2013 年9 月28 日14 時より、日本大学理工学部 1 号館132 教室で、第14 回「南極の歴史」講話会が開催された。
イプシロンロケット(注1)打ち上げに因んで、『オーロラ観測ロケット』の話および気候変動に関連する南極気象研究の最近の成果を話していただきました。
イプシロンロケット(注1)打ち上げに因んで、『オーロラ観測ロケット』の話および気候変動に関連する南極気象研究の最近の成果を話していただきました。
(注1)イプシロン=惑星探査&反撃・先制攻撃:安全保障デュアルユース=の打ち上げ失敗で「安全保障にも問題が生じる」
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/0c7de86bafda2eb433a8e5b2406e6edc
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/0c7de86bafda2eb433a8e5b2406e6edc
当日の話題は、『南極観測技術シリーズII. イプシロンロケット発射に因んで』として、「ペンシルロケットから南極オーロラロケット」島野邦雄氏(14 次越冬)、「南極ロケットの打ち上げ計画」芦田成生氏(11 次越冬、14 次越冬)、「ロケット観測とは」梶川征毅氏(14 次越冬)、『南極研究先端シリーズII』として、「南極のオゾンとエアロゾルの話」伊籐朋之氏(19 次越冬)から話題提供いただきました。
★ペンシルロケットから南極オーロラロケット
島野 邦雄(14次越冬)
島野 邦雄(14次越冬)
1.はじめに
IGY(国際地球観測年1957(昭32)年7月~1958(昭33)年12月))は、世界中の科学者が参加し、地球全体規模で共同観測を行う大プロジェクトであった。
IGY(国際地球観測年1957(昭32)年7月~1958(昭33)年12月))は、世界中の科学者が参加し、地球全体規模で共同観測を行う大プロジェクトであった。
1954(昭29)年この準備会がローマ及びブラッセルで行われ日本は地球上の9観測点の1ヶ所に選ばれた。
さらに、特別プロジェクトとして、
①南極大陸の観測、
②ロケットによる大気層上層の観測にも参加することを表明した。
南極観測については、東京大学の永田武教授、
南極観測については、東京大学の永田武教授、
<永田 武(ながた たけし、1913年6月24日 - 1991年6月3日。77歳没)は、日本の地球科学者である。岩石磁気学という分野を開いた。
日本の南極観測を指導した。1955年に決定した日本の南極観測参加では、国内での支援体制整備や国際会議での参加意志表明などで主導的な役割を果たした。1956年から1957年にかけての第1次南極地域観測隊では隊長として参加し、“接岸不能地域”と見なされていたプリンスハラルド海岸の東オングル島における『昭和基地』の建設を指揮した。さらに派遣元の文部省の指示を覆す、現場判断の形で副隊長の西堀栄三郎
<西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日、86歳没)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位
戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞戦後日本の飛躍的な工業発展の礎のひとつとなった。
京大に助教授、教授として復帰、また、第1次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務めた。
日本初の8,000m級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役となった。日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた。
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以下の越冬隊を編成した。このことによって西堀と共にその名が知られることとなった。
永田の強いリーダーシップは、他の南極観測関係者に大きな影響を与えただけでなく、永田の専門分野である地球物理学、特にオーロラに関する研究などを中心とした科学技術調査の追究など、その後に日本が歩んだ南極観測の方向性を明確にする多大な功績を作った。
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ロケット観測については糸川英夫教授
<糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日[1] - 1999年2月21日)は、日本の工学者。
専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。
