 

 書院の案内説明板です。要約すれば、後水尾天皇の典侍(ないしのすけ)であった逢春門院こと藤原氏の櫛笥(くしげ)隆子の御所での住居であった建物であるそうです。

 典侍とは、古代の律令制における女性の官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)が相当して史料上では「すけ」の略称で記されることが多いようです。本来、その上役に長官の尚侍(ないしのかみ)が有りましたが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に内侍司(後宮)の長官となりました。

 江戸期においては宮中における高級女官の最上位であり、その統括者を大典侍と称し、勾当内侍(こうとうのないし)と並んで御所御常御殿の事務諸事一切を掌握しました。また、天皇の日常生活における秘書的役割を務める者(お清の女官)と、天皇の寵愛を受け皇子女を生む役割を持つ者とに分かれ、前述の櫛笥隆子は後者にあたりました。つまりは側室であったわけです。

 後水尾天皇といえば、后妃が多かったことでも知られます。正妻にあたる中宮は東福門院こと徳川和子ですが、側室は6人居て、そのうちの5人までが典侍でした。前述の櫛笥隆子は年次順でいうと三番目ですが、最も多い五男四女をもうけており、後水尾天皇の寵愛がとくに深かったことが伺えます。


 その櫛笥隆子の住居が聖護院に移築されたのは、当時の住持であった第三十五世門跡の道寛法親王が後水尾天皇の第十三皇子で、櫛笥隆子がその母親であった関係によったものとされています。

 おかげで江戸期の後宮関連の書院建築の唯一の貴重な遺構がいまに伝わることになったわけです。京都御所に現存する御常御殿以下の諸建築群が安政二年(1855)の建立なので、それよりは200年以上も古い17世紀初め頃の建築遺構とされています。
 そしてこの書院が、嫁さんの一番好きな宮廷建築遺構であるそうです。  (続く) 

 

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ヨーグルト学園 38(t)戦車 作ります!! その4

2024年12月11日 | ガルパン模型制作記

 インテリアの組み立ての続きです。ステップ4からステップ5までは車体および各所のインテリアの組み立て、ステップ7は砲塔内部の砲弾ケース等の組み付けになります。いずれもエッチングパーツは省いて必要な箇所のみプラ板に置き換えます。
 ステップ6で組む無線機はE型以降向けのオプションパーツで、これは今回のB型には取り付けませんので不要です。ステップ7の工程は砲塔の組み立ての際に同時並行で行うので、ここではステップ4からステップ5までの工程を進めます。

 

 ステップ4では車内の右側面の装備品などを組み付けます。砲弾ケース、消火器、トランスミッションの軸部、何かの小部品などをそれぞれ塗装して準備しました。基本的には現存実車の車内の色に合わせていますが、機械の駆動部はパーツ毎に細かく塗り分けて、メカ感を強調してみました。

 

 組み上がりました。

 

 車体に組み付けました。

 

 続いて車内の左側面の装備品などを組み付けます。こちらは砲弾ケース、ロッド、何かのケースを取り付けます。トランスミッションの軸部は取り付け済みです。

 

 組み付けて車体にセットしました。前のステップで保留にしていた細かいパーツの取り付け位置も見えてきたので、全て組みつけました。戦闘室内部は、あと前面部の計器類のみとなりました。

 

 いっぽう、エンジンルームにおいては背面板の取り付けがまだですが、これは保留にしておきました。

 

 続いてステップ5に進みました。

 

 ステップ5で組み付ける前面上部装甲板と内側の操縦席計器類のパーツです。

 

 組みつけました。

 

 車体にセットしました。これによってトランスミッションの大部分は見えなくなりました。これが、トランスミッションの各所に色々と貼り付けるエッチングパーツを省いた理由です。

 

 完成後はこのエンジン点検ハッチをピットマルチにて開閉自在にして中が見えるようにします。

 

 保留にしていたエンジンルームの背面板と、エンジンからの排気管を準備しました。いずれも塗装しています。

 

 取り付けてみたところ、排気管の長さが少し足りないことに気付きました。排気管は、背面板の外側のマフラーに繋がる筈なので、足りない部分はプラ棒で補完するということに本来はなりますが、上部の装甲板を貼るので完成後は完全に見えなくなります。それで、このままにしておいても良いだろうと判断しました。

 

 エンジンルーム側からみると、排気管の足りない長さは約3ミリほどでした。後で3ミリのプラ棒を繋いでおこうか、と考えました。

 

 並行して、本組み立てガイド図のほうのステップ2の車体前面部の組み立てを行ないました。上図のパーツ類を取り付けます。フックのパーツD16およびD17は形状が異なるため、タミヤのⅣ号戦車装備品セットのD19に置き換えました。

 

 組み上がりました。上図の白い板はエンジン点検ハッチです。これでステップ4からステップ5までの工程が完了しました。次回は車体組み立てのほうに戻ります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その9  伊香保温泉石段街へ

2024年12月10日 | ゆるキャン△

 榛名山ロープウェー前のバス停の近くの芝生地には、馬が2頭いました。公園内の馬車用の馬らしいのですが、馬車が見当たらなかったので、この日はあちこちへ歩き回るのではなく、観光客向けの乗馬体験コーナーでもやっているのだろうかと思いましたが、その通りでした。

 

 近寄ってみました。2組の家族連れが子供を先頭にして近づいてきて、係員の方に勧められるままに、子供を馬の背に乗せていました。子供が背に乗ってはしゃいで騒いでも、2頭とも微動だにせず、耳と目だけをクルクルと動かしていました。

 

 榛名富士山をバックにして撮りました。

 

 バスの時刻までまだ15分ぐらいあるので、ここで弁当を食べておこう、と考え、ついでにアイスでも食べるか、と思いついて土産物店の一軒の店先に近寄りました。休憩用のテーブルや椅子が並んでいたので、その一角に座って、高崎駅のコンビニで買ってきたお握りの弁当を食べました。それからアイスを買いに行きました。

