リュウ庵

尼崎市住む猫大好き人間。
駄文を書くのも好きです。

アサギマダラを待ちわびて

2021-02-27 12:22:53 | 日記

1000キロ以上飛ぶ旅のチョウ、アサギマダラに惹かれて8年になる。

暖かくなれば日本などにやってきて、寒くなれば南の島々へ移るアサギマダラ。

ひらひら頼りなげに舞いながら、広大な太平洋を越えて南の島まで飛ぶ不思議な「渡

ョウ」に、魅了されたファンが多い。

 

  舟びとがそうするように風をよみ星をながめて一途な一途  今泉由利

 

優美なその姿のどこに、そんなパワーがあるのだろう。

毎年秋になると各地に飛来したニュースが、新聞やテレビで紹介される人気のチョウだ。

羽にマーキングしてどこまで飛んでいるか調査している研究者によると、和歌山でマーキ

ングしたのが香港でも見つかったそうで、その距離およそ2500キロ!

 

その優美なアサギマダラを間近に見たくて、8年前に招致作戦を立てた。

彼らはおおむね高地の山里に飛来するので、こんな街中でも来てくれるだろうか、と最初

半信半疑だった。

まず、アサギマダラが大好きな蜜のあるフジバカマを育てることからスタート。

タキイから苗を購入、株を徐々に増やしてプランター15個に株分けした。

 

3年目の秋に、初めて念願のアサギマダラが来てくれた!

こんな街中の狭い庭がよく分かったね…その時は言葉に表せないほどうれしかった。

それ以来、毎年秋口に我が家の狭い庭に飛来してくれている。

忘れず来てくれるのには、彼ら独特の情報伝達能力があるのだろう。

 

今年もアサギマダラ飛来を待ちわびながら、早々に準備に入った。

フジバカマは宿根草なので、植えているプランターから取り出して張った根を解きほぐし、

土を更新して植え直す。

この作業はけっこう重労働なので、今年はプランターの数を少し減らし13個にした。

この歳だからいつまで続けられるか分からないけど、アサギマダラに元気をもらいながらで

きるだけ続けたい。

 

   <冬季に根詰まりした根を掘り起こす>

 

   <土を更新してプランターに植え直す>

   <ぐんぐん成長する夏は毎日水やり、結構しんどい(昨年夏)>

 

   <フジバカマの花、ほのかな良い香りがアサギマダラを誘う>

 

   <10月中旬、待望のアサギマダラがきた!>


帝王カラヤンも「筆」の誤り

2021-02-25 12:01:12 | 日記

これも新聞コラムから初めて知って仰天したのだが、なんとカラヤンが指揮する曲

を間違えたというのだ。

弘法も筆の誤り…どんな名人でも間違うことがある例えだが、20世紀最大の楽壇

の帝王として君臨した名指揮者が、である。

 

兵庫県立芸術文化センター・ゼネラルマネージャー林伸光さんによると・・・

ヘルベルト・フォン・カラヤンは1984年にベルリンフィルを率いて来日、10

月18日大阪で日本の熱狂的なカラヤンファンを前に、リヒァルト・シュトラウス

作曲の交響詩「ドンファン」演奏するため指揮台に上った。

激しく壮大な演奏で始まる曲なのに、カラヤンは静かにタクトを振るった。

しかしオーケストラは動かず、演奏しない。

数秒の沈黙の後、カラヤンはもう一度タクトを振った。

オーケストラの面々は??・・・

コンサートマスターの合図でやっと間違いに気付き、彼はにっこりして何事もなかった

ように本来の「ドンファン」の指揮をしたという。

なんとカラヤンは、翌日公演の一曲目ドビッシーの交響詩「海」のつもりで、タクトを

振っていたというのだ。

大変な間違いなのに慌てず騒がずニッコリとは、さすが帝王だね。

いつも暗譜で指揮しているカラヤンならではのミス、今でも音楽界では語り草になって

いるそうだ。

 