86歳、脳梗塞にて死去。
1954年2月、東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:アヴィオニクスと、超音速の空気力学)研究班を組織した。この1950年代の中頃に糸川が語った構想の詳細については#エピソードの節を参照。
糸川はロケットに全く乗り気でない国や企業を口説いて回った。
1955年、AVSA研究班はSR研究班に改組した。
1955年3月には東京都の国分寺市で、さらに同年6月には千葉県千葉市の東京大学生産技術研究所でグループはペンシルロケットの水平発射実験を行い、また同年8月からは秋田県の道川海岸で飛翔実験を行った。同月ベビーロケットを発射。1956年、カッパロケットを発射。以後1960年代はラムダロケット、ミューロケット、おおすみなどに関わった。
1956年、日本ロケット協会を創立し、初代代表幹事に就任した。
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を中心にスタートした。この時点では、“ロケットと南極”は別々のプロジェクトであり、15年後に(1970(昭45)年2月南極昭和基地でロケットを打上げるとは夢想だにしなかった。
2.ロケットの開発
固体ロケットの開発は、東京大学生産技術研究所(現宇宙航空研究開発機構)が中心となり開発が始まった。
固体ロケットの開発は、東京大学生産技術研究所(現宇宙航空研究開発機構)が中心となり開発が始まった。
ペンシルロケット→ベビーロケット→カッパーロケットまでが観測ロケットの役割を持つものであり、その後のラムダーロケット→ミユーロケット→イプシロンロケットと発展するがこれらは人工衛星打上げが主目的である。
開発の歴史のなかで特筆すべき4点がある。
1) ペンシルロケットからカッパーロケットK-4型までは、固体推進薬にダブルベース推進薬(無煙火薬)を用いていたので、あまり効率よいロケットでは無かった。
2) K-6型からはコンポジット推進薬(混合火薬)に代わり世界水準のロケットになった。
1958(昭和33)年9月に6kgの搭載機器部を高度60kmに打上げIGYの公約を果たしている。
3) 昭和基地で第11次隊によりS-160JA-1号機が打上げられたのは1970(昭45)年2月10日であり、ラムダーロケット(L-4S-5号機)により日本初の人工衛星「おおすみ」が打上げられたのが翌日(2月11日)であった。
4) イプシロンロケットは、日本の基幹ロケットとして高性能・低コストの新時代の固体ロケットである(初号機打上げ:2013.9.14筆者も5月~9月まで参加した)。
開発の歴史のなかで特筆すべき4点がある。
1) ペンシルロケットからカッパーロケットK-4型までは、固体推進薬にダブルベース推進薬(無煙火薬)を用いていたので、あまり効率よいロケットでは無かった。
2) K-6型からはコンポジット推進薬(混合火薬)に代わり世界水準のロケットになった。
1958(昭和33)年9月に6kgの搭載機器部を高度60kmに打上げIGYの公約を果たしている。
3) 昭和基地で第11次隊によりS-160JA-1号機が打上げられたのは1970(昭45)年2月10日であり、ラムダーロケット(L-4S-5号機)により日本初の人工衛星「おおすみ」が打上げられたのが翌日(2月11日)であった。
4) イプシロンロケットは、日本の基幹ロケットとして高性能・低コストの新時代の固体ロケットである(初号機打上げ:2013.9.14筆者も5月~9月まで参加した)。
M-Vロケット計画が終了し、約9年の空白期間があったがこの半世紀で蓄積された固体ロケット技術の集大成であり、搭載機器(火工品点火薬の点検も含む)の点検をロケット自身が自律的に行い、発射管制もパソコン数台で行い打上げることが可能である。
イプシロンロケットは、3段式ロケット(2.5mφ×全長25m、全質量91トン)で一段目の推進薬重量は65トン、推進力は約180トン、二段、三段のロケットもM-Vで打上げ実績のある球形ロケットを用いた人工衛星打上げ(1.2トン~450kg)用である。
2-1ペンシルロケット
1952(昭和27)年GHQ(米司令部)からの航空機工業の再開許可がなされ翌年、東京大学糸川教授を中心にロケット開発がスタートした。
1952(昭和27)年GHQ(米司令部)からの航空機工業の再開許可がなされ翌年、東京大学糸川教授を中心にロケット開発がスタートした。
固体推進薬は、火薬であることから専門メーカーの日本油脂(株)<愛知県武豊町(当時)>の協力を得て当時現存する唯一のダブルベース推進薬(無煙火薬)を入手し小型ロケット=ペンシルロケットを製作し、工場内の(富士精密工業(株)荻窪工場)テストスタンドで150発を超える地上燃焼試験を実施し、燃焼性能等のデータを取得した。(1954(昭29)年10月)