 

 こんな感じで、どのお店の店先でも同じアイスを売っていました。作中で各務原なでしこ達が食べ、榛名湖および榛名富士山をバックに撮った3種類のアイスと似たような品も売っていましたが、上図の「ブルーベリーヨーグルト」に目がいってしまい、それを買いました。

 

 これでいいんですよ。これで。毎日のおやつに冷凍ブルーベリーを食べていますので、少量でもいいからブルーベリーを食べると、なぜか落ち着くのでした。

 

 アイスを食べてバス停に戻りましたが、バスがやってきたのは5分遅れの12時8分でした。

 

 バスは西麓の伊香保温泉に繋がる県道33号線、メロディーラインを下っていきました。途中で、作中にも出てきた高根展望台の横を通りました。それから九十九折りの急坂を下っていきましたので、バスが左右に大きく揺れまくりでした。

 

 きっかり30分後の12時38分、目的地の伊香保温泉街のバス停に着きました。

 

 バス停は、御覧のように複数のバス事業者のそれが並びます。それぞれにバス停の名称も異なります。私が乗ってきたのは群馬バスでしたから、上図の中央のバス停標識が該当し、バス停の名称は「石段街口」でした。関越交通と共用しているようでした。

 御覧のように、左は地元のコミュニティバスである「伊香保タウンバス」のバス停、右端はJR関東の高速バスの専用バス停です。同じ場所に複数のバス停が並びますが、ネットや地図で調べるとバス停は一つしか表示されませんので、資料や記事ごとにバス停の名称が異なるのには惑わされました。事前調査でバスの路線や時刻を調べた際に、一番分かりにくかったのが、この伊香保温泉エリアでした。

 周知のように、伊香保温泉街のバス路線は幾つかあり、観光客の多くは温泉街の高所にある「伊香保バスターミナル」と温泉街の一番下に位置する「石段街口」のいずれかで乗り降りします。作中では各務原なでしこ達が榛東村のキャンプ場からタクシーで伊香保温泉に移動、石段街を下から上へと登って行ったように描かれており、「石段の湯」で入浴した後は榛名山へのバスに乗っています。
 それで、3人はどこのバス停から乗ったのだろうと思い、現地で聖地ルートを実際にたどって検証したところ、「石段の湯」に近い「石段街口」ではないか、という結論に至りました。

 

 伊香保温泉においては、この日は聖地ルートの下見と伊香保神社の参拝を予定していました。温泉街を歩いた後は渋川駅へ向かう積りでしたので、その渋川駅行きのバスの時刻を確認しました。
 上図は、関越交通の時刻表です。全てのバスが渋川駅へ向かいますので、16時までの毎時に便があります。

 

 こちらは群馬バスの時刻表です。こちらは渋川駅行きはあと2便しかありませんでした。高崎駅行きの便のほうが多いので、バスの時刻に間に合ったら、高崎駅まで乗っちゃおうか、と考えました。この日の宿は高崎駅近くの東横インに予約していたからです。

 

 バス停から石段街の方角を見ました。初めて見る、伊香保温泉の玄関口の景色でした。  (続く)

 

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聖護院1 聖護院門跡の宸殿へ

2024年12月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺真珠庵を辞して市バス206系統に乗り、東大路の熊野神社前で降りて、コンビニの北の交差点から東へ進み、少し行ったところの左手に、上図の大きな看板が立てられていました。

 ここですよ、と嫁さんに示されて、思わず「聖護院門跡・・・」と声に出してしまいました。

 

「そうです、全国の山伏さんたちの総本山、本山修験宗の聖護院門跡ですよー」
「うん・・・」
「で、こちらが正面玄関口にあたります山門です」
「うん・・・、なかなか立派やね・・・」
「あれ?・・・もしかして、ここは初めてだったりするんですか?」
「うん、初めてです。名前は知ってたけど、修験道の本山というから、もうすこし質素な構えかと思ってた」
「あははは、質素ではないですね、御覧の通りの立派な構えでございますよー」

 

 嫁さんの言う通り、上図左に庫裏の破風付きの大きな式台が格の高さを示し、右には仕切り塀の開かれた通用口の奥の雅な建物が姿を覗かせていて、相当の規模の寺院建築群であることを思わせました。これは・・・、と目を見張りつつ、門跡寺院であることを思い出して、傍らの嫁さんに小声で聞きました。

「門跡ってことは、こちらの歴代の住持は皇族やったわけかね?」
「ええ、そうです、昔はね。住持を勤めた皇族の方が即位された例もありますし、京都御所が焼けた時にこちらが仮の御所となって、天皇がお住まいになった時期が、確か二度ありましたしね」
「ふーん、それはいつ頃?」
「一度目は天明の大火の時だったかな、光格天皇がここの宸殿に入って仮御所としてます。二度目は、えっとー、安政元年の内裏炎上で、孝明天皇がこちらに移って仮宮としてますね」
「住持を勤めた皇族の方が即位した、いうのは誰?」
「あ、それはさっき言った光格天皇ですよ、そのときは同母弟の盈仁法親王が門跡を継承されてますね」
「ふーん、詳しいですな、流石やな」
「エヘヘヘ」

 

 二度も仮御所となったのであれば、上図のような堂々たる宸殿建築が広い前庭をともなって境内地の中心に据えられているのも頷けます。現在の宸殿は江戸期半ばの建立とされ、光格天皇や孝明天皇が仮御所とした際の建物がいまに伝わっています。その由緒により、昭和十一年に「聖護院旧仮皇居」として史蹟に指定されています。

 

 旧皇居の建築遺構は、いまの日本に現存する限りでは、ここ聖護院のほか、奈良吉野の南朝の吉水院および賀名生(あのう)堀家ぐらいですが、その奈良の旧皇居の遺構は規模が小さいため、ここ聖護院の宸殿と書院は京都御所の建築群に次ぐ規模と遺構を伝える唯一の存在と言えます。