折しも恩田陸さんの直木賞と本屋大賞作の名作「蜜蜂と遠雷」を友人から借りて読み終

えたところで、このエピソードを知った。

「蜜蜂と遠雷」はピアノコンクールに応募した若き天才たちの熾烈な戦いを描いた力作

で、ピアニストの青春群像とともに出演者の周りの人たち、舞台裏などスリリングに描

れていて、今すぐコンサートへ聴きに行きたくなるほど臨場感にあふれ、かたずを飲

んで読みふけった。

物語に触発されて「久しくコンサートに行ってないなあ、いい音楽をナマで聴きたい」

と、無性にコンサートに行きたく思っていたところだったので、カラヤンの「事件」に

引き込まれ深く印象に残った。

 

それにしても現下のコロナ禍、安心してコンサートが楽しめない。

お隣の西宮に兵庫県立芸術文化センターの立派な大ホールがあるのに・・・早く終息し

いかなあ。

 

 恩田陸さんの「蜂蜜と遠雷」

 寒さゆるむ中、クリスマスローズが満開

 沈丁花はいい香り放つ

 


猫の日

2021-02-23 11:46:31 | 日記

昨日のことを書きます。

「日記なのに昨日のことを書くって、どういうことよ」と言われそうだけど、実はこの

ブログ日記は一日おきに書いていて、昨日は「休筆日」だった。

 

さて、昨日2月22日は言うまでもなく、ニャンニャンニャン・・・猫の日である。

(また222はニンニンニンの忍者の日だそうだけど、これには触れないでおく)

 

我が家のニャンの名前は、真っ赤なカンナが咲く夏の盛りにやってきたから「カナ

(華夏)」と名付けた。

彼女は3歳のアメショー、私はもう高齢だからカナより早く逝くだろう、多分。

本来なら一緒に暮らせる歳ではないが、幸い娘がいるから、後の面倒は見てくれる。

 

「猫の日」と言っても特別なお祝いはしない。

「かわいい、カワユイ!」と歯の浮くような甘言で猫かわいがりし、抱っこして頬をす

りすりして過ごしているから、毎日が「猫の日」だ。

最近、抱っこされるのがお気に入りのようで、座椅子に座ってコタツに入って本や新聞

を読んでいると、ぴょこんと膝に飛び乗ってゴロゴロ喉を鳴らし「首をかけ」「背中を

なでろ」とうるさく催促、そのうちコテンと気持ちよさそうに寝てしまう。

膝がだんだん重く感じながら、私も仕方なく椅子に背もたれして昼寝のお付き合いだ。

 

猫は癒しの動物、とはよく言ったもので、猫を見ていると自然と笑みがこぼれ、ほっこり

暖かい気分になる。

気に入らないことは絶対にしない、媚びへつらわない、猫の気品の高さには少々癪だけ

ど、そんな性格さえも可愛く思えるのだから、始末に負えない。

猫に絡めとられた我が人生、困ったもんだ、と言いながらだらしなくニタニタしている

のだから、さらに始末に負えない。

 

そんなこんなで、我が家は徹底した猫ファーストを貫いている。

自国ファーストを声高に叫び、分断と暴力をまき散らしたどこかの大統領とは違うのだ。

猫の日にちなんだ、何とも締まりのない「でれでれ日記」になった。

  カナのお食事処と食糧庫

 


マスクは七難隠す

2021-02-21 16:17:47 | 日記

「マスクしている女性はみんな美人に見える」と、ある人は書いている。

 

以下は私の独断と偏見の「マスク考」。

そうっか、みんな美人に見えるちゅうことは、みんな欠点も隠しているということ

になるのだねえ、とイジワルジジイは勘ぐる。

出っ歯も、大口も、お多福も、団子鼻も、ほうれい線も、口元のシワも、たるみも

隠れている・・・まさに「マスクは七難隠す」ということだねえ。

見えるのはぱっちりした目だけ、これではたいてい年齢不詳の美男美女に見えてし

まうもんね。

「お化粧は目元だけよ、後はスッピンでも外に出かけられる」とテレビの街頭イン

タビューで「マスクの効用」を語っていた人もいる。

マスクは女性から化粧する楽しみを奪って、手抜き化粧を覚えさせてしまったか。

 