標準型のペンシルロケットは、全長230㎜、外径18㎜φ、重量186gで推進力=約30kg、推進薬の燃焼時間=約0.1秒であった。
標準型のペンシルロケットは、全長230㎜、外径18㎜φ、重量186gで推進力=約30kg、推進薬の燃焼時間=約0.1秒であった。
また、ダブルベース推進薬は、マカロニ形状で(外径9.3㎜φ、内径2.9㎜φ、長さ123㎜)13gであった。その後1955(昭30)年4月ペンシルロケットは、水平発射試験を国分寺駅付近の機関銃工場跡地の半地下壕で公開試験を(29発)行い飛翔性能を確認した。
1955(昭30)年8月上旬には秋田県道川海岸でペンシルロケット300型(全長が300㎜)6機の打上げを実施した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒、これが日本初のフライト結果だった。
1955(昭30)年8月上旬には秋田県道川海岸でペンシルロケット300型(全長が300㎜)6機の打上げを実施した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒、これが日本初のフライト結果だった。
2-2ベビーロケット
その後、日本油脂(株)で1kgのダブルベース推進薬(外径65㎜φ、内径6㎜φ、長さ180㎜)の製造が可能となり、ベビーロケットの開発となった。
その後、日本油脂(株)で1kgのダブルベース推進薬(外径65㎜φ、内径6㎜φ、長さ180㎜)の製造が可能となり、ベビーロケットの開発となった。
試験では、ロケットの燃焼室の構造(耐熱性、推進薬の固定方法)、推進薬の組成(燃速を低く抑える)、燃焼試験スタンド、推進力計測方法、等々の研究が行われた。このロケット(飛翔体)の大きさは、全長120~130cm、外径80㎜φ、で質量約10kgの2段式の形状であった。
飛翔試験は、ペンシルと同じ秋田県道川海岸で1955(昭30)年8月下旬~12月までに36機を打上げた。
ベビーロケットは、S型、T型、R型の三種類があり、S型は発煙剤を積んで光学観測で飛翔軌跡を確認した。
ベビーロケットは、S型、T型、R型の三種類があり、S型は発煙剤を積んで光学観測で飛翔軌跡を確認した。
T型は、日本初のテレメータを搭載したロケットである。
R型は小型カメラを搭載し飛翔中の地上を撮影し、パラシュートにより海上回収した。最高到達高度は6kmであった。
種々問題はあったが着実に成果をあげ、次のカッパーへと繋がった。
2-3カッパーロケット
カッパーロケットの開発はK-6型を境に飛躍的な変化をした。
それは、推進薬がダブルベース推進薬からコンポジット推進薬に代わったことである。
このコンポジット推進薬は、合成ゴム=燃料兼粘結剤(ポリエステル、ポリサルファイド、ポリウレタン等)に酸化剤として過塩素酸アンモニウムを錬り込んだ混合火薬である。
酸化剤の過塩素酸アンモニウムの粒度を調整することで燃焼速度をコントロールすることも可能となり、さらにゴムなので固まるまではドロドロとした液状でありロケットのケース(燃焼室)に直接注入する直填方式が最終的には可能となった。
K-6型は、2段式ロケット(150㎜φ+250㎜φ、全長5.4m)で、1958(昭33)年9月IGYとしての役目を果たす打上げとなった(観測機器部(6kg)を到達高度60kmに打上げる)。
K-6型は、2段式ロケット(150㎜φ+250㎜φ、全長5.4m)で、1958(昭33)年9月IGYとしての役目を果たす打上げとなった(観測機器部(6kg)を到達高度60kmに打上げる)。
引き続き観測ロケットは、より高い高度へと開発が進みK-8型(250㎜φ+420㎜φ、全長10m)は1960(昭35)年7月打上げで到達高度200kmとしている。
コンポジット推進薬(この時点では燃料兼粘結剤=合成ゴム材質はポリサルファイド系を使用)の優秀さが世界的なものとなり、この研究は、さらに進みポリサルファイドからポリウレタンに、そして低温特性にも優れるポリブタジエンに代わってきた。
コンポジット推進薬(この時点では燃料兼粘結剤=合成ゴム材質はポリサルファイド系を使用)の優秀さが世界的なものとなり、この研究は、さらに進みポリサルファイドからポリウレタンに、そして低温特性にも優れるポリブタジエンに代わってきた。
(南極用ロケットはこのポリブタジエン系である)
K-9M型については、K-8型を機体の軽量化や種々改良をし、固体燃料は、ポリウレタン系を使用する2段式ロケットで1962(昭37)年11月初号機は2段目に点火しないトラブルがあったが、半年後(1963年5月)には正常に飛翔し、到達高度350kmをクリアーした。