 つまり、ここ聖護院の中心建築群は、京都においても旧皇居の建物とその内部を間近に見られる唯一の事例であるわけです。いま国の重要文化財に指定されているのは書院のみですが、宸殿も江戸期の遺構を伝えて貴重なものです。

 

 私自身は、仏教美術史が専門で専攻は仏像彫刻史でしたから、昔から聖護院と聞けば本尊の平安期の不動明王立像を思い出すのが常でした。天台宗系の典型的な十九観不動明王像の優品として国の重要文化財に指定される有名かつ重要な遺品です。12世紀、藤原時代後期の優品です。

 その姿を初めて拝したのは、昭和60年に京都国立博物館にて開催された特別展「最澄と天台の名宝」においてでした。天台宗の三門跡のひとつにも数えられた聖護院の本尊ですから、こうした天台宗美術の展覧会には必ずと言ってよいほど出品されていて、私自身も憶えている限りでは三回観ており、また京都国立博物館に寄託されて常設展示にも出ていた時期がありましたから、いわゆる「よく見かける」仏像遺品のひとつでありました。

 そういう経緯があって本尊の不動明王立像をよく見知っていたため、聖護院へ出かけていく必要が無く、そのまま今回の機会に至ったわけなので、私なら当然行っているだろうと思っていた嫁さんが驚いてしまった次第でした。

 それで、上図の式台から入って拝観手続きを行なった後は、嫁さんが案内役となって色々説明しつつ拝観順路をたどりました。大学時代に宮廷文化を学び源氏物語などの王朝文学史を中心に研究し、京都御所へ何度も見学に行っているほか、ここ聖護院にも10回ぐらいは勉強しに行った、という嫁さんです。最高の案内役でありました。

 

 式台からは控えの間の「孔雀之間」を通り、狩野永納の障壁画を見、聖護院門跡使用の二種類の輿を見ました。それから次の間の「太公望之間」の狩野永納の障壁画を見て、庫裏と宸殿の連接部にあたる「波之間」を経て上図の宸殿の広縁に進みました。

 

 宸殿の正面にあたる南側の広縁です。宸殿内部は西の内陣と東の対面所とに分かれますので、南側の戸口の柱間などがそれぞれ異なります。上図手前の広い戸口部分が内陣、奥の狭い三間ぶんの戸口が対面所にあたります。

 今回、内陣は儀式の最中で閉じられていましたので、対面所のほうへ行きました。

 

 広縁より対面所の内部を見ました。南から三之間、二之間、上段之間と並ぶ縦三室の空間で、上図は三之間より二之間、上段之間を望む範囲にあたります。この三つの空間がそのまま身分による席順をも表しており、皇族以外の侍僧、臣下は二之間までしか入れなかったそうです。
 
 嫁さんが二之間の畳を指差して「畳の方向が中央だけ違うの、分かります?」と訊いてきました。頷き返しつつ「畳を南北に敷いてるな、あれ通路のしるしだな」と答えました。

「やっぱり、分かるんですねえ」
「武家の書院の対面所でも同じ畳の敷き方をしてるからな。畳の目を南北に向けて敷いたら、だいたいは通路。両側の畳は東西に目を向けるから、そこは侍臣が並ぶ位置になる。上段之間に主君が居て、例えば「近う寄れ」と言えば、言われた家臣は中央の畳を通って上段之間のすぐ近くまで行って平伏して「ははーっ」となる」
「あははは、そうですねえ。公家のほうは無言で頭を下げるだけですけどね」
「せやな」

 

 こちらは三之間の西側です。全ての畳が目を東西に向けて敷かれていますので、この空間は侍者が並んで控える場所であることが分かります。対面の儀の際に、お目見えする人はこの部屋の下手に座し、お声がかかれば二之間の手前まで進む事が出来た、ということです。

 

  こちらは三之間の東側です。障壁画は狩野益信の筆で、東西に九人の仙人を配して描いているので「九老之間」とも呼ばれます。この九人の仙人の詳細は嫁さんも知らなかったようで、「竹林の七賢とか、道教の八仙とは別なんでしょうねえ、九人居ますもんねえ」と言いました。それで教えてあげました。

「たぶん、香山九老(こうざんきゅうろう)の九人やないかな」
「え、香山九老?」
「うん、中国や朝鮮も含めて宮廷の障壁画に好んで採られてた画題のひとつや。確か、唐の詩人の白楽天とか、当時の世俗と断ち功利を捨てて、高齢となって悠々自適の生活を送ってた九人の聖人が、香山という場に集まって風雅清談を事とした、とかいう故事を絵にしたの」
「白楽天って白居易ですよね、あとの八人は?」
「残念ながら、覚えとるのは劉嘉(りゅうか)、虞真(ぐしん)、張渾(ちょうき)の三人だけ。あとは忘れたよ」
「その香山九老の壁画って、他にもあるんですか」
「知ってる限りでは円山応挙の作品がある。あと、渡辺崋山も描いてなかったかなあ・・・」
「メモしときますね」

 

 上段之間を見ました。歴代の聖護院の宮家が座し、一時は光格天皇や孝明天皇の御座所となった、対面所の最上部の空間です。御簾は上げられた状態になっていますが、主が御成りになる時には下げられて、臣下が直接尊顔を伺えないようにします。
 背後の床の間の壁画は、皇族の権威をあらわす「滝と松」を描いています。上の筬欄間(おさらんま)に懸けられた「研覃(けんたん)」の扁額は後水尾天皇の筆であるそうです。

 「研覃」の「覃」は農業用の鍬や鋤のことで、「研覃」の意味は「良い農具で耕された田畑のように、多様な機縁を受け入れられる柔軟な心」です。  (続く)

 

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ヨーグルト学園 38(t)戦車 作ります!! その3

2024年12月08日 | ガルパン模型制作記

 インテリア組み立てのステップ2では座席を組み立てます。ステップ3では3段階に分けてエンジンや吸気装置、車内隔壁などを組み立てます。各所にエッチングパーツの取り付け指示がありますが、エッチングパーツは全て不要とし、必要な箇所のみプラ板に置き換えます。

