数年前から部屋にでんと居座っていたブラウン管テレビを、やっと処分した。
今見ているテレビの寿命が来たので、新しく4Kテレビに買い替えたのを機
会に、電気店に有料で引き取ってもらった。
なんで今頃まで使えもしない古いテレビが残っていたのかというと、孫たち
がテレビゲームで使っていたから。
その孫たちも大きくなって社会人になったけど、古テレビは成長もせずじっ
と部屋の隅っこで存在し続けた。
テレビの前にくると、孫たちが喜々としてゲームに夢中になっていたころの
姿が目に浮かび、つい口元がほころぶ。
「もう処分しなければ」と思いながら、なぜか踏み切れなかったのは、そん
な幼い孫たちの思い出が詰まっていて、何となく捨てるのが惜しいような、寂
しいような気がしたからかもしれない。
思い出というヤツはなくてはならないものだけど、結構、厄介なものだ。
亡くなってもう20年近くなるというのに、カミさんの衣服もまだ半分ほど
処分しきれずクロークに残っている。
ブランド物が嫌いだった彼女、衣服はコープや通販で揃えたものが大半で
値の張る物はないが、「思い出の衣服」となると軽々に処分ができない。
思い出が絡んでくると、「断捨離」と一言で片づけられない。
絵本も同じような思い出が詰まっていて、段ボール箱に入れたまま「保存」
している。
毎晩、寝る前に布団の中で読み聞かせた「スーホの白い馬」や「大きなか
ぶ」「モチモチの木」など、この歳になっても懐かしく読み返しているから、
どうしようもない。
私のような優柔不断、グズな性格が、80歳を超えてもなかなか治らないのは、
今更ながら情けなくなる。
いくら思い出に満ちていても、あの世まで持っていくわけにはいかないだろ
うに。
思い出ばかりに浸っていてはダメ、と友人は言ってくれる。
その通りだが、思い出が豊かでなければ残り少ない未来は貧しくなる、とも思う。
<旅の思い出>
ケニア・サファリにて