K-9M型については、K-8型を機体の軽量化や種々改良をし、固体燃料は、ポリウレタン系を使用する2段式ロケットで1962(昭37)年11月初号機は2段目に点火しないトラブルがあったが、半年後(1963年5月)には正常に飛翔し、到達高度350kmをクリアーした。
またK-9Mの高性能化を予測し打上げ射場を鹿児島県内之浦に開設している。(1962(昭37)年2月)
観測ロケットとしてはかなり完成度の高いもので70機以上の打上げ実績があったが近年は330kmの到達高度をもつシングルロケット(S-520ロケット)が開発されたことから観測ロケットとして多段式ロケットはあまり使用されなくなった。
観測ロケットとしてはかなり完成度の高いもので70機以上の打上げ実績があったが近年は330kmの到達高度をもつシングルロケット(S-520ロケット)が開発されたことから観測ロケットとして多段式ロケットはあまり使用されなくなった。
2-4単段式ロケット(気象・南極オーロラ観測)
観測ロケットも取扱い操作性が簡便で安価な到達高度別のシングルロケットが必要とされてきた。この草分けは、高度50~60kmにパラシュート付ゾンデを打上げるMT-135気象観測ロケット(135㎜φ×3.3m)である。
1964(昭39)年3月内之浦射場でテストフライト後、気象庁は、岩手県三陸海岸の綾里に「気象ロケット観測所」を開設し、世界気象機関の国際同時観測に参加し、毎週定時観測のため打上げていた。
1964(昭39)年3月内之浦射場でテストフライト後、気象庁は、岩手県三陸海岸の綾里に「気象ロケット観測所」を開設し、世界気象機関の国際同時観測に参加し、毎週定時観測のため打上げていた。
ロケット機体はパラシュートにより緩降下させ漁船への危険防止策とした、1993(平5)年には1千発以上の打上げ実績となった。
南極のオーロラ観測ロケットは、極地での厳しい環境と少人数のオペレーションで打上げることから、低温環境特性に優れたポリブタジエン系固体推進薬、そしてチタン材質などの構造部材、導電性耐熱塗料(静電気対策)などを具備し、さらに輸送方法なども考慮したものである。
現在は、打上げ高度別に5種類のロケットが有り、オーロラが出現する約100~300kmをカバー出来るものとなっている。
南極のオーロラ観測ロケットは、極地での厳しい環境と少人数のオペレーションで打上げることから、低温環境特性に優れたポリブタジエン系固体推進薬、そしてチタン材質などの構造部材、導電性耐熱塗料(静電気対策)などを具備し、さらに輸送方法なども考慮したものである。
現在は、打上げ高度別に5種類のロケットが有り、オーロラが出現する約100~300kmをカバー出来るものとなっている。
ロケット機種と概略の到達高度、これまでの打上げ隊次及び打上げ機数は、講話会報告冒頭の通りであり、南極での打上げは、(S-520を除き)合計58機を打上げすべて成功している。
3.あとがき
南極でのロケットによるオーロラ観測は、1970年(11次隊)のテストフライトから始まり、IGY、IMS、MAPなど国際規模での観測に参加し、1985年(26次隊)で終了した。
南極でのロケットによるオーロラ観測は、1970年(11次隊)のテストフライトから始まり、IGY、IMS、MAPなど国際規模での観測に参加し、1985年(26次隊)で終了した。
東京大学糸川教授、富士精密工業(株)戸田康明
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打 ち上げ用 ロケ ッ トの技術 的問題(戸 田廉 明,岩 田正 明)
ロ ケ ッ ト ・ エ ン ジ ン(固 体)*戸 田 康 明**・ 岩 田 正 明***
* 昭和43年8月30日 原稿受理
** 日産自動車株式会社宇宙航空部
*** 日産自動車株式会社宇宙航空部第1設 計課
1. は し が き
固体 ロケ ッ ト・エ ンジンは液体 ロケ ッ ト・エンジン に比べて構造,取 り扱いが簡単で信頼性が高い とい う 特性を生 か し現在各種 ロケ ッ トに利用 されている.
し か し固体 ロケ ッ トは液体 ロケ ッ トに比べ推力制 御が 困 難 であるとい う欠点があ るが有人飛 しょう体 以外 のロ ケ ットの利用には固体 ロケ ットで も全 くそん色 ない と 言え る.
本文では固体 ロケ ットの中で も主 として平和利用関 係の ものに限定 して述べ,ま た 日本 のロケ ッ ト技術, さ らにア メ リカの人工衛星打ち上げ用 固体 ロケ ット等 を比較検 討 し日本 の現状を把握 すると同時 に特 に大型 の固体 ロケ ッ トの各部の問題点 を列挙 しようと思 う.
以下
>
取締役航空事業部長を中心に研究開発してきた固体ロケット技術は、現在も社名は変っているが(株)IHIエアロスペース(群馬県富岡市)で継承し、日本の宇宙開発の中枢となり稼働している。
<南極OB会報 第22号から引用>
<南極OB会報 第22号から引用>
以下
参照