 

 ステップ2で組み立てる座席などのパーツです。パーツ毎に塗装してから組み立てます。

 

 組み上がりました。座席は操作機器やトランスミッションなどを取り付けてから付けることにして、ここでは保留にしました。

 

 操作機器のペダル類のパーツH15を取り付けました。

 

 ステップ3の最初の工程にてエンジン本体を組み立てます。38(t)戦車のエンジンはプラガEPA4ストローク水冷直列6気筒ガソリンエンジンで、これは以前に制作したドラゴンのG型のキットにも入っていたのですが、こちらのほうが形状をよく写し取っていて精密感もあります。

 

 組み上がりました。これに色々なパーツを取り付けてゆきます。

 

 パーツ毎に色を考えながら塗り、全体としての見栄えがよくなるようにイメージして付けていきました。

 

 今回は、試みにパーツ毎に色を少しずつ変えて組みつけたらどうなるか、どのような雰囲気にまとまるのか、を実験検証する機会としましたので、パーツ毎に色を変えています。組み合わせる前の各パーツの形が一目で分かります。

 

 ここからステップ3の2番目の工程になります。パイプ関連、配管関係はだいたいガンダムマーカーのシルバーまたはメタリックシルバーで塗りました。

 

 組みつけていくに従って、エンジンらしい姿形と輪郭と雰囲気とが出来上がってくるようでした。

 

 とにかくパーツが細かくて、塗るのも組みつけるのも緊張の連続で疲れました。エンジンだけで25個のパーツから成りますので、間違えないように組み上げるだけでもひと苦労でした。

 

 組み上がりました。右側が前方にあたります。

 

 こちらは後方からみた図です。

 

 ステップ3の3番目の工程に進みました。エンジン以外の部品を組み立てます。ラジエター、バッテリー、吸気装置、燃料タンクなどです。

 

 それぞれの部品が組み上がりました。

 

 車内隔壁のパーツH40は白く塗りました。一度車体への仮組みを行なってパーツの合いと位置とを確かめました。

 

 エンジンルーム部分を一気に組みつけました。どこかで干渉するかな、と考えましたが杞憂に終わりました。全ての部品がピッタリ、キッチリとはまったので、さすがはホビーボスだな、と感心しました。

 

 後ろから見た図です。完成後は大部分が見えなくなりますので、記録の意味で撮りました。

 

 エンジンの前方のマウントが、車内隔壁の穴にピッタリとおさまっています。

 

 右側面の様子です。緑をベースにしたカラー配分でまとめましたので、戦車というより車のエンジンのように見えます。

 

 ステップ3のラストの工程で、戦闘室内の各部品をまとめて取り付けます。

 

 組み上がりました。エンジンとギアボックスを繋ぐシャフトも綺麗にはまりました。

 

 左側面から見ました。ギアボックスの上のレバーのグリップは目立つようにメタルレッドで塗りました。この範囲には今後もさらに色々なパーツを取り付けてゆきますので、上図の画像も記録の意味で撮りました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その8  榛名山ロープウェイ前バス停へ

2024年12月07日 | ゆるキャン△

 榛名富士山神社から下りてロープウェー駅に向かいました。予想以上に観光客で賑わっているので、帰りのロープウェーも待ち行列が出来ているだろうな、あまり時間がかかると、以降のスケジュールに影響が出るだろうな、と考えつつ、いったん展望所に行きました。

 

 麓の榛名湖を見下ろし、高崎市街の方角を遠見し、最後の景色を眺めました。

 

 ロープウェーの乗り場に行くと、待ち人数は思ったより少なく、約20人ほどでした。これなら次のゴンドラに乗れる、11時半ぐらいには下山出来るな、と思いました。

 

 次のゴンドラに乗ってスーッと山腹を下りつつ、眼下にゆっくりと広がってゆく榛名湖の湖面を眺めました。

 

 中央が県立榛名公園の観光駐車場、左端がロープウェー乗り場の向かいの観光駐車場です。榛名湖の向こう側の建物が見えるあたりが榛名湖バス停です。ゆるキャンの作中に出てくる聖地の範囲が見渡せました。

 

 下のロープウェー乗り場に着く直前の景色です。乗り場横の観光駐車場がほぼ満車になっていましたが、車道の向こう側の観光駐車場にはまだ空きがありました。

 

 ゴンドラから降りた直後に山を撮りました。伊豆伊東の大室山によく似てるな、原作者のあfろ氏はこういった山が好みなのかな、と思いました。

 

 降り口のすぐ横にバス停があります。上図右端です。

 

 そのバス停に近寄りました。「ロープウェー前」バス停です。ここから次のバスに乗ります。

 

 次の便は11時57分でした。時計を見ると11時32分でしたので、待ち時間は25分でした。御覧のように一日4便しかありませんが、これは最近に減便が行われた結果であるそうです。昔は6便だったそうですので、バス利用で榛名湖・榛名山エリアを回れる時間帯が狭まってしまっているわけです。

 しかも、昼の12時、13時台には便がありませんので、場合によっては不便であるかもしれません。

 

 作中では、各務原なでしこ達が伊香保温泉からバスでこちらに移動していますが、私のコースは逆方向になります。各務原なでしこ達が乗ったバス停のほうもチェックしてみよう、と思いついて道を横切りました。

 

 斜め向かいの、反対側のバス停です。

 

 こちらも一日4便ですが、2時間ごとに1便ずつになっています。こちらのほうが利用しやすいと思います。

 作中で各務原なでしこ達が乗ったのは、榛名湖バス停ですが、ここからの榛名湖温泉ゆうすげ行きがここの次に停まるバス停です。3人は高崎駅まで移動して駅前のスーパーで買い出しをして、それから昼過ぎの特急「草津・四万」に乗って長野原草津口駅へ向かっていますから、仮に上図の時刻表で見ると、ここの11時13分発の便に乗ったのだろうと思います。  (続く)