コロナで全国民がマスク姿になったといっても過言ではなく、人類史上初めての「マ

スク世界」出現である。

私のようなうっかり者でも、外出時にマスクをしていなければ慌てて取りに戻る。

とてもノーマスクでは街を歩いたり電車に乗る勇気がない。

忘れて外出してしまった時の用心に、ポシェットに予備のマスクを忍ばせている。

 

つい最近まで「マスクをしている人は銀行強盗に見える」と、日本人のマスク姿を皮

肉った外国人がいた。

それがどうだ、全国民のマスク義務化を法律で強制する国が欧米で相次いでいる昨今

ではないか。

 

七難隠すマスクの効用?がある一方、マスク越しに話をするすると発音がはっきりせ

ず聞きづらい。こちらはマスクの弊害と言えようか。

私のように少し耳が遠い者には、マスク越しに話しかけられると何回も「え?、え?」

と聞き直すことになり、困っている。

マスクの人相手のテレビインタビューでは、画面に字幕が付くのはこういった聞きづ

らさを考慮しているからだろう。

マスクをして国会審議したり、マスク姿で執務する大統領なんて誰が予想しただろう。

マスク文化(こんな言葉が適当かどうか…)の下では、社会の在り様も大きく変化せざる

を得ないのだ。

たかがマスク、されどマスク、である。

 

おしゃれ川柳「マスク」から拾った。

  出番来るアベノマスクで鍋つかみ  

  電車内いっそマスクに広告を

  マスクよりチャックつけたい妻の口   

 

  マスクしないと街を歩けない  


道を選ぶ自由

2021-02-19 15:21:50 | 日記

田舎風情が色濃く残り、何となく快適な空間があって、そぞろ歩きしたくなる。

まっすぐじゃない狭い路地なのに、温かみを感じるのは何でだろう、と思いながら歩く。

そんな懐かしい感覚を抱かせる場所が、わが街尼崎にある。

何んでこんな感じがするのだろう、と不思議に思っていたら、ふと目にした随想に「答」が示されてい

たようで、目からウロコ。

「なるほど、そういうことか」と納得した。

 

神戸を中心に活躍している建築家野口志乃さんが、神戸新聞夕刊の随想「選ぶ自由のあるまち」である。

「道を選ぶ自由のあるまちが好きだ。

 ニュータウンの計画的駅を降りると計画的横断歩道を渡り計画的小道を抜け、計画的配置の計画的

 わが家に帰る。計画的センター施設店舗で計画的入荷にしたがい買い物、また計画的植栽と計画的

 フェンスに区画されたわが家に帰る。そんなのに心底うんざりしていた学生の頃・・・(以下略)」

 

少し長いが、ちょっと野口さんのエッセーを引用させてもらった。

計画的に作られた生活空間は機能的で快適と感じる人もいるが、あまり「計画的」だと少々息が詰まり、

肩が凝ることもあるだろう。

 

住みついて50年以上になる尼崎は、南部から中央にかけて工場や市街地で、北部は今なお田園風景の

面影が残る。

移り住んだ当時の北部の周りは一面田んぼで、夏の夜になるとヒキガエルの大合唱、蛍が飛んでいた。

曲がりくねったあぜ道に沿った水路を、子供たちはザリガニ取りに走り回っていた。

今では田んぼは少ししか残っていないが、あぜ道や水路の跡は狭い路地に変身、両側に黒塀の民家が迫

っている。

そんな路地がそこここに残り、車も入ってこないから「道を選ぶ自由」を楽しみながら、ゆったり散歩

もできる。

曲がりくねった路地を抜けると、突然広い幹線道路に出るのだが、突然の変化もまた面白い。

工業都市として知られた尼崎だけど、まだこんな一面を残している北部。

 

一帯は鎌倉時代から戦国時代にかけて平安貴族の荘園だったというから、面影が残るのも納得いく。

計画的街づくりも大事だけど、こんな温かみのある路地や田園風景も残してほしい、と思う。

 

   路地のある町が好きだ