 

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紫野大徳寺28 真珠庵 下

2024年12月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 真珠庵の方丈を見学しました。方丈内部は四列に前室と奥室を並べた八室に分けられ、唐門から玄関廊を進んで入る南西の一室は客間(礼の間)にあたります。室内には達磨の掛け軸が据えられ、襖絵の「山水図」は曾我蛇足(そがじゃそく)の筆です。曾我蛇足は一休宗純に禅を師事し、同時に一休が蛇足に画を師事したという相互師弟の関係にあったことで知られます。

 その隣りの縦二室は、方丈の中心空間とされる室中の間で、奥室は仏間となっていて開祖一休宗純の頂相(ちんそう)が祀られています。頂相とは、師匠の肖像画もしくは彫像で、一休宗純のそれは木像となっています。

 嫁さんが双眼鏡も使ってしばらく見ていて「頭髪とか髭とかありますけど、あれ本物なのかなあ、一休さんって禅僧なのに剃髪していなかったですもんねー」と小声で言いました。それで私も双眼鏡で見ましたが、違うな、と感じて「あの頭髪は本物じゃないみたいやな、獣の毛を代用して使ってるみたいやな」と返しました。嫁さんは「そうなの?酬恩庵の彫像のほうは毛が本物やったと聞いたから、こちらもそうなのかと思いましたけど・・・」と言いました。

 嫁さんの言う通り、一休宗純の彫像はほかに京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん)にも安置されていて、そちらは頭髪や髭に一休本人の遺髪を使用したことが知られています。一休宗純が草庵を結んだ地であり、墓所の宗純王廟もありますから、遺髪が御影にあたる彫像に使用されるのも当然です。
 しかし、こちらの真珠庵の彫像は単なる開基の像として造られたようで、酬恩庵像とは似ているものの、やや若い雰囲気に表されています。一休宗純が大徳寺住持を勤めた頃の姿を示しているのでしょうか。

 

 仏間の前室には、掛け軸が三つ懸けられています。その中央が遺偈(ゆいげ)で、左右は「諸悪莫作」「衆善奉行」の偈(げ)です。いずれも一休宗純の直筆とされています。

 遺偈は僧侶が死に際して読む詩で、ここの遺偈は「須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不値半銭」とあります。現代文に訳せば「須弥山の南のほとりまでやってきたが、誰も私の禅風を理解できなかった。虚堂がやってきたとしても、その価値は半銭にも及ばない」という内容です。

 虚堂とは南宋の禅僧であった虚堂智愚(きどうちぐ)で、一休宗純が尊敬し理想と崇めた人物ですが、その虚堂がやってきたとしても私の禅を理解できないだろう、と言い切るあたりに、破戒僧として知られた一休宗純の面目が感じられます。
 似たようなスタンスは左右の偈「諸悪莫作」「衆善奉行」にも感じられます。これは中国古代の詩人白居易(はくきょい)が鳥窠道林(ちょうかどうりん)に仏教の奥義を問いかけて得た解答で、意味は「悪いことをするな、善いことをせよ」となります。単純であるからといって誰でもできるとはかぎらない、ということを示唆する言葉ですが、生前は数々の無茶をやらかした破戒僧の一休宗純が言うと「お前が言うんかい」と反駁されそうです。

 でも、一休宗純がこれを偈(げ)としてしたためたのは、世間に対する彼一流の反語というか、皮肉であったように思います。なにしろ、親交のあった本願寺門主の蓮如(れんにょ)の留守中に居室に勝手に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をして、帰宅した蓮如に「俺の商売道具に何をする」と言わしめて二人で大笑いしたというような、破天荒な型破りの禅僧であったのですから。

 嫁さんも、そういう一休宗純のことを「そういう、茶目っ気のある、世に囚われない生き様っていうのが周りに親しまれたんでしょうし、女性にもモテたでしょうね」と評価していましたが、実際に女性にはかなりモテたようで、禅宗では禁じられている恋愛沙汰は数知れず、妻子もちゃんと居たわけです。
 それでいて、大徳寺でも怒られないし罰せられないし、師の華叟宗曇(かそうそうどん)も笑って許してしまうのですから、これはもう特別扱いされているな、出自が後小松天皇の落胤つまりは皇族だったと伝えられるのも本当なんだろうな、と思ってしまいます。

 

 方丈を一通り見て北へ回り、上図の庭を見ました。嫁さんが「なんかごちゃごちゃしてて、よく分かりませんね」と素っ気なく評していました。

 

 方丈の北側の縁側へ回ると、縁側の端で再び方丈の内部に導かれますが、嫁さんは「それよりは、あっちへ」と北を指差しました。

 

 嫁さんが指差した先には、書院の通僊院(つうせんいん)が見えました。この建物も内部の撮影が禁止されていましたので、外観だけを撮りました。
 屋根の造りが公家風の雅なラインにまとまっていますが、それもそのはず、正親町(おおぎまち)天皇の女御の化粧殿を移築したものと伝わります。つまりはもと京都御所にあった建物です。

 

 通僊院の南縁に進み、その西側の納戸の間に入る直前にその前庭を撮りました。前庭に細長く立つ手水石と井戸があり、その脇の通廊が方丈との連絡空間にあたります。

 

 書院内部は四室に分けられ、その南東の部屋に嫁さんの主目的である源氏物語図屏風が展示されていました。今回の真珠庵特別公開の目玉でしたから、その部屋にのみ、見学客が詰めかけていて、縁側にも立ち並んでいたので、私はそこを通るのを諦め、隣の部屋から反対周りに回って、屏風を遠くからチラ見したにとどまりました。

 嫁さんはいつの間にか見学客の一番前に陣取って座って背をかがめつつ、数分ほど屏風に見入っていました。それをしばらく見守った後、北側に出て上図の広縁と北庭を撮りました。広縁西端の板戸の向こうに見える建物は庫裏です。

 この書院通僊院に関しては、係員の説明でも詳しいことが示されず、建立年代に関しても「正親町(おおぎまち)天皇の治世」と大雑把に述べられたのみでした。

 正親町(おおぎまち)天皇の治世、とは具体的には弘治三年(1557)11月から天正十四年(1586)11月までの時期を指します。戦国末期から安土桃山期にあたり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが活躍した時期です。
 その頃に建てられた女御の化粧殿であったわけですから、本来は京都御所の後宮に位置した建物であったということになります。戦国末期から安土桃山期にかけての旧御所建築というのは、現在でも遺構が稀ですから、ここ真珠庵の書院通僊院は室町後期の貴重な建築遺構であると分かります。方丈と共に国の重要文化財に指定されているのも当然だな、と納得しました。

 問題は、いつ真珠庵に移されたかですが、これについては係員の説明では「不明です」と一言で括られていました。嫁さんが「庫裏の建物が慶長十四年(1609)やったですよね、将軍は徳川秀忠ですよね、その頃に庫裏を建てたんなら、真珠庵の整備が江戸初期に行なわれたということですよね、そのときに御所の女御の化粧殿を貰い受けて移築したんじゃないですかね」と推測していましたが、その可能性はあるかもしれません。

 通僊院の北東隅には茶室の庭玉軒(ていぎょくけん)が連接していますが、そちらは外観も含めて撮影禁止でしたので、見学のみで終わりました。

 

 見学を終えて山門を出た際に、嫁さんが「面白かったですねー」と言いました。私は初の拝観でしたから面白くて興味深い学びが色々とありましたから、そのことを言ったら、「じゃあ、次にもっと面白い所へ行きますねー」と言われました。

「えっ?今日はここ真珠庵だけじゃないの?」
「まだ時間ありますし、もう一ヶ所行ってもいいですか?・・・ダメですか?」
「いや、ダメってことはないよ・・・」
「やったー、じゃあ、行きますよー」

 そうして大徳寺中心伽藍の横を元気に早足で抜けていく嫁さんを、慌てて追いかけたのでした。  (続く)

 

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紫野大徳寺27 真珠庵 上

2024年12月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月20日、大徳寺の塔頭のひとつ真珠庵へ行きました。その久しぶりの特別公開にて源氏物語図屏風が初公開されると聞いた源氏物語ファンの嫁さんが「これ、絶対に行きますよ、ね?」と言い出したからでした。

 

 地下鉄と市バスを乗り継いで大徳寺に行き、本坊の北に境内地を構える真珠庵へまっすぐに向かいました。上図はその山門です。江戸期の建物で、おそらくは寛永十五年(1638)の方丈造営の際に併せて建てられたものかと思われますが、寺の案内文にはまったく記載が見当たらず、文化財指定も受けていません。

 

 真珠庵の表札を見ました。嫁さんは真珠庵には同志社大学在学中に一度行った事があるそうですが、私自身は初めてでしたので、今回の拝観はとても楽しみでした。

 

 山門をくぐると石畳道が通用門をへて方丈の玄関唐門までまっすぐに続くのが見え、その左手には松の木が並んでいました。

 

 松並木の奥には上図の庫裏がありました。杮葺の優雅な建物で、江戸初期の慶長十四年(1609)の建立とされています。書院である通僊院(つうせんいん)もほぼ同時期の建物であるらしいので、庫裏と書院とが相次いで整備された時期があったものと推定されます。

 

 嫁さんが「真珠庵はですね、庭がけっこうあるんですけど、こちらの山門からの参道筋のところの前庭がもっとも綺麗に整ってていい雰囲気なんですよね」と嬉しそうに言いました。

 それで「真珠庵は、大徳寺の塔頭のなかでお気に入り?」と訊いたら、「うーん、お気に入りと言うよりは、一休さんのお寺だったですからね、アニメの一休さんのイメージも浮かんできて親しみがある、って感じですかねー」と笑っていました。

 その通り、ここ真珠庵は、室町期に大徳寺を復興して文明六年(1474)に後土御門天皇の勅命により大徳寺第四十八世住持を勤めた一休宗純(いっきゅうそうじゅん)を開祖として創建された塔頭です。周知のように、一休宗純は大徳寺住持となっても大徳寺には住まず、寺外に仮の住房を設けて半ば隠遁の生活をしていたと伝わりますが、その仮の住房がいまの真珠庵のルーツであったかと思われます。

 

 本堂にあたる方丈の玄関である上図の唐門が、今回の特別公開の受付でした。拝観手続きを行ない、係員に見学順路の説明を受けた後、玄関廊から方丈に進みました。

 

 今回の特別公開期間中においては、真珠庵の建物は内部のみ撮影禁止、外観や庭園だけは撮影OK、ということでしたので、とりあえず唐門の外から見える、上図の方丈の入母屋造、檜皮葺の屋根の綺麗な曲線と破風の格子を撮っておきました。  (続く)

 

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ヨーグルト学園 38(t)戦車 作ります!! その2

2024年12月04日 | ガルパン模型制作記

 ステップ1では、車輪とサスペンションを組み立てます。ステップ2では車体を組み立てます。いずれもガイド図の指示通りに進めます。

 

 ステップ1で組み立てる車輪とサスペンションのパーツ類です。ホビーボスらしい細かいパーツ割です。そのぶん作業量がありますが、仕上がった状態の精密感もまた違います。

 

 組み上がりました。転輪のタイヤゴム部分がパーツ化されているので、塗装してからでもはめ込む事が可能です。塗り分けるよりは楽だと思います。それで塗装後に組み付けることにしました。

 

 ステップ2に進んで車体のパーツを切り出して準備しました。

 

 ここでは組み立てず、全てのパーツの内側をアクリルガッシュのホワイトで塗りました。今回のキットは限定版のフルインテリアキットなので、内装はもちろん、エンジンも完備しており、それらの塗装を行ないつつ車体の組み立てを進めてゆくことにしました。

 

 限定版のフルインテリアキットですから、組み立てガイドも2種類が入っています。通常の組み立てガイドの他に、インテリア部分の組み立てガイドもあり、今回は両方のガイド図を作業順に参照します。

 インテリア部分の組み立てガイドはステップ1から6まであります。ここからインテリアの組み立てに取り掛かるので、上掲のガイド図もインテリア部分の組み立てガイドのステップ1に移ります。操作機器、トランスミッション、ギアボックスなどを組み立てます。エッチングパーツも相当数が含まれますが、完成後は殆ど見えなくなりますので、なるべくプラ板に置き換えるか、省略します。

 

 最初に組み立てたギアボックスです。アクリルガッシュ、ポスカ、アキーラなど、手持ちの水彩系塗料を駆使して実車の資料図をみながらパーツ毎に塗り分けて組み立てました。

 

 仕上がった状態です。今回の製作に際して、現存する38(t)戦車の内部写真資料をサークルのAFV部会の先輩に借りてきて見ましたが、車輌ごとに塗装色がまちまちであるようで、これは生産工場ごとの差なのかな、と思いました。もっともカラフルにみえるクビンカ戦車博物館の保存車のインテリアを参考にして、ガルパンらしく彩度を上げたカラーで塗り分けることにしました。

 

 トランスミッションと操作機器のパーツ類です。これには多数のエッチングパーツが付きますが、塗装が難しくなるので使わない事にして、必要な箇所だけをプラペーパーに置き換えました。独特の操縦桿は16点ものエッチングパーツの積み重ねで構成しますが、細かすぎて目がついていけないので、上図右端のドラゴンの同形のプラパーツに交換しました。

 

 組み上がりました。操縦桿に繋がる2本のロッドは、車体への据え付け時に組み付けることにして、ランナーに付けたまま、塗装だけしておきました。

 

 以上でインテリア部分のステップ1が完了しました。これだけで1時間かかりましたので、塗装しながらの組み立ては大変です。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その7  榛名富士山神社

2024年12月03日 | ゆるキャン△

 榛名富士山の山頂展望所にて約10分ほど景色を眺め、聖地スポットを探したりしましたが、時間が迫ってきたので展望所の最後の聖地スポットを上図のアングルにて撮りました。

 

 このシーンのアングルでした。各務原なでしこ達が山頂へと向かう直前のシーンです。

 

 各務原なでしこ達が向かった先です。榛名富士山頂、海抜1391メートル、榛名富士山神社、とあります。この看板も作中に登場します。

 

 右のコマですね。そのまま描かれています。こういった地名などの固有名称は、さすがに変えるわけにはいなかいでしょうね。

 

 展望所から山頂へはこのように緩やかな登り道が続きます。距離にして100メートル余りです。

 

 途中の左手に見える電波塔です。中継アンテナらしいのが幾つか付けられています。

 

 登り道は途中で二手に分かれ、左が上り、右が下りのようでした。観光客の列に続いて左の山道を登っていくと、くるりと右に回って上図の景色が見えてきました。このアングルも作中に登場します。

 

 このシーンですね。榛名富士山神社の拝所です。各務原なでしこ達が参拝しています。私も同じ位置で礼拝しました。

 

 榛名富士山神社の本殿です。現在はコンクリート製の社殿ですが、もとは木造だったものと思われます。背後に溶岩ドームの露頭とみられる岩があり、これを磐座として祀った富士山神社の一例であります。
 江戸期までの神仏習合期においては富士山権現と呼ばれましたが、現在は榛名神社の末社に列して、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神としています。

 

 神社の南側には山頂の三角点があります。

 

 社殿は神明造です。富士山信仰の神社は富士山麓や周辺の各地に点在しますが、社殿の形式が多様多種にわたります。長い歴史のなかで他の信仰との混交が行われてきた流れを反映しているのでしょう。神明造は伊勢神宮に代表される伊勢信仰の社殿形式ですが、山岳信仰の拠点神社でも割合に見かけます。なんらかの接点があったものと推定されます。

 

 神社の南側は御覧のように雛壇のようなかたちで下に小さな広場がありました。このアングルも作中に登場します。

 

 このシーンですね。各務原なでしこ達が揃ってバンザイをしています。ゆるキャンのキャラクターは、どこでも目的地に着くと揃ってバンザイをするのですが、マネして実際にバンザイをすると周囲から変な目で見られそうです。

 

 そこで、バンザイの代わりに記念の自撮りをしました。もう最高の気分でしたから、どうしても笑ってしまうのでした。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺8 醍醐寺の不動堂と金堂

2024年12月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 旧伝法院跡の廃墟の横から北西に続く道をたどると、上図の建物の前を横切る。天暦三年(949)に朱雀天皇が発願し建立した法華三昧堂の位置で、その建物は享徳十九年(1470)に焼失している。
 その跡地に、真如苑(しんにょえん)の開祖伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するために醍醐寺が平成九年(1997)に建立したのが現在の建物で、真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)と呼ばれる。内陣には金色の涅槃像が祀られる。

 真如苑とは、真言宗醍醐派の一派で、旧称を真言宗醍醐派立川不動尊教会という。本拠地の立川真澄寺(しんちょうじ)のことはよく知らないが、その運営する仏教美術品収蔵施設の「半蔵門ミュージアム」には一度行ったことがある。国重要文化財の運慶作の大日如来坐像が展示されているからである。

 この大日如来像は、もと足利氏の菩提寺であった栃木県の樺崎寺(かばさきでら)下御堂の本尊であったものが廃仏毀釈の際に行方不明となり、平成二十年(2008)にいきなりニューヨークのクリスティーズのオークションで競売にかけられて大騒ぎとなり、国外流出が懸念されたものの、真如苑が落札して事無きを得た、という経緯をもつ。当時は新聞やテレビでそのニュースが流されていたから、私もよく覚えているが、いずれにせよ運慶作という国宝級の文化財が海外へ売り飛ばされるという最悪の事態を回避出来たのは幸いである。

 それで、真如苑が「救出」した大日如来像を、「半蔵門ミュージアム」にて初めて拝見したのだが、見た瞬間に「おお運慶だ・・・」と感動したのをいまも忘れない。

 

 真如三昧耶堂の西隣には、上図の不動堂がある。醍醐寺における立ち位置は不明だが、由緒は平安期までは遡らず、中世以降に設けられた施設であるもののようである。

 不動堂は、真言密教の重要な堂宇の一つであるので、たいていの真言宗寺院には見られるが、その安置像である不動明王像への信仰は、平安期においては真言宗よりも天台宗のほうが熱心であった歴史がある。それで平安期までの不動明王の彫刻や絵画の優品は殆ど天台宗寺院に伝わっている。延暦寺、園城寺などの遺品がよく知られる。

 

 不動堂の前庭には円形の石造護摩壇、および前立ての不動明王石像が置かれる。堂前で柴燈護摩(さいとうごま)が焚かれる際の儀場にあたる。真言宗当山派の柴燈護摩は、醍醐寺の開山である聖宝理源大師が初めて行ったとされ、その由緒と伝統を受け継いで、醍醐寺をはじめとする真言宗の当山派修験道系列の寺院でいまも行われる。

 醍醐寺での柴燈護摩自体は、もとは醍醐山上の上伽藍で行われたとされるが、現在の上伽藍にその跡はとどめられていないと聞く。聖宝が鎮護国家の祈願道場として延喜十三年(913)に創建した五大堂あたりがその跡地ではないかと個人的には思うのだが、堂宇も変転を重ねているため、詳細がよく分からない。いずれ調べてみたい部分のひとつである。

 

 不動堂の西には下伽藍の中軸線があり、その中心に上図の金堂が、下伽藍の中枢として建つ。いま日本に10棟しか現存しない平安期仏堂の一として、国宝に指定される。

 

 平安期の仏堂建築は、京都府下では5棟、京都市内に限れば4棟しか無い。この醍醐寺金堂はそのうちの1棟であるから大変に重要かつ貴重な建築遺構であるが、もと奈良県民で飛鳥期以来の古代の建築を見慣れた目には、中世期鎌倉ごろの建物に見えてしまう。

 それもそのはず、この建物は醍醐寺本来の建物ではなく、もとは紀州の湯浅満願寺金堂であったのを豊臣秀吉が移築、豊臣秀頼が竣工させて現在に至る。建立時期こそ平安後期に遡るが、鎌倉期に改修を受け、さらに安土桃山期に現在地に移築した際にも屋根を改造して近世風の立ちの高い形式に変えている。

 それで大学時代の昭和61年に初めて訪れた時、この金堂を見て時期を「あれは平安にしてはなんか違う・・・、鎌倉?室町?もしかして桃山?」と迷いながら推測したのを覚えている。

 

 なぜ推測を迷ったかというと、建物の組物の形式が正面と側面とで異なるからである。正面のは鎌倉期の改修による出三斗、側面と背面のは平安期の平三斗のまま、という珍しい混合形式で他に類例を見ない。さらに屋根は近世風で、移築が完了した慶長五年(1600)の様相をよく示す。

 それで、正面観をパッとみれば、組物は中世風、屋根は近世風に見えるから、本当に平安期の仏堂建築なのか、と思ってしまったわけである。

 醍醐寺下伽藍の創設時の金堂は、延長四年(926)の建立で、当初は「釈迦堂」と呼ばれた。永仁年間(1293~1299)に焼失し、再建した建物も文明年間(1469~1487)に大内氏の軍勢に焼かれて失われている。

 

 それで当時の醍醐寺座主であった義演准后が金堂の再建を成すべく候補を探していた折、豊臣秀吉が紀州征伐の際に湯浅の国人白樫氏の勢力圏を殲滅すべく、本拠地の満願寺城と満願寺を焼き討ちする流れとなり、これを高野山真言宗の木食応其(もくじきおうご)上人が調停して焼き討ちを回避、交換条件として満願寺の建築物を秀吉に差し出すこととなった経緯がある。
 秀吉は貰い受けた満願寺本堂の建物を、義演准后の依頼により、後の慶長三年(1598)の「醍醐の花見」に際して醍醐寺へ移築すべく発願したが、その完成を見ることなく没し、秀頼が引き継いで慶長五年(1600)に移築を完了した。その時点での建物がいまに伝わるわけである。数奇な運命を辿った建築物の一例である。

 この建物がもと在った紀州湯浅の満願寺へは、平成の始め頃に和歌山の友人との紀州雑賀一揆の史跡巡りの際に一度立ち寄ったことがある。現在はJR紀勢線湯浅駅の南に小さな境内地を構えており、その背後の低丘陵が満願寺城跡だったが、そこも大した規模ではなかったようで、醍醐寺金堂が本当にそこにあったのか、と疑問すら感じた事を思い出す。

 

 内陣の薬師如来坐像(国重要文化財)および日光菩薩、月光菩薩の両脇侍、および四天王像を拝して一礼し、しばらく眺めた後に金堂を後にした。

 

 仁王門を出て回れ右をし、門の両脇に侍立する阿吽の金剛力士像にも一礼した。久しぶりの下伽藍拝観はこれで終いとはなったが、しかし醍醐寺の歴史上の始原は醍醐山上の上伽藍に在る。かつて車で裏山から登って三度ほど参っただけなので、正規の参詣のかたちである下伽藍からの山道を一度は辿らねばなるまい。

 その機会を、来年の桜の咲く頃までには見つけておこう、と思いつつ帰路についた。「醍醐の桜」の時期にこそ、上伽藍の悠久の歴史が鮮やかに感じられるだろう、と考えたからである。  (続く)

